2009/08/22

美食

















 実を言うと僕は、京都へ観光に行っても南禅寺で湯豆腐ではなく、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べる男である。
ようするに、その土地ならではのものを食べなくてはいけないというような特別な執着のない男なのだ。もちろん僕自身、そうすることを損だとも、恥だとも思っていない。
かといって、「グルメ」という文化を否定しようなどという気も毛頭ないのも事実である。だが、少なくとも自分自身は、グルメではありたくないとは思っている。腹がすいたら何を食べても美味しく、腹がいっばいなら何を食べても不味い。これが僕の「食」というものに対する基本的スタンスなのだ。

もっともスタンス以前の問題として、たとえそれを食べるお金はあっても、僕にはカスピ海産のキャビアの良さも、ペリゴール産のトリュフの良さも分からない。そんな男が食べるのは、まさに貴重な資源の無駄というものだ。

しかし、もしかするとこれからは、希少価値の高い新鮮な食材で究極の料理を仕立てる料理人よりも、養殖やブロイラーの食材で究極の料理を仕立てる料理人の方が、より称賛されるべき時代が訪れるかもしれない。僕は今でも、そういう料理人を心から称賛したいし、彼らの仕事を、料理の輝かしき歴史における後退だとも堕落だとも思わない。

ひもとけば、フランス料理の精緻を極めたソースも、中華料理の深遠を極めた乾物も、もとはと言えば食材の悪さや立地の悪さといった障害を克服させるために、時の料理人たちが心血を注ぎ創造したものである。
これからの料理人は、社会的にも倫理的にも、来たる時代に対してとても大きな役割を担っていると言えるだろう。

2009/08/01

優越

















 ラオスで、ヨーロッパ社会で言うところの「近代教育」が行なわれるようになったのは、19世紀後半のことである。しかしそれはラオスの、ラオスの国民による、ラオスの国民のための教育といった性質のものではなかったのだ。

 「文明化の使命」。このなんとも奇妙な信念に後押しされ、フランスの植民地支配は邁進してゆくわけだが、ここラオスでも、宗主国フランスによる道路や橋の建設といった事業が、まがいなりにも着手されてゆく。そして、教育もまた例外ではなかったのだ。

 ラオスでは1897年、王都ルアンプラバンで王族の子弟のための初等学校が開校されたのを皮切りにして、各地の省庁所在地、すなわちヴィエンチャンやチャンパサック、シェンクアン、そしてサヴァナケットにも初等学校が開校されることになる。
 しかし、この国で中等教育が行なわれるのは、1921年、ヴィエンチャンの中等学校コレージュ・デュ・パヴィの開校まで待たなくてはならなかった。そして高等教育にいたっては、同じくヴィエンチャンに高等中学校リセが開校される1947年まで待たなくてはならず、さらにそれ以上の教育を受けるには、ヴェトナムやフランスといった国外の大学へ留学するしかなかったのである。

 しかもそれらの学校の授業はラオ人ではなく、フランス人、もしくはフランス人に教育されたヴェトナム人の教師によって行なわれていたのだ。ちょうどデュラスの両親のような、誇り高き教師たちがはるばる海を渡ってやってきていたのである。
 そしてまたその授業の内容はと言えば、ラオ人が自らの言語や文化を学ぶというものではなく、このアジアの片隅の小国で、フランス本国から取り寄せた教科書を使い、フランスの歴史や地理、文化といったものをフランス語で学んでいたのだ。

 おまけに、これらラオスの学校の生徒の大半は、フランスの植民地政策によって移住させられたヴェトナム人の子弟によって占められていて、ラオ人はほとんどいなかったのである。
 当然そんな情況の中で、ラオ人がハノイやパリの大学に「留学」するなどということは、王族や貴族といった特別な階級の家柄の子弟以外には経済的にみてもまず不可能な話しで、実際1937年、612人を数えたハノイのインドシナ大学の在学生の中で、ラオ人はたったの2人だったらしい。

 「愚民政策」。これは、フランスのラオス統治を論じる際によく用いられる言葉である。

 フランスは、中国雲南へと遡るメコンの要衝としてラオスに多大な期待をいだき、強行的に仏領インドシナ連邦へ編入したわけだが、実際には、メコンは雲南への通商路としては使いものにならず、さらに、どこにも海への開口を持たない内陸の地理的孤立性と、人口の極度な希薄性といった悪条件も重なって、とうとうこの国での経済発展は見込めないという結論に至るのだった。

 そこでフランスは、ラオスには極力経費をかけず統治する方法を選ぶことになり、それがすなわち愚民政策だったのである。
 ようするにフランスは、この国の教育体制をととのえ、この国の国民を教育し植民地運営の一役を担わせるということをせず、実質的に見捨てたのだ。これがその後、ラオスにおける教育の推進を決定的に遅らせることになった所以だとされている。

 しかしこんなことは、特に驚くに足ることでもなんでもないのだ。もともとフランスの掲げた「文明化の使命」などというものは、何も地球上の人々を普く幸福にしよう、などといったものでは決してなかったのだ。
 キリスト教に改宗させ、ヨーロッパの生活習慣を押しつけ、そして、ただひたすら宗主国フランスのために働く歯車に仕立てあげる。植民地は、あくまでも宗主国のための植民地であって、その国民もまた、ひたすら宗主国に奉仕する一つの歯車でしかなかったのだ。もとより、アジアの小国に暮らす「野蛮人」の教育水準など、彼らにとってはどうでもよかったのである。

 これにはヨーロッパ人、いわゆる白人の、白人は生まれながらにして「支配する」べく人種であり、有色人は生まれながらにして「支配される」べく人種であるという、彼らにとっての大前提があったことを忘れてはならない。
 こういった、白人の有色人に対するあからさまな侮蔑意識は、確かに、彼らのキリスト教という極めて不寛容な宗教による、神によって選ばれた地上における特別にして最高の人種であるという、滑稽なまでの優越意識によって支えられていたわけである。

「インディオは人間か?」
 これは、大航海時代が始まり大海の果てを目指して船出したヨーロッパ人が、未知なる新大陸で出会ったインディオに対して、はたしてこれは人間なのかどうかと激論を交わした、かの有名な「バドリア大論争」の議題である。

 論争は、カトリックの聖職者ラス・カサスと神学者セプルベータとの間で始まり、彼らインディオも人間で、神の福音を与えるに値する存在なのかどうかと、こんな馬鹿げた論争が大真面目に行なわれたのだ。
 そしてこの大論争は結局、「インディオも人間と認める」というローマ教皇パウロ3世の宣言によって、ようやく決着をむかえるのである。

 実は面白いことに、彼らヨーロッパ人はまた、その人種としての優越性を科学的にも証明しようとしていたのだ。
 「社会ダーウィニズム」という言葉がある。これはダーウィンの『進化論』を社会に置き換えたもので、国家間や人種間の闘争をも、ダーウィンの言うところの進化の過程である優勝劣敗の自然淘汰と結びつけ、正当化するまでに発展してゆくのだ。

 かつてヨーロッパでは、この『進化論』をもとにして人種の肉体的差異を研究し、人種の優越を科学的に証明しようという試みが盛んに行なわれていたのである。
 頭蓋骨の形態や、額から顎にかけての傾斜角度を始めとした、あらゆる肉体的差異を測定し、人種の優越をつける尺度としたのだ。

 「頭蓋骨の大きさは、大きいほど高等であり、人間は動物よりも大きく、白人は野蛮人よりも大きい」「白人は生まれた時、野蛮人のもついくつかの特徴、たとえば低い鼻をしているが、成長するにつれて消える。つまり野蛮人は白人の進化する前の形態なのである」
 なんとも馬鹿げた話だが、かつてヨーロッパではこういったことが大真面目に論じられていたのだ。

 かくして社会ダーウィニズムは、不可思議な科学的裏付けを得てヨーロッパ社会に浸透してゆき、以後脈々として、彼ら白人たちの尊大なるアイデンティテイを支える柱となる、白人至上主義を確立させることになるのである。
 そしてこれがまた、「文明人」である白人による「野蛮人」の淘汰を美化させ、「優秀民族が地球上でふえるために、我々白人は世界のいたるところに進出する必要性がある」という科学者たちの推奨する熱い使命感にも駆り立てられ、植民地政策はいよいよ全盛をむかえることとなるのだ。

 ちなみに、少し補足しておくと、宗主国フランスのラオスにおける愚民政策は、ラオスにおける教育の推進を決定的に遅らせることになったが、しかしこの政策は、何もラオ人をただの「愚民」として放置していたわけではないのである。
 ラオスの国民は、人頭税や、塩やアルコールなどの間接税を始め、植民地政府によって課せられた数々の過重な税金に苦しめられることになり、また強制的に道路や橋の建設に賦役として駆り立てられるなど、「文明化の使命」という大義名分のもとに、ラオ人の生活はみごとに踏み躙られたのだ。

復讐


















 ある時のことである。ブラフマン神はこの世の滅亡を恐れ、天界から神々を、下界から悪魔たちを呼び寄せ、不死の妙薬アムリタを得ようと思い立った。

 そこでブラフマン神はまず、サンカ島に聳えるマンダラ山を引き抜き、クシラ海の中に立てる。クシラ海には、ヴィシュヌ神の化身である大亀サン・アクパが沈んでいて、マンダラ山はサン・アクパの甲羅の上に載せられ、さらに山頂にはインドラ神が座し、マンダラ山が浮き上がらないための重石となった。

 こうしていよいよ、バスキ神の化身である大蛇をマンダラ山に巻き付けると、尾を悪魔たちが、頭を神々が持ち、いっせいに引き合いクシラ海を撹拌し始めた。

 クシラ海は、ゴウゴウと音を立てて撹拌され、その撹拌の摩擦によって海中に熱が充満し、海の怪獣たちが火を吹き、もがき苦しみだす。
 それを目にしたインドラ神は、ただちに冷雨を降らせて熱を冷まし、大気を漲らせた。こうしてクシラ海は、やがて撹拌が進むにつれて乳状に変化し始め、とうとう不死の妙薬アムリタが抽出されたのである。

 しかしアムリタは、このどさくさに紛れて、いったん悪魔たちの手に落ちるのだが、神々は無事にそれを取り戻す。ところがである。その神々の中に、悪魔カラ・カウが紛れ込んでいて、カラ・カウはその不死の妙薬アムリタを飲み込んでしまったのだった。これによって、カラ・カウは永遠の生命を得てしまう。
 それを見ていた太陽と月は、悪魔カラ・カウが永遠の生命を得てしまうことを恐れ、ただちに剣でもってその首を切り落とし、アムリタを取り戻すのだった。幸運にもアムリタは、まだカラ・カウの喉にまでしか達していなかったのである。

 だが、不死の妙薬アムリタが喉まで達していたことによって、悪魔カラ・カウの首は永遠の生命を得てしまい、怒りに燃え太陽と月を飲み込んでしまうのである。太陽と月を飲み込まれてしまったこの世は、みるみるうちに深い闇に覆われてしまった。

しかし幸運にも、やがてこの世は再び、太陽と月の光に満たされることになる。悪魔カラ・カウは、頭しかないのだ。そう、飲み込まれた太陽と月は、カラ・カウの頭の中を通り過ぎると、すぐに喉から出てきたのである。

かくして、永遠の生命を得た悪魔カラ・カウの首は、以後も、首を切り落とされてしまった復讐に、太陽と月を執拗に追い回し飲み込んでしまう。これが、日蝕と、月蝕なのだと、バリ島の人々は考えたのだ。