秒読



あ る 時、人  間 が 石 を 使 い、火 を 使 い 始 め た。

そ の 瞬 間、こ の 地 球 の 運 命 は 決 ま っ た ん だ。

我 々 は 子 供 た ち の 未 来 に、い っ た い 何 を 残 し て や れ る の か。

カ ウ ン ト ダ ウ ン は 始 ま っ た。 


At some point, humans began to use stones, and then they began to use fire.

At that moment, the fate of this Earth has been decided.

What can we leave for our children's future?

The countdown has begun.

限界



アメリカのネイティブインディアンのホピ族の動詞には時制がなく、したがってホピ族には過去、現在、未来といった時間の捉え方がなかったと言われているが、過去は往々にして、もはや回収できない、送信してしまったメールのような心残りと後悔で溢れているものだ。

ちなみに「諦める」という言葉は、後ろ向きでネガティブな言葉だ。しかし今この世界は、目まぐるしい科学技術の発達によって、どんどん諦めなくていい世界へと移り変わろうとしている。

これは素晴らしいことだ。僕はテレビで、これまで治療できなかった難病の新たな治療方法が見つかったというニュースを目にするたびに、心から拍手喝采する。でも矛盾しているが、すべてがそうだとは限らない。

「諦める」という言葉は、確かに後ろ向きでネガティブな言葉だが、人生には時として諦めることも必要なんだと思う。諦めるということはまた、限界を知ることでもある。

教育の現場では子供たちに、諦めるな!諦めず成功を掴み取れ!と教えている。それは正しいことだ。でもこれは難しい問題だが、子供たちに、この世には「限界」というものがあることを教えるのも、同じくらい必要なんだと僕は思う。

科学技術の発達によってもたらされる、何もかもが思い通りになり、何もかもを諦めなくていい社会。僕はその社会がもたらす未来に、どこか恐ろしいものを感じている。

科学技術の発達を後押ししてきたもの、それは人間の欲望だ。これは疑いの余地のないことであって、すなわち多くの宗教が戒めてきた欲望の追求によって科学技術は目まぐるしく発達し、また科学技術の発達は我々人間の欲望をさらに増大させ、世界を作り変えてきた。

その結果として現れているもの、そのひとつが、今、地球規模で深刻化している環境問題だ。

21世紀を目前にした時、20世紀とはいったいどんな世紀だったのかといった議論が盛んに行われた。20世紀は、科学技術の発達によって、ついに我々人間が神になった世紀だ。そして神になり限界を見失った我々人間は、その欲望を今度は宇宙に向けている。我々人間は、地球でやってきたことを、今度は宇宙で繰り返そうとしているのだ。

科学技術はまず間違いなく、今後もどんどん発達していくだろう。ようするに、我々人間の道徳心や倫理観がどんどん低下していく中で、AIをはじめ、技術だけがどんどん発達していくのだ。それは恐ろしいことだ。

いつか我々人間には、この地球の生物である人間としての限界を正しく自覚する必要性に迫られる、そういう時が必ずやってくると僕は思う。

参考までに、「世界」と「宇宙」という言葉は、同じ言葉らしい。ともに「世」と「宇」が空間を表し、「界」と「宙」が時間を表している。しかしただひとつ違っているのは、「世界」が人間の存在を前提としているのに対して、「宇宙」は人間の存在を前提にしていないということだ。

平等



国連の女性差別撤廃委員会が日本政府に対して、天皇の皇位継承が男系の男子に限ると皇室典範に定められていることが女性差別だとして、皇室典範の改訂を勧告してきた。

この問題を考えるには、当然、そもそも天皇とはいったい何か?という問題を考えなくてはいけない。天皇。そう、それは「国の象徴」だと我々は社会科の授業で教わった。そして授業はそこで終わっている。

しかし、天皇は外国を訪問して晩餐会で国の親交を深めたり、災害が起これば被災地に赴き被災者と握手するための人ではない。もちろんこの現代において、天皇のことを「現人神」などと思っている人はいないと思うが、天皇は日本建国の世、すなわち「神代」から神格化された特別な存在だったのだ。

そして天皇はこの現代においても、一年中「宮中祭祀」と呼ばれる宗教行為を宮中で行っている。すなわち天皇が現人神から人間宣言をし、そして憲法で国の象徴となってからも、天皇は神代から変わることなく宗教の領域の人でもあるのだ。

たとえば毎年11月に行われる、その年に収穫された作物を神に供え天皇が自らそれを食す、宮中祭祀の中でも最も重要な「新嘗祭」は、夜中、御神楽(みかぐら)が奏せられる中、松明の明かりに足元を照らされた天皇が、宮中の神嘉殿に上殿し夜を徹して行われている。

ここで、じゃあ国連の言うことをきいて、もう女性を天皇にすればいいじゃないか!と言い出す人がいるだろう。しかしそれは、ただ男性を女性にするといった、ボールペンのキャップを青から赤に変えるような、そんな単純な問題ではない。おそらくその場合、天皇が男性から女性に変わることによって、宮中祭祀を変えなくてはいけなくなるだろう。これは会社の人事異動のような単純な問題ではないのだ。

参考までにキリスト教の、カトリックの最高司祭であるローマ教皇を選出する会議コンクラーヴェは、いっさい外界から遮断し枢機卿と呼ばれる教皇の最高顧問によって行われる。その枢機卿だが、女性がなることを禁じている。そして当然、コンクラーヴェで選出されるローマ教皇も、女性が選出されることはあり得ない。


ここでひとつ重大な問題がある。そもそも「平等」とは、「自由」とともにいまだに解明されていない哲学の大命題だということだ。その解明されていない哲学の大命題を、国連の女性差別撤廃委員会はどう解釈しているのか?

僕は「平等」とはいったい何なのか分からない。しかし今、「平等」は盛んにメディアで目にするようになり、その「平等」はほぼすべて男女の平等を訴えるものだ。もちろんそれは国連が提唱する「SDGs」よって世界的に広まりつつある、来る世の新たな価値観が後押ししていることは間違いない。

すでに幼稚園でも、園児の身につける帽子など、男の子は青、女の子は赤という色分け廃止しているらしい。男の子、女の子と区別することは間違っているのだと、教育の現場は子供たちに教えているのだ。

そんな社会の変化を目にする時、僕はいつもある疑問が頭の中に再燃する。

なぜ女性はスカートをはくのか?そしてスカートの下はなぜ下着でなくてはいけないのか?実はそれに関しては、世界の服飾史からかなり徹底的に調べたことがあったのだが、答えは出なかった。また、なぜ女性は胸元が広く開いた服を着るのか?なぜ女性は化粧をするのか?といったように、僕の疑問はさらに広がった。

もしそれを男性が女性に強要しているのだとすると、それは重大な女性差別であって人権侵害だが、少なくとも現代において、それはそういう問題ではなさそうだ。

その問題を考える時に必要なキーワードが「女性らしさ」だ。もちろん過去の歴史の中で、それを男性が女性に強要していたという現実があったのかも知れない。しかし現代では、多くの女性が自らがその「女性らしさ」を追求しているのだ。

それはまだ根強い男性社会が、暗黙の内に女性に「女性らしさ」を強要しているのであって、女性はそうしないとこの社会では生きていけないのだという反論もあるだろう。だから女性は下着の上にスカートをはき、胸元の広く開いた洋服を着て、化粧をし、政治家もまた色鮮やかない洋服を着なくてはいけないのだと。

僕はその反論を否定しない。しかし、もしそれが事実だとすれば、国連の女性差別撤廃委員会がまず行わなくてはいけない、来る世のための意識改革だと思う。


しかし今、国連が提唱する「SDGs」よって世界的に広まりつつあるこの来る世の新たな価値観を、僕は間違っているとは言わないが、恐ろしさも感じている。男の子、女の子と区別することは間違っているのだと教育された子供たちが大人になる。我々大人は、そんな子供たちにどんな未来を与えようとしているのか?

極端な話、「男らしさ」「女らしさ」という言葉が前時代の差別用語となり、男性も女性もユニセックスの同じデザインの服を着て、スポーツも男性と女性が同じグランド同じコートで性別に関係なく共にプレイし、トイレも性別による区分けはなく男性も女性も同じトイレを使用し、メディアも「男」「女」という言葉を使わず男性も女性も同じく「人」という言葉を使い、世の中から男性、女性といった性別がすべて撤廃される。

我々は本当にそんな社会を望んでいるのか?

1912年、ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのアレクシス・カレルは、その著書『人間 - この未知なるもの』(三笠書房)の中で、こんなことを書いている。

〈女性は男性とは非常に異なってる。女性の体のすべての細胞1つ1つに、女性のしるしがついている。女性の諸器官、なかんずく神経組織についても、同じことが言える。生理学の法則と同様に、不動のものである。それは、人間の希望によって取り換えることはできないのである。あるがままに受け容れなければならないものなのだ。女性は男性を真似ようとせずに、その本来の性質に従って、その適性を発展させるべきである。文明の進歩の中で、女性の担う役割は男性のものよりも大きい。女性は、自分独自の機能を放棄してはならないのである〉

「男女平等」は、男性、女性という現実として存在している性別を正しく理解した上でなされるものだ。そして「平等」という言葉もまた、平等とはいった何なのか?といったことを、徹底的に熟慮したうえで使用すべきだ。

この現代社会で最も力のある言葉は「自由」と「平等」だ。それは疑う余地のないことだ。この言葉を使うことによって、あらゆる反論を押し黙らせることができる。そして「自由」も「平等」も共に、いまだに解明されていない哲学の大命題であって、そんな言葉を簡単に使ってしまう恐ろしさを、僕は国連の「SDGs」に、そして今回の国連の女性差別撤廃委員会による日本の皇室典範改訂という勧告に感じている。

それは、意味の分からない言葉を使う恐ろしさ。そして、意味の分からないまま「自由」と「平等」という言葉はどんどん力を増し、我々の価値観を塗り替え、世界を動かしているのだ。


ひとつ!確かにネパールのクマリのような、女性への差別として問題視されている宗教行為も世界にはある。それは実際に被害者とされる女性がいる以上、国連の介入による早急な対処が必要なのかもしれない。

しかし日本の皇室典範に定めている男系の男子による皇位継承や、バチカンのコンクラーヴェによる男性の教皇の選出について、世界の女性ははたしてそれが女性に対する差別だという被害者意識をもっているのだろうか?そしてそこに国連が介入し、日本に女性の天皇を誕生させ、カトリックに女性の教皇を誕生させること、それこそが男女平等なのだと世界の女性は本当に望んでいるのだろうか?僕には分からない。

「無知と、そして良心的な愚かさほど危険なものはない」そう語ったのはキング牧師だ。

契約



初めに神は天と地を創造された。地は混沌として何もなく、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた。神は言われた。
「光あれ」
こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第1の日である。

神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
神は大空を造り、大空の下の水と大空の上の水に分けさせた。そのようになった。神は大空を「天」と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第2の日である。

神は言われた。
「天の下の水よ、ひと所に集まれ。そして乾いた所よ現れよ」
そのようになった。神は乾いた所を「地」と呼び、水の集まった所を「海」と呼ばれた。神はこれを見て良しとされた。 
さらに神は言われた。
「地よ草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれ種を持つ実をつける木を、地に芽生えさせよ」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、種を持つ草と、それぞれ種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第3の日である。

神は言われた。
「天の大空に光る物があり、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。そして天の大空に光る物があり、地を照らせ」
そのようになった。神はふたつの大きな光る物を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせた。神はそれらを天の大空に置き、地を照らし、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせた。神はこれを見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第4の日である。

神は言われた。
「生き物よ水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ」
神は水に群がる大きな獣、水に群がりうごめく生き物をそれぞれ、また、翼のある鳥をそれぞれ創造された。神はこれを見て良しとされた。そして神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の中に満ちよ。また鳥は地の上に増えよ」
夕べがあり、朝があった。第5の日である。

神は言われた。
「地よ、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」
そのようになった。 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て良しとされた。 
また神は言われた。
「我にかたどり、我に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
神はご自身にかたどって人を創造された。神にかたどって男と女を創造された。

神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」
さらに神は言われた。
「見よ。この全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。また地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにあらゆる青草を食べさせよう」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それらは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第6の日である。

このようにして天地万物は完成された。そして 第7の日に、神はご自身の仕事を完成され、第7の日に神はご自身の仕事を離れ安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し他の日と聖別された。


これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

しかし、水が地下から湧き出し、土のおもてのすべてを潤した。そこで主なる神は、土の塵で人「アダム」を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。アダムはこうして生きる者となった。 

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくったアダムをそこに置くことにした。主なる神はそこに、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と、善悪の知識の木を生えいでさせた。

主なる神はアダムを連れて来て、エデンの園に住まわせ、アダムがそこを耕し、守るようにされた。そして主なる神はアダムに命じて言われた。
「園のすべての木から実を取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木の実は、決して食べてはならない。食べるとお前は必ず死ぬ」

さらに主なる神は言われた。
「アダムが独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、アダムのところへ持って来て、アダムがそれをどう呼ぶか見ておられた。アダムが呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。 アダムはあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けた。しかし、自分に合う助ける者はまだ見つけることができなかった。

そこで主なる神は、アダムを深い眠りに落とされた。アダムが眠り込むと、彼の肋骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、アダムから抜き取った肋骨で女をお造りになった。主なる神が彼女をアダムのところへ連れて来ると、 アダムは言った。
「ついに、これこそがわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これを女(イシャ)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたのだから」
こうして、アダムは父母と離れて女と結ばれ、ふたりは一体となる。アダムと女は、ふたりとも裸であったが恥ずかしがりはしなかった。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「ほんとうに園のどの木からも実を取って食べてはいけないなどと神は言われたのか」
女は蛇に答えた。
「いいえ、わたしたちは園の木の実を取って食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の実だけは、決して食べてはいけないし、触れてもいけない。それはわたしたちが死んでしまうといけないからだと神はおっしゃいました」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると目が開き、神のように善悪を知るものとなることを、神はご存じだからだ」
女が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。そこで女は実を取って食べ、一緒にいたアダムにも渡したので彼も食べた。すると、ふたりの目は開き、自分たちが裸であることを知り、ふたりはイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の目を避け園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのだ」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり隠れております。わたしは裸ですから」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が教えたのだ。取って食べるなと命じたあの木から実を取り食べたのか」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木からその実を取ってくれたので私も食べました」
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのだ」
女は答えた。
「蛇にだまされ、食べてしまいました」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしでかしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼らはお前の頭を砕き、お前は彼らのかかとに噛みつくだろう」
そして神は女に向かって言われた。
「わたしは、お前の出産の苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産まなければならない。そしてお前は男を求め、男はお前を支配するだろう」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木の実を食べた。それゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯、食べ物を得ようとして苦しむ。お前に対して土はイバラとアザミを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は額に汗を流してパンを得る。土に還るそのときまで。お前がそこから取られた土に。そして、塵にすぎないお前は塵に返るのだ」〈旧約聖書 / 創世記〉

死後


古代インドの聖句マントラを集めた古聖典『ヴェーダ』の奥義書『ウパニシャッド』の中に、霊魂がこの世に再生するプロセスが説かれている。「五火説」である。

それによると、まず人が死に焼かれると、霊魂は肉体を離れ煙となって立ち昇り、まず月へと至る。月へ至った霊魂は、やがて雨となって地上へ降り落ち、雨は大地にしみ込む。大地に雨とともにしみ込んだ霊魂は、つぎに植物によって根から吸い上げられ、葉が繁り、花が咲き実を結ぶ。その実を人間が食べると霊魂は母胎へと至り、やがてまた新たな生命としてこの世に再生するというのである。


死後、我々人間はいったいどうなるのか?その答えはおそらく。それを考える人によって様々なんだと思う。

ここ近年「終活」という言葉をよく目にするようになり、自分の葬儀や埋葬について様々なことが話し合われるようになり、それに便乗し、寺院や葬儀業者を初めとする様々な業者が、盛んに営利活動を行なっている。

ちなみに僕は、葬儀は亡くなった人を成仏させる儀式だとは思ってない。亡くなった人は、亡くなった瞬間に、安らかな眠りに入っているのだ。だから僕は、葬儀は残された遺族が亡くなった人と別れ心の整理をする、遺族のための儀式なんだと思っている。

だから僕は個人的に、愛する人に別れを告げるのに、高額な祭壇など必要ないと思っている。そもそも祭壇は、葬儀の後に遺体を火葬するための燃料として燃やしたものだ。棺と、そして棺の中に入れる花さえあれば僕はいい。


また日本仏教では、死後、初七日や四十九日といった、様々な供養を繰り返すことになっている。それはいったい何なのか?

仏教では生前の善行、悪行によって、しかるべき来世が決められるとされていて、その裁断が下されるのが死後49日目なのである。では初七日をはじめとする、四十九日まで7日ごとに行われる供養とはいったい何なのか?

それを正しくは「追善供養」と呼んでいる。

もうすでに亡くなった人は、より良い来世に生まれ変わろうと思っても、亡くなってしまったからには、もうどうすることもできない。そこで残された遺族が、亡くなった人がより良い来世に生まれ変われるようにと、亡くなった人に代わって善行を積むのである。それを「追善」と呼び、僧侶を招いて読経させるのは、その追善のひとつに過ぎない。

すなわち追善は、なにも僧侶を招いて読経させることだけではなく、ゴミを拾ったり、電車で席を譲ったり、すべての善行が追善なのだ。

ちなみに敬虔な仏教国として知られているタイでは、出家することが一番の善行だと考えられている。したがって親が亡くなった後、親をより良い来世に生まれ変わらせるために、その子供が出家するということが今でも行われている。


実は日本人は世界的に見て、死後の執着がとても強い民族だと言われている。実際、日本仏教では、四十九日の法事の後にも延々と供養を繰り返すことになっている。

そんな日本仏教の先祖供養は、中国仏教の先祖供養を取り入れたもので、中国仏教の先祖供養はまた中国の儒教の先祖供養を元にしている。しかし、中国仏教の先祖供養は三回忌までで終わっている。

ところが日本ではその後、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十回忌、二十五回忌、二十七回忌、三十回忌、三十三回忌、三十七回忌、四十回忌、四十五回忌、五十回忌、百回忌と、先祖供養の回数が驚くほど増加することになった。

それを大きなビジネスチャンスとして目をつけ、時として違法に営利を貪っているのが、近年、寺院をはじめ様々な業者が参入している「永代供養」というビジネスだ。

永代供養の歴史は古い。しかしそもそも永代供養は、寺に対して多大な貢献をした信者に対して、寺の側がその恩に報いるために行ったもので、それを寺が信者にお金を支払わせて行うようになったのは近年のことだ。

人間は、肌の色、性別、信じる宗教の差に関係なく、みんな同じなんだと思う。だからキリスト教徒は死後、教会で葬儀を行えばそのまま神に召されて天に昇るのに、仏教徒は死後、多額の供養料を支払い延々と供養を繰り返さないと、魂が霊界を迷うなんてことはないと僕は思っている。

ひとつ言えることは、供養とは心で行うものだ。愛する人を供養したい。その欲求で行うものであって、強要されて行うものではない。そして供養は、愛する人を供養したいと思い立ったその時、手を合わせたり、線香を立てたり、また大好きだったものを供えたり、愛する人との思い出に寄り添うこと、その心そのものが供養なのだ。

したがって、僧侶に読経させることだけが供養ではない。まして、高額な供養料を支払い、知らないうちに、どこかで誰かにお経をあげてもらう永代供養など、僕はまったく必要ないと思っている。供養はお金で売り買いするものではない。

もし僕が死後、自分の子供が何十万円、何百万円もの供養料を工面して、僕の永代供養の申し込みをしようとしていることを知ったら、僕はまず間違いなく、そのお金はお前たちの未来のために使えと諭すだろう。


では、いったい墓は何のためにあるのか?

墓とは亡くなった人との思い出に寄り添う場所。すなわち墓は墓参りをするためにあるんだと思う。したがって、墓参りをする人がいないのであれは墓はいらないわけだ。

墓に納められている壺の中の遺骨は、亡くなった人の思ひ出のカケラだ。壺の中に霊魂が封じ込められているわけじゃない。霊魂は、遺族の心の中にこそあるんだと僕は思ってる。

そして僕は、そんな思ひ出のカケラを壺の中に納め、何千年も残る石に名前を刻み、この世に永遠に残しておく必要はないと思っている。あえてそれをやる意味が僕にはわからない。

我々人間がこの地球上に現れた当初、100万人程度だったと考えられている人口は、紀元元年頃には3億人にまで膨れ上がり、以後、人口は災害や伝染病によって多少制御されながらも確実に増え続け、18世紀頃には7億人、19世紀にはすでに10億人にまで達していた。

こうして、いよいよ20世紀をむかえると、世界の人口は早くも16億人に達し、さらにそれからわずか30年後の1930年には、なんと20億人を突破してしまうのである。だが、その後も人口は衰えることなく、恐ろしい速度でもって増加し続け、1960年には30億人、1977年には40億人、1989年には50億人に達し、新世紀をむかえる直前の1999年には、とうとう60億人に達してしまったのだ。

このままの調子で増加し続けると2050年頃には、世界の人口は100億人近くにまで達するだろうと国連は予測している。そんな地球上に溢れ返る人々をすべて、何千年も残る石に名前を刻み、我々はこの地球上に墓を作り続けるのか?それにいったい、どんな意味があるのか?

地球の自然界から生まれた生命体である我々人間も、他の動物と何も変わらないのだ。産まれ、生きて、死に、そして最後はバクテリアに分解されて土に還る。それが自然界の原理だ。すなわち我々人間は、次の世代のために死に、何も残さずに土に還る。それが本来のあるべき姿じゃないかと僕は思うのだ。


僕は、自分の遺体が火葬さえされれば、遺骨の一部を拾い集め壺に入れたりしないで。遺骨はすべて火葬場で廃棄して欲しい。『ウパニシャッド』の「五火説」のように、焼かれ、煙となって天にのぼれば、それ以上もう僕には何も望むことはない。