2017/12/31

廿年


















『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。20年という年月が流れ、今ようやくその流れ去った年月を振り返ってみる、ふとそんな時がやってきたような気がしたのだ。

20年前のその出来事は、確かに僕にとってひとつの事件だった。そしてその事件はまた、僕にとってとてつもないストレスを抱え込む生活の始まりでもあったのだ。これは初版の後記にも書いたが、そもそもあの原稿は、誰かに読ませるつもりでも、まして出版するなどということは一瞬たりとも脳裏を過ぎったこともなく、ごく私的に書き続けていた原稿だったので、それが出版されると決まった瞬間から、「はたしてこんなものを出版してもいいのか?」という自問が、ずっと僕の胸に重くのしかかっていた。

それは「しなかった」のか?それとも「できなかった」のか?僕には定かなことはわからないが、僕の知る限り、永平寺で修行した雲水がその修行の実態を綴った本は、これまで出版されたことはなかった。そんな状況の中で、あえて僕が永平寺の修行記を出版することは、やはりいろいろな意味で重いものがあった。

もし、こういった内容の本を出版する場合は、出版後のトラブルを回避するために、事前に永平寺側に原稿を送り承認を受けるのが常道なのかもしれない。しかし僕はそれをしなかった。もし僕が事前に永平寺側に原稿を送っていたら、当然、永平寺側からの修正が入り、「御仏の慈悲に抱かれた」的な、まったく違った本になっていただろう。これに関しては、出版元である新潮社もそうなることは望んではいなかった。

しかし僕はあの本を、俗にいう「暴露本」として出版したつもりはない。これは今でも「そうだ!」と胸をはって言えるし、実際、僕は永平寺の一年の出来事を、すべて肯定するという立ち位置で原稿を書き続けていた。それは、出版して以来、指摘されることの多かった「暴力」という問題に関してもだ。

当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたんだと僕は思う。これは宗教の、特に禅という狭い世界に限ったことではなくて、広く「伝統」と呼ばれる世界、能や歌舞伎、舞踊に音曲、相撲といった芸能や、絵画や彫刻、工芸といった芸術にいたっても、至らない弟子を師匠が殴り教え込むといった方法が、かつてはごく普通に行われていたと思う。それを「暴力」という虐待行為だとして非難し始めたのは、ごく近年のことだ。

辞書で「暴力」という言葉を調べてみると、「乱暴な力・行為」「不当に使う腕力」「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」などと書かれている。

僕はそれに関して本の中にも少し書いたが、「暴力」というものを考える上で大切なことは、それを行う際の「目的」だと思う。僕は個人的に、師匠が弟子に何かを教え込む目的で殴ることは今でも「暴力」だとは思っていない。「暴力」とは相手を傷つける目的で殴ることだと思っている。しかし現代社会では、どちらも同じく憎むべき「暴力」なのだそうだ。

こんなことを言うと、頭がおかしいんじゃないかと言われるだろうが、ではボクシングはどうなのか?流血し、失神するまで相手を殴り続けるボクシングは「暴力」ではないのか?「スポーツ」というカテゴリーに属せば、あれも人々から拍手喝采され賞賛される行為となるのか?

では、テレビドラマのシーンとしてよく目にする、恋人に裏切られたかわいそうなヒロインが、恋人の頬をおもいっきり平手打ちするのは「暴力」ではないのか?なぜ我々はそれを憎むべき「暴力」だとして彼女を非難し、裏切ったために平手打ちされた恋人を虐待された被害者だとして同情しないのか?そう考え始めると、「暴力」というものがいったい何なのか僕は分からなくなってくる。

永平寺の話をしよう。永平寺の開祖は道元。悟りを求め中国へ渡った彼が辿り着いたのは、如浄という禅師のもとだった。道元はそこで悟りをえることになるのだが、彼が悟りを得た瞬間とはこうだ。道元はその日も他の修行僧たちとともに僧堂で坐禅に専念していた。すると隣で坐禅をしていた僧が居眠りをし始めた。それに気づいた、堂内を見回っていた師・如浄は、自分の履いていた草履をぬぎ、居眠りをしている僧の頭を思いっきりぶん殴った。その、堂内に響き渡った音を聞いた瞬間、道元は見事に悟りをえたのである。

これがもし。人を殴ることは、いかなる理由であっても許されるません。人を殴るのは恥ずべき行為なので、私はもちろん言葉で伝えます。などと如浄は思い、居眠りをしている僧の耳元で、「君、君、居眠りをするのは良くありませんね。今は坐禅の時間ですよ。さあ目を覚まして、ちゃんと坐禅をしましょう」などと優しく話して聞かせていたとしたら。道元は、とうとう悟りを得ることなく日本に帰国することになってしまったかもしれない。すると、永平寺もこの世には存在していなかっただろう。とにかく、当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたのだ。

こうして『食う寝る坐る永平寺修行記』は、事前に永平寺側に許可をえることなく出版されることになったわけだが、礼儀として、手元に本が届いた時点で、永平寺でお世話になった老師諸氏へ献本した。その反応は意外にもとても好意的なもので、お祝いの手紙をいただき、そして永平寺の機関紙まで『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されたという記事を掲載してくれたのだ。

しかし、永平寺内には僕の出版を快く思っていない人がいたのも事実だった。たとえば彼は、永平寺内でかなりの発言権のある立場にいた古参で、彼は『食う寝る坐る永平寺修行記』について質問されると、あれは僕が書いたものではなくて、僕の話をもとにして出版社の編集が書いたものだと説明していたらしい。だから実際『食う寝る坐る永平寺修行記』はゴーストライターが書いたんだと思っている読者もいるのだ。彼は当時から執筆活動をすることを目指していたようだ。僕の安居中にも幾度か永平寺の機関紙に原稿を掲載していた。そこに僕みたいな訳のわからない者が、何のことわりもなく大手出版社から永平寺の本を出版してしまったのてである。快く思わなかったのも無理はないだろう。

いっぽう『食う寝る坐る永平寺修行記』の出版によって、僕のところには雑誌社や新聞社から原稿の依頼が入ってくるようになっていた。だが何か書くと、またどこで誰に何を言われるかわからないと思うと、どうしても書く気にはなれなかった。だから当初はそういう依頼が入ると丁重に断っていたのだが、ある時期から断らずに、永平寺には素晴らしい人がいるので原稿は僕ではなくて彼に依頼すべきだと提案することにした。こういったこともきっかけになったのか、ついに彼の才能が世に知られることになり、彼は気鋭の論説家として出版にテレビ出演にと大活躍するようになった。もしもそんな僕のお節介が、彼の才能を世に知らしめる一翼を担えたんだとしたら、それはとても光栄なことだ。

こうして、なんとか永平寺側からは、非難や抗議の声は上がらなかったものの、やはり心配だったのは世間の反応だった。なにぶんにも、初めて明かされた永平寺の修行の実態なのだ。

本に折り込まれていた図書カードは、出版社で集計した後、著者である僕の所へ送られてきた。かなりの枚数だった。はたしてそこに何が書かれているのか。僕は身の引き締まる思いで1枚1枚読んでいった。その中に「まだまだ修行がたりません」という書き込みと、「表現が素人くさい」という書き込みがあった。これはどちらもまったくその通りだった。僕の永平寺での修行はたったの一年で、しかもそれを書いたのはプロの作家ではなくて素人の僕なのだ。

しかしその2枚以外は、どれもみなとても好意的なものばかりだった。「暴力寺院」だと非難されるかもしれないという懸念も、逆に、永平寺の雲水たちが想像以上に厳しい修行をしていることを知り、改めて永平寺の雲水たちを尊敬せざるにはいられない、といったようなその多くが永平寺の雲水たちへの賛辞だったのだ。

ちなみに、これらの図書カードはすべてコビーし、永平寺へ送っておいた。一応、永平寺側も実名を出されている以上、それを知る権利があるんじゃないかと思ったことと、そうすることがせめてもの礼儀じゃないかと思ったからだ。

ところが、永平寺が『食う寝る坐る永平寺修行記』と、その著者である野々村馨に対するいかなる協力もしないというスタンスは、『食う寝る坐る永平寺修行記』出版後から今日に到ってもまったく変わっていない。

それでもこれまで、幾度か原稿の依頼を受けたことがあったのだが、そのいずれの際も、野々村馨の書いた原稿に永平寺の写真を使用する許可はおりなかった。数年前『食う寝る坐る永平寺修行記』の英語版『Eat Sleep Sit』が出版された際も、やはり永平寺の写真の使用は拒否され、1枚も使えなかった。あの『Eat Sleep Sit』の表紙の写真は、実は永平寺とはまったく関係のない、出版社の編集がどこかから探してきた、縁側で坐禅をする臨済宗の僧侶の写真だ。

だが、これはある意味、無理もないことで、僕には理解できる。『食う寝る坐る永平寺修行記』に、野々村馨に、もし永平寺が協力してしまえば、あの中に書かれていることを永平寺が正式に認めることになってしまう。それは対外的に都合が悪い。特に「人権」というものに対して何かと過敏な現代社会に、悪しきイメージを植え付けてしまう恐れがある。

それに永平寺は、もちろん禅の修行道場なわけだが、同時に僧侶の養成所でもあるのだ。これは本の中にも書いたが、永平寺は全国の宗門の寺から大切な跡取りを預かっているわけで、彼らが殴られたり、空腹に苦しんだり、寒さに凍えたりしては、大切な息子を預けている宗門の寺の親御さんに顔向けができない。

永平寺は、僕が去った後しばらくして、道元の生誕750年という大きな節目の年を迎えた。それに合わせ、永平寺は新しい時代を迎えるために、我々が寒さに凍えたあのいくつかの古い建物を、冷暖房完備の鉄筋コクンリートに建て替えたようだ。もちろん、修行のスタイルも、現代の人権に則したものとなったと聞いた。

その新しくなった冷暖房完備の快適な修行の場を見て、はたして道元はどう思っただろうか?僕は、道元は案外それを見て満足しかもしれないなと思った。道元の著書『正法眼蔵』の「坐禅儀」の中にこんなことが書かれている。

〈坐禅は静処よろしく。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむることなかれ。雨露をもらしむることなかれ〉

〈坐処あたたかなるべし。昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり〉

ようするに、坐禅をするのは静かなところがいい。下に敷くクッションは厚くせよ。風や煙など外気を入れるな。雨露がもれるようなことがあってはならない。そして、坐る場所は心地よくすべきだ。昼も夜も暗くないのがいい。冬は暖かく、夏は涼しい、それこそが坐禅をする理想の環境だと心得よ。と道元は言っている。道元は、滝に打たれ読経したり、雪に埋もれ瞑想したり、そういった難行や苦行を求めていなかった。彼が求めていたのは、ただひたすら壁に向かって坐ることだったのだ。

しかしもし僕が、鉄筋コンクリートに建て替えられた、まさに「新しい」時代の永平寺に安居していたとしたら、おそらく原稿は書いていなかっただろう。寒さ凍え、闇に怯え、差し込む春の陽の光や、灰に埋もれた小さな炭火の暖かさに驚ろき、そして、そんな自然の些細な変化に揺れ動き、移ろいゆく人の心に涙した。僕は心から、今はもう失われてしまった、いい時代の永平寺に安居したんだなと思っている。もちろんこれは僕個人の、ただの「ロマン」の問題だ。

『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。そうなんだ。「あれはすべて過去の話です」と言い切れるだけの、もうそんな年月が流れたんだ……。


2017/10/22

テト


















 僕が初めてホーチミン・タンソンニャット空港に降り立ったのは、中国暦の正月「テト」を目前にした、1月の暑く気怠い夕暮のことだった。
 広漠とした滑走路の脇には、軍用機を格納した幾棟ものドックが日没せまる薄明の中に重苦しく浮かび上がり、その不気味な威圧感に思わずゾクッとした。ここは確かに、あのヴェトナム戦争の国なのだ。そんな当たり前の事実を、まず改めて思い知らされる。
 そして、その夕闇迫るホーチミン・タンソンニャット空港の人混みの中には、彼女がいたのだ。僕はバンコクの空港待合室から、ずっと彼女のことばかりを見ていた。

 古くから、中国の強い影響下にあったヴェトナム人にとって、「正月」と言えば、やはりそれは中国暦の正月「テト」を指し、ホーチミン行きの飛行機を待つバンコクの空港待合室は、里帰りらしき多くのヴェトナム人で溢れかえっていた。いくつもの手荷物をだいじそうに抱えた男たちに、真新しい洋服を着込みめかし込んだ女たち。それぞれに、それぞれの幸福感と緊張感を漂わせた待合室の中を行き交う人々の中で、ひときわ目立っていたのが、なんといっても彼女だったのだ。
「すっげえ」
 最初、空港のチェックイン・カウンターで彼女の姿を見かけた時から、僕の目は彼女に釘づけになっていた。すみずみまで丁寧になされた化粧も、きちんとセットされた髪型も、手に持った少しくたびれたルイ・ヴィトンのバッグも、待合室に溢れている多くの女たちと比べ、特にこれといって目を引くということはなかったのだが、なんと彼女はミンクのコートを着ていたのだ。
 テトは、1年を335日とする太陰暦によるため、毎年、太陽暦の正月とのズレが生じる。だが熱帯のこの国では、いくら太陰暦の正月が太陽暦の正月とズレたところで、突然それが吹雪の正月になるはずもない。あの年のテトは1月下旬。1月とはいえ、バンコクの平均気温はおよそ27度、東京の8月の平均気温に等しい。これは、これから向かうホーチミンにしてもしかりで、ミンクのコートなど論外である。
 もしかすると彼女は、どこか遠くの寒い国で宿願の成功を掴み取った、華々しき凱旋帰郷だったのかもしれない。何だか、熱帯の女のパワーにアッパーカットをくらわされたような衝撃だったが、僕自身の目にも、そんな彼女の姿はとても眩しく、光り輝いて映った。
 ミンクのコートは、タンソンニャットの簡素な空港ターミナルに入ると、僕の前でスイスイとイミグレーションを通り抜け、ゲートの外で歓声を上げ待ち構えていた出迎えの人々に抱きかかえられるようにして、ホーチミンの夕闇の中に消えていった。

 ミンクのコートの彼女とは訳が違い、初めての社会主義国ヴェトナムの入国審査にかなり手こずり、僕がイミグレーションを通り抜け空港ターミナルの前で車に乗り込んだ時には、ホーチミンはもうすっかり夜になっていた。
 そしてやっと辿り着いた、サイゴン政権時代の古ぼけたホテルのレセプションカウンターで部屋の鍵を受け取り、電気もつけずにバタンとベッドに倒れ込んだ時には、なんとすでに日付が変わろうとしていた。
「晩飯?もういいや。シャワー?もう朝にします」
 そんな独り言をつぶやき、着替えもしないでそのまま眠ろうとしたのだが、体は疲れているのになんだかいっこうに眠れない。しかし一刻も早く眠らないと、翌日は早朝ホーチミンを発ち、空路でダナンへ向かうことになっていたのだ。そしてダナンで1泊した後、さらに陸路でヴェトナム最後の王朝グエン王朝の都だったフエへ入る。古都フエ、ここがこの旅の目的地だった。
 だいたいこんな夜は決まって、早く眠ろうなどと考えれば考えるほど寝付かれないもので、そこをなんとか眠ろうと枕に頭を押しつけ目を閉じると、つい先ほど空港からの目抜き通りを走り抜ける車の窓に流れ去った数々の光景が、いつまでたっても寝付かれない僕のまぶたの裏に、淡い残像となって幾度も繰り返し結ばれては消えていた。
 都市の夜にしては、あまりにも深く静かな闇。その闇の中に浮かび上がる、コロニアル風のバルコニーや鎧戸の悪夢のような白。黒々と夜空を覆い隠すヤシの葉と、軒下からこぼれ落ちるランの紅い花弁。入りくんだせまい路地の奥に青白く静止するCAFEのネオン管。そして、息苦しいほどの無風。生まれて初めて目にしたヴェトナムの印象は、どこか暗く、もの淋しい。確かにそんなものだった。
 その夜、この部屋の煤けたカーテンのかかった窓の外では、どこか遠くで、気の早い浮かれ者たちがばらまくテトを祝う爆竹の音が、何か晴れ晴れしい真夜中の春雷のように、ホーチミンの夜に小さくこだましていた。

 僕が初めてヴェトナムに入った、ようやく外国人旅行者に門戸を開き始めた頃のヴェトナムの旅は、多くの制約があった。幸運にも、なんとか個人で旅はできるものの、それはただ「個人」というだけのもので、「自由」というものではなかった。
 まずヴェトナム政府より外国人旅行者の受け入れが許可されている場所をもとに旅のスケジュールを立て、それをヴェトナム側へ提出し審査を受ける。そして、それが許可されればビザが発行されるのだが、ヴェトナム滞在中のホテルや移動のための交通機関はすべて事前に指定されていた。
 もっとも、かつて外国人旅行者に門戸を開いたばかりの同じ社会主義国、ようするにまだ「観光」などというものに対して注ぎ込むだけの余力を持ち合わせていなかった中国もそうだったし、またラオスやカンボジアも概ねそうだった。当時の旅はいずれの国もやはり個人での入国は禁止されていて、旅行者の出入国も、宿泊も移動もすべてを国家に管理されていた。 
 これはある意味、至極当然のことだ。「バックパッカー」などと呼ばれる、お気軽に旅なんぞできてしまう外国の浮かれたお金持ちがゾロゾロとやってきて、何ひとつとして高額な外貨は落としてくれず、図々しくも民衆の生活と同じ安さで寝泊りし飲み食いする、そんな「疑似貧乏体験」なんぞされてしまっては、ただ民衆が惑わされるだけで、国家としては何の利益もないのである。

 こうして始まった、初めてのヴェトナムの旅。フエでの1日は、朝、シミだらけのシーツのかかったジットリと湿ったベッドから這い出て、夜の間なんとかヴェトナムの狂暴な蚊から我が身を守ってくれていた薄汚れた汗臭い蚊帳をたたむことから始まった。 
 そして、永遠に陽の差し込むことのない、真っ暗な、お世辞にも心地良いなどとは言えない、はっきり言って不気味なカビ臭いバスルームで顔を洗い、サイゴン政権時代の産物であるこの高級ホテルの最上階のレストランで、フランス風の朝食をとる。
 かなりうまいフランスパンに、なぜか味のないまずいバターを塗り、お決まりの玉子料理。オムレツに飽きれば、スクランブルエッグに。スクランブルエッグに飽きれば、フライドエッグに。そしてフライドエッグに飽きれば、またオムレツにと。そんな玉子料理の皿には、毎朝とてもワイルドなハムやソーセージが興をそえている。
 そして、ヴェトナム式のコーヒーをミルク入りで一杯。分厚いガラスのコーヒーカップの底にコンデンスミルクが沈み、カップの上にのせられたアルミのドリッパーから、濃いフレンチローストのコーヒーがポトリポトリとカップの中に滴り落ちる。コンデンスミルクの乳白色と、コーヒーの濃褐色のコントラストがなんとも美しく、これに開けっぱなしのヴェランダから吹き込む南国の清々しい涼風とを合わせ、しめて25000ドン。

 朝食が終わると、朝の最大の難問。今日どこで何をするかを考る。しかし、いつも答えは往往にして見つからず、そうすることがあたかも義務であるかのように首から重い一眼レフのカメラを提げ、読みかけの本を手にブラブラとフエの街へ出ていく。
 大概は行き当たりばったりで、どこかの角をどこかの方角へ曲がり、どこか辿り着いたところでしばし休息をとる。運よくそこいらで食い物にありつくことができれば、その日の自分の勤めの半分は達成した気分になり、まずは満足する。
 長い午後は、また長い分だけ時の扱いに手こずりもし、この日、最後の難問である夕食をどこで何を食べるかを、また行き当たりばったりで解決すると、陽が落ちるまでにホテルへ帰り、汗臭い蚊帳を拡げ、ジットリと湿ったベッドに寝転がり、ベッドの頭に点る明かるすぎる裸電球の下で、眠くなるまで読書する。
 この後は、根気強い売春婦が夜通し叩き続けるドアの音と、ベッドの傍を駆け回る巨大なネズミの足音を子守歌に、蚊帳の内にあたかも星屑のように散りばめられた無数の沁みにいだかれ、「こんなはずじゃなかった」などと思いつつ深い眠りに就くのである。

 確かに、こんなはずじゃなかった。
「失礼ですが、フエでのご滞在の目的はなんですか?」
 ヴェトナムのビザを申請する際、担当者が不可解な顔で聞いてきたのも、今思えば当然のことである。僕がヴェトナム側に提出したスケジュールは、ホーチミンが行き帰り合わせて3泊、ダナンが行き帰り合わせて2泊、そしてフエでの滞在がなんと半月だったのだ。ヴェトナムの古都フエに対する思い入れの大きさが、半月という滞在日数になってしまったのである。
 こうしてフエでの長い長い日々が始まったわけだが、しかし、それでも初めて目にした古都フエの印象は上々だった。

 遠く長山の連なりに発する芳しき香河の流れに栄枯した、フエは廃園の憂いに沈んでいた。廃園は、その過ぎ去った栄華が儚ければ儚いほど美しい。
 フエがこの国の都として定められたのは1802年のことだった。ヴェトナムの歴史は、またそのまま争いの歴史であり、古くから常に北方の大国中国との軋轢に苦しみ、また、インドシナの大地から泡沫のように湧き起こる反勢力との国家興亡を賭けた果てしない争いに明け暮れてきた。
 そして30年にもおよぶ苦闘の末、ようやくこの国を統一したグエン・フォック・アインは、祖先所縁の地であるここフエを都とし、自ら帝位につき年号を「ジャロン」と定める。ヴェトナム最後の王朝、グエン王朝の幕開けである。
 グエン王朝は、この初代ジャロン帝からバオダイ帝までの13代を数えるのだが、フエが実質的にこの国全土の都として栄華したのは、ジャロン帝、ミンマン帝、テェウチ帝、トゥドック帝の四代、わずか80年たらずのことだった。この後は、押し寄せるヨーロッパの帝国主義の波に翻弄され、皇帝は依然として王宮の奥深くに存在し続けてはいたものの、遂にヴェトナムを植民地とした宗主国フランスの傀儡と化してしまうのだった。

 そんな皇帝たちの、短く儚い栄華の舞台となった王宮は、フエの街を東西に流れる清き香河の北岸にひっそりとたたずんでいた。
 「天子は南面する」という中国古来の伝統にしたがって、フエの王宮も南を正面にして建てられている。そもそもヴェトナムと中国との関係はとても古く、そして根が深い。10世紀、ヴェトナム民族による独立国家が誕生するまで、この地は中国の支配下におかれており、その後も強大な中国支配からの離脱を企て、幾度となく争いを繰り返すものの、基本的に宗主国中国、朝貢国ヴェトナムという暗黙の関係は崩れることはなかった。
 グエン王朝を樹立したジャロン帝も、グエン王朝の正統性の承認を中国、当時の清朝に求め、現在の「ヴェトナム」という国名も、その際、清朝より与えられた「越南」という国名を、ヴェトナム式に発音したものなのである。そしてジャロン帝は、中国の諸制度を範に新しい国家体制をととのえ、さらにこの風光明媚なフエの地に、中国の宮殿建築様式に基づいた、華麗なる王宮を造営していったのである。

 南面する王宮の正門「午門」の名は、正午、太陽がこの門の真上に差し掛ることに由来している。午門は、石と煉瓦で築かれた重厚な基壇に三つの門戸を持ち、上部に禁色の色瓦をいただいた二層の華麗なる楼閣が、青天の高処に両翼を広げている。楼閣の一層は、立ち並ぶ朱塗の円柱によって支えられた吹き抜けになっており、まさに虚空に浮かぶ空中神殿を思わせた。
 楼閣の欄干や窓、屏風だたみに開閉する扉には、ことごとく中国風の手のこんだ見事な細工が施され、色瓦に彩られた屋根の破風には蝙蝠が羽撃く。そして、微かな曲線を帯び反り返る優美な棟には、龍たちがその波打つ鱗に日月を照り返し、午門はまさに中国の吉祥と至福に光り輝いていた。
 午門の基壇に開く三つの門戸の内、中央の「大正門」は、かつて皇帝にのみ開かれていたものだった。僕はそんな大正門の重々しい暗がりを抜け、大内に入った。

 午門の大正門を通り抜けると、そこにはまず左右一対の聖池に挟まれた石畳の参道がのびている。そして参道には、トップに聖蓮の莟を冠し、龍うごめく四本の円柱に扁額風の貫を渡した「牌楼」と呼ばれる二基の結界が出迎えていた。貫の中央には、五色の宝珠が雲煙の中からメラメラと天空に霊気を立ち昇らせ、一基、二基と牌楼を潜るごとに、次第に現世から遠退く心地さえして、僕はいよいよ太和殿の前庭「大朝儀」に辿り着いた。

 太和殿は、謁見の場として皇帝の政務の中枢をなす殿宇であり、その他、即位の礼を始めとする数々の重要な儀式が執り行われてきた。
 ここでも、二重に重なる閑雅な屋根には禁色の色瓦が波打ち、優美に反り返る棟では、屋根の中央に立ち昇る宝珠の霊気に龍たちが身悶え躍り狂っている。
 ちなみに、ここ太和殿を始めとする王宮のいたるところで威光を放つ龍たちは、みな五つの爪を持っている。これもまた中国の伝統に由来するもので、中国では五爪の龍は皇帝以外、用いることを許されていなかった。すなわち五爪の龍を帯びることは、絶大なる皇帝としての権力の象徴だったのである。この定めは、すでに元朝には制度として明文化されており、明朝になるとこの禁制はより一層厳格さを増してゆくのである。
 そんな太和殿の屋根を支える円柱もまた、この五爪の龍が濡れ蠢き巻き付いており、狂おうしいばかりの朱で埋めつくされた殿内も同様、金箔や金彩に光り輝くおびただしい数の龍たちが絢爛たる皇帝の玉座を取り囲んでいた。

 このように、ヴェトナム人にとって中国は、北方に立ち篭める暗雲であると同時に、また熱烈な憧憬の的でもあったのだ。
 フエの王宮は、初代ジャロン帝によって建設が始められ、二代ミンマン帝の頃ほぼ完成を見るのだが、その構想はもちろん北京の故宮にあった。この故宮の模倣は建築様式にとどまらず、宮殿の配置も故宮にしたがって左右均衡を意識して配置され、色彩も紅、緑、黄を基調に、そして細部もまた日月、星辰、水雲、龍、鳳凰、蝙蝠、蓮花、瓢箪を始めとする中国伝来の数々の吉祥文様で埋めつくすなど、まさにここフエは、南方の「リトル・チャイナ」そのものだったのだ。
 しかし二代ミンマン帝は、こういった中国への熱烈な憧憬と共に、中国へのあからさまな対抗の意識をも合わせ持った皇帝だった。彼は、1838年、国名を「越南」から「大南」に改めるという勅令を出す。この大南という名は「南の中華」を意味するもので、満州族の樹立した清朝よりも、己れこそが「中華」たりうる民族であるという自負が漲っていた。わざわざ中国人のことを「清人」「唐人」と呼び、自国民のことを「漢人」と呼ぶなど、中国よりも中国たらんという、何とも奇妙で複雑な意識に燃えていたのである。
 そして太和殿の背後には、皇帝の私的宮殿郡が連々と建ち並ぶ、その名も北京と同じ「紫禁城」が浩々と広がり、そこにはグエン王朝の皇帝たちの、北方の大国中国への憧憬と対抗が生み出した、ある栄華の頂点が結晶しているのである。

 僕はそんな太和殿を後にし、脇を抜け背後へまわり込むと、そこには皇帝の黄に塗り込められた高い城壁が立ちはだかり、中央に聳える華麗なる大金門の重い扉が、奥に広がる紫雲たなびく紫禁城の威光を、謎めいた沈黙に封じ込めている。と、確かにこうなるはずだった。
 しかし僕は太和殿をまわり、目の前に現れた光景に愕然とした。太和殿の裏に広がっていたのは、連なる紅牆でもなく、波打つ緑瓦でもなく、往時の面影をしのぶものは何もない、鬱蒼とみどり生い茂るただの草叢だったのだ。
 フエの王宮は20世紀中葉まではかろうじて往時の威光をとどめていた。だがついにこの王宮にも悲運は訪れる。そうヴェトナム戦争だ。

 王宮の正門である午門を抜けると、そこに「8月23日通り」と呼ばれる街路樹の連なる通りがある。この通りの名前「8月23日」という日付は、1954年、フエの人々にとって永遠に忘れることのできない特別な日となった。1945年といえば、第二次世界大戦終決の年である。
 当時ヴェトナムは、フランスの植民地支配から日本の軍事占領下へと移行していた。そしてこの年の8月15日、ポツダム宣言に従って日本が無条件降伏したことによって、ヴェトナムは突如、権力の空白状態になるのである。これを期に、ホー・チ・ミン率いるヴェトナム独立同盟いわゆる「ヴェトミン」は、20万人の武装した民衆とともにハノイで総蜂起し、一気に官庁を占拠したのである。八月革命である。
 ヴェトミンのこのクーデターは、ただちにヴェトナム全土へ飛び火し、8月23日、ここフエの王宮前の旗台にはためいていた黄色旗が引きずり降ろされ、それに代わってヴェトミンの金星紅旗が掲げられた。「黄色旗」とは、黄色の地に八卦の「離」を表す三本の赤い線をあしらった皇帝を象徴するグエン王朝の旗なのだが、当時、時の皇帝バオダイ帝は、日本の軍事クーデターによって樹立された新政府のもと、日本の傀儡としてかろうじで帝位にとどまっていたのである。
 8月23日、フエの街は革命に沸く群衆で溢れ、通りはヴェトミンの旗、金星紅旗の赤で埋めつくされた。バオダイ帝の傍に仕えていたフエ朝廷宮中官房長官だったファム・カク・ホエはその日の様子を、怒涛のように人であふれる広場は旗と標語で埋まり、そのあふれる人々の誰もが歓喜し、ついに民衆の手に政権を勝ち取る蜂起の空気に浸っていた、と回想している。
 しかし8月30日の正午、王宮前の旗台には再び黄色旗がはためいていた。そして午門の前は、次々と押し寄せるおびただしい数の群衆に埋まり、その群衆が一斉に歓呼の声を上げたのが午後4時のことだった。金星紅旗ひるがえる車に乗り込んだ革命政府代表団が、皇帝のみに許されていた午門の大正門を潜ったのである。
 バオダイ帝は、黄色のターバンを頭に巻き、黄色の皇帝衣に龍の文様を施した履物という出で立ちで、革命政府代表団を午門の楼閣で出迎えた。こうして、いよいよバオダイ帝退位の式典は始まったのである。
 式典は群衆の拍手と歓声の中しめやかに執り行われ、感極まり込み上げる涙に幾度も声をつまらせながら、ようやくバオダイ帝が退位の詔を読み終わると、いよいよ旗台の黄色旗が静々と降ろされ、代って紅に五稜の金星光り輝くヴェトミンの金星紅旗が、王宮の黄昏に高々とはためいたのだ。
 常に押し寄せる列強の波に翻弄され続け、揺れ動き、まさに波乱に満ちたヴェトナム最後の王朝、グエン王朝144年の歴史は、こうして幕を閉じたのである。
 午門には直ちに、21発の祝砲が雷鳴のごとく轟き、あたりは「ヴェトナム独立万歳」「ヴェトナム民主共和国万歳」という、取り巻く何万人もの群衆のシュプレヒコールの渦に包まれた。しかしこの時、南部ヴェトナムへの復権を目論むフランスの野望がもうそこまで迫り来ていることも、そしてその衝突がやがて「ヴェトナム戦争」と名をかえ、この国の全土を戦火に包み、やがて風光明媚なこのフエの地をもすべて焼きつくすことになろうとは、誰ひとりとして予想すらしていなかった。

「ヴェトナム戦争」
 この名前は、20世紀の歴史の中で、特別な重い響きを有している。それはまず、両大戦を経た仏領インドシナ連邦がいよいよ土台からグラグラと崩れ出した、そんな中でのことだった。
 ポツダム宣言に従って日本が無条件降伏した後、ホー・チ・ミン率いるヴェトナム独立同盟、すなわちヴェトミンのクーデターによって樹立された「ヴェトナム民主共和国」と、ヴェトナムの独立に異議をとなえ、その後も執拗に南部コーチシナの領有権を主張し続けるフランスが強引に樹立した「コーチシナ共和国臨時政府」との対立によって、まず一つの幕が切って落とされる。これがヴェトナム戦争の前哨戦となる、インドシナ戦争である。

 この戦争は、まさにゾウとアリの戦いだったのだ。フランス側の戦車や戦闘機を始めとする最新兵器に対して、ヴェトミン側の持ちえた兵器と言えば、せいぜい銃や剣、はてはスキやクワといった程度のものだったのである。しかし開戦当初は圧倒的に優勢だったフランスだったが、中華人民共和国の成立によって誕生した新生中国の支援を得たヴェトミンが次第に攻勢に転じることになるのだ。
 そしてこの時点で、フランスへの軍事的、経済的援助に乗り出したのが、アメリカだったのである。こうしてこの戦争はまた、北を支援する中国やソ連といった社会主義諸国と、南を支援するアメリカやイギリスといった自由主義諸国という図式へと移行していくことになるのだった。

 インドシナ戦争の戦火は、7年7ヵ月燃え続け、とうとうディエンビエンフーの戦いによってフランスは完全に敗北し、ヴェトミンは悲願の勝利を掴んだのである。
 そして1954年、スイスのジュネーブに、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、そして当事国の代表が集まり、インドシナ問題のための国際会議が開かれた。ところがである。当初「ヴェトナムの独立」「ヴェトナムからの外国軍隊の撤退」といった提案で始まった協議だったが、ディエンビエンフーの敗北にもかかわらず、ヴェトナムにおける利権の喪失を恐れたフランスがヴェトナムの独立に反対し、単なる軍事的な停戦を主張し始めたのだ。
 そして面白いことに、列席していた諸大国は自国の利害を鑑み、なんとヴェトミン側に譲歩を迫ったのである。もちろんこの背後には、アジアの共産主義化を阻止すべく超大国アメリカの思惑があったのだ。

 こうして調印されたのが「ジュネーブ協定」だったのである。この協定によって、ヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、北をヴェトミン側、南をフランス側の領土として暫定的に二つに分断されることになったのだ。
 そして会議の最終宣言で、「ヴェトナムの独立、統一などの政治的諸問題の解決は、国際監視委員会の管理下で行なわれるヴェトナムの住民による自由な総選挙によって決定されるものとする」という事項が関係国間で約束された。ところがである。ホー・チ・ミンの圧倒的な人気から選挙による勝算を危うんだアメリカは、結局この最終宣言への参加を拒否してしまうのだった。
 1956年7月。これは、ジュネーブ協定の最終宣言で約束されたヴェトナム統一のための総選挙が予定されていた月である。しかしその総選挙は、ついに行なわれることはなかった。アメリカの絶大な経済力の下で、もはやアメリカの傀儡と化していた南ヴェトナム側によって総選挙は一方的に反古にされ、北ヴェトナム側が抱いていた選挙による国家の平和的統一の望みは、いとも簡単に踏み躙られてしまったのである。
 かくして南北2つのヴェトナムは、社会主義と自由主義が対峙する冷戦という枠組みの中にはめ込まれ、やがて北の祖国統一の旗印の下に結成された「南ヴェトナム民族解放戦線」と、南のフランスに代わって本格的に介入し始めた自由主義を標榜する「アメリカ」という国家による、20世最悪の戦争と称されることなにる、「ヴェトナム戦争」という出口の見えない暗澹たる深い泥沼の底へと沈んでゆくのだった。

 そして1968年。当時ヴェトナム戦争の戦局はすでに混迷の度合いを深めていた。
 その年の旧正月テトは1月30日。南ヴェトナム解放民族戦線は、テトの期間中は南北双方が暗黙のうちに休戦期間とするという慣例を破り、テト入りを期にヴェトナム全土で一気に総蜂起を開始したのだ。「テト攻勢」である。
 ここフエでは、翌31日の午前3時30分、一発の迫撃砲弾が王宮の一角に落とされ、これを合図に南ヴェトナム民族解放戦線の部隊は一斉にフエ市内へ攻め入り、フエは瞬く間に解放される。だがもちろん、事はこれで終わらなかった。アメリカ軍の反攻が始まったのだ。
 王宮に立て篭もる民族解放戦線と、城壁を境に対峙するアメリカ軍との死闘は王宮の平安を銃声と流血で汚し、とうとう2月4日、アメリカ軍による猛烈な空爆が開始されたのである。不幸にもここフエは、このテト攻勢一番の激戦区となり、その死闘はほぼ1ヵ月近くにも及び、フエは一面の焼け野原と化したのだった。

 このテト攻勢は、結果的にはアメリカ側の勝利に終わった。しかしこの死闘の生々しい映像がメディアを通して全世界に発信され、いよいよ世界中でヴェトナム戦争の反戦運動が沸き起こることになったのだ。だがこのヴェトナムの地から最後の戦火が消えるまで、さらに夥しい量の血が流され、また気の遠くなるほどの長い長い歳月が必要だった。

 かくしてこのフエの王宮は、午門と太和殿などのわずかばかりの殿宇を残し戦火の灰塵と化した。歴代の皇帝たちの現世の夢も、その焼け落ちた紫禁城の草叢に消え、こうしてフエは永遠の廃園となったのである。
 生い繁る草叢の、風に波打つ葉先は旧歓になびき、そんな栄枯盛衰に彩られた皇帝たちの儚い夢の行方に想いを馳せながら、今を盛りに咲き競うプリメリアの落花を踏みつつ、廃園の古都を彷徨い歩く日々。確かに、古都フエの印象は上々だった。

 しかし、それもすべてが「当初」の話しである。とうとう僕はこの小さな古都の中で、ひとり暇をもてあましてしまうことになった。それ以来、毎朝、日課のように、目が醒めるとベッドの中で、またもややってきた今日という長い一日のことを思い、決まって深呼吸ではなく、深い溜息を一つつくのである。
 確かにここか当時のヴェトナムでなければ、とっとと荷物をまとめ列車にでも飛び乗り、次ぎなる地へ向け旅立てばいいのだが、あの当時、そうすることは許されていなかった。旅はすべて、ビザをとる際に提出したスケジュールにそって行なわれ、街から街への移動も完全に管理されていたのである。
 おまけにフエは陸の孤島だった。あの当時、まだフエには空港がなく、フエへ入るにはまず空港のあるダナンまで飛行機で飛び、そこから陸路で入るのである。その陸路も、当時は外国人観光客が列車に乗ることを禁止していたので、ダナンからはヴェトナム側が差し向けた車に乗り込むことになる。これがまた容易な行程ではないのだ。
 ダナンとフエとの間には、古くからヴェトナムの国土と気候を二分してきた、屹然たるハイヴァン峠が聳えている。「ハイ」とは海を、「ヴァン」とは雲を意味し、まさに雲海たなびく山道を、眼下に広がる絶景をのぞみながら、右へ左へとくねくねと、4時間ほどかけて越えるのである。 
 ダナンから僕を乗せてきた運転手は、フエのホテルで僕を降ろすと、こいつはいったいここで半月も何をするつもりなのか?といった妙な笑みを浮かべ「じゃあ半月後に迎えにくるよ」と言い残し、またダナンへ帰っていった。

 こんな、求めて得られたわけでもない、閑々というか、悠々というか、とにかくありあまる時間に暇をもてあます日々の中で、なぜか決まって一日に一度、足を運ぶのが王宮だった。まあ実際にこの街には、ここくらいしか行く所がないのだ。
 もちろん僕には、そこで何かをしようなどという特別な目的があったわけではない。ただしかたなく、ただなんとなく、というのが偽らざる事実である。しかし王宮を取り巻く一角には、また市場とは違ったフエに暮らす人々の日常があり、フラフラと歩いていると、そんな彼らの憩いというものに触れる思いがした。
 王宮の中には、我々観光客は6000ドンの入場料を払って入るのだが、いつも子供たちが駆け回り遊んでいたところをみると、おそらく彼らはただで入れるのだろう。彼らは小学生なのだ。そう本人たちが教えてくれた。僕は、毎日、王宮へ暇つぶしに出かける内に、彼らの仲間になっていた。いや、仲間というより、先生と生徒といった方が適切かもしれない。もちろん僕が生徒で、子供たちが先生である。彼らは僕のヴェトナム語の先生なのだ。
 最初はこれもいつもの暇つぶしに、僕が石段に腰を下ろしヴェトナム語会話の本を開き眺めていると、子供たちの方からちょっかいを出してきた。それが、よほどおもしろかったのか、それ以来、僕の姿を見かけると突然、彼らは小学生から厳しく騒がしい先生へと変身するのである。
 あの日も、僕は王宮の入口で6000ドンを払い、もう見飽きるほど見た、王宮の屋根や外壁に躍る龍や蝙蝠たちの姿を、一応また端から一つずつ眺めながら歩いていると、いつものごとく石畳の上を駆け回っていた彼らに出くわし、またもや取り囲まれてしまった。そして、早くヴェトナム語を教えてやるから本を出せと催促してくる。
「モッ、ハイ、バー……」
 やはり外国人の発する発音というのは、たまらなく滑稽らしく、僕が何か一つ発音するたびに彼らが笑いころげる。
 また実際、ヴェトナム語の発音というのは、かなり難しいのである。声調も、中国語より2個も多く6声あり、単母音が11個、二重母音が3個、そして介母音なる耳慣れない母音が1個。これに頭子音が19個と、末子音が10個と、もう何が何だかさっぱりわけがわからない。
 この「わからない」は、何も文法的にわからないだけではなく、その発音自体、何度聞いても、どこがどう違うのかさえも聞き取れないのである。子供たちは、僕の発音に笑いころげながら、お手本の発音を聞かせてくれるのだが、やはり聞き取れない。
「なんだとう。さっきからちゃんと発音してるじゃねえか。ちゃんと聞けよ」
 僕がヴェトナム語がわからないことをいいことに、あいつらだって何を言って笑いころげているのかわかったもんじゃない。僕も、日本語で好きかってに言いまくっていた。どうせ誰にもわかりっこないのだ。
「おまえらだって、日本語しゃべってみろ、バーカ」
「こんにちわ」
「え?」
 まさか。日本を発って、ほぼ1ヵ月ぶりに聞く懐かしい日本語の響きだった。しかも、こんなアジアの辺境の地でである。
「あっ。君」
 振り返ると、彼女が立っていた。僕は一目見て、すぐに彼女だとわかった。
「そこ、座っていい?」
「も、もちろん」
 あれは数日前、香河のほとりの市場でのことだった。まさに社会主義を具現化したような飾り気のないフエの市場は、1階が食料品と日曜雑貨、2階が衣料品といった感じで大まかに分かれている。そして、その建物を取り巻く空き地にも小さな商いが溢れていて、もっぱら青天の下では魚や野菜といった生鮮食料を商うのである。
 僕はそこでバナナを買っていた。これは確かに勘違いではなく、僕はフエで産まれて初めて種のあるバナナというものを食べた。バナナに種があるなどと想像すらしたこともなかった僕は、いつものごとくバナナのやわらかさを信頼しきりガブリと噛み付いたのだが、突然ガリッと歯に固い物があたった。それを市場のバナナ売りのおばさんに身振り手振りを交えながら説明し、種のないバナナをくれと交渉していたのだが、相手にはさっぱり意味が通じていなかったらしく、となりの同業者と大笑いしていた。
 ふとそんな時、山積みされたとりどりの果物や野菜が、狭い通路にこぼれ落ちる市場の奥から、ひとりこちらへ向かって歩いてくる女と目があった。華奢な肩までとどかない、きれいに切り揃えられた髪に、まったく化粧化のない顔。ネイビーのボーダー柄のTシャツに、こざっぱりとした細目のパンツ。手には何か本らしき物を持っていた。
「あっ、こんな所に日本人が……」
 直感というか、一瞬、そう思ったのだが、すぐに彼女が視線を逸らし向きをかえてしまったこともあって、なんだ勘違いなのかと素直に納得してしまった。また僕のその納得をさらに決定的にしたのは、実は彼女の履いていた靴だったのだ。
 いくら、こんなアジアの辺境の地を旅しているとはいえ、日本人なら絶対に履かないだろうと思うような靴を彼女は履いていた。生成りの木綿でできたソールの薄っぺらい、よく東京の中国物産店の店頭に山積みされているような、しかもそれが随分と薄汚れていたのだ。
「美砂子です。よろしく」
「美砂子?」
 美砂子は僕と並んで石段に腰を下ろし、その距離が閑散としたあたりの広さとくらべ、やけに近すぎるみたいで少しドキンとした。
 しかし不思議だ。こんなアジアの片隅の、日本から遥か遠く離れたちっぽけな街の中で、こんなふうに日本人と話しているなんて。僕は話し続ける美砂子の横顔を眺めながら、そんなことばかり考えていた。子供たちは、思わぬ邪魔が入って先生ゴッコが中断されてしまい、また何もなかったかのように広い石畳の上に散っていった。あいかわらず石畳の上をピンポン玉のように跳ね回る彼らの姿に、美砂子が目を細め笑っている。
「あの子たちって、無邪気よね」
「うん。やっぱり子供は、ああじゃなくっちゃ」
「ほんと。あんなこと、もう大人になったらできないもの」
「やってみる?」
「え?」
「冗談、冗談。一応、僕ももう大人だから」
「私も。やっぱり見てる方が無難かも」
 まったく年寄り臭いなとお互い詰りながら、いつ終わるとも知れない子供たちの悪態ぶりを、2人、石段に腰を下ろしたまま飽きもせず眺めていた。

 王宮の正門、午門を抜け、街路樹が影を落とす8月23日通りを美砂子と僕が歩き始めた時には、太陽は午門の真上に輝いていた。
「へえ、そう。美砂子は留学生なのか」
「へえ、そうって何よ。随分と歳くった学生だって思ってるんでしょ」
「めっそうもない。尊敬してたんだよ」
「尊敬?」
「そうそう」
 美砂子は、どうだかわかったものじゃないわと言いつつ、まんざら悪い気もしなかったらしく、サラサラと短い髪を肩の上で揺らしていた。
「そういえば、野々村くんっていくつ?」
「いくつって?」
「いくつって、こんな時に歳以外、何の数を聞くのよ」
「27歳、血液型A型、独身」
「なあんだ、じゃあ私と同じじゃない。血液型は私O型だけど」
 今日の昼食をどこで何を食べるかは、美砂子のおかげで悩むことなくすぐに決まった。とはいっても、この街に目新しい気のきいたレストランやカフェがあるわけでもないので、市場へでも行ってそこで何か見繕って食べようということになったのだ。
「上海の大学には、留学生ってたくさんいるの?」
「うん。たくさんいるわよ」
「そうなんだ」
 しかしこの歳で、上海の大学で2度目の大学生か。僕は美砂子の話を聞いて、確かに彼女のことを少し尊敬していた。
「じゃあ美砂子は、上海からやってきたのか」
「そうよ。ちょうど大学も旧暦の正月休みに入ったから、とりあえず香港まで列車を乗り継いで、そこからハノイまでは飛行機でね。でも私、ヴェトナムのビザとってなかったんだ」
「なんてことを。よくそれで入国できたなあ」
 まったく、なんてことだ。そういうことに対しては冒険心を感じない僕の脳には、まったくインプットされていない、とんでもない旅のスタイルだった。
「まあ、なんとかなるだろうと思ってたんだけど、しょっぴかれちゃったんだなあ、これが」
「しょっぴかれた?」
「そう。ハノイの空港のイミグレーションでね。たんまりお叱りを受けて、しっかり罰金も取られて。でも、結局ビザは発行されたんだけどね。ふふ」
「ふふ、じゃないよ」
 だが、それを「ふふ」なんて笑ってしまう彼女のことを、僕はまた少し尊敬してしまった。
「でもね、確かに、ふふ、じゃないのよ。ホテルでは外国人だってわかると門前払いくらわされるし、おまけにハノイはシトシトと雨まで降ってて、寒くて風邪までひいちゃってさ」
「へええ、そうなんだ。ホーチミンなんか暑くて、目眩しそうだったのにな」
 考えれば考えるほど、よくぞまあこんな所で出会ったものだと思った。まだ観光客などほとんどいないこのヴェトナムで、僕は熱帯の太陽がサンサンと降りそそぐ南のホーチミンから入り、美砂子は冷たい雨がシトシトと降りしきる北のハノイから入って、ちょうどど真ん中のフエで出会ったのだ。「偶然」というよりも、何だか「運命」と呼びたい、そんな心境でもあった。

 フエの市場へは、8月23日通りを途中で香河の方角へまがり、突き当たったチャン・フン・ダオ通りを東へひたすら歩き続けると辿り着く。
 チャン・フン・ダオ通りの「チャン・フン・ダオ」とは、人の名前である。彼は13世紀、再三におよんだ中国・元の大軍の襲来をみごと撃退した英雄なのである。これは、なにもフエという街だけに限ったことではなく、かつてのサイゴンの新しい呼び名「ホー・チ・ミン」もしかり、その街の中を縦横無尽に駆け巡るレズアン通りも、ハイ・バー・チュン通りも、アン・ズオン・ブオン通りも、どれもヴェトナムの歴史に燦然と輝く英雄たちの名前なのだ。ヴェトナムの英雄は、死して地図に名を残すのである。
 フエの市場は正確にはドンバ市場と言う。素っ気ないコンクリート2階建の建物の正面には、市場の名前がでかでかと掲げられており、それが唯一の装飾である。もちろん、それはヴェトナム語で書かれている。「クォックグー文字」である。
 クォックグー文字とは、てっとり早く言うとローマ字で、この文字がヴェトナムの公式の文字となったのは、そう遠くない過去のことである。もともと中国の強い影響下にあったヴェトナムでは、古くから漢字が公式の文字として用いられており、漢字は儒学者の文字を意味する「字儒」と呼ばれていた。
 しかしそんな中で、ヴェトナム独自の文字も生み出されている。「字喃」と呼ばれるその文字は、漢字をもとにして作られた一種の合成文字である。たとえば「正」を偏に「月」を旁にして正月を意味するといった会意文字や、「南」を偏に「五」を旁にして「ナム」と発音し五を意味するといった形声文字など、まさに、ヴェトナム民族固有の言葉を書き記すことへの情熱が、字喃の一点一画にあふれている。
 そもそも現在のクォックグー文字は、ヴェトナムへやってきたヨーロッパ人宣教師たちが行った、ヴェトナム語のローマ字表記への変換という試みから始まったのである。そしてやがてその試みは、ヴェトナムがフランスの植民地となることによって、さらに徹底、統一されることとなる。これは、フランス文化の冠絶というものへの揺るぎない確信に裏付けられた、フランス植民地統治の「同化政策」によるもので、ヴェトナム語のフランス語への同化の手段として、クォックグー文字は奨励され、とうとう字儒、字喃の使用は禁止されてしまうのである。
 この政策は当然、ヴェトナム人による反発をまねくことになるのだが、結局、そのヴェトナム人もがそれを受容、奨励するという奇妙な顛末をむかえることになる。これも長い歴史の中での、ひとつの文化の変遷にすぎないと言われれば、確かにそうなのかもしれない。筆画の多い複雑な字儒、字喃とは違って、簡易なクォックグー文字は、一般民衆の文盲の数を急速に減少させたと言われている。しかし、文字は文化の骨幹を成すものである。太古から脈々と継承されてきたヴェトナムの文化から、字儒、字喃という文字が消えてしまったという事実は、やはりひとつの悲しむべき事実のように僕は思う。 

 ドンバ市場の1階には、食料品の売場にまぎれ、簡単に食事のとれる店が2、3あった。店とはいっても、豚肉売場のとなりの台がテーブルになり、そこに腰をかける錆びたパイプ椅子や木箱なんかが用意されているだけの、ざっくばらんな店、というより、これはやはりただの台か。
 我々はとりあえずそこに腰を下ろし、フォーを食べることにした。フォーとは、早い話がヴェトナムのうどんである。米の粉でできた太い麺に、鶏ガラや牛骨などからとったスープをかけ、肉や野菜を好みによってのせ食べるのである。
「そんなに毎日、暇をもてあましてたの?」
「もう、気が遠くなるほど」
 美砂子は鳥肉のフォー、僕は牛肉のフォーにした。少し縁のかけたドンブリに、澄んだ熱くさっぱりとしたスープが満たされ、そこに沈む太い色白の麺の上に肉と野菜がのっかり、ドスンと台の上に並んだ。僕は待ってましたとばかり、フエでの有閑ライフを、また暇にまかせ美砂子にトクトクと説明した。
「で、今日はあそこで子供たちとヴェトナム語のお勉強してたわけ?」 
「まあね、そんなとこかな。その前は、チョコレートを捜しまくってた」
「チョコレート?」
「うん。2、3日前に急にチョレートが食べたくなって、それ以来ずっと捜してるんだ」
「ないの?」
「ないんだよな。これが」
 確かにないのだ。街中を歩いていても、お菓子屋などというワクワクするような店に出くわすことはなく、この市場の中で商っているのも、せいぜい湿気ったビスケット程度のもので、チョコレートなどどこにもないのだ。これは確かに、あの溶けやすいお菓子を、日々の高温から守る術がない、ということもひとつあるのだろう。バンコクですら、スーパーを覗いてみても、スナック菓子などの並ぶ棚の一角に、ミルカやネッスルなどのチョコレートが細々と並んでいる程度で、やはりこの辺りの国ではチョコレートはあまり馴染みがないのかもしれない。
「野々村くんって、お坊ちゃんでしょ」
「う?」
 美砂子が突然、妙なことを言うものだから、あやうくフォーを喉に詰まらせるところだった。
「ど、どうして?」
「それそれ。そのハンカチ」
「ハンカチ?」
 これは僕の癖なのだ。食事をする時、膝にハンカチを掛ける。使うハンカチも、いつもバンダナと決まっていて、実際、僕はこれがないと落ち着かないのだ。
「残念でした。僕、お坊ちゃんみたいにマナーがなってないから、これがないと食物をポロポロ膝に落っことしちゃうんだよ。だから」
「ふううん」
 美砂子は、僕の話しに適当に相づちを打ちながら、フォーの上にのっかっている野菜、というよりも葉っぱとか草と言ったほうが的を得ている、得体の知れない植物をうまそうに食べている。
「そういえば、この前、市場で会った時、どうして声かけてくれなかったの?」
「えっ、それは……」
 ちょっとまずいことを聞かれてしまったなと思った。急いで適当な理由を考えた。
「そうそう。ひょっとすると日本人じゃないかもしれないな?って思ったんだ。たぶん」
 なんてことだ。慌てて言葉を捜した甲斐もなく、結局こんな返答をしてしまった。
 僕は、恥ずかしかったのだ。あの日、市場で美砂子を見かけた時、彼女が履いていた質素で薄汚た靴を見て、日本人じゃないと思ったなんて。もし彼女が、ナイキのスニーカーやダナーのトレッキングシューズを履いていたら、僕は迷わず彼女のことを日本人だと思ったのか。自分でも意識しないうちに、日本人をそんなに大層な人種だと思っていたことがたまらなく恥ずかしく、僕は自分のことを少し軽蔑した。
「じゃあ、何人?」
「ええっ?」
 ドギマギしている僕を見て、美砂子がやけに楽しそうに突っ込みを入れてくる。一瞬、美砂子の靴に向いた視線を、慌ててテーブルのドンブリの影に逸らした。
「どうだったっけ。美砂子だって、あの日どうして声かけてくれなかったの?僕、何人に見えた?」
「野々村くんは、もう誰が見てもバリバリの日本人だよ。でもね、まだ観光客もいないヴェトナムのこんな所に日本人がひとりでいることが、ちょっと信じられなくてさ。それに一応、私も大和撫子だから。女の方から声をかけるなんて」
「へえ、そうなんだ」
 意外な、美砂子の照れ臭そうな横顔に、ようやく僕は少しホッとした。
「何か、文句ありそうね」
「とんでもない。先入観、先入観」
「でもあれから私、フエの街をブラブラ歩きながら、野々村くんのことずっと捜してたのよ。小さな街だから、きっともう一度くらい会うチャンスあるんじゃないかなってね」
「え?」

 ホーチミンの蒸し暑さからは想像もつかない、フエの圧倒的な爽やかさ。市場の屋内に吹き込む、微かに河の気配を漂わせた軽風と、高い大空に吸い込まれ消えてゆく小さな街の小さな喧騒。
 何もかもが平穏なフエの昼下がり、我々はほどほどに満腹にもなり、そのまま市場の2階へ上がりウィンドショッピングと洒落こんだ。ウィンドショッピングとは言っても、もちろんそこにはショーウィンドなど何もなく、たくさんの衣料品屋が狭いフロアにひしめき合っていた。大半は、どこの国の市場でも見られる、おなじみの雑多な洋服や下着といったものである。
 確かに衣料品は、予想以上に豊富だった。大学生の時、初めてビルマを訪れた時は、戸惑いを覚えるほど街に物資がなくて、街中を歩いると、そのはいてるジーンズを売ってくれと、よく声を掛けられたものだった。
 そういえばヴェトナムへの入国で一つ面白かったのが、税関の申告書だった。これは外国製品を持ち込む際この申告書に記入し、出国時にはたしてこの品物を国内で不正に売買してはいないかと調べるのだが、カメラやビデオ、時計やラジオといった項目の中に、なんとTシャツやジーンズがあったことだった。これも、ステーキ1皿よりも、外国製品であるコカコーラ1本の方が高かった当時のことである。

 ヴェトナムの衣服と言えば、まず「アオザイ」を連想すだろう。アオザイとは「長い衣」を意味するヴェトナムの国民的衣服である。なんでもアオザイは、ここフエあたりで生まれたものらしく、それが19世紀、時の皇帝ミンマン帝が行なった衣服統一政策によって、ヴェトナムの国民的衣服になったということである。
 アオザイは、チャイナドレスと同様、衿はマンダリンカラーで、フォルムは体の曲線にそって極めて優美に仕立てられ、裾の左右に大きなスリットが入っている。そしてこの下に「クアン」というパンタロンをはく。アオザイのスリットは、このクアンの上まで開いていて、何気ない仕草のたびにチラリと白い脇腹がのぞき、何とも艶かしい気配を漂わせるのである。
 しかし市場を見渡しても、ハンガーに吊されたたアオザイはどこにも見あたらない。それは、アオザイがプレタポルテではなく、完全なるオートクチュールだからである。好みの生地を選び、バスト、ウエスト、ヒップと、体の凹凸を慎重に採寸し、自分自身の一着を仕立てるのである。
 だがそんな市場の中で、「ノン」がうずたかく積まれている光景は、やはりヴェトナムならではである。ノンとは、ヤシの葉を編んで作られた菅笠である。ヴェトナム独自の、シンプルな円錐型のフォルムがとても美しく、その笠の端に一本の顎ヒモを取り付ける。この顎ヒモはまた、おしゃれの重要なポイントにもなっていて、太い黒いビロードに優雅な刺繍を施したりと、顎ヒモという小さく慎ましやかな主張が、ヴェトナムの女性の美しさをいっそう際立たせている。

 我々は相変わらず、くだらない話をしながら、特に目的も計画もないまま市場の中を歩きまわり、その内、外を見渡せる明るい一角に行き着いた。そこは、たった2階という高さにすぎないのだが、高層ビルなどまったく無縁のこの街を眺めるには、十分な眺望だった。
 美砂子と僕は手摺りにもたれ掛かり、眼下に広がる市場の賑わいや、南国の陽射しを受けざわめく河岸の木々を眺めながら一息ついた。肌に触れる午後の風がなんとも心地よく、突然、わけもなく笑い出したくもなる。
「ヴェトナム。どうだった?」
 美砂子が、小さな額に跳ね返る河風に目を細め、ポツリと口にした。
「ヴェトナム?」
「うん」
「そうだな。一言じゃあ言えないけど、あんなに辛い時代があったっていうのに、みんなの表情に陰りがないのに驚いたかな」
「そうね、みんな前向きよね」
 確かにヴェトナムでは、同じく外国人観光客に門戸を開いたばかりの社会主義国、かつての中国とも、ラオスとも、カンボジアとも違う、これはもしかすると希望とでも呼ぶべきものなのか、人々の生活の中に、なにか未来を見つめる熱い眼差しのようなものを感じていた。
 当時ヴェトナムは、ちょうど「ドイモイ」という新開放政策を打ち立てたばかりだった。「ドイ」とは変えることを、「モイ」とは新しくすることを意味し、市場経済や独立採算制の導入、外国資本の誘致、そして個人の所有権の認可など、ヴェトナムはそれまでの社会主義国としては極めて特異な政策を打ち立てたのである。そこに用意された「個人」という場所と、「自由」という希望とが、人々の未来を見つめる眼差しにおよぼした影響は、やはり大きなものだったに違いない。
「野々村くんの人生に、挫折ってあった?」
「挫折?」
 唐突に美砂子が妙なことを聞いてきた。
「どうだろう」
 挫折か。急いで考えてみたのだが、自分でもよくわからなかった。もちろん今までの人生が、すべて輝かしい成功で彩られていたはずなどないのだが、それを挫折と呼ぶのかどうか、自分でもよくわからなかったのだ。
「美砂子はあったの?」
 美砂子は一瞬こちらを向き意味不明な笑顔を作った後、また視線をこの街の果ての上空に低く流れゆく、か細い雲の群れに向けた。
「私ね、上海の大学に留学する前は丸ノ内でOLしてたんだ。予定通りにね」
「予定通り?」
「そう、予定通り。だって小さい頃から、いい学校へ進学して、いい企業に勤めるために、ずっと塾通いして、家族一丸となって努力してたもの。まるでNHKのドラマに出てくる、現代のダメ家族の見本みたいでしょ?」
「そうでもないよ。もしかしてそれって普通かもよ」
「普通ね……」
 普通かあ。自分でそう答えたものの、なぜか僕も美砂子のあいづちを頭の中で反復していた。
「でもある時ね、私これでいいんだろうか?って思ったんだ」
 僕は一瞬、彼女の様子をうかがった後、すぐに同じ雲のあたりを眺めた。
「入社した当時はね、心の中には確かに、私はエリートなのよっていう意識もあったし、溌剌としてたっていうか、光り輝いてたっていうか。朝、地下鉄の階段なんかでも、サラリーマンをスイスイ追い越したりしてさ」
「ふううん」
「でもね、入社して何年か経ったある時、ふと同じ地下鉄の階段で、今度は私がみんなにドンドン追い越されていることに気付いたんだ」
「……」
「私、いったい何疲れてるんだろうって。あの入社当時、光輝いてたのっていったい何だったんだろう?って」
 美砂子は、何だか車輪止めをはずされた車みたいに、手摺りにもたれかかり、どこか遠くを眺めたまま止め所なく話し続けていた。
「それで留学?」
「そう」
「よく決心したね」
 僕だって、毎日打ち込むタイムカードの刻印で積み重ねられている、単調きわまりない日々の連続にうんざりしつつも、それをどう打開すればいいのかも、まったく見出だせないでいた。それが人生さ、などと思えるほど悟りきることもできず、かといってあいもかわらず居座り続けている漠然とした夢も捨てきれないでいる。大学卒業当時、探し求めていた「生きる意味」なども、色褪せた標語札のように脳裏の片隅に埃をかぶって貼り付いたまま、何もかもが、これといった快感も感じないぶん、これといった不快感も感じなくなってしまった、何がなんだかわけのわからないぬるま湯の中に、どっぷりと浸かっていたのだ。
「やっぱり、自分自身の答えを出すのは、自分しかいないものね。もちろん、青春を費やした、なんて言うと大げさだけど、せっかく手に入れた安定っていうか、老後までの座席指定券をポイと窓から捨てて途中下車するのって、そう簡単な問題じゃなかったけどね。だって人生ゲームをまたスタートにもどって骰子を振りなおすみたいなものだもの」
「そうだよな」
「でもね、ずっとこのままの生活を続けて、どんどんと歳ばかりとっていく方が怖かったのかな?」
「へええ」
「人生には、一度や二度、やるべき時があるんだと思うの。まあ、それをやらないのも人生なんだろうけど、私はその時、今このチャンスを逃したら、一生悔いを残しちゃうだろうなって思ったんだ。死に際に、嗚呼あの時やっとけばよかったなんて、後悔して死ぬのなんていゃじゃない?」
「うんうん」
「それに、もしやってみて失敗だったってわかったとしても、それがわかっただけでも大きな収穫だったって思えばいいわけだしさ。人生一回きりって考えれば、もし今そうすることが無理すれば可能なんだったら、無理してみる価値はあるなってね」
「なるほどね」
「でも決心した後は、もうみんなからはずっとバカだバカだって言われ続けてたのよ。これまでの人生を棒に振る気かとか、ロマンじゃ生きていけないことくらい、大人なんだからわかってるだろうってね」
「家族はどうだったの?」
「お母さんはね、私が会社やめて留学するっていう話を聞いた後、一度だけ、あなたは本当にそうしたいのね?って聞いただけだったかな」
「お父さんは?」
「お父さんは何にも言わなかった。そういう人だから。でも案外、あまりのショックに、ただ言葉もなく絶句してただけだったりしてね」
 2人、思わず顔を見合わせ吹き出した。美砂子の顔に表れた久しぶりの明るさに、何だか僕も一緒に大きな山を一つ越えたような気がして、少しホッとした。
「で、今の生活はどう?」
「うん。何もかもが驚きの連続かな?」
「驚き?」
「そう。何もかもがね。そして今は、失望させちゃった両親のためにも、頑張って生きなくちゃなんて思ってるんだ。そうすることが唯一の償い、なんて言ったら演歌みたいだけど、結局、私が悔いのない人生を歩むことを両親は一番喜んでくれるんだと思うから。ちょっとムシが良すぎるかしら」
「いいや」
 人生を変えるチャンスは、もしかするとどこにでも転がっているのかもしれない。それをチャンスとするのは、それをチャンスとして受け入れることのできる1%の心の柔軟さと、自分自身を信じきることのできる99%の勇気なのかもしれない。しかし不幸にも当時の僕は、そのどちらも持ち合わせていなかった。

 美砂子は、まるで遠い昔の思い出話をひとつ話し終えたといった感じで、小さく深呼吸した。僕はその時、そうすることができた美砂子のいさぎよさが、何だか羨ましくもあった。
「さっ。私、もうそろそろ行かなくちゃ」
 美砂子が突然、手摺りを背にクルリと向きをかえた。
「行くって、どこへ?」
「私、今日の夕方、ダナンへ行くことになってるんだ」
「今日?」
「そう」
 なんてことだ。運命の出会いだったのに。
「せっかく会えたのに」
「ほんとね」
 美砂子はまた少しぎこちない作り笑いを足元に落とした。まったく世の中は、うまくいかないものだ。
「ところでダナンって、どんな所だった?」
「ダナン?もう何もない所だよ。ただ建物が建ってて、ただ道路が通ってるってだけの、寂れた人畜無害な地味〜な街だよ。ダナンで目にした外国人も、ホテルの食堂で朝一緒だったロシア人の営業マンだけだったしね」
「へええ。楽しみ」
「何が楽しみなもんか」
 美砂子の予想外のリアクションに吹き出した。

「じゃあ車は何時に迎えに来るの?」
「車?そんなも来るわけないわよ」
 笑わせようと思って聞いたわけじゃなかったが、なぜか美砂子に大笑いされてしまった。
「そういえば、ちゃんと聞いてなかったけど、野々村くんってダナンからフエまでどうやって来たの?」
「そりゃもちろん、ヴェトナム側がチャーターした車に決まってるじゃない」
「ウソお。私はハノイからずっと列車よ」
「え?今ヴェトナムじゃあ、外国人が列車に乗るの禁止されてるんだよ」
「へ〜え、知らなかったな」
 人生には、などと言うと大げさだが、知らなくても、いや、知らないからこそなんとかなるってこともあるんだ。
「まったく。これだからもう不法入国者は」
「うるさい」

 我々は階下に降りようと、ようやく今までいた見晴らしのいい場所を動き出した。そこでふと、とりあえず美砂子のこれから先の予定を聞いてみようと思い立った。
「ちなみに美砂子はダナンから先はどこ行くの?」
「ホーチミンよ」
「じゃあ僕と同じだ」
「そうなの?ハノイじゃなくて?」
「うん。僕も来週の月曜日にはまたホーチミンに戻ることになってるんだ。ようやくね。ああ、長かったよお」
 あっさりと、世の中もまんざら捨てたもんじゃないかもしれない、などと思い直した。
「美砂子は、ホーチミンのどこに泊まるの?」
「私は行ってみないとまだわかんないな」
「じゃあ、僕レックスに泊まってるから、よかったら訪ねてきてよ」
「いいわね。じゃあそうする。でもレックスに泊まってるなんて、やっぱり野々村くんってお坊ちゃんだわ」
「うるさい」

 ふと、あたりを見渡すと、いつの間に南国の太陽は、このアンナン山脈と南シナ海にいだかれた平穏な古都の彼方を、若いパパイヤのような淡い金色の輝きに染め始めていた。
「駅まで送るよ」
「いいわよ。テレビドラマじゃあるまいし」
「そおお?」
「じゃあね。来週の月曜日、ホーチミンで」
 美砂子ははそう言い残すと、急いで階段を駆けおりていった。手摺りから身を乗り出し階下を見下ろすと、美砂子が駆け出してくる。そして突然、振り返りこちらを見上げ、大声で叫んだ。
「野々村くんがホーチミンに来るまでに、チョコレート見つけとくわね」
「ありがとう。見つかるといいね」
 美砂子は、細く長い手を大きく一振りすると、また急いで駆け出していった。市場は、すでに夕刻の賑わいに取り囲まれ、そこに濁流のようにうごめき始めたノンの中に、美砂子の後姿はあっという間に飲み込まれ、消えてしまった。
「美砂子か……」
 辺りは、また刻一刻と、深い琥珀色の黄昏に沈み始めた。甘くまばゆい、真昼の寝覚めのような南国の風が僕の中を通り抜けた、あの年の、ヴェトナムの古都フエでの、それはある特別な午後の出来事だった。

 そして美砂子は、ほんとうに僕の泊まっているホーチミンのレックスにやって来た。その再開が、僕の人生を少し変えるきっかけになることを、あの時、僕はまだ知らなかった。


2017/06/11

遠雷
















 

日本の社会が進歩や発展といった漠然とした目標に向かって突き進み、人々がその眩しさに幸福の手応えと意味不明な戸惑いを感じ始めた、そんな昭和のある年の春。僕はひとり飛行機の小さな窓に寄り掛かり、いつまでたっても代わり映えのしない真っ暗な夜の景色を何時間もただぼんやりと眺めていた。エアー・インディア365便。行き先はバンコクだった。
「僕は逃げ出したのか?」
 若い渇望と焦燥に彩られた、ある意味において極めて平凡な大学生活は、卒業というステップを前にして大きく社会のレールから逸れることとなった。僕は一切の就職活動を放棄し、卒業式を終えるとそのまま飛行機に飛び乗った。

 僕はわからなかったのだ。自分の「これから」をどう受けとめ、自分の第一歩をどう社会に踏み出せばいいのか。確かに、世の多くの例にしたがい、何もわからないまま逆に社会の流れに飲み込まれ、その中で押し寄せる波にもまれながら暗中模索するという手もあった。しかしその当時の僕にとって、そうすることは自分の人生に対する敗北でしかなかった。
 かといってそんな問いに対して、おいそれと答えが出ると思い込むほどウブでもなかった。だが、わからないことをわからないままにして、自分をだまし生きていくことも、その自分の無能さを何かのせいにして生きていくことも、若さが許さなかったのだ。
 そこで一度、自分を取り巻くこの社会から一歩出て、今までとは別のことを考えてみようと思い立ち、そんな時ふと街角で、バンコクまでの格安航空券の看板に出くわした。行き先などどこでもよかったのだ。

 やがて飛行機は、星屑を敷き詰めたような街の光を眼下に、暗い夜の滑走路に滑り込んだ。
 機内から出ると、生まれて初めて体感する不快な熱気と、身にまとわりつくような湿気に包まれ、現実であるこの世界が、あたかも夢の始まりのような錯覚におちいった。その錯覚が、初めて現実のものであると実感したのは、ようやくチャイナタウンの外れにみつけた、崩れかけたアリの巣のようなホテルのベッドで、長い伸びをした時だった。ラジオから漏れる、メリハリのない声調言語が耳元をくすぐり、ぼんやりと裸電球が一つだけ点る。不快な熱気を癒すものといえば、天井でカタカタと音を立てて空気をかきまぜている大きなプロペラだけだった。
 だが、シーツが白いことだけが妙に心地良く、そう感じ始めると、急にこの薄汚れた部屋の物すべてが、深い眠りへと誘う物象と化し、体に残る飛行機の微動の気怠さも手伝って、次第に瞼が重くなっていく。窓の鉄格子の外では、夜の闇を引き裂くように走り去る車の騒音が、厚く重い夜空の中に遠く響いていた。

 その時僕は初めて、随分と遠くまで来たものだと思った。ちょうど今頃、大学の友人たちは、真新しいスーツにネクタイを絞め、それぞれの社会への輝かしい第一歩を踏み出しているはずだ。
 それにくらべて僕は、現実から先走りする理想と夢だけをたよりに、南国のこの見知らぬ街で、重くなった瞼にただ目を閉じようとしている。もうこのまま、永遠に眠りつづけたとしても、また、明日という日が始まったとしても、僕には書きなおされる予定や計画など何もなかった。

「僕、旅行することにしたよ」
「お前っ、なにバカなこと考えてんだ」
 卒業式の帰り道、片桐が僕の話に突然、怒りだした。片桐は同じゼミにいた男で、特に親しいというわけでもないが、またまんざら他人でもないという妙な関係だった。非現実的なことばかりを思いめぐらす質の僕とは正反対に、彼はいたって現実的な男で、就職活動も我々の先手を切って独走し、一番に大手広告代理店の内定を掴み取った。
「だって、自分のやりたいことがみつからないんだ」
「そんなもん俺だってねえよ。だいたいお前はなあ……」
 駅へと続く小さな商店街には、今、卒業式を終えたばかりの連中がふざけあい、愉快に騒ぎながら駅へ向かって歩いている。そんな中で、あいつだけが血気していた。
「野々村。お前は本当に面倒臭せえ奴だな。そんな何だかわけのわかんねえことをブヅブツ考えてねえで、早く大人になれ」
 これが、駅のホームであいつが口にした最後の言葉だった。

 僕は生きていくことに確固とした意味がほしかったのだ。そしてその思いは、次第に「欲求」から「必然」へと変わっていった。確かに僕も、そんな尊大な理想に押しつぶされそうになり、自分で自分のことが突然、面倒臭くなることもあった。しかし、この自分でも何がなんだかわからない理想を持ち続けることが、あの頃の自分の唯一の存在価値でもあったのだ。
「お前も、がんばれ。気がむけば、手紙だすよ。じゃあな」
 僕のこの言葉を最後に、お互い別々の電車に乗り込み、これが彼との最後だった。

 翌日、目を醒ますと正午だった。窓を開け鉄格子の間から空を仰ぎ見ると、熱帯の太陽はすでにホテルの真上に達し、眼下の路地には昼飯の屋台が連なり、香辛料の入り交じった油の匂いが、路上の熱気とともにこの部屋の窓辺まで立ちのぼっていた。
「遂に、来てしまったんだ」
 その込み上げる、異様な熱気の不快さにクラクラしながら、僕は初めて少し後悔した。
「いったい、これからどうするんだ」
 こんなことをひとりポツリと口にしたものの、答えなどどこからも返ってこないということも、わかりきってはいた。

 僕は気をとりなおし、真水の冷たいシャワーを浴び、路地の屋台で腹ごしらえした。滴り落ちるランの香りのように甘く、喉を焼き切るほど辛い。煮込まれた得体の知れないものを、細く痩せこけた米の上にかけ、ガツガツと腹にかき込んだ。しこたま汗をかた。 
 ふとまわりを見ると、ハンカチで汗を拭きながら食べているような客は誰もいない。何だかとてもみっともなく、高いのか安いのかわからない料金を手早く支払うと、そのまま歩道に出て、とりあえず人通りの多い方角へ歩き始めた。肩から下げたバッグの中には、出掛けにホテルのフロントで買った地図が一枚入っていた。

 熱帯の山々に降り注いだ雨が一条の大河となり、大地を舐め、土砂を押し流し南海をめざす。大河チャオプラヤは、インドシナ半島をひたすら南進し、幾千年にもおよぶ気紛れな氾濫を繰り返し、河口に大チャオプラヤデルタを形成した。そのデルタの上に、「天使の都」と呼ばれる街の光が点ったのが、1782年のことだった。バンコック、現ラタナコーシン王朝の幕開けである。
 デルタに生まれたこの街は、当時豊かな水量を利用し、運河「クロン」が網の目のように伸び、人々の生活は水によって結ばれていた。そして時代は移りかわり、クロンは道「タノン」へと姿をかえ、タノンからまた小さな路地「ソイ」がきざまれた。そのいっそう細かくなった網の目の上を、僕は地図を手にあてもなく歩き始めた。まさに足の向くまま、気の向くままに。自由という痩せ我慢に追い立てられながら。

 ホテルの前の路地を出て、また別の同じような薄汚い路地を適当に通り抜けると、少し大きな道に突き当たった。そこで思い出したように地図を開いて確認してみると、どうやらチャルンクルン通りのようだ。地図によるとこの通りは、チャイナタウンの中を王宮へ向かってほぼ一直線に走っている。とりあえず僕は、このまま王宮まで歩いてみることにした。

 ここがチャイナタウン、いわゆる華僑街になったのは、チャオプラヤの対岸にあったトンブリー王朝が一代15年の短い治世で滅び、ラタナコーシン王朝が河を隔てた現在の地に遷都した時である。かつての華僑街は、現在の王宮のあたりにあり、そこにあった華僑の富豪の邸宅が新王宮の用地とされたことによって、華僑街は強制的にここへ移動させられてしまったのである。
 あたかも火花のように世界へ飛び散り、それぞれの土地に独自の文化を貪欲に根付かせている華僑だが、特にタイはその華僑の混血と同化が最も進んでいる国だと言われている。そもそもタイ族は、中国の揚子江南域あたりから南下してきた民族で、血統的にも当然、古い時代から漢民族との血の交わりも繰り返されたであろうと考えられており、事実、前トンブリー王朝のターク・シン王の父も、中国潮州出身の華僑だったのである。
 一般的に、ルーズで、楽観的で、金銭に対する執着が薄く、向上心がなく保守的だと言われているタイ人とは対照的に、中国人は勤勉で、忍耐強く、金銭に対する執着が強く、革新的で独立心に富んでいると言われており、タイでは、こういった対照的な気質が、一つの社会の中で相互に補完し合う、理想的な職業の分化を生み出したのだと考えられている。かくして、華僑はこの南海の地で、その生まれ持った気質を活かし、商業や金融業、運輸業などの各分野で、着実に己れの居場所を築いていったのである。
 連なる建物の外壁には、「旅社」や「公司」といった漢字が、タイ文字と競い合うように路地の上空へと迫り出し、その隙間に、永く風雨に曝され塗装の剥げ落ちた鎧戸や鉄格子に堅く閉ざされた、妙に秘密めいた小窓がのぞいている。通りには、無秩序にありとあらゆる店の間口が開き、薄暗い店の奥の壁には、金の覆輪に彩られた丹い護符の紙片と、支那風の艶やかな祭壇がきらめいてた。
 そんな、血の中に豊かな商魂の流れる人々が行き交う雑踏の中を、僕は立ち止まるきっかけが見つからないまま、延々と歩き続けた。あいかわらず額に流れる汗をハンカチで拭きながら。

 照りつける炎昼の太陽が車道を灼き、車がその中を爆音を轟かせながら疾走する、喧騒と熱気の入り交じった長い長い午後だった。
 口の中が、巻き上げられる土埃と熱気でカラカラに渇き、途中、薬屋の店先の丸椅子に腰掛け、そこで買った少し凍りかけたコーラを飲みながら長い休憩をとったこともあって、王宮の前に着いた時には、もう陽は傾きかけていた。
 今まで幾本もの路地が怪しく絡っていた猥雑な通りが、突然、街路樹をたくわえた大通りに突き当たり、淡いモーブ色に移ろい始めた大空が、一気に視界を押し広げた。大通りは、規律正しく地を区画しながら、高い塀にそってどこまでも続いている。その、純白に塗り込められた塀の中に、王宮はあった。
 勾配のきつい、濡れた鱗のように煌びやかな屋根は、白昼の眩暈に似た微かなズレをもって、また別の屋根と重なり合い、破風に燃え立つ金色の炎は、水中を泳ぐヘビのごとくひとうねりすると、まばゆく優美な金光の軌跡を宙に描きながら、棟の端から天空へと立ち昇っている。その波の中にはまた、黄金の曲線に彩られた何基もの仏塔が光り輝き、重なり合う屋根の色瓦の一枚一枚に照り返していた。

 僕は、王宮に突き当たり終点となったチャルンクルン通りに別れを告げ、大通りの脇の整備された歩道を歩き、王宮の前に広がる王宮前広場へ向かった。ここはかつて「トゥン・プラメーン」須弥山広場と呼ばれた、王の火葬を行なうための広場らしいが、そんな重苦しい気配は何もなく、夕刻の憩いを求め行き交う人々の笑顔が明るい。僕は、そこに並ぶベンチのひとつに腰をおろし、西の果てに沈む楽土の輝きが王宮を包み込み、やがて地上のすべてのものとともに深い夜の闇の中に消えゆく光景を、ただ黙って眺めていた。

「僕は本当にバカなのか?」
 しばらくはただボーッと、暮色にほのめく広場の中を行き交う人々を目で追っていると、ふと頭の空白に小さな疑問符が打ち込まれた。と同時に、あの片桐のそら見たことかといった勝ち誇った顔が目の前にちらつき、卒業式の帰りの商店街の光景が、再び頭をかすめた。
「お前、いったいぜんたいどうして旅行なんだよ」
「うん」
「お前の大学の4年間は何だったんだ」
「ああ」
「お前、就職のために大学に入ったんじねえのかよ」
「え?」
 確かに僕は、社会の中に暗黙の内に敷かれていた「常識」というレールから脱線し、大きく逸れてしまった。でも僕は、そうしようと決心した時も、もしもこの決心がたとえ誤りだったとしても、長い人生のほんの一瞬の通過地点にすぎない大学卒業という地点の、このたった一度っきりの躓きで、それからの人生のすべてが台無しになるなどと思いたくなかったし、なってたまるかと思っていた。だからこそ僕は、焦らず、じっくりと、とことん納得した上で、自分の「これから」を決めたかったのだ。
「バカだとお?お前にだけは言われたくない」
 こんな南海の地までも追いかけてきた忌々しい片桐の顔に一人悪態をついてみると、それこそ何だかバカバカしくて思わず吹き出した。

 王宮前広場は、熱帯の太陽が西の果てに落ちると同時に、現代文明の生み出した街灯の眩しく単調な明暗に包まれ、そんな明かりの中を車が暑苦しい爆音を轟かせながら、闇から闇へと行き来している。僕は王宮前広場からチャイナタウンへ、もと来た道を再び歩き始めた。もちろん、もう地図はいらない。僕の足は、あたかも靴底の記憶を手繰り寄せるかのように、自然とホテルの方角へと進んだ。
 チャイナタウンの夜。日中、熱気と土埃を撹乱しながら疾走していた車は、もうここにはない。路地には落ち着いた暗闇が徘徊している。そして、そこに開く家々の間口には重い鉄の格子が下ろされ、家の奥からもれるテレビの音や子供たちの笑い声が、やわらかい家庭の明かりと共に、路地の暗がりにこぼれ落ちていた。そんな、あまりにも平凡で、あまりにも幸福な明かりに一瞬、訳もなく心細くなりもし、僕はホテルを目指し黙々と歩き続けた。

 翌日は、昨日とは逆に、チャルンクルン通りを王宮を背にし歩き始めた。
 地図を見るとこの通りは、バンコク中央駅の傍をかすめずっと南へとのびており、ホテルを出て間もなくすると、雑踏の中に大きな駅の外貌が現われてきた。バンコク中央駅は、どこかヨーロッパの駅を思わせる、ドーム型の実に格調高い駅である。車寄せと丸い列柱の並ぶ正面玄関から中に入ると、行き交う人々の立てる物音が、高いドーム型の天井に反響し、込み合うコンコースには摺りガラスを通して差し込む陽光が、曖昧で気怠い日溜まりをつくっていた。日溜まりのあたりにはまた、いくつもの備え付けの椅子が整然と居並び、どこもかしこも隙間なく人でうまっている。
 これは後で知ったのだが、ここバンコク中央駅は、タイの全土からの鉄道が終決する場所であると同時に、生まれ育った土地を離れ仕事を求め首都へ流れ込む、ちょうど出稼ぎ者にとっての終着駅でもあったのだ。したがって、地方から西も東もわからずに出てきた出稼ぎ者を専門に扱う、仕事の斡旋人が始終うろついていると聞いた。もちろん中には、途方に暮れている少年少女をつかまえ売春街に売り飛ばす悪徳な斡旋人もいて、ここバンコク中央駅の雑踏の中には、危うく複雑なドラマが交差しているのである。
 僕はそんな人込みに、何か重苦しい視線を感じつつ、どこにも自分の立ち止まる場所が見つからないままコンコースを一回りすると、売店で紙パック入りのミルクを一つ買い、そのまま外へ出た。

 外へ出ると、息苦しい人込みとドームに囲われた熱気から解放され少しホットし、取り囲むタクシーの客引きを振り切り、ストローでミルクをチューチューとやりながら、再びチャルンクルン通りの続きを中央駅の前から歩き始めた。
 この辺りからは、「街路樹」と呼べるようなものなのかは自信がないが、狂暴な根が地面にからまりあう大きな樹木が連なり、喧騒の通りに涼しい陰を落している。しかしその街路樹の野放しに長く伸びきった枝は、ちょうど通りの脇を流れる運河に崩れ落ちるようにだらしなく葉を垂らしていて、見ているだけで何とも一層、暑苦しい。
 この運河はパドゥンクルンカセム運河という由緒正しい運河らしいが、わざわざ名前をつけるのもおこがましいほどに、どす黒く澱み、ひどい悪臭を放っている。
 運河の向こう岸を見ると、家というにはあまりにも質素な、しかし小屋というにはあまりにも心のこもった、ここバンコクに流れた時の流れとはまた別の流れの中であり続けた、慎ましい人々の家々が連なっていた。ちょうど、水面から芽を出したマングローブが長い季節のめぐりよって少しずつ枝を広げていったように、何度も何度もその都度、無計画にいろいろな建材で継ぎ足され、そんな少し傾きかけた家が運河から突き出した細い木の杭の上で、ひっそりとたたずんでいた。

 ちなみにこのチャルンクルン通りは、別名「ニューロード」と呼ばれている。ニューロードとは、もちろん「新しい道」のことで、この王宮からバンコックの街を南へとひた走る大通りは、この国で最初に舗装され、また最初に街灯の点った道路らしい。運河クロンから道タノンへと時代が移り変り、「新しい」近代国家タイは、まさにこのニューロードから動き始めたのである。
 そしてチャルンクルン通りは今も、脇に澱む運河がかつて運んだ、何十倍、何百倍もの人や物資をひっきりなしに運び続け、僕はそんな車の波に少し圧倒されながら、あいもかわらず黙々と、額に汗し歩き続けた。

 バンコク中央駅の傍を通り過ぎると、次第に通りの中から中国の匂いが薄らいでいった。
 運河とは、もうとうのむかしに別れを告げ、今、通りの両脇には二階建の商店が長屋のように連なっている。そのほとんどが、どれもかなり古い木造建築で、二階に小さく張り出した廂やバルコニー、その奥に静かに閉じた鎧戸を見ると、それぞれに清楚なコロニアル風の意匠がほどこされていて、隆盛を誇ったヨーロッパの植民地時代の残照が、少し煤けてはいるが、ここにも確かに息づいていた。

 ここチャルンクルン通りは、ニューロードとしてこの国初の整備された道路だったわけだが、まだまだ熱帯のデルタの蘇生を多くとどめていたその当時、ここにはインドシナへ進出し始めたヨーロッパの商館や銀行が、通りにそって勇壮と建ち誇っていたという。デンマークのイースト・アジアテック会社、イギリスのボルネオ会社、ホンコン・アンド・シャンハイ銀行、フランスのインドチャイナ銀行。
 そして1884年、そのデンマークのイースト・アジアテック会社の創始者アンデルセンが、同じくデンマーク人の船乗りがチャオプラヤ河の河岸に開業していた、これもこの国初の西洋式ホテルを買収し、本格的なホテル経営に乗り出したのが、今日、世界有数の地位と格式を誇る、かのオリエンタルホテルである。
 かつてヨーロッパの植民地隆盛時代のアジア各地では、ロマン漂うコロニアル風の西洋式ホテルが盛んに建設され、そのいくつかが今日もなお、それぞれの地で老舗としての威風を放っている。香港のペニンシュラ、ハノイのトンニャット、サイゴンのレックス、ラングーンのストランド、シンガポールのラッフルズ、そしてバンコクのオリエンタル。
 これらのホテルは当時、単なる宿泊施設ではなく、その地に居留する西洋人にとっての重要な社交の場でもあったのだ。オリエンタルもしかり。タイ歴代の王族を始め、世界各国の王侯貴族、政治家、文化人と、オリエンタルに残る多くのゲストリストの連なりは、そのままインドシナ屈指の社交場としてのこのホテルの華麗なる歴史の軌跡となっている。
 旧来の月光に代わって、タマリンドやヤシの木の間に揺らめく街灯の光が照らし出すこの新しい大通りを、白いリネンやシルクの夜の服を着込んだ男たちや女たちが、まだ数台しかなかった自動車や、馬車や力車を走らせオリエンタルを目指す光景が毎夜のように、あまい南国の夜空の下に繰り広げられていたに違いない。
 しかし、もちろんそんな世界とは、まったく無縁だった僕だが、それでもオリエンタルの名前と名誉くらいは、なんとか基礎知識として持っていて、地図の中に記されたこのホテルの名前を見つけた時、泊りはしないものの、まあちょっと覗いてみるくらいはいいだろうと思い立った。

 オリエンタルは中央郵便局を通り過ぎ、さらに南へひたすら歩き続けた、チャルンクルン通りとチャオプラヤ河の間にあった。「オリエンタルホテル」という標識の掛かる狭い路地を曲がりしばらく歩くと、やがてかの高名なるホテルの正面玄関が、手入れの行き届いた植込の奥に見えてきた。
 その頃、往時のロマン漂う旧館の玄関が、こことは反対側のチャオプラヤ河に面して開いているなどということを知るよしもなかった僕は、実は、オリエンタルのあまりにも近代的な正面玄関のたたずまいを目にし、ひどくがっかりしてしまった。
 とは言っても、この高名なるホテルの正面玄関を正々堂々と通り抜ける勇気もなく、モタモタとしばらく植込の影で様子をうかがった後、車寄せの端を遠くひと回りし、意を決して正面玄関へ突き進んだ。だが、玄関の前までいったものの、そのまま僕はくるりと向きをかえ、足早に素通りしてしまった。
 正面玄関は、くもりなく綺麗に磨き上げられた大きなガラス貼りのドアになっていて、そこには清潔な純白の上着に、チョーンクラベーンというタイの古式ゆかしい腰布を巻いたドアボーイが待ち構えていた。彼は、僕がドアに近付いた途端、にこやかにほほ笑みドアを開けてくれたのだが、ドアが開くと同時に、豪奢なロビーで奏でられていた弦楽四重奏の典雅な響きが外に流れ出してきて、これはもうとんでもなく場違いな場所であることを一瞬にしてさとったのである。
 なんだかとても情けなくて、自分のことを少し見損ないつつも、もし誤ってあのままあそこに入っていたら、さぞ居心地の悪い想いをしただろうと、再びチャルンクルン通りを歩き始め、ホッと胸を撫で下ろした。

 僕がまた、そんなバカなことを思いついたのは、オリエンタルの路地を過ぎてしばらくしてのことだった。
 チャルンクルン通りを歩いていて数人のシスターとすれ違い、地図を取り出し近くにアサンプション聖堂があることを確認した時、このチャルンクルン通りはいったいどこまで続いているのだろうという疑問が、ふと脳裏をかすめた。そこで、地図の上に走るチャルンクルン通りを目で辿ってみると、なんと地図は途中でプッツリと終わっていた。そうなると、ますますどこまで続いているのか見届けてみたくなるもので、あれやこれやと想像をめぐらす前に、もう見届けてやろうと心に決めていた。
 かくして意を新たにチャルンクルン通りを歩き始め、しばらくした所で僕は、通りの脇に「チャルンクルン・ロード」と書かれた標識が、一定の間隔をおいて立っていことに気付いた。よく見ると標識の中にはまた、通りの名前に続いて二桁の数字が書き込まれている。たぶんこの通りに交差する路地の番号なのだろう。僕はその標識をたよりに、中の数字を「51」「52」「53」と数えながら、終点目指しカツカツと歩き続けた。

 しかし、カツカツと足音が弾んでいたのは、意を新たに歩き出した当初だけのことで、次第に、頭上から照りつける日差しと道路から込み上げる熱気とで、足取りはどんどん重くなっていく。歩道の脇で何度もハンカチを絞り、その度に灼けついたアスファルトの上にジュウジュウと汗が滴り落ちた。通りの景色も、もう物珍しいものなど何もなく、見飽きた退屈な風景が、ただ角膜の上にエンドレステープのように繰り返された。標識も依然として「チャルンクルン・ロード」のままで、いつの間にか数字も三桁になっていた。だが、遠く前を見渡してみても、一向にこの通りが終わる気配はない。
 もしかしてこの通りは、とんでもない所まで続いているのではないか、という不安が湧き起こったのは、そんな時である。だが少しだけ救われたのが、これが南へ向かっているのであって、北ではないということだった。もし北へ向かっていたとすれば、まさかシベリアまでは続いていないとしても、北には広大な大陸が広がっている。しかし南ということは、せいぜい続いたとしても海で終わるはずだ。とはいうものの、これが遥か海まで続いていたとしたら、それはそれでとんでもないことである。
 そう一抹な不安を胸にいだきつつも、不幸なことに僕は、ここでヒョイと向きをかえ引き返せるほどの心の柔軟さを、持ち合わせていなかったのである。確かに、融通のきかない性格は、自他共に認めてはいた。

「お前は、まったくしらける野郎だな」
 と、言ったのはまた片桐である。片桐と僕がいつどのようなきっかけで話しをするようになったのかは、改めて思い起してみても判然としない。お互い「友達」などという特別な意識をもって接することもなく、しかしどういうわけか片桐と共有する時間は決して少なくなかった。時には2人っきりで晩飯を食べるなどという妙な取り合せの一夜も、一夜に限らず何夜かはあり、あの日も我々は2人で居酒屋のカウンターに並んでいた。
 片桐は大学の勉強の他に、サーフィンをし、BMWを乗り回し、ジャズを聴き、キーホルダーを集め、そして居酒屋でアルバイトをしていた。あの日、我々は片桐のアルバイトをする居酒屋で晩飯を食べていたのである。
「そもそも焼き鳥っつうもんは、酒を飲みながら食うようにできてんだよ。ウーロン茶で食ってるやつがどこにいる。見てみろ。まったくお前みたいなやつがいるから、酒がまずくなるんだ」
 片桐は焼き鳥の串で、前歯の隙間に挟まった鳥肉の筋をほじくりながら、偉そうにこんなことをほざいていた。

 僕は今でも、アルコールは一滴も喉を通さない。もちろん料理やデザートに入っているアルコールは例外だが、ウイスキーやワインの入ったチョコレートなどは中身を捨てて水で洗い、チョコレートだけを食べる。ようするに「飲酒」という行為をしない。
 これは「主義」なのだ。だが旅先で外国人に説明する時は、説明がややこしくならないよう「主義」ではなくて「宗教」だと答える。そうすると、なぜかみんな簡単に納得するのだが、もちろんイスラムではない僕にとってそれは宗教上の理由ではないし、また生理的、肉体的な拒絶反応があるからでもないし、また飲酒による忘れがたい大きな過ちが過去にあったからでもない。
「主義だかなんだか知らねえけど、どうせお前のことだから、くだらん、理由にもなりゃしねえような理由で始めたんだろうよ」
 片桐は、不思議と人の心の中をグサリと見抜く特性を持ち合わせていて、僕から見てその余裕に満ちた言動は随分と大人びて感じられ、それがまた何とも説教臭い頑固おやじみたいで欝陶しかった。しかし、片桐の言ったくだらん理由というのは、またもや的中していた。
 僕がアルコールを一滴も喉を通さないことにした理由は、まず、十代の頃、興味本位で口にしたアルコールの味が不味かった。僕には、不味いものを無理して飲まなくてはいけない理由は何もなかったのだ。
 つぎに、「酔う」という状態が嫌だった。常に自分の意識をしっかり持って素面でいたかったし、何らかの物質の力を借りて自分自身を高揚させるということにまったく魅力を感じなかった。
 ここでひとつ。アルコールを飲まない僕にとって、いつも不思議に感じることがある。それは、世の中にはアルコールをいくら飲んでも、ぜったいに酔わないということを、殊更、誇りにしている人々がいることだ。あれは実に妙な話しである。
 ちなみにこの場合の「酔う」という状態は、「酵母」と呼ばれる特殊な微生物が糖分を分解して生み出す発酵物質、すなわちアルコールが大脳皮質に対して及ぼす一種の麻酔作用だが、我々人間はこの毒物に初めて接した太古の時代から、この毒物のもたらす「酔う」という状態に魅了され続けてきたのだ。ビアズも『悪魔の辞典』の中で、酒の神バッカスについて、あれは「古代人がへべれけになる口実としてでっちあげた重宝な神」だと言っている。いくら飲んでも酔わないのなら、それは誇りどころか非常に効率の悪い体をしているということで、酔わないのであればアルコールでなくとも、アルコール味の清涼飲料水でいいわけだ。
 そして、これが僕がアルコールを一滴も喉を通さないことにした最大の、いや、どうでもいい理由なのか。アルコールが飲めて一人前だという日本の風潮がどうしても癪に障った。じゃあ僕は一生アルコールを飲まないで半人前のまま人生を終えよう。そう思ったのだ。そんな、なんとも理由にならないような理由から、僕はアルコールを一生、喉を通さないでおこうと決めたのだ。
 もちろん今となっては、ちゃんと料理を味わうにはアルコールは必要だと思う。西欧料理の前菜にしても、日本料理の八寸や向付にしても、それらはアルコールと共に供する前提で作られている。だが僕にとってアルコールは、人間としてどうしても摂取しなくてはいけない物質ではない。たかがアルコール。単なる、数ある嗜好品のひとつだ。
「まったくお前は、そういう所がバカだっつうんだよ。そんな杓子定規に人生が送れるかよ。じゃあ何か?お前は会社勤めして、接待とかあっても、ウーロン茶飲んでるのかよ。社会っつうのは、そんな簡単なもんじゃないぜ」
 片桐の言うことは、だぶん正しいのだろうと思った。

 実は僕が生まれて初めて入った大人が酒を飲む店というのは、片桐が働くこの店だったのだ。その時も片桐が突然、給料が出たから俺の店に連れてってやると言い出し連れてってくれたのだ。その時の光景は、今でもはっきりと憶えている。
 まだまだ残暑の厳しい、九月の夕刻。小さな窓から低く差し込む気怠い夕日は、なぐり書きされた品書きが乱雑に貼られた店の奥の壁を赤い暮色に染め、身を寄せ合うように並んだ小さなテーブルは、仕事帰りのサラリーマンたちの白いワイシャツの背中でほぼ満席だった。ネクタイを緩め、プツプツと小さな水滴のついた大きなジョッキからコクコクとビールを喉に流し込み、枝豆の皮や焼き鳥の串がテーブルの皿の上に散乱していた。
 そんな光景を見て僕は、ああ、こういう人々が日本を背負って立ってるんだなと、えらく感動してしまったことを記憶している。そしてその中で、馴染みの客らしきサラリーマンと話しをしていた片桐の姿は、自分とは明らかに違う確かに大人の男であり、その時ふと僕は、彼には太刀打ちできないなと密かに思ったのだ。
 しかし、そうは思いつつも、結局、主義を撤回する納得のいく理由がみつからないまま、僕は今でもアルコールは一滴も喉を通していない。
「まあ、お前の筋金入りの融通のきかねえ性格も、そこまでくりぁ表彰状もんだぜ」
 片桐は、いつの間に注文したのか、テーブルに運ばれてきたおにぎりを頬張り始め、眉間にシワをよせながらジョッキの底に残ったビールをクイッと飲み干し、喉に流し込んだ。

 もちろん、チャルンクルン通りを歩きながら、何度、引き返そうと思ったかしれない。だが、突然、引き返す納得のいく理由もみつからなかったし、たとえ引き返したとしても、一夜明けると、再びここを歩いている自分の姿も容易に想像できた。また、ふと大学の友人たちが慣れない仕事に齷齪している光景が脳裏を横切り、それとこれと比べようもないものの、僕もせめてこれくらいの苦労はしなくてはなどという妙な気負いが、重い足を前に進めていたのである。

 そして、遂にチャルンクルン通りは終わった。
 それはハンカチにたまった汗を何度も絞り、喉がカラカラに渇き、一瞬、目眩がしそうなったその時だった。歩道の脇の屋台に、今までにはなかったエビやイカといった新鮮な海産物がバナナの葉の上で潤い輝いているのを発見し、これは遂に海までやってきたんだと、ここまで歩き続けた自分のことを少し誇らしく思うと同時に、チャルンクルン通りが、ついに間も無く目前に広がっているだろう大海の岸で終わるんだという感動で満たされた。
 しかし、これはまったくの勘違いで、たまたまその屋台に海産物が並んでいたというだけの事だった。この事実に気付いたのは、そこからまた相変わらず代わり映えのしない炎天下の通りを気が遠くなるほど歩き続けた先のことで、少し絶望もし、もう半ば何もかもどうでもいいやなどとと思いつつ、そのまま黙々と歩き続けた。

 ところがチャルンクルン通りは、本当に突然、終わったのだ。
 アスファルトから立ち上る陽炎が、脳味噌までをもユラユラと揺さぶり始めた頃、ふと、流れ落ちる汗でかすんだ視界の彼方に、辺りを薄暗くするほどに生い繁る大木が立ちはだかっているのが見えた。チャルンクルン通りは、その大木の下で、突然、終わっていた。それを目にした途端、何だか急に気がぬけた。
 僕は吸い込まれるように、その涼しい陰を落とす大木の下に腰を下ろた。熱射で灼かれ火照った脳細胞は、考える機能を一時休止しており、僕はしばらく木陰の中で呆然としていた。
 どれくらい、そうしていたのか。脳細胞の火照りが少し冷め、改めて辺りを見渡してみると、まわりには随分とざっくばらんとした家が木を取り囲むように建ち並んでいた。その中の一軒は、よく見ると入り口から奥へ少し大きな廊下が伸びていて、入り口にはなんとも暇そうな老人が2人、半ズボンにランニングシャツといった格好で、椅子に腰掛け長い午後の昼寝をむさぼっていた。
 その時、僕はふと廊下の奥が少し明るいことに気付いた。足音を忍ばせ、老人たちの昼寝を妨害しないよう静かに入り口の前に回ってみると、突然、廊下の奥から吹き込んできた涼風に、汗ばんだ額を打たれ、ハッとした。

 河だった。廊下の薄暗い闇に区画された四角い枠の中に、熱帯の大河が、ようやく傾き始めた日差しにキラキラと光り輝き、静かに波打っていた。
 この建物は、たぶん船の渡し場なのだろう。チャルンクルン通りは、確かにここで終わり、この河を行き来する一艚の渡し船によって、また対岸のどこかの道につながっているのだ。僕は、なんだか嬉しくなった。そして、ゲラゲラと笑った。それは、大きな発見をして嬉しくなったからでも、またあまりにもあっけない顛末に笑ったのでもなく、訳もわからず、意味もなく、ごく自然に、ただ笑えたのだ。

 この後は、今まで歩いてきた炎天下の、地獄のような道程だけが待っていた。僕は、またあいもかわらず黙々と、ホテル目指し歩き始めた。

 乗り物には、決して乗らない。それは別段、高尚な主義などではなくて、実は乗り物に乗るのが怖かったのである。
 当時は今のような懇切丁寧なガイドブックもなくて、それだけに未知なるものへの不安というものが山のようにあった訳だが、それに輪をかけて、世間に流布していた「東南アジア」という地帯のイメージというものがひどく悪く、不安の山は一際高く聳えたっていた。
 もちろん「バンコク」という地名の響きも、天使の都などという煌びやかなものでは決してなくて、まさに悪の跳梁する怪しい都だったのだ。乗り物に乗せられたが最後、何だか暗黒の魔の巣窟に連れ去られてしまいそうな、そんなウブで堅実な臆病さに守られながら、僕は乗り物には見向きもせず黙々と歩き続けたのである。
 だが一度だけ、乗り物に乗ったことがあった。チャオプラヤ河を渡し船で、対岸のトンブリーへ渡ったのだ。それは、終点の対岸がもう目の前に見えているという安心感と、ささやかな冒険心に後押しされたのである。

 バンコクの、熱帯の喧騒を飲み込み、街中をゆるやかに蛇行し流れゆく大河チャオプラヤ。新都バンコクの街はこのチャオプラヤ河河口の西岸に、そして旧都トンブリーの街は東岸に広がり、この2つの街は、河に架かる幾本かの橋によって結ばれている。しかし橋の間隔はかなり広く、実質的に両岸に暮らす人々を結んでいるのは、日の出から日没まで、河面をひっきりなしに行き来している渡し船である。僕がこの河を渡ったのは、パドゥンクルンカセム運河がチャオプラヤに流れこむ辺りにあった、小さな船着場からだった。
 あの日は、チュラロンコン大学の前を走るパヤタイ通りからシープラヤー通りに入り、そのままチャオプラヤの河岸の船着場へ行くつもりで歩いていた。パヤタイ通りの辺りは、広い大学のキャンパスに繁る緑が幾分か浄化作用に加担しているものの、走り去る大量の車が吐き出す排気ガスによって、すこぶる空気が悪い。額に流れ落ちる汗までもが、なんだか黒ずんできたような気さえして、僕は足早にシープラヤー通りを目指した。

「ワタシ、トモダチ、イナイノ」
「なに?」
 パヤタイ通りがラーマ四世通りと交差し、やがて通りの名をシープラヤー通りと変えようとしている辺りで、前を歩いていた短いスカートをから惜し気もなく足を曝し歩いている女を追い越したその瞬間、妙な言葉が追い掛けてきた。しかも、確かに日本語である。こんな所で気やすく日本語で話し掛けてくるとは、いったいどこのどいつだと振り返ってみると、彼女が絡み付くような笑顔で佇んでいた。
 歳はたぶん僕よりも若いだろう。だが化粧は、大学の同級生の女友達の誰よりも濃かった。僕は一瞬にして、彼女が特殊なものを商う女に違いないと思った。目が合うと、彼女の笑顔はますます粘着力を増し、僕は一瞬ブルッと身震いし、突発的に、みっともなくない程度のありったけの速さで歩き、逃げた。
 当時の東南アジア、特にバンコクという地は、マニラと並ぶ売春のメッカで「オヤジたちがツアーを組んでよろしくやりに行く所」というイメージが世間に流布していて、女の子が一人でバンコクへ行くなどと聞くと、またどうして?何をしに?という疑問がごく普通に沸き立つ時代でもあった。
 そして、学校の歴史の教科書でも、ほとんど西欧の植民地と化した弱小な国々としてしか出でこない当時の東南アジア諸国についてのイメージは、恐ろしく低級なものだった。また、西欧文明の生み出した経済指数という尺度で、すべての国の等級を決定するという序列体制は、この頃すでに確固として存在しており、東南アジア諸国のようなその指数の低い国々には、まさに文化もないなどというような見下した意識をを、何の疑問も持たずに頭の中に据えている人々も多かった。
 僕はそういうやつらに、かなり腹を立てていた。しかしここで、売春婦と甘い文化交流を交わそうなどという思いはさらさらなくて、「ワタシ、トモダチ、イナイノ」って、やっぱりそういう意味だよなと、彼女の言葉を頭の中で幾度も再生しながら、後ろを振り返ると彼女が「意気地なし」なんて僕のことを笑っているんじゃないかと少し気にしつつ、猛烈に歩き続けた。

 船着場は、大きなホテルの脇の河岸に、古いカイツブリの巣のように浮いていた。ホテルの立派な外観と比べ、船着場は実に簡単な、粗末な材で組み立てられていて、そこに集まる、ホテルのフロントを出入りする人々とはあまりにも対照的な、慎ましい人々の列に続いて、僕は船着場の橋桁に進んだ。
 乗り物に乗るという初めての経験で、僕は少しドギドキしながら、人込みの後ろから背伸びして、確かに終点である向こう岸がここから見えていることを確認し、なんとか気持ちを落ち着かせた。だが、こんなたかが船で向こう岸に渡るくらいのことでドキドキしている自分のことが、何とも我ながら情けなくなった。
 まあ何事も、命あっての物種だ。さわらぬ神にたたりなし。などと突然、訳もなくひらめいた古臭い言葉を復唱しつつ、いよいよ橋桁に着いた渡し船に押し込められるようにドッと乗り込んだ。

 渡し船は、平坦な広い船底に、何本かの支柱によって支えられた屋根が取り付けられていて、至極シンプルで、涼しく爽快な乗り物だった。バリバリとエンジン音を辺りに轟かせ岸を離れると、ユラユラと河のうねりに合わせ揺れる様がまた心地いい。
 バンコクは、なんでも東洋のベニスなどと呼ばれているらしいが、決してそんな上等なものではないにしても、赤茶けた広い河面には様々な種の船が波をぬって行き交っていて、エキゾチシズム漂う熱帯デルタの真昼は眩しかった。
 その時である。鼻をつく甘い匂いに、何気なく横を振り向いた途端、ギョッとした。隣に立つ、深いシワの彫り込まれた浅黒いおやじの顔の奥に、さきほど猛スピードで歩き振り切ったはずの女のダッチワイフのような顔がこちらを向いて笑っている。
「やばい」
 そう思ったところで、こうなってしまったからには、もうこの事実を受け入れるしかない。まさかこの込みあった小さな船の中で逃げる回ることもできまい。僕はつとめて平静を装って、ひたすら遥か前方に視線を突き刺していた。
 すると、船が少し大きく揺れた拍子に、なんと彼女は隣のおやじと入れ代わり、化粧品が詰まった引き出しを引っ繰り返ったような、淫靡で甘ったるい匂いが顔面にまとわりついた。一瞬、心臓がドッキンと脈打つ。
 慌てて、こいつはもしかすると本当に友達を探しているだけで、まだ若いから化粧の仕方がわからなくて、とうとうあんな淫乱な顔になってしまっただけなのかもしれない、など自分を安心させようとあれやこれやと思いめぐらせていると、直立不動している僕の腕に、薄絹のような女の肌が絡まってきた。
「ひっ」
 一気に脳天と背中と腋の毛穴から沸騰した汗がドロリと噴き出し、体中の血管に伝い出した心臓の鼓動が、けたたましい船のエンジン音をかき消し鼓膜にグワングワンと響き、頭の中が一瞬にしてパッと真っ白になった。そして次の瞬間、僕の真っ白になっな頭の中に、大きなダッチワイフの顔がモワモワと浮かび上がり、素裸にひん剥かれた僕が手足をバタバタさせながら、濡れたバラ色の唇に吸い込まれようとしている。体が、河の波のうねりとは無関係に、大きく揺れ出した。

 と突然、ゴトンと船に大きな振動が走ったかと思うと、一斉に湧き立った船底を打つたくさんの靴音と同時に、グイグイと体が押し出され、あれよあれよと言う間に僕は橋桁の脇に一人残されていた。
 何だか、夢を見ていたようで、急いでまわりを見回し短いスカートを探してみたが、どこにも見当らない。辺りは、いつもながらの平然とした日常が、眩しい日差しに包み込まれている。その時ふと何気なく彼女の肌が触れていた腕を見ると、朱い、絹糸のようなか細く長い髪の毛が一本、汗で貼り付いていた。
 僕はその髪の毛を摘み、橋桁に渡る河風に吹き飛ばすと、訳のわからない溜め息が一つ体の底から洩れ、急に、自分がどうしようもなくちっぽけな男に思え、少し落ち込んだ。
 このチャオプラヤの河幅が、こんなにも狭いことに気付いたのは、トンブリーを歩き疲れ、帰りの船に乗り込んだ時だった。

 歩いた道は、地図にボールペンで印をつけた。今日は昨日歩かなかった道を歩き、明日は今日歩かなかった道を歩く。もちろんこれは、何かの偉業を成し遂げようなどという野心からではなく、ただ、立ち止まることが恐かっただけなのだ。もしも、この歩くことすらやめてしえば、僕にはもう何も残されていない。その瞬間に、無価値で無能な自分自身を、いやというほど思い知らされそうな気がしていた。それが、たまらなく怖かったのだ。

 毎日が、戸惑いを覚える余裕もなく、目まぐるしい速度で過ぎ去った。日が経つにしたがって、灼けたアスファルトで靴の踵がすり減り、出国当時は真っ白だったTシャツも次第に土埃で薄汚れ、そして、地図が汗とボールペンの書き込みでボロボロになっていった。
 そんなある日の夕刻、僕は突然のスコールにずぶ濡れになった。あれは、ニューロードをオリエンタルあたりから歩き始め、ちょうど中央郵便局を通り過ぎたあたりだった。
 気温の急上昇とともに、空気が煮えた蜜蝋のような粘り気のある水蒸気を帯びた、うだるように暑く気怠い夕刻。僕は一日を歩き疲れ、肌にはりつく汗と土埃を拭いながら、ホテルのあるチャイナタウンへ向かっていた。   
 そして小さな路地の交差する手前で立ち止まり、何気なく空を見上げると、対岸のトンブリーあたりの空の色が少し重くなった。すると、上空はみるみるうちにかき曇り、突然、熱帯の大粒の雨が音を立て地を打ち始めた。 
 道ゆく人々はいっせいに、クモの子を散らしたように廂を求めて走り出し、アスファルトの上に落ちた雨粒は、地にしみ込むことも運河へ流れ込むこともかなわず、行き場をなくしたまま渦を巻き、くぼみを求めゴウゴウと流れ出した。
 僕は、あまりの突然の異変に狼狽え、モタモタしている内に出遅れてしまった。駆出した時には、わずかな廂はすでに人で溢れ、ようやくビルの戸口に逃げ込んだ時には、もう頭からずぶ濡れになっていた。
 大粒の雨は、依然として衰える気配はなく、不安に駆られ通りの向こうへ目をやった瞬間、天と地が一瞬にして眩い閃光によってつながり、地を揺るがす轟音が体を貫いた。
 そのけたたましい雷鳴に飛び上がり、息をのんだ途端に、体がガクガクと震え出した。落雷の轟音のせいか。濡れて体に貼りついた冷たいTシャツのせいか。心細かった。何が何だかわからないが、とにかく無性に心細かった。ここまでグラグラしながらも、かろうじて持ちこたえていた突っかい棒が、突然ゴトリはずれてしまったように。

 そんな心細さに押し潰されそうになりながら、震える体を両手で抱きかかえ、ボタボタと顔に跳ね返る冷たい雨粒に目を細め、熱帯の自然の強大さにただ愕然と見入っていると、何だか、この見知らぬ街の片隅で、ひとり雨に濡れガタガタと震えている自分のことが、急にバカバカしくなった。
 その時、僕はふと、日本へ帰る時が来たんだなと気付いた。もちろん、僕の掌の中には依然として何もなく、スコールでずぶ濡れになった地図にも、まだまだ多くの空白が残ってはいた。しかし、僕は満足していた。
 何が何だか自分でもわからないままに、来る日も来る日もあてもなく歩き続け、卒業式の帰りに片桐の言った「お前はバカだ」ということが、ようやくここで、わかったような気がしたのだ。
 小さな敗北。だがこの小さな敗北は、ようやく踏み出せた、これからの人生への輝かしい小さな一歩のように思えた。
 見上げると、スコールは心なしか勢いをおとし、路上の雨水も路肩に跳ね返りながら、狭い測候の隙間に流れ始め、やがて向こう岸の家屋の上空あたりには、微かに夕刻の光りが差し始めた。

 日本を出て、そろそろ1ヵ月が経とうとしていた。


2013/11/02

伝達



















2013年。今年は写真家ロバート・キャパ生誕100年の年だそうだ。

ロバート・キャパは1913年、ハンガリーのブタペストで洋服店を営んでいたユダヤ人夫婦の次男として生まれた。本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。ちなみに「ロバート・キャパ」というアメリカ的な洒落た名前は、写真を高値で売り込むために考え出された架空の名前だったらしい。ようするに撮影した写真を、ハンガリーのユダヤ人写真家ではなく、ジャーナリズムの最先端をゆくアメリカ人写真家が撮影した写真だと偽り、新聞社や雑誌社に高値で売り込んだのだ。

キャパは今も報道写真家たちの偉大なるヒーローとして存在し続けている。

しかしこういった報道写真、特に戦場や紛争地帯で撮影された写真は、時に賛否の論争を巻き起こしている。1994年、ピュリツァー賞を受賞した『ハゲワシと少女』もその1枚だ。撮影したのはケビン・カーター。撮影場所はアフリカのスーダンだった。当時スーダンは、1956年にイギリスから独立して以来たえず内線が続いていて、それがこの地を繰り返し脅かしているひどい旱魃と相まって食糧は底をつき、人々は深刻な飢餓状態におちいっていた。そこへケビンが特ダネを求めてやって来たのだ。

そしてケビンに幸運はやってきた。それはある配給所近くの薮の中だった。配給でもらえるわずかな食糧を求めてやってきた幼い少女が、配給所を目前にして力つき今まさに餓死しようとしていたのだ。もちろん、そんな餓死しようとしている少女の姿だけではもはや珍しくもなく、特ダネとしての価値はない。だが彼女の背後にはハゲワシの姿が迫っていたのだ。

ハゲワシは屍肉を喰らう生き物だ。ようするにハゲワシは、地にうずくまり今まさに餓死しようとしている幼い少女が息絶えるのを、背後に忍び寄り待っていたのだ。またとない運命の瞬間だった。ケビンはその瞬間シャッターを切り続けた。おそらく彼はシャッターを切りながら「いい写真を撮った」という確かな手応えを感じていたに違いない。

そして実際、この写真は「いい写真」だったのだ。この写真がニューヨークタイムズに掲載されるやいなや、世界中の新聞の紙面を飾る事になり、1994年、見事ピュリツァー賞の栄誉に輝いた。彼はニューヨークでの授賞式で、参列した多くの人々から賞讃され、祝福され、そして最も権威のある賞を獲得した有名写真家となったのだ。

しかしその後、そういった賞讃の声とともに、彼の倫理観を問う非難の声が上がり始める。ハゲワシに喰われようとしている子供を救うよりも、お前はシャッターを切ることを優先したのか?

その批判に対して、撮影の現場にいた彼の友人ジョアォン・シルバは、彼はシャッターを切った後ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり配給所へと歩き出したと彼を擁護する証言をしているが、カーターが子供を救うよりもシャッターを切ることを優先したという事実は変わらないし、もし、たまたまハゲワシの前で一瞬うずくまり歩き始めた少女の写真を、餓死しようとする少女をハゲワシが狙っている写真として報道したとすれば、それはまた彼のジャーナリストとしての適性そのものを疑わざるを得ない。

報道は、とても大切な行為だ。それは疑う余地のないことだし、僕も否定はしない。そして世間は、ありきたりな平凡な報道よりも、刺激的な報道を求めている。残念ながらそれも大筋では間違っていないだろう。だからそれを発信するメディア側も、営利活動によって維持されている以上、より刺激的な報道を写真家たちに求める。

そして彼ら写真家ちたも、写真で食べている以上、世間が、そしてメディアが求めている「売れる写真」を撮らなくてはいけない。また、権威ある賞を受賞して有名になれば、写真は格段に高く売れるようになる。彼らがそれを望むのは、至極当然のことだ。彼らはカルカッタの雑踏の中にひとり足を踏み入れたマザーテレサではないのだから。

こういったプレッシャーが、時として写真家たちを「偽装」という悪事に手を染めさせることにもなり、残念なことにこの問題に関してはキャパも例外ではなかったのだ。「ロバート・キャパ」という名前を世界に知らしめ報道写真家としての確固たる地位を築くきっかけとなった、キャパの最も有名な写真、1936年にスペイン内線において撮影された「崩れ落ちる兵士」と題された1枚の写真がそうだ。

これは戦場で頭を撃ち抜かれて今まさに倒れようとしている若い兵士を撮影したものだが、この写真が世界のメディアで取り上げられ有名になると、これは兵士に演技をさせて撮影した写真だとか、ただ兵士が足を滑らせて倒れる瞬間を撮影した写真にすぎないといった、数々の疑惑が持ち上がったのだ。

キャパは、撮影した写真の詳細なデータを公表しないことでも有名で、この「崩れ落ちる兵士」の偽造疑惑に関しても、多くを語らず言葉を濁している。そしてキャパの死後、遺品の中から発見された、その「崩れ落ちる兵士」と同じ日に同じ場所で撮影されたと思われる43枚の写真の出現によって、この疑惑はさらに深まることになった。

その43枚の写真には、「崩れ落ちる兵士」に写っている兵士と同一人物だと思われる若い兵士が、仲間たちと一緒に笑いながら撃たれて倒れるポーズをとっている写真が含まれていたのだ。そして写真に写っている背景を分析した所、その撮影場所も内線の行われていた戦場ですらないという結果が出されている。

もしこれがこの写真の真相だとすると、キャパはスペインに内線の取材に赴き、戦地から離れた郊外の丘陵で、若い兵士たちに撃たれて倒れるポーズをとらせて写真を撮影し、それをスペイン内戦の報道写真として売り込んだことになる。そしてこの写真によって、「ロバート・キャパ」という名前が世界のメディアを駆け巡り、彼は最も有名な報道写真家として華々しい活躍を開始することになったのだ。

とにかくスーダンでの『ハゲワシと少女』の撮影の真相は、ケビン・カーター自身と、彼の友人シルバの2人だけが知りえることだが、やがてこの写真をきっかけに「報道か人命か」という論争が巻き起こることになるのだ。

ところで、こういった過激な報道写真の賛否の論争に対してよく耳にする、「写真に撮ることで彼らを救いたかった」などという、愛に裏付けられた熱い使命感がその写真を撮らせたのだという写真家たちの発言は、はたして彼らの本心なのだろうか?

もしそれが写真家たちの本心だったとして、たとえば東日本大震災の際、今まさに僕の愛する我が子が冷たい波にのみ込まれようとしているその瞬間を、手を差し伸べ救助することもなくカメラのシャッターを切り続けている写真家がいたとしたら。そして、その我が子が死ぬ瞬間の写真が優れた報道写真として絶賛され、華やかな授賞式で大勢の来賓者の熱烈な拍手をあびながら満面の笑みをたたえてトロフィーと賞金を手にする写真家の姿を目にしたとしたら。

僕は迷わずツバを吐きかけてやるだろう。あなたが我が子を撮影してくれたおかげで、地震の悲惨さを世界に知らせることができました。どうもありがとう。などと感謝する心の広さを僕は持ち合わせていないし、また同様に、彼の受賞に対して拍手をした人々の倫理観をも疑う。

僕はいつも思うのだが、こういった報道、少なくとも個別の事件に対する写真や映像を媒体とする報道に対して、その優劣を云々し賞与の対象にする必要性があるのだろうか?

それはカメラの前で役者が演じている映画やドラマではなく、多くの場合そこに写し出されているのは、人間のたえがたい苦悩や苦痛、そして血まみれの遺体なのだ。そのゾッとする事実を、我々は忘れてはいないか?僕は、そんな写真や映像に対して優劣を云々し賞与の対象にすることは非常識だと思うし、まさに人倫に悖る行いだと思う。

報道にとって大切なのは、誰がそれを撮影したのかということではなくて、そこで何が行われていたかという事実だ。そしてそれを、それ以上でも、それ以下でもなく、正しく伝えること。それが報道のあるべき姿であり、もとよりそこに「インパクト」や「芸術性」など必要としていないのだ。

ジャーナリズムが、そんなものを追い求めていると、本来の役目を見失い、どんどんと霧の中に迷い込んでしまうだろう。

2011/04/01

清濁




 寄生虫博士として有名な藤田紘一郎先生によると、清潔は病気なのだそうだ。

 現代のわが国日本は、異常なまでの、徹底した清潔な状態に保たれていて、我々の体はこの世に存在する数多くの細菌や病原体といった外敵と、極力、接することなく暮らしている。しかしそれが結果として、我々の体の外敵に打ち勝つ力、すなわち免疫力を著しく低下させ、花粉症やアトピー性皮膚炎、ぜんそくなどといったアレルギー性疾患を引き起こしてるのだそうだ。

 こういった潔癖さは、言語にも現れている。

 抗菌グッズ、消臭グッズが街中にあふれ、とにかく他人に不快感をあたえないよう抗菌、消臭に努め、徹底した清潔な状態に我が身を保つことに日々エネルギーを費やしている我々日本人。そんな状況の中、我々に不快感をあたえないよう、テレビを始めとするメディアが「におい」という言葉を使わなくなっている。

「炊きたてのご飯のいいかおりが食欲をそそりますね」

「もうお店の外にまでラーメンのいいかおりがします」

 残念ながら僕は、「ご飯のいいかおり」にも、「ラーメンのいいかおり」にも、まったく食欲を感じない。逆にこういったものに「かおり」などという言葉を使われると、どこか不味そうなイメージさえ抱く。やはりご飯もラーメンも、僕が食欲をそそるのは「いいにおい」だ。

 確かに「におい」という言葉は、「匂い」と「臭い」という相反する2つの臭覚を表現できる言葉だ。だが「炊きたてのご飯のにおい」という言葉を聞いて、悪臭に満ちた、吐き気をもよおすような汚物にまみれたご飯を連想するほど、我々日本人の思考レベルは低下しているのだろうか?

 むしろ、社会を徹底した清潔な状態に保つことに努めてきたがゆえに、現代病とでも言うべき数々のアレルギー性疾患を蔓延させてしまったことと同じくして、こういったメディアの、視聴者に不快感を抱かせないよう本来の日本語の文法を変えてまでも行うバカげた気配りによって、我々日本人の思考レベルはどんどん低下していくのかもしれない。

 そしてこれはまた「匂い」という、わが国に脈々と受け継がれて来た、世界的に見てもたぐいまれな、ひとつの重要な美学が滅びようとしているということだ。あの『源氏物語』宇治十帖のヒーロー匂宮は、やがて汚物にまみれた悪臭を放つプリンスと化してしまうのか……。

 無臭。もしくは何か臭気を感じるものはと言えば、香水や整髪料、芳香剤や柔軟仕上げ剤の「かおり」、花の「かおり」、また炊きたてのご飯や料理の「かおり」だけ。そしてもちろん、不快な連想に結びつく「におい」のような言葉は、いっさい口にしないし、いっさい耳にもしない。こんな、心地よいものだけに囲まれた異常で不気味な日常生活を送っているわが国日本の子供たちは、いったいどんな大人に育っていくのだろうか?

 ひとつ忘れてはならないことは、それがたとえ不快なものであっても、我々生物の発する「におい」には、すべて何らかの意味があるということだ。寄生虫博士は、その著書『清潔はビョーキだ』(朝日新聞社)の中で、こんなことを言ってる。

〈人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは「人間が生き物」であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人の体臭も嫌うようになる。その結果、老人や病人と自然につき合うことができなくなっていくだろう〉