2009/02/03

均一

















 今、世界中の国の人々が、アメリカを始めとする先進国と呼ばれる国の人々と同じ豊かさを追い求め、世界は物凄いスピードで均一化しようとしている。

 その今日の世界の均一化は、やはり15世紀に始まったヨーロッパ世界の膨張にまで遡ることができるだろう。
 大航海時代。その華々しき時代を経ていよいよ20世紀をむかえると、なんと地球の全陸地面積の85パーセントもがヨーロッパ世界の国々の植民地と化し、「文明化の使命」の名のもとに、世界はヨーロッパの論理で塗り替えられていったのである。

 そしてやがて20世紀が、ヨーロッッパの世紀からアメリカの世紀へと移行すると、新興国家アメリカの強力な経済力によって、世界は驚くべき加速度でもって均一化、極端な言い方をすれば、アメリカ化への道を進み始めたのだ。

〈きわめて生産制の高いわが国の経済を維持するために、われわれは消費を生活の基本にし、商品の購入と使用を習慣化し、精神や自我の満足を消費に求めなければならない。(中略)物は消費され、燃やされ、すり減らされ、どんどん捨てられねばならない〉

 これは、アメリカのアナリストであるビクター・ルボーの1960年代の言葉だが、この資本主義国アメリカの消費を中心に据えた生活スタイルは、今ではもうすっかり世界共通の生活スタイルと化したのだ。
 もっとも、そもそも資本主義とは「均一化」という作用をもった力なのである。

 事実、原則的に社会主義が崩壊した今、世界中の国々がアメリカを中心とした資本主義の歯車と連動され、アフリカのサバンナでも、ニューギニアの小島でも、またアマゾンの畔でも、洋服を着てスニーカーをはき、コーラを飲みながらテレビを見て、自動車やバイクを乗り回す人々の姿は、もはや珍しいものではなくなったのだ。

 しかしこれは、単なる生活スタイルの変化ではない。経済大国アメリカの資本主義の価値観を、我々は消費という日常的行為の中で、無意識の内に受け継いでいるのだ。
 さらに今、最も大きな影響力を持っているテレビというメディアで、ハリウッド映画やアメリカン・ドラマを見ることが、我々の価値観や倫理観にどれだけの影響を与えているか計り知れない。

 「文化帝国主義」という言葉がある。これは近年より顕著になってきた、強い政治力、経済力を背景にして、メディアを操作し行なう文化的支配のことを、過去の植民地帝国主義になぞえて呼んだ言葉だ。「土着の文化を犠牲にしてまで外国の文化や価値や習慣を高め、広める政治力と経済力の効用」という、『フォンタナ現代思想辞典』の文化帝国主義についての定義は、実に的を得ていると言えるだろう。
 ようするに、経済大国で大量生産された商品やメディアといったものが、世界中の伝統的文化を無差別にのみ込み、破壊、消滅させようとしているというのだ。

 「いったんテレビが置かれると、肌の色、文化、背景がどうであれ、だれもが同じものを欲しがるようになる」
 アンソニー・J・F・ライリーはこう指摘している。

 またそれは、言語的に見ても言えるだろう。今、世界のありとあらゆる国々に、驚異的な潜在力を持って一つの言語が入り込んでいるのだ。もちろんその言語とは、アメリカの言語、英語である。

 もっとも世界の歴史を見ても、植民地に宗主国が自国の言語を強制的に押しつけた過去の例はいくらでもあった。そもそも支配というものは、そいうものだったのである。いつの時代でも、言語選択は勝者の権利だったのだ。

 だが今日の英語のように、一つの言語がこれだけの力をもって世界中に浸透した例はない。それは当然、アメリカの経済力に裏付けられた現象であることは明白だが、面白いのは、それが過去の植民地統治の例のように、アメリカから強制的に押しつけられたのではないということである。自ら欲して、進んで、経済大国アメリカの言語を受容しているのだ。

 言語は、人間が思考するための道具である。また言語と思考は同じ源に発し、共に発達してきたものだとすると、それを受け入れるということは、どういうことを意味するのか。

 たとえば情緒的にみても、日本語のようにことごとく主語が欠落する言語と、英語のように常に主語によって自己と他者とを峻別する言語とでは、おのずと、その人間関係において微妙な差異が生ずるかもしれない。
 そして言語を学ぶということは、文化を学ぶということである。言語を学ぶことによって、我々は無意識の内に、その言語の背景にあるものを学び取っているのだ。

 したがってこういった言語活動によっても、我々は無意識のうちに、アメリカ人の、極端なことを言えばアメリカ人の思考の根底にあるキリスト教の価値観を、倫理観を、大なり小なり取り込んでいると言えるかもしれない。

 とにかく今、世界の各民族が有していた多彩な文化が、膨大なエネルギーを使って大量生産したものを、大量消費し、大量廃棄するという、先進国アメリカの文化によって淘汰されようとしているのだ。

 そしてまた世界は今、インターネットの爆発的な普及によっても、「グローバル化」と呼ばれるさらなる均一化の道へと物凄いスピードで走り出しているのだ。

2009/02/02

昆虫

















 タイ東北部からラオスにかけての一帯、ようするにラオ文化圏の人々は実によく虫を食べる。彼らにとって虫はとても重要な食材なのだ。

 虫を食べるなどというと、すぐに頭に思い浮かぶのは「ゲテモノ」の四文字だという人が大半だろうが、我々人類の食の変遷を考える場合、むしろ肉食よりも先に昆虫食が始まっていたと考える方が主流らしい。
 そんな昆虫食は、ほぼ世界中で行なわれていて、ヨーロッパでも古くは古代ギリシアやローマでバッタ、セミ、カミキリムシの幼虫などが食べられていたことが知られているし、『旧約聖書』のレビ記の「清いものと汚れたものに関する規定」の中にもちゃんと、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい、と明記されている。

 ちなみに、ラオス辺りで食べられている虫は、バッタ、コオロギ、カマキリ、ナナフシ、セミ、トンボ、ガ、カイコ、ハチ、ハエ、ゴキブリ、コガネムシ、カミキリムシ、カブトムシ、タマムシ、ゾウムシ、ケラ、アリ、シロアリ、ガムシ、ゲンゴロウなど実に多種にわたっていて、それぞれの種によって卵、幼虫、蛹、成虫の各形態が食される。そしてこれは虫ではないが、クモ、サソリなどもよく食べられているようだ。

 そしてこの辺りで食される数多い虫の中でも、特にその存在が際立っているのが、何と言っても「メンダー」だろう。かつて王の食卓にも上ったというそのメンダーとは、水棲昆虫タガメの一種なのだ。
 メンダーは水棲昆虫の中でももっとも大型の部類で、体長10センチメートルにも達し、これは小魚やカエルなどを捕食する肉食昆虫である。

 メンダーを仰向けにして腹を裂くと、腸の肛門近くに臭腺があり、そこから独特の臭いを出す。その芳香こそが、まさにこの昆虫が人々に珍重される所以であって、雄は雌よりもより強い芳香を発するらしい。
 食べ方は、すり潰し調味料として使用するのが一般的だが、蒸したり焼いたりして胴体をちぎり、チューチューと中身を吸い出して食べたりもするようだ。

 現在、メンダーは養殖されていて、ちなみにハエの幼虫、すなわちウジ虫なども養殖されているらしい。それ以外の虫は、ほぼ自然界から捕獲されているようだ。

 もちろん、このような虫を食べるという彼らの行為を、貧しさゆえだと判断するのは間違いだ。一般的に虫はタンパク質と脂質に富み、たとえばイナゴのタンパク質含量の体重比は、豚肉や牛肉よりも高いらしい。
 それに多少の形の差こそあれ、コガネムシもカメムシも、カニもエビも、早い話しみんな同じ節足動物なのだ。

 そして実際、食べてみると、コオロギのフライはポテトチップスみたいに芳ばしく、コガネムシのローストは天津甘栗みたいに甘く、美味しい。生のカメムシもミントのような爽やかな香りが口の中に広がり、なかなかいける。
 よくあの悪名高い香菜パクチーのことを「カメムシの……」などと表現することがあるが、それはカメムシを食べたことのない者が勝手に作り出した、まったくもって根拠のない嘘なのだ。カメムシは、パクチーよりもはるかに美味しいのである。