2017/12/31

廿年


















『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。20年という年月が流れ、今ようやくその流れ去った年月を振り返ってみる、ふとそんな時がやってきたような気がしたのだ。

20年前のその出来事は、確かに僕にとってひとつの事件だった。そしてその事件はまた、僕にとってとてつもないストレスを抱え込む生活の始まりでもあったのだ。これは初版の後記にも書いたが、そもそもあの原稿は、誰かに読ませるつもりでも、まして出版するなどということは一瞬たりとも脳裏を過ぎったこともなく、ごく私的に書き続けていた原稿だったので、それが出版されると決まった瞬間から、「はたしてこんなものを出版してもいいのか?」という自問が、ずっと僕の胸に重くのしかかっていた。

それは「しなかった」のか?それとも「できなかった」のか?僕には定かなことはわからないが、僕の知る限り、永平寺で修行した雲水がその修行の実態を綴った本は、これまで出版されたことはなかった。そんな状況の中で、あえて僕が永平寺の修行記を出版することは、やはりいろいろな意味で重いものがあった。

もし、こういった内容の本を出版する場合は、出版後のトラブルを回避するために、事前に永平寺側に原稿を送り承認を受けるのが常道なのかもしれない。しかし僕はそれをしなかった。もし僕が事前に永平寺側に原稿を送っていたら、当然、永平寺側からの修正が入り、「御仏の慈悲に抱かれた」的な、まったく違った本になっていただろう。これに関しては、出版元である新潮社もそうなることは望んではいなかった。

しかし僕はあの本を、俗にいう「暴露本」として出版したつもりはない。これは今でも「そうだ!」と胸をはって言えるし、実際、僕は永平寺の一年の出来事を、すべて肯定するという立ち位置で原稿を書き続けていた。それは、出版して以来、指摘されることの多かった「暴力」という問題に関してもだ。

当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたんだと僕は思う。これは宗教の、特に禅という狭い世界に限ったことではなくて、広く「伝統」と呼ばれる世界、能や歌舞伎、舞踊に音曲、相撲といった芸能や、絵画や彫刻、工芸といった芸術にいたっても、至らない弟子を師匠が殴り教え込むといった方法が、かつてはごく普通に行われていたと思う。それを「暴力」という虐待行為だとして非難し始めたのは、ごく近年のことだ。

辞書で「暴力」という言葉を調べてみると、「乱暴な力・行為」「不当に使う腕力」「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」などと書かれている。

僕はそれに関して本の中にも少し書いたが、「暴力」というものを考える上で大切なことは、それを行う際の「目的」だと思う。僕は個人的に、師匠が弟子に何かを教え込む目的で殴ることは今でも「暴力」だとは思っていない。「暴力」とは相手を傷つける目的で殴ることだと思っている。しかし現代社会では、どちらも同じく憎むべき「暴力」なのだそうだ。

こんなことを言うと、頭がおかしいんじゃないかと言われるだろうが、ではボクシングはどうなのか?流血し、失神するまで相手を殴り続けるボクシングは「暴力」ではないのか?「スポーツ」というカテゴリーに属せば、あれも人々から拍手喝采され賞賛される行為となるのか?

では、テレビドラマのシーンとしてよく目にする、恋人に裏切られたかわいそうなヒロインが、恋人の頬をおもいっきり平手打ちするのは「暴力」ではないのか?なぜ我々はそれを憎むべき「暴力」だとして彼女を非難し、裏切ったために平手打ちされた恋人を虐待された被害者だとして同情しないのか?そう考え始めると、「暴力」というものがいったい何なのか僕は分からなくなってくる。

永平寺の話をしよう。永平寺の開祖は道元。悟りを求め中国へ渡った彼が辿り着いたのは、如浄という禅師のもとだった。道元はそこで悟りをえることになるのだが、彼が悟りを得た瞬間とはこうだ。道元はその日も他の修行僧たちとともに僧堂で坐禅に専念していた。すると隣で坐禅をしていた僧が居眠りをし始めた。それに気づいた、堂内を見回っていた師・如浄は、自分の履いていた草履をぬぎ、居眠りをしている僧の頭を思いっきりぶん殴った。その、堂内に響き渡った音を聞いた瞬間、道元は見事に悟りをえたのである。

これがもし。人を殴ることは、いかなる理由であっても許されるません。人を殴るのは恥ずべき行為なので、私はもちろん言葉で伝えます。などと如浄は思い、居眠りをしている僧の耳元で、「君、君、居眠りをするのは良くありませんね。今は坐禅の時間ですよ。さあ目を覚まして、ちゃんと坐禅をしましょう」などと優しく話して聞かせていたとしたら。道元は、とうとう悟りを得ることなく日本に帰国することになってしまったかもしれない。すると、永平寺もこの世には存在していなかっただろう。とにかく、当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたのだ。

こうして『食う寝る坐る永平寺修行記』は、事前に永平寺側に許可をえることなく出版されることになったわけだが、礼儀として、手元に本が届いた時点で、永平寺でお世話になった老師諸氏へ献本した。その反応は意外にもとても好意的なもので、お祝いの手紙をいただき、そして永平寺の機関紙まで『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されたという記事を掲載してくれたのだ。

しかし、永平寺内には僕の出版を快く思っていない人がいたのも事実だった。たとえば彼は、永平寺内でかなりの発言権のある立場にいた古参で、彼は『食う寝る坐る永平寺修行記』について質問されると、あれは僕が書いたものではなくて、僕の話をもとにして出版社の編集が書いたものだと説明していたらしい。だから実際『食う寝る坐る永平寺修行記』はゴーストライターが書いたんだと思っている読者もいるのだ。彼は当時から執筆活動をすることを目指していたようだ。僕の安居中にも幾度か永平寺の機関紙に原稿を掲載していた。そこに僕みたいな訳のわからない者が、何のことわりもなく大手出版社から永平寺の本を出版してしまったのてである。快く思わなかったのも無理はないだろう。

いっぽう『食う寝る坐る永平寺修行記』の出版によって、僕のところには雑誌社や新聞社から原稿の依頼が入ってくるようになっていた。だが何か書くと、またどこで誰に何を言われるかわからないと思うと、どうしても書く気にはなれなかった。だから当初はそういう依頼が入ると丁重に断っていたのだが、ある時期から断らずに、永平寺には素晴らしい人がいるので原稿は僕ではなくて彼に依頼すべきだと提案することにした。こういったこともきっかけになったのか、ついに彼の才能が世に知られることになり、彼は気鋭の論説家として出版にテレビ出演にと大活躍するようになった。もしもそんな僕のお節介が、彼の才能を世に知らしめる一翼を担えたんだとしたら、それはとても光栄なことだ。

こうして、なんとか永平寺側からは、非難や抗議の声は上がらなかったものの、やはり心配だったのは世間の反応だった。なにぶんにも、初めて明かされた永平寺の修行の実態なのだ。

本に折り込まれていた図書カードは、出版社で集計した後、著者である僕の所へ送られてきた。かなりの枚数だった。はたしてそこに何が書かれているのか。僕は身の引き締まる思いで1枚1枚読んでいった。その中に「まだまだ修行がたりません」という書き込みと、「表現が素人くさい」という書き込みがあった。これはどちらもまったくその通りだった。僕の永平寺での修行はたったの一年で、しかもそれを書いたのはプロの作家ではなくて素人の僕なのだ。

しかしその2枚以外は、どれもみなとても好意的なものばかりだった。「暴力寺院」だと非難されるかもしれないという懸念も、逆に、永平寺の雲水たちが想像以上に厳しい修行をしていることを知り、改めて永平寺の雲水たちを尊敬せざるにはいられない、といったようなその多くが永平寺の雲水たちへの賛辞だったのだ。

ちなみに、これらの図書カードはすべてコビーし、永平寺へ送っておいた。一応、永平寺側も実名を出されている以上、それを知る権利があるんじゃないかと思ったことと、そうすることがせめてもの礼儀じゃないかと思ったからだ。

ところが、永平寺が『食う寝る坐る永平寺修行記』と、その著者である野々村馨に対するいかなる協力もしないというスタンスは、『食う寝る坐る永平寺修行記』出版後から今日に到ってもまったく変わっていない。

それでもこれまで、幾度か原稿の依頼を受けたことがあったのだが、そのいずれの際も、野々村馨の書いた原稿に永平寺の写真を使用する許可はおりなかった。数年前『食う寝る坐る永平寺修行記』の英語版『Eat Sleep Sit』が出版された際も、やはり永平寺の写真の使用は拒否され、1枚も使えなかった。あの『Eat Sleep Sit』の表紙の写真は、実は永平寺とはまったく関係のない、出版社の編集がどこかから探してきた、縁側で坐禅をする臨済宗の僧侶の写真だ。

だが、これはある意味、無理もないことで、僕には理解できる。『食う寝る坐る永平寺修行記』に、野々村馨に、もし永平寺が協力してしまえば、あの中に書かれていることを永平寺が正式に認めることになってしまう。それは対外的に都合が悪い。特に「人権」というものに対して何かと過敏な現代社会に、悪しきイメージを植え付けてしまう恐れがある。

それに永平寺は、もちろん禅の修行道場なわけだが、同時に僧侶の養成所でもあるのだ。これは本の中にも書いたが、永平寺は全国の宗門の寺から大切な跡取りを預かっているわけで、彼らが殴られたり、空腹に苦しんだり、寒さに凍えたりしては、大切な息子を預けている宗門の寺の親御さんに顔向けができない。

永平寺は、僕が去った後しばらくして、道元の生誕750年という大きな節目の年を迎えた。それに合わせ、永平寺は新しい時代を迎えるために、我々が寒さに凍えたあのいくつかの古い建物を、冷暖房完備の鉄筋コクンリートに建て替えたようだ。もちろん、修行のスタイルも、現代の人権に則したものとなったと聞いた。

その新しくなった冷暖房完備の快適な修行の場を見て、はたして道元はどう思っただろうか?僕は、道元は案外それを見て満足しかもしれないなと思った。道元の著書『正法眼蔵』の「坐禅儀」の中にこんなことが書かれている。

〈坐禅は静処よろしく。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむることなかれ。雨露をもらしむることなかれ〉

〈坐処あたたかなるべし。昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり〉

ようするに、坐禅をするのは静かなところがいい。下に敷くクッションは厚くせよ。風や煙など外気を入れるな。雨露がもれるようなことがあってはならない。そして、坐る場所は心地よくすべきだ。昼も夜も暗くないのがいい。冬は暖かく、夏は涼しい、それこそが坐禅をする理想の環境だと心得よ。と道元は言っている。道元は、滝に打たれ読経したり、雪に埋もれ瞑想したり、そういった難行や苦行を求めていなかった。彼が求めていたのは、ただひたすら壁に向かって坐ることだったのだ。

しかしもし僕が、鉄筋コンクリートに建て替えられた、まさに「新しい」時代の永平寺に安居していたとしたら、おそらく原稿は書いていなかっただろう。寒さ凍え、闇に怯え、差し込む春の陽の光や、灰に埋もれた小さな炭火の暖かさに驚ろき、そして、そんな自然の些細な変化に揺れ動き、移ろいゆく人の心に涙した。僕は心から、今はもう失われてしまった、いい時代の永平寺に安居したんだなと思っている。もちろんこれは僕個人の、ただの「ロマン」の問題だ。

『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。そうなんだ。「あれはすべて過去の話です」と言い切れるだけの、もうそんな年月が流れたんだ……。


2013/11/02

伝達



















2013年。今年は写真家ロバート・キャパ生誕100年の年だそうだ。

ロバート・キャパは1913年、ハンガリーのブタペストで洋服店を営んでいたユダヤ人夫婦の次男として生まれた。本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。ちなみに「ロバート・キャパ」というアメリカ的な洒落た名前は、写真を高値で売り込むために考え出された架空の名前だったらしい。ようするに撮影した写真を、ハンガリーのユダヤ人写真家ではなく、ジャーナリズムの最先端をゆくアメリカ人写真家が撮影した写真だと偽り、新聞社や雑誌社に高値で売り込んだのだ。

キャパは今も報道写真家たちの偉大なるヒーローとして存在し続けている。

しかしこういった報道写真、特に戦場や紛争地帯で撮影された写真は、時に賛否の論争を巻き起こしている。1994年、ピュリツァー賞を受賞した『ハゲワシと少女』もその1枚だ。撮影したのはケビン・カーター。撮影場所はアフリカのスーダンだった。当時スーダンは、1956年にイギリスから独立して以来たえず内線が続いていて、それがこの地を繰り返し脅かしているひどい旱魃と相まって食糧は底をつき、人々は深刻な飢餓状態におちいっていた。そこへケビンが特ダネを求めてやって来たのだ。

そしてケビンに幸運はやってきた。それはある配給所近くの薮の中だった。配給でもらえるわずかな食糧を求めてやってきた幼い少女が、配給所を目前にして力つき今まさに餓死しようとしていたのだ。もちろん、そんな餓死しようとしている少女の姿だけではもはや珍しくもなく、特ダネとしての価値はない。だが彼女の背後にはハゲワシの姿が迫っていたのだ。

ハゲワシは屍肉を喰らう生き物だ。ようするにハゲワシは、地にうずくまり今まさに餓死しようとしている幼い少女が息絶えるのを、背後に忍び寄り待っていたのだ。またとない運命の瞬間だった。ケビンはその瞬間シャッターを切り続けた。おそらく彼はシャッターを切りながら「いい写真を撮った」という確かな手応えを感じていたに違いない。

そして実際、この写真は「いい写真」だったのだ。この写真がニューヨークタイムズに掲載されるやいなや、世界中の新聞の紙面を飾る事になり、1994年、見事ピュリツァー賞の栄誉に輝いた。彼はニューヨークでの授賞式で、参列した多くの人々から賞讃され、祝福され、そして最も権威のある賞を獲得した有名写真家となったのだ。

しかしその後、そういった賞讃の声とともに、彼の倫理観を問う非難の声が上がり始める。ハゲワシに喰われようとしている子供を救うよりも、お前はシャッターを切ることを優先したのか?

その批判に対して、撮影の現場にいた彼の友人ジョアォン・シルバは、彼はシャッターを切った後ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり配給所へと歩き出したと彼を擁護する証言をしているが、カーターが子供を救うよりもシャッターを切ることを優先したという事実は変わらないし、もし、たまたまハゲワシの前で一瞬うずくまり歩き始めた少女の写真を、餓死しようとする少女をハゲワシが狙っている写真として報道したとすれば、それはまた彼のジャーナリストとしての適性そのものを疑わざるを得ない。

報道は、とても大切な行為だ。それは疑う余地のないことだし、僕も否定はしない。そして世間は、ありきたりな平凡な報道よりも、刺激的な報道を求めている。残念ながらそれも大筋では間違っていないだろう。だからそれを発信するメディア側も、営利活動によって維持されている以上、より刺激的な報道を写真家たちに求める。

そして彼ら写真家ちたも、写真で食べている以上、世間が、そしてメディアが求めている「売れる写真」を撮らなくてはいけない。また、権威ある賞を受賞して有名になれば、写真は格段に高く売れるようになる。彼らがそれを望むのは、至極当然のことだ。彼らはカルカッタの雑踏の中にひとり足を踏み入れたマザーテレサではないのだから。

こういったプレッシャーが、時として写真家たちを「偽装」という悪事に手を染めさせることにもなり、残念なことにこの問題に関してはキャパも例外ではなかったのだ。「ロバート・キャパ」という名前を世界に知らしめ報道写真家としての確固たる地位を築くきっかけとなった、キャパの最も有名な写真、1936年にスペイン内線において撮影された「崩れ落ちる兵士」と題された1枚の写真がそうだ。

これは戦場で頭を撃ち抜かれて今まさに倒れようとしている若い兵士を撮影したものだが、この写真が世界のメディアで取り上げられ有名になると、これは兵士に演技をさせて撮影した写真だとか、ただ兵士が足を滑らせて倒れる瞬間を撮影した写真にすぎないといった、数々の疑惑が持ち上がったのだ。

キャパは、撮影した写真の詳細なデータを公表しないことでも有名で、この「崩れ落ちる兵士」の偽造疑惑に関しても、多くを語らず言葉を濁している。そしてキャパの死後、遺品の中から発見された、その「崩れ落ちる兵士」と同じ日に同じ場所で撮影されたと思われる43枚の写真の出現によって、この疑惑はさらに深まることになった。

その43枚の写真には、「崩れ落ちる兵士」に写っている兵士と同一人物だと思われる若い兵士が、仲間たちと一緒に笑いながら撃たれて倒れるポーズをとっている写真が含まれていたのだ。そして写真に写っている背景を分析した所、その撮影場所も内線の行われていた戦場ですらないという結果が出されている。

もしこれがこの写真の真相だとすると、キャパはスペインに内線の取材に赴き、戦地から離れた郊外の丘陵で、若い兵士たちに撃たれて倒れるポーズをとらせて写真を撮影し、それをスペイン内戦の報道写真として売り込んだことになる。そしてこの写真によって、「ロバート・キャパ」という名前が世界のメディアを駆け巡り、彼は最も有名な報道写真家として華々しい活躍を開始することになったのだ。

とにかくスーダンでの『ハゲワシと少女』の撮影の真相は、ケビン・カーター自身と、彼の友人シルバの2人だけが知りえることだが、やがてこの写真をきっかけに「報道か人命か」という論争が巻き起こることになるのだ。

ところで、こういった過激な報道写真の賛否の論争に対してよく耳にする、「写真に撮ることで彼らを救いたかった」などという、愛に裏付けられた熱い使命感がその写真を撮らせたのだという写真家たちの発言は、はたして彼らの本心なのだろうか?

もしそれが写真家たちの本心だったとして、たとえば東日本大震災の際、今まさに僕の愛する我が子が冷たい波にのみ込まれようとしているその瞬間を、手を差し伸べ救助することもなくカメラのシャッターを切り続けている写真家がいたとしたら。そして、その我が子が死ぬ瞬間の写真が優れた報道写真として絶賛され、華やかな授賞式で大勢の来賓者の熱烈な拍手をあびながら満面の笑みをたたえてトロフィーと賞金を手にする写真家の姿を目にしたとしたら。

僕は迷わずツバを吐きかけてやるだろう。あなたが我が子を撮影してくれたおかげで、地震の悲惨さを世界に知らせることができました。どうもありがとう。などと感謝する心の広さを僕は持ち合わせていないし、また同様に、彼の受賞に対して拍手をした人々の倫理観をも疑う。

僕はいつも思うのだが、こういった報道、少なくとも個別の事件に対する写真や映像を媒体とする報道に対して、その優劣を云々し賞与の対象にする必要性があるのだろうか?

それはカメラの前で役者が演じている映画やドラマではなく、多くの場合そこに写し出されているのは、人間のたえがたい苦悩や苦痛、そして血まみれの遺体なのだ。そのゾッとする事実を、我々は忘れてはいないか?僕は、そんな写真や映像に対して優劣を云々し賞与の対象にすることは非常識だと思うし、まさに人倫に悖る行いだと思う。

報道にとって大切なのは、誰がそれを撮影したのかということではなくて、そこで何が行われていたかという事実だ。そしてそれを、それ以上でも、それ以下でもなく、正しく伝えること。それが報道のあるべき姿であり、もとよりそこに「インパクト」や「芸術性」など必要としていないのだ。

ジャーナリズムが、そんなものを追い求めていると、本来の役目を見失い、どんどんと霧の中に迷い込んでしまうだろう。

2011/04/01

清濁




 寄生虫博士として有名な藤田紘一郎先生によると、清潔は病気なのだそうだ。

 現代のわが国日本は、異常なまでの、徹底した清潔な状態に保たれていて、我々の体はこの世に存在する数多くの細菌や病原体といった外敵と、極力、接することなく暮らしている。しかしそれが結果として、我々の体の外敵に打ち勝つ力、すなわち免疫力を著しく低下させ、花粉症やアトピー性皮膚炎、ぜんそくなどといったアレルギー性疾患を引き起こしてるのだそうだ。

 こういった潔癖さは、言語にも現れている。

 抗菌グッズ、消臭グッズが街中にあふれ、とにかく他人に不快感をあたえないよう抗菌、消臭に努め、徹底した清潔な状態に我が身を保つことに日々エネルギーを費やしている我々日本人。そんな状況の中、我々に不快感をあたえないよう、テレビを始めとするメディアが「におい」という言葉を使わなくなっている。

「炊きたてのご飯のいいかおりが食欲をそそりますね」

「もうお店の外にまでラーメンのいいかおりがします」

 残念ながら僕は、「ご飯のいいかおり」にも、「ラーメンのいいかおり」にも、まったく食欲を感じない。逆にこういったものに「かおり」などという言葉を使われると、どこか不味そうなイメージさえ抱く。やはりご飯もラーメンも、僕が食欲をそそるのは「いいにおい」だ。

 確かに「におい」という言葉は、「匂い」と「臭い」という相反する2つの臭覚を表現できる言葉だ。だが「炊きたてのご飯のにおい」という言葉を聞いて、悪臭に満ちた、吐き気をもよおすような汚物にまみれたご飯を連想するほど、我々日本人の思考レベルは低下しているのだろうか?

 むしろ、社会を徹底した清潔な状態に保つことに努めてきたがゆえに、現代病とでも言うべき数々のアレルギー性疾患を蔓延させてしまったことと同じくして、こういったメディアの、視聴者に不快感を抱かせないよう本来の日本語の文法を変えてまでも行うバカげた気配りによって、我々日本人の思考レベルはどんどん低下していくのかもしれない。

 そしてこれはまた「匂い」という、わが国に脈々と受け継がれて来た、世界的に見てもたぐいまれな、ひとつの重要な美学が滅びようとしているということだ。あの『源氏物語』宇治十帖のヒーロー匂宮は、やがて汚物にまみれた悪臭を放つプリンスと化してしまうのか……。

 無臭。もしくは何か臭気を感じるものはと言えば、香水や整髪料、芳香剤や柔軟仕上げ剤の「かおり」、花の「かおり」、また炊きたてのご飯や料理の「かおり」だけ。そしてもちろん、不快な連想に結びつく「におい」のような言葉は、いっさい口にしないし、いっさい耳にもしない。こんな、心地よいものだけに囲まれた異常で不気味な日常生活を送っているわが国日本の子供たちは、いったいどんな大人に育っていくのだろうか?

 ひとつ忘れてはならないことは、それがたとえ不快なものであっても、我々生物の発する「におい」には、すべて何らかの意味があるということだ。寄生虫博士は、その著書『清潔はビョーキだ』(朝日新聞社)の中で、こんなことを言ってる。

〈人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは「人間が生き物」であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人の体臭も嫌うようになる。その結果、老人や病人と自然につき合うことができなくなっていくだろう〉

2010/09/25

男女




 「男女平等」とは、いったい何なのか。それは「男」というものを、「女」というものを、正しく理解して初めて定義できるものである。少なくとも、女が男と同じ事を、男が女と同じ事をするのが「男女平等」などではない。

 1912年、ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのアレクシス・カレルは、その著書『人間 - この未知なるもの』(三笠書房)の中で、こんなことを書いている。

〈女性は男性とは非常に異なってる。女性の体のすべての細胞1つ1つに、女性のしるしがついている。女性の諸器官、なかんずく神経組織についても、同じことが言える。生理学の法則と同様に、不動のものである。それは、人間の希望によって取り換えることはできないのである。あるがままに受け容れなければならないものなのだ。女性は男性を真似ようとせずに、その本来の性質に従って、その適性を発展させるべきである。文明の進歩の中で、女性の担う役割は男性のものよりも大きい。女性は、自分独自の機能を放棄してはならないのである〉

2010/07/20

名前





 この世には名前のないものはないのだと、妙なことを言った人がいる。すべてのものは普く、好ましい名前を持っているというのだ。だが、それはとんでもない間違いである。名前など、もともとないのだ。

〈主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった〉(旧約・創世記2-19)

 これは『旧約聖書』の創世記の中の、アダムが生き物に名前を付ける場面だが、そもそも名前を付けるという行為は、人間がそれを支配することを意味していたのだ。それはもちろん、生き物に限ったことではない。山や川、大地、そして集落や都市、国家にしてもしかりである。

 我々人間は常に、名前を付けることによって、あらゆるものを支配してきたのだ。