2008/07/21

肉食

















 世界の多くの民族は、何らかの食に対する戒めを持っているものだ。その戒めは、やはり肉食に関して顕著であり、たとえばヒンドゥー教徒がウシを食べないことと、イスラム教徒がブタを食べないことは、特によく知られているところである。

 ヒンドゥー教が食べることを戒めているウシは、神ブラフマンによって創造された極めて尊き生き物で、また神シヴァの神聖なる乗り物としても広く崇められている。そして、そもそもウシは彼らインド人にとって、日々多大な恩恵を与えてくれる動物でもあったのだ。
 たとえば雄牛は大地を耕す労力に。雌牛は乳を出し滋養を。糞は貴重な燃料に。そして尿すら薬として飲まれたらしく、こういった人間にとっての有用性が、ヒンドゥー教徒にこの動物を食べることを戒めさせた大きな要因になったのではないかと考えられている。

 では、イスラム教では何故にブタを食べることを禁じられているのかというと、それは蹄がどうのとか、反芻がどうのとかいろいろなことが言われているが、実際のところは『コーラン』で穢れたものとして禁じられているからだということ以外、確実なことは分かっていないらしい。
 しかし面白いことに、イスラム教のこの戒めはまた非常に徹底していて、ブタ以外の清浄なる食物「ハラル」であるはずのニワトリやウシやヒツジであっても、イスラム教徒以外の者が屠殺した肉は不浄なる食物「ハラム」となり、食べることが禁じられている。

 そして、同じヘブライ起源の宗教、実はキリスト教でもブタは汚れたものとされていて、本来、食べることが禁じられていたのだ。
 『旧約聖書』のレビ記の「清いものと汚れたものに関する規定」には、ブタを始め、彼らにとっての清い動物と汚れた動物とが、こと細かく規定されている。

〈地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。いのししはひずめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはなにない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
 水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。これらは汚らわしいものであり、その肉を食べてはならない。死骸は汚らわしいものとして扱え。水の中にいてひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。
 鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。
 禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、森ふくろう、魚みみずく、大このはずく、小きんめふくろう、このはずく、みさご、こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。
 羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。ただし羽があり、四本の足で動き、群れを成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ肢を持つものは食べてよい。すなわち、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい。
 しかし、これ以外で羽があり、四本の足をもち、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。
 以下の場合にはあなたたちは汚れる。死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。
 ひづめはあるが、それが完全に割れていないか、あるいは反すうしない動物はすべて汚れたものである。それに触れる者もすべて汚れる。四本の足で歩くが、足の裏の膨らみで歩く野性の生き物はすべて汚れたものである。この死骸に触れる者も夕方まで汚れる。死骸を持ち運ぶ者は夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。それらは汚れたものである。
 地上を這う爬虫類は汚れている、もぐらねずみ、とびねずみ、とげ尾とかげの類、やもり、大とかげ、とかげ、くすりとかげ、カメレオン。以上は爬虫類の中で汚れたものであり、その死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる〉(旧約・レビ記11-2)

 食に関する戒めが緩いとされているキリスト教でさえ、実はこれだけの多くの戒めがあり、ここにある「イノシシ」が、いわゆる今言うところのブタである。
 また『旧約聖書』のマカバイ記2を見てみると、エレアザルという律法学者が口をこじ開けられ、強制的に豚肉を食べさせられる下りがある。しかしエレアザルは、「不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責め道具に身を任そうとした」というのだ。彼らのブタに対する嫌悪感というのも、なんとも凄まじいものである。

 しかし、やはりキリスト教においても、イスラム教と同様、蹄は割れているが反芻しないということがブタの汚れている理由らしいが、それに対して「なぜ?」と疑問をいだいた所で、これ以上の答えは出てこない。
 もっともこういった宗教の戒めは、実は論理的にも説明できないものの方が多く、むしろ説明できないからこそ、今日まで途絶えることなく残ったのだという指摘もある。
 確かに、宗教とは信じるものであって、解明するものではないのである。ガンジスの河の水が、ルルドの泉の水が、H2Oだと解明された所で、それは何の意味も持たないのだ。

 日本でも、仏教の伝来は、我々日本人から肉食の習慣を忌避させることになった。
 678年、天武天皇は仏教の不殺生戒にしたがい、ウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉を食べることを禁ずる詔を出し、やがて国家宗教として開花し始めた仏教が長い時を経て庶民の心の中に広がりゆく過程において、日本人の生活から次第に肉食が消えていったのである。
 1549年、我が国へキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザヴィエルは、こんなことを書き残している。

〈日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物に依って、いかに健康を保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている〉

 これは、日本で2年あまりの布教生活を送り、その食生活に苦労したザヴィエルがある神父に宛てた手紙で、すなわち日本へ布教に行くには、肉の食えない、草はがりを食べる粗食に耐える覚悟が必要だと諭しているのである。これを見てもわかるように、実際、彼らヨーロッパ人宣教師にとって、仏教の戒律に従って肉を口にできないことが、日本での布教活動における重大な問題だったようだ。

 かくして日本料理は、世界的に見ても類い稀な、肉という食材を欠いた特異な料理体系となったのだ。