2011/04/01

清濁

















 寄生虫博士として有名な藤田紘一郎先生によると、清潔は病気なのだそうだ。

 現代のわが国日本は、異常なまでの、徹底した清潔な状態に保たれていて、我々の体はこの世に存在する数多くの細菌や病原体といった外敵と、極力、接することなく暮らしている。しかしそれが結果として、我々の体の外敵に打ち勝つ力、すなわち免疫力を著しく低下させ、花粉症やアトピー性皮膚炎、ぜんそくなどといったアレルギー性疾患を引き起こしてるのだそうだ。

 こういった潔癖さは、言語にも現れている。

 抗菌グッズ、消臭グッズが街中にあふれ、とにかく他人に不快感をあたえないよう抗菌、消臭に努め、徹底した清潔な状態に我が身を保つことに日々エネルギーを費やしている我々日本人。そんな状況の中、我々に不快感をあたえないよう、テレビを始めとするメディアが「におい」という言葉を使わなくなっている。

「炊きたてのご飯のいいかおりが食欲をそそりますね」

「もうお店の外にまでラーメンのいいかおりがします」

 残念ながら僕は、「ご飯のいいかおり」にも、「ラーメンのいいかおり」にも、まったく食欲を感じない。逆にこういったものに「かおり」などという言葉を使われると、どこか不味そうなイメージさえ抱く。やはりご飯もラーメンも、僕が食欲をそそるのは「いいにおい」だ。

 確かに「におい」という言葉は、「匂い」と「臭い」という相反する2つの臭覚を表現できる言葉だ。だが「炊きたてのご飯のにおい」という言葉を聞いて、悪臭に満ちた、吐き気をもよおすような汚物にまみれたご飯を連想するほど、我々日本人の思考レベルは低下しているのだろうか?

 むしろ、社会を徹底した清潔な状態に保つことに努めてきたがゆえに、現代病とでも言うべき数々のアレルギー性疾患を蔓延させてしまったことと同じくして、こういったメディアの、視聴者に不快感を抱かせないよう本来の日本語の文法を変えてまでも行うバカげた気配りによって、我々日本人の思考レベルはどんどん低下していくのかもしれない。

 そしてこれはまた「匂い」という、わが国に脈々と受け継がれて来た、世界的に見てもたぐいまれな、ひとつの重要な美学が滅びようとしているということだ。あの『源氏物語』宇治十帖のヒーロー匂宮は、やがて汚物にまみれた悪臭を放つプリンスと化してしまうのか……。

 無臭。もしくは何か臭気を感じるものはと言えば、香水や整髪料、芳香剤や柔軟仕上げ剤の「かおり」、花の「かおり」、また炊きたてのご飯や料理の「かおり」だけ。そしてもちろん、不快な連想に結びつく「におい」のような言葉は、いっさい口にしないし、いっさい耳にもしない。こんな、心地よいものだけに囲まれた異常で不気味な日常生活を送っているわが国日本の子供たちは、いったいどんな大人に育っていくのだろうか?

 ひとつ忘れてはならないことは、それがたとえ不快なものであっても、我々生物の発する「におい」には、すべて何らかの意味があるということだ。寄生虫博士は、その著書『清潔はビョーキだ』(朝日新聞社)の中で、こんなことを言ってる。

〈人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは「人間が生き物」であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人の体臭も嫌うようになる。その結果、老人や病人と自然につき合うことができなくなっていくだろう〉