2008/07/21

御手

















 古代ギリシアでは、「自然」を意味する言葉として「ピュシス」が存在していた。

 ピュシスは、「生まれる」という動詞「ピュオマイ」に由来すると考えられていて、古代ギリシアの自然とは、生成、成長、衰退、消滅という意味合いを帯びた、生ける調和的統一体だったのである。もちろん人間も、この自然の中に内在する一部分にすぎず、神もまたそれを越えるものではなかった。

 そして古代ローマでは、ギリシア語ピュシスに対して「ナートゥーラ」というラテン語があてられる。
 ナートゥーラは、ギリシア語と同様「生まれる」という動詞「ナスコ」に由来し、ここでも自然は、人間や万物、そして神も、何もかもが対立することのない調和的統一体としてとらえられたのである。

 ところが、やがてこれが中世キリスト教世界に入ると、この調和的統一体としての自然観は一気に崩れ去ってしまうことになる。

 創造主としての神と、被創造物としての万物とが明確に分離し、「神—人間—自然」という階層関係が確立されるのである。神は、創造主としてより超越的存在となり、人間は、神の特別な創造物として自然より分離され、そして自然は、神から人間に贈与されたものとして人間みずからが支配すべく存在と化したのである。

 こうしてとうとう我々人間は自然界から抜け出し、自然を物質、資源とみなすヨーロッパ世界の「自然支配」の構図が誕生し、産業革命へと向かう思想的基盤が準備されたのだ。

 参考までにイスラム世界では、ギリシア語ピュシスに対して「タビーア」というアラビア語があてられた。
 タビーアは、「刻印する」「封印する」という動詞「タバア」に由来し、神が印をつけるという行為を、万物の存在の成り立ちとするという意味合いを帯びていた。すなわちイスラム世界でも自然は、創造主としての神の御手によって生成されると信じられていたのである。

 20世紀とは何かという問いに対して、「発明」や「経済」、そして「戦争」といった様々な言葉を用い表現されているが、20世紀はまた、そのヨーロッパ文明の傑出した英知によって、遂に人間が「神」となった世紀でもある。すでにこの星の何もかもが、人間の御手に委ねられた。はたして我々人間は神として、新たな自然界の秩序を生み出すことができるだろうか。その答えは、案外、早く出されることになるだろう。