2009/07/01

生滅


















 仏教の宇宙観では、この世界は業によって生まれ、業によって滅びるとされている。ようするに我々生物が輪廻を繰り返すのと同じく、世界もまた輪廻するのだ。

 その世界の生成消滅は、生成「成」、持続「住」、消滅「壊」、空虚「空」という、実に規則正しい段階を経て流れていて、各段階はまたその中で、1劫ごとに細かい生滅を20回繰り返すとされている。

 「劫」というのは、仏教における時間の単位である。実は仏教にも、高度に発達した時間の概念があったのだ。そんな仏教の数ある時間の単位の中で、特に意識することもなく我々が使っている単位がある。「刹那」だ。

 刹那とは、仏教における時間の最小単位である。極めて細いカーシー産の絹糸を、2人の成人男子が両手でひとつかみして引き合い、それをもう一人の成人男子が中国製の剛刀で一気に切断した時、その細い絹糸1本を剛刀が断ち切るのに、64の刹那が経過するという。

 いっぽう劫とは、仏教における時間の最大単位である。1辺が1由旬、すなわち約7,4キロメートルある立方体の城の中を小さなケシ粒でいっぱいに満たし、100年に1度、1粒ずつそのケシ粒を取り出し、城の中からケシ粒がすべてなくなった時点で、1劫はまだ終わってないという。

 また別の例えでは、1辺が1由旬、すなわち約7,4キロメートルある極めて固い巨大な岩を、100年に1度、極めて柔らかいカーシー産の綿ネルでさっと払い、その巨大な岩が摩耗してすべて消滅した時点で、1劫はまだ終わってないという。

 このように、途方もない時間の12の劫が生滅を繰り返し世界は持続されているわけだが、それぞれの1劫は順に、刀疾飢の3つの災いで終わることになっている。「刀」は戦争。「疾」は疾病。「飢」は飢餓。
 今我々が生きているのは9番目の劫である。そしてこの劫の終わるのは、ちょうど飢餓の番なのだ。