2008/07/21

浪漫

















 なぜエベレストを目指すのか、という質問に対して「そこに山があるから」と答えたのは、イギリスの登山家ジョージ・ハーバート・リー・マロリーである。

 「登山」という行いは古来、数ある我々人間の行いの中でも特別に、一種の聖域に属する最も気高いロマンティシズムとして存在している。それは、山自体の偉大さや、その山の偉大さと比べると取るに足らないほど小さな我々人間が、命もいとわずその頂点へと挑もうとする、まさにそんな人間の限界に立ち向かう姿が、人々に身震いするような感動を与えるからだろう。

 だが僕は毎年決まって目にすることになる、山で遭難し救助された人々がメディアの前で頭を下げ、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするのを見る度に、実に腹立たしい気持ちになる。登山ほど無責任な行いもないものだ……。

 山へ登るのが自由であれば、遭難するのも自由だ。しかし、それを救助する救助隊はたまったものではない。救助要請があれば、悪天候であろうが直ちに、まさに決死の覚悟で救助へ向かう。そして、その救助へ向かった救助隊が命を落とすという事故も後をたたないのだ。

 そんな無責任な行いを「ロマン」などという言葉で簡単に許していいのか?登山家の「ロマン」は、救助隊の「人命」よりも重いのか?

 何年か前、劣化ウラン弾の絵本を作るとか、ストリートチルドレンを助けるとか、いい報道写真を撮りたいなどという大義名分を胸に、タクシーに乗り込み戦火のイラクへ向かい拉致された3人の若者を、日本国民は声を揃えて「無責任」と非難した。僕には彼らの行いと、極めてごく個人的な達成感のために険しい山の頂を目指し、遭難し、救助に向かった救助隊を死の危険にさらす登山家と、どこが違うのか分からない。

 だがおそらく今年も、多くの人々が山の頂へ挑み、その何人かは遭難をし、救助され、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするだろう。そして彼らは、しばらくするとまた山へ向かい、人々はそれを「ロマン」だと目をうるわせ拍手喝采するのだ。