2008/07/30

恩恵


















アメリカネムノキ。タイの田舎を旅していると、その大木によくお目にかかるが、このマメ科の植物はその呼び名の通り、実は西インド諸島から中央アメリカにかけての原産なのである。

 こういった外来の植物は、往々にして、在来の植物が守り続けてきた自然界の均衡を撹乱し、果てはそのすべてを破壊しまう悪役として受け取られる場合が多いが、このアメリカネムノキは、ここに在来していたある生物との出会いによって、ここに暮らす人々に多大な恵みをもたらすことになったのだ。
 その生物とは、指先でいとも簡単にひねりつぶせる小さな虫。カイガラムシである。

 カイガラムシというのは、樹木の枝や葉に付着し樹液を吸う、いわゆる寄生虫で、農業従事者にとってこの虫は、農作物を枯死させる害虫以外の何者でもない。
 しかし、このアメリカネムノキとともに人々に多大な恵みをもたらすカイガラムシは、農作物に喰らいつく素性の悪いカイガラムシではなく、「ラックカイガラムシ」と呼ばれる特殊なカイガラムシなのだ。

 カイガラムシという虫は、孵化すると1ミリにもみたない小さな体で樹木の枝や葉の上を自由にはい回り、お気に入りの場所を見つけると、そこに付着し樹液を吸い始める。するとこの虫は、なんと脚がなくなり動けなくなってしまうのだ。そして、そのまませっせと樹液を吸い続けながら分泌物を出し、やがて自分の体を覆う貝殻状の殻を作る。これが、彼らが「貝殻虫」と呼ばれる所以なのだ。

 ラックカイガラムシもまた例外なく、他のカイガラムシと同様にして殻を作るのだが、古来人々はそれを特別に「ラック」と称し、この分泌物の塊から多大な恵みをもたらされていたのである。

 では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような働きをするのか。実は、このラックという名前を語源とした、我々にもよく知られた加工品がある。「ラッカー」である。
 ラックはアルコールに溶けやすく、粘着性と耐油性が強いという特性から、古来、ニスの原料として使われており、ラッカーを始め、ペンキやマニキュア、エナメルなどの塗料やワックスなどにも加工されているのだ。あの、ヴァイオリンの名器として名高いストラディバリウスにも、このラックが使われているとのことである。

 これ以外にもラックは、食品の光沢材や、ガムやチョコレートのコーティング、また、ラックが酸に強いという特性から、胃で溶けずに腸で溶けるための医薬品の錠剤のコーティングなどにも使われていて、我々の生活は知らず知らずの内に、この熱帯の大木と、それに寄生する小さな虫の恩恵を受けているのだ。

 実は、このラックと日本との関わりは遥かに古く、正倉院の北倉にかつての渡来品が伝わっている。それは「紫鉱」と呼ばれ、当時は外用薬とされていたらしい。しかし、ラックと日本との関わりはこれだけではない。

 ラックは、もともと古代インドで染料として使われていたもので、やはり日本へも、古くから染料として渡来していたのだ。では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような色を生み出すのか。実は、その色は我々にもよく知られた日本の伝統色の一つとなっているのだ。「臙脂」である。

 ラックから精製した色素を綿に染み込ませ、薄い円盤状にしたものを「生臙脂」、または「臙脂綿」と呼び、日本へは古来このような形で輸入されていたらしく、江戸時代になり友禅染が隆盛すると一気に需要が増大し、長崎の出島から大量に輸入されるようになるのだ。