2008/08/31

進化

















 進化論とは、イギリスの生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンが1859年に出版した『種の起源』の中で説かれている、生物は徐々に単純なものから複雑なものへ、下等生物から高等生物へと進化していったのだとする理論だ。

 これは、今ではもう誰でも理解している言わば1つの常識だが、この進化論が発表されたことによって、当時のキリスト教世界は大混乱に陥ったのである。
すなわちダーウィンの進化論は、『聖書』にある、人間も動物もみな神が一夜にして造ったのだという説を根底から否定することになったのだ。そしてまた、人間は特別な存在などではなく、他の生物と同じ地平にあることを科学的に証明したことによって、ダーウィンは神によって創造された特別な存在だとする人間の尊厳を傷つけ、唯一無二の創造主である神を冒涜したとみなされたのである。

 実は、こういったキリスト教と科学との対立は、何もダーウィンの進化論に始まったことではない。たとえば17世紀、地動説を説いたガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられ、強制的に地動説を破棄するよう誓わされたことはよく知られているところで、以後もキリスト教は、その『聖書』という1つの絶対真理を前にして、科学との長い長い軋轢の歴史を刻むことになるのである。

 そして、20世紀をむかえた1925年、アメリカのテネシー州デートンのレア裁判所で、ある有名な裁判が開かれたのだ。「スコープス進化論裁判」である。
 被告は、デートンの公立学校の生物教師ジョン・T・スコープス。彼は、州の定めるバトラー法を犯した罪で逮捕され、裁判にかけられることになったのだ。そのバトラー法とは、こんな法である。

〈州内にある学校のうち、運営資金のすべてあるいは一部を本州の公立学校基金から受けているすべての大学、師範学校、およびそのほかすべての公立学校において、教師が『聖書』に教えられている神による人間の創造を否定するいかなる説を教えることも、そしてそれにかわって、人間は下等な動物に由来するという説を教えることも、これを違法とする〉

 ようするに彼は、学校の授業で進化論を教えたことによって逮捕、起訴されたのだ。そして、なんと『聖書』の説く真理と、ダーウィンの説く理論のどちからが正しいのか、司法の場で裁かれることになったのである。

 実はアメリカという国は、プロテスタント教会の保守派から起こった「キリスト教原理主義」のとても強い国で、これは『聖書』に書かれていることは一字一句すべてが正しく、いかなる誤りもないのだという主張を大前提にしている。
 また彼らは、自分たちの信念に同調しない者は真のキリスト教徒ではないという確信をもっていて、それによって時として非常に強硬な姿勢をとることがあり、この進化論論争はその1つの好例と言えるだろう。

 裁判は、全米の注目を集め、人間は神によって造られたのか、はたまたサルから進化したのかと、滑稽なまでに白熱した議論が交わされたのである。
 『聖書』の奇跡を讃える陳述に傍聴席から「アーメン」の大合唱が沸き起こり、「モンキー裁判」と呼ばれたこの大イベントに、チンパンジーの見せ物屋までも押し寄せた。
 そして審理は終わり、ついに判決が下されたのである。

 それはなんと、進化論を学校で教えた生物教師スコープスの有罪判決だった。スコープスは罰金刑を言い渡され、これによって以後、アメリカの授業からダーウィンの進化論はすっかり影をひそめることになるのである。それは、ソヴィエトがアメリカの先手を切って人工衛生スプートニクを打ち上げたことによって、アメリカの学校教育の決定的な遅れに気付かされるまで続いたのだ。

 ところがである。進化論を学校で教えることに対する根強い反感はその後も一向に衰えることなく、再三、スコープス進化論裁判の再燃を繰り返すことになるのである。あのドナルド・レーガンも1980年の大統領選挙戦の際、キリスト教原理主義者の多いテキサス州ダラスの聴衆を前にして、進化論についてこんな演説をしていたという。

〈あれは理論ですよ、ただの科学理論。しかも、ここ何年かは科学の世界でも異議を唱えられてきたし、科学界でも昔のように絶対に正しいと信じられているわけではないでしょう〉

 何年か前のNHKのニュース番組でも、この現代においてもなお進化論を学校で教えることを断固否定し、それを違法として規制しようとしているアメリカ市民の特集をしていた。その中でインタビューされていた市民の答えは、「自分たちの祖先がサルだなんてことを子供たちに教えれば、人間としての自信を失わせ、子供たちを傷つけることになるじゃないか」というものだった。

 だが、21世紀を目前にした1996年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、歴史的な、極めて重大な発言をしたのである。

〈ダーウィンが初めて採用した見解は、その後多様な知的分野で達成された一連の発見にともなって研究者たちの心の中に深く定着しており、今や進化論を仮設以上の理論であると認めることができる〉

 そう。ローマ教皇がこの年ついに、事実上ダーウィンの進化論との和解と思われる発表をしたのである。

大小

















 インドシナのビルマ、タイ、ラオス、カンボジアは、古くからとても敬虔な仏教国として知られていた。しかし「仏教」とは言っても、キリスト教にカトリックやプロテスタントがあるように、それは一枚岩ではなかったのである。これらの国々の仏教は、「上座部」と呼ばれる仏教なのだ。

 仏教とはもちろん、今更あらためて云々するまでもなく、ブッダ、すなわち悟りを開いたサキャカ族の王子ゴーダマ・シッダールタが説いた教えをもとに、その入滅後に生まれた宗教である。そう。ブッダの死は終わりではなく、またひとつの大いなる始まりだったのだ。

 紀元前、キリストが生まれるはるか前、ブッダがサラソウ樹の下で入滅すると、残された弟子たちは悲嘆に暮れる間もなく、ブッダの偉大なる教えが散逸し、誤伝することを恐れ、直ちに一同結集し、その教えを確認し合った。第1結集である。ちなみに仏教では、この結集を「けっしゅう」ではなく、特別に「けつじゅう」と発音している。

 そしてブッダの入滅後さらに100年が経過した頃、再び弟子たちは結集し、第2結集が行なわれた。この際、ある僧たちが金銭を受け取っているなどといった10項目にわたる問題が持ち出され審議されたのだが、これをきっかけに教団は、革新を求める進歩派と伝統を重んずる保守派に分裂してしまうのである。
 前者の進歩派を「大衆部」、そして後者の保守派を「上座部」と呼び、すなわちその保守派の仏教がインドから南方のスリランカを経てここインドシナへと伝播したというわけなのだ。その経路から、この仏教はまた「南伝仏教」とも呼ばれている。

 参考までに日本の仏教は、インドから北方のチベット、モンゴル、中国、朝鮮を経て伝播した「北伝仏教」で、この仏教はまた「大乗仏教」とも呼ばれている。「大乗」とは、サンスクリット語の「マハーヤーナ」の漢訳で大きな乗りものを意味し、実はこれは、上座部、大衆部を始めとする数々の教団が分裂を繰り返していた過程の中で興った、ひとつの大改革だったのだ。

 その頃になると分裂した部派は、それぞれにブッダの教えを整備、研究し、よりいっそう厳しい修行に専念し、出家修行者の質と地位は目まぐるしく向上していた。そして一方、仏教に帰依し、ブッダの遺徳を忍び、出家修行者に奉仕する在家信者の数も確実に増えていたのである。
 大乗は、こういった情況の中、それまでの出家中心だった教理を改め、出家、在家に関わらず、誰もがみな良き行いによって仏と同じ悟に達することができるとする教理を説いたのだ。ようするに、仏教はここでいよいよ一般民衆に明確な手、すなわち悟りへと導くための「大きな乗りもの」を差し向けることとなったのである。

 しかし大乗仏教はここで遂に、ブッダの教えに忠実であるという在り方を捨て、まったく新しい独自の教理を自由に発展させていくこととなるのだ。したがって厳密な意味において、今日に伝わる大乗仏教の教理は、もはやブッダ自身の純粋なる教えと呼ぶことはできないのである。

 ブッダは、また入滅に際して弟子のアーナンダに、「私の亡き後は、私が説いた教えと私が制した戒律とがお前たちの師となるであろう」と告げたと言われている。そして保守派として分裂しインドシナへと伝播した上座部仏教の人々は、その言葉通り、以後も変わることなく営々として結集を繰り返し、その都度、ブッダの教えと戒律についての熱い討論を交わしたのだった。

 結集は、13世紀、イスラム教の侵入によってインドで仏教が衰滅した後は、他国へとその場所を移すこととなり、19世紀には、イギリスの植民地となる直前のビルマで行なわれている。
 この結集は4年間にもおよぶもので、イギリスによる仏教の弾圧を恐れ、ブッダの教えを石に刻み残す作業が行なわれたという。また第二次世界大戦終結後にも、同じくビルマのラングーンで行なわれている。

 このように、ブッダが臨終に際して残した言葉に従って、ブッダの教えと戒律を幾世紀にもわたって師と仰ぎ守り伝えてきた上座部仏教は、また「戒律仏教」とも呼ばれている。すなわち上座部仏教の修行の根本は、難行や苦行などではなく、このブッダによって定められた戒律にしたがい、ただひたすら正しい日々を送り続けることにあるのだ。

 実はそんな上座部仏教には、もう1つの呼称がある。「小乗仏教」である。「小乗」とは、サンスクリット語の「ヒーナヤーナ」の漢訳で、その対極にあるのがすなわち大乗仏教なのだ。
 この呼称は、ブッダの教えに忠実であることに固執し続け、大衆の救済に意を注ぐこともなく己れの修行にばかり専心する上座部仏教の人々のことを、大乗仏教の人々が「卑小なる乗り物」だと侮蔑して呼んだことに始まるのである。ちなみに我々日本人も古くから、大乗仏教の栄えるこの日本という国を自ら、「大乗相応の地」と誇り高く呼び慣わしてきたのだ。

 だが世の宗教が、長い歴史の中で繰り返してきた数えきれないほどの、「他人を救う」という大義名分のもとに犯してきた悪や「布教」という名の暴力を思えば、この上座部仏教の「小乗」という在り方は、実に清潔な宗教活動だと言えるだろう。

まずは己れの人格形成。これこそが、宗教のスタートラインであると同時に、またゴールでもあるのだ。

2008/08/26

港市

















 現代のように全土に道路網が張り巡らされる以前、ほとんど密林や湿地に覆われていたインドシナでは、河川が人々の生活におけるメインストリートだった。そして、その河口を始めとする流れの要所には決まって市場がつくられ、河川を媒介にして様々な物が交易されていたのだ。

 かつてそういった市場には後背地の豊かな森林物資が集まり、やがて賑わう市場のまわりには人が住み始め「港市」が形成され、さらにいくつかの港市は巨大な「港市国家」へと変貌していったのである。タイのアユタヤも、ビルマのペグーも、カンボジアのプノンペンも、いずれもそういった性質の港市だったのだ。

 そして、アジア各地に点在していたそういった港市はまた、お互い極めて高度に発達した交易ネットワークによって結ばれていて、様々な物が盛んに交易されていたのである。

 その交易ネットワークの中で中心的存在になっていたのが、やはりなんと言ってもマラッカである。
 マラッカはその立地から、インドを基軸とするアラビア海・ベンガル湾交易圏と中国を基軸とする東シナ海・南シナ海交易圏とを結ぶ、東西交易の中継地として比類なき発展を遂げることになるのだ。
 たとえば、それまで中国とインドの間を往復するのに2年かかっていたものが、ここを中継地とすることによって、わざわざ2年もかけて中国とインドの間を行き来する必要がなくなり、交易のスピードは半分に縮まることになったのである。

 かくして、マラッカへは各地から様々な物資が流れ込み、当時ここでは西はエジプトから東は中国までの、84もの言語が飛び交っていたらしい。そして、インドシナの港市からも、積み荷を満載した船が盛んにマラッカを目指したのである。

 では実際に、インドシナの各地とマラッカとの間でどのような交易が行なわれていたのだろうか。1512年から15年まで、マラッカに滞在していたポルトガル人トメ・ピレスの残した『東方諸国記』の中に、その当時の交易の様子が詳細に記されている。

 まず、ビルマのペグーからマラッカへ運ばれたのは、米、ニンニク、タマネギ、カラシ、バター、油、塩などの食糧品。安息香、麝香などの香料。ラック。銀などの貴金属。ルビーを始めとする宝石などである。
 宝石は古くから、ビルマにおける重要な交易品だったのだ。あれはもう、かれこれ30年ほど前になるが、ビルマの街を歩いていると至る所で、闇の宝石売りに肩を叩かれたものだった。
 ビルマではルビーを筆頭に、ガーネット、スピネル、ダイヤモンド、ジルコン、アパタイト、サファイア、トルマリン、ペリドット、ムーンストン、ジェード、コハクなど、実に多くの宝石を産するのである。中でもルビーはビルマ産が世界最高品質とされていて、サファイアもビルマ産はインド産、スリランカ産とともにその品質の最高位を争っている。
 またジェード、いわゆる翡翠も、ビルマが最も重要な産地とされていて、ビルマ産のその半透明に光り輝く神秘的な翡翠は「インペリアル・ジェード」と称され、古くから中国へ盛んに輸出されていたのだ。

 逆にマラッカからペグーへ運ばれたのは、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。金などの貴金属。水銀、銅、錫、辰砂などの鉱物。フルセレイラ。真珠母。中国製の緞子、陶磁器などである。
 「フルセレイラ」というのは、「真鍮の削り屑を集めて作った塊」といった意味を持つ古いポルトガル語で、銅や錫、鉛などの粗質の合金のことである。交易は当初、もちろん物々交換によって行なわれていたのだが、交易が大量かつ複雑になってくると、必然的に一種の通貨としての役割を担うものが生まれてくる。フルセレイラも、そういった性質のものだったのだ。そして、やがて交易における国際通貨としての地位を獲得するのが、銀である。

 つぎに、タイのアユタヤからマラッカに運ばれていたのは、米、塩、干魚、ココナッツ、野菜などの食糧品。安息香などの香料。ラック。薬物。蘇芳などの染料。象牙。金、銀などの貴金属。鉛、錫などの鉱物。織物。金や銅で作った壷。ルビーやダイヤモンドの指輪などである。
 蘇芳というのは、インドからここインドシナにかけて自生するマメ科のある樹木から採られる染料で、特にタイは古来、多くの蘇芳を各地へ送り出していた。蘇芳の染料は芯材と、種を覆う莢から得られるのだが、その発色は煎じる際に加えられる媒染剤によって変化する。明礬を媒染剤にすると赤に、椿の灰を媒染剤にすると赤紫に、そして鉄塩を媒染剤にすると紫に発色するのだ。
 この蘇芳は、日本にはすでに奈良時代には渡来しており、正倉院にも蘇芳によって染めた『黒柿蘇芳染金銀絵如意箱』が伝わっている。また『源氏物語』の中で、源氏が六条院の正月に女楽を催した際、和琴を爪弾く最愛の紫の上が着ていたのも、蘇芳染めの細長だった。

 逆にマラッカからアユタヤへ運ばれたのは、コショウ、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。白檀、竜脳などの香料。阿片などの薬物。蜜蝋。水銀、辰砂、雄黄などの鉱物。子安貝。インド製の綿織。ペルシアおよびアラビア製の薔薇水、呉絽、毛氈。奴隷などである。
 ここでいうところの奴隷というのが、いったいどういう人々なのかはよくわからないが、東南アジア諸国全般における「貴族、平民、奴隷」という身分の区別は、インドのカーストや日本の士農工商ほどの厳しさはなかったようだ。面白いことに、タイの身分制度の中には「王族逓減の法則」というものがあり、王族は一代下るごとに身分が一階級下がるというシステムになっている。ようするに、たとえ王族といえども、六代下るとなんと平民になってしまうのだ。そんなタイでは、奴隷も自己の責務さえはたせば自由に平民へ戻ることができたらしく、またタイの奴隷は、キリスト教徒の社会における奴隷ほど酷い扱いは受けておらず、イギリスの召使よりも待遇がよかったらしい。

 トメ・ピレスの『東方諸国記』には、この他にもカンボジアやチャンパー、コーチシナといった、インドシナの各港市からの交易の様子が記されている。
 上記以外の当時の交易品を他資料からもざっと上げてみると、砂糖、茶、蜂蜜、タマリンド、ナマコ、フカヒレ、ツバメの巣、シャコガイ、サゴヤシ、シナモン、カルダモン、白檀、乳香、蘇合香、樟脳、蘆薈、没薬、ジャコウネコの腎臓、クジャクの尾、カワセミの羽、犀角、虎皮、鹿皮、鮫皮、白い牛の尾、ベッコウ、真珠、サンゴ、チーク材、黒檀、漆、籐、檳榔子、阿仙薬、大黄、キンマ、ダイヤモンド、サファイア、トパーズ、ジェード、コハク、鉄、明礬、硫黄、硝石、火薬、生糸、絹織物、毛織物、ガラス玉、ビーズ、針、扇、紙、鏡、武器、船、ゾウ、ウマ、クジャク、オウムと、まさに目を見張らんばかりの多彩さである。

 実は、この華々しき交易圏の中には、はるか東シナ海の果ての島国、すなわち日本もやってきている。この交易圏への日本の参入を大きく後押ししたのは、何といっても日本に産する世界屈指の埋蔵量を誇ったその豊富な銀だったのだ。
 日本はこの南海の交易でその銀を使い、主に鹿皮や鮫皮、蘇芳、沈香などを持ち帰った。鹿皮は武士の胴着や袋に、鮫皮は刀の柄や鞘、鎧のおどしに用いられ、なんと日本はそのピーク時、鹿皮を年間19万枚、鮫皮を年間3万枚も輸入していようだ。

 もちろん、交易されている物も、またその市場の形態も、当時とはあきらかに違ってはいるが、今でもインドシナの水辺の市場の賑わいには、そんな昔日の熱帯の港市の残香が、微かに漂っている。

2008/08/23

移動

















 ちょうど100年ほど前。20世紀が今まさに始まろうとしていた1900年。イギリス留学のため、9月8日に日本を発った夏目漱石がイギリスへ着いたのは、10月28日のことだった。

午前8時、漱石を乗せ横浜港を出航したドイツ船籍プロイセン号は、神戸、長崎を経て、上海、福州、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、ポートサイド、ナポリと、点々と南海の港に寄港しつつ、41日目の10月19日、ジェノヴァに入港する。そして、そこから列車に乗り換え陸路パリへ向い、再び船に乗り換えドーヴァー海峡を渡り、10月28日の夜、ようやく目的地ロンドンへ辿り着いたのだ。

 その途中、数日間パリに滞在し、パリの万国博覧会などを見物しているのを差し引いても、日本からイギリスまで50日近い日数を要したことになる。もちろんこれは、漱石が優雅で気長な旅を欲した結果、こういった日程になったのではない。それが当時の、最良にして最短の方法だったのだ。

 その、日本からイギリスまでの50日近い所用時間は、今では10時間足らずにまで縮まったのである。なんとそれは1世紀、すなわちたった100年間で100分の1になった計算になる。まったくもって、驚きとしか言いようがない。

 しかし、そういった距離感は、なにも時間的なものだけによって縮まったわけではないのだ。移動の快適性の進歩によっても、距離感はよりいっそう縮まったと言えるだろう。漱石の日記を読んでみると、その当時の船旅の苦労が縷々と書き連ねてある。

「船少しく揺く、晩餐を喫するに能わず」、「船の動揺烈しくして終日船室にあり。午後勇を鼓して食卓に就きしも、遂にスープを半分飲みたるのみにて退却す」、「船頗る動揺、食卓に枠を着けて顛墜を防ぐ」、「昨日の動揺にて元気なきこと甚だし。且つ下痢す。甚だ不愉快なり」、「床上に困臥して気息淹々たり」、「昨夜、キャビンに入りて寝に就く。熱苦しくて名状すべからず。流汗淋漓、生たる心地なし。此夜、又然り」等々。

 出航前、友人の寺田寅彦に、「秋風の、一人をふくや、海の上」などと洒落れて俳句などを書き送っていた漱石だったが、いざ出航してみるとこんな有様で、途上、妻に宛てた手紙には、「目が余程くぼみ申し候」などと書き記している。

 そもそも旅を意味する英語「travel」は、「苦痛」とか「骨折り」を意味するフランス語「travail」を語源としているらしいが、やはり当時の日本人にとっての海外への旅は、その費用もさることながら、時間的にも、体力的にも、よほどの決心なくしては実現しえないものだったのだ。

 それが今ではどうだろう。たとえば東京からバンコクまでの移動に使う飛行機の所用時間は、およそ6時間。空調管理システムによって適温に保たれた機内の柔らかいシートに腰掛け、スタッフが手元まで運んでくれる冷たいドリンクを飲み、温かい機内食を食べながら、音楽を聴き、映画を観て、そして時として居眠りもし、あっという間に目的地へ到着するのである。
 何もかもが目まぐるしく進歩した現代、ウトウトと柔らかいシートで居眠りしながら、ほんの数日で地球をひと回りすることさえも可能となったのだ。そしてこの距離感はこれからも確実に、もっともっと縮まってゆき、地球はさらに、よりいっそう小さくなっていくはずである。

 そういえば子供の頃、駅で見送る列車がプラットホームから離れどんどんと小さくなってゆき、とうとう線路の彼方に消えてしまった瞬間、その列車はもう自分の想像もおよばない、はるか遠い世界へ行ってしまったような気がした。それは、今、思い描く「外国」などという所よりも、もっともっと遠かった。
 確かに、僕もそんな現代文明の恩恵にあやかり、あっという間に海を飛び越えノラリクラリと海外で休暇を過ごすわけだが、やはりあの子供の頃に感じたはるか遠い世界が、もうこの地球上からなくなってしまったことは、それはそれで何だか少し淋しくもあるのだ。

十字

















 ラオス南部、かつて大河メコンの畔に栄えたサヴァナケットという街は、眠っているような街である。しかも、眠りを醒ます王子が現われないまま延々と眠り続け、とうとう老いさらばれてしまった美しき眠り姫、といった感じなのだ。

 フランスはここインドシナの地でも、世界に散らばる他の植民地の例にもれず、誇り高きフランスの街並みを精力的に造営している。
 その仏領インドシナ最大の都市となる、植民地経済の中心地サイゴンでは、フランス植民地統治の象徴としてのインドシナ総督府を手始めに、サイゴン大聖堂、市庁舎、税関、裁判所、銀行、郵便局、市場、オペラ座、ホテルと、宗主国の威信を知らしめるかのように、本国フランスの街を模した壮大な建造物が次々と建てられ、その美しい街並みは以後その街に「東洋のパリ」という称号を与えることになる。
 同じく、仏領インドシナの政治の中心地ハノイでも、理事長官邸やハノイ大教会を始め、銀行、郵便局、オペラ座、ホテルと、旧来のヴェトナム人の街を押し崩し、燦然たるフランスの街が出現したのだ。そして規模の差こそあれ、サヴァナケットもまた、そういった街だったのである。

 メコンの船着場からのびる狭い路地を抜けると、おそらくこの街が造られた植民地時代、そこがこの街の中心だったのか、見ようによってはパリのどこかの広場にでも見えなくもない、ネコの額ほどの小さな広場になっている。
 しかし広場は、今ではもうすっかりと寂れ果てていて、往時の輝きをしのばせるものと言えば、その矩形に区画された植え込み中で淋しく揺れる、ブーゲンビリアの花くらいのものだ。

 だが、そんな寂れ果てた広場の奥に目をやると、そこにはまばゆいばかりに光り輝く白亜の教会が、サヴァナケットの小さな空に、小さな十字を高々と掲げていた。
 外壁に塗られている真新しいペンキの白は、やはりこの辺りの地味な景色の中ではあまりにも異質で、あたかもそれは、白い墓標のように光り輝き聳え建っているのだ。
 かつて、植民地主義の一里塚のごとく世界各地に立てられていった、これもまたそんな十字の一つだったのか。

「キリスト教徒と香料」
 この合言葉を旗印にして、輝かしき大航海時代の幕は切って落とされたわけだが、キリスト教の布教は、キリスト教徒にとっての使命であり、また何といってもそれが彼らの善意でもあったことも疑いのないことである。
 彼らは、彼らの言うところの世の絶対的真理を知っていて、それはとても幸福なことで、逆にそれを未だ知らない人々は、彼らにとってとても不幸な人々だったのだ。

〈あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らの父と子の聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい〉(新約・マタイ福音二八—一六)

 かくして彼らは、聖書に綴られた言葉を胸に熱い使命感と善意に燃え、未知なる大海の彼方へと向かうことになったのだ。
 ところが残念ながら、彼らのその誇り高き善意は現実として、傲慢で排他的な、独善極まりない行為として各地の歴史に暗い影を落とすことにもなったのだ。

 特に南アメリカにおける彼らの非人道的と言わざるを得ない改宗行為は枚挙にいとまがないが、インドでも、異教徒を根こそぎにするためヒンドゥー教の寺院を破壊し、また改宗させた人々を完全にヒンドゥー教から離別させるため、ヒンドゥー教が神聖なる生き物として食べるこを戒めているウシを強制的に食べさせることさえ行っていたらしい。

 幸いインドシナでは、そのような露骨な改宗行為は行われなかったようだが、十七世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジの著書『シャム旅行記』(岩波書店)の中には、タイの王の謁見の場でルイ十四世の言葉を代弁する大使の演説が入念に書き残されている。それを見ると、当時の彼らキリスト教徒の、キリスト教徒としての揺るぎない自尊心と、排他的な歪んだ正義感がよく現れていて面白い。

〈王は陛下の真の栄光に思いを至らせばこそ、ぜひとも陛下が、現在地上において包まれておられるこの至上の尊厳の由って来たるところは、真の神を措いて他にないことを御賢慮下さるよう、切に願っておられます。真の神とはすなわち全能、永遠、無限の神、キリスト教徒の認める神であり、諸々の王をして君臨せしめ、万民の運命を司るのは、ただこの神のみであるゆえに、陛下のあらゆる偉大さを捧げるべきは、天と地の神なるこの神であって、東洋において人びとの崇める弱き神々ではございませんし、そもそもこれらの神々の無力さは、かくも英邁にして明敏であらせられる陛下の御洞察を免れるはずのないところでございます〉

 しかし、何と言っても特筆すべきは、また彼らのそれが多くの場合、まさに布教という皮をかぶった侵略行為以外のなにものでもなかったということである。異教徒を強制的に改宗させ、富を掠奪し、異教徒の土地を流血をもって征服することが、「キリスト教」という旗の下に、みごとに正当化されたのだ。
 皮肉にも、布教という宗教行為が軍事力と両輪をなし、ヨーロッパの植民地帝国は全世界へと拡散拡大してゆくのだった。。

 かくして、その侵略者たちの血塗られた足跡には、煌めく十字架が一本、また一本と立てられていったのである。

2008/08/21

自然

















 〈神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのを支配させよう」
 神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」〉(旧約・創世記1-25)

 これは『旧約聖書』の「創世記」の中にある、あまりにも有名な一説である。
 そもそも『聖書』という書物は、他の宗教のそれと同様、表現方法において実に複雑な比喩を駆使していることから、さまざまな解釈を可能にする含みを持っている。しかし少なくとも、『聖書』という書物に説かれている世界観が、人間をその中心的存在として展開していることは、疑いの余地のないことである。

 そんな、人間中心主義の宗教と言われるキリスト教世界では、「創世記」にある通り、まず人間と動物とはまったく異なった意義を持ってこの世に存在しているのだ。
 すなわち人間は、神が自らに似せて造った特別な創造物であり、動物や鳥、魚といった人間以外のすべての生物は、神がその人間の利益のために造ったものなのである。ようするに人間は自然の一部などではなく、完全に自然から超越したものとしてこの世に存在していて、人間は、人間のために存在しているすべての生物を思いどうりに利用できる権利を、神によって与えられたというわけなのだ。

 したがって基本的に彼らキリスト教徒は、たとえば動物を殺し食べる際にその動物に対して、特別な畏怖や畏敬の念を感じる必要性はなかったのである。食卓に肉がのぼることへの感謝は、もとより動物にではなく、神に対して行なうのだ。

 このように、そもそもキリスト教を始めとするヘブライ起源の宗教には、「自然」というものを神聖視する観念は存在しなかったのである。たとえば、「神聖なる森」などというものもなかった。森も、木も、そして動物も鳥も、すべて神から人間に与えられた一つの資源であり、『聖書』の中に神の心を読み取るように、自然の中に神の計画を読み取ることはできるが、その自然自体を神自身に置き換えることは、すなわち神を冒涜することを意味したのである。

「キリスト教は自然を殺した」
 そう指摘されたように、これがかつての狭い意味でのヨーロッパ人が、何の気の咎めを感じることなく、動物を殺し、森林を伐採してきた所以であり、またそれはすなわち、彼らの神の意志でもあったわけだ。

 いっぽう古代インドでは、取り巻く自然というものを単なる物質としてとらえる考え方は、ついに生まれなかった。
 よって古代インドでは、我々が普通に使うところの「自然」を意味する言葉が存在していなかったのである。では、古代インドにおいて「自然」にもっとも近い言葉とはいったい何だったのかというと、それはどうやら「神」という言葉になるらしい。

 自然現象はことごとく神格化され、人々は彼らの力を強化するために祭祀を行い、供物を捧げ、讃歌を謳い、そんな神はその見返りとして、人々に多くの恵みを与えるものだったのである。まさに彼ら古代インド人にとって自然は、ただひたすら賛嘆する対象であり、神格化された自然と人間との間には、強い共存の相互関係が保たれていたのだ。

 またインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』の中には、「リタ」という言葉が出てくる。リタは、天体の運行や季節の循環を始めとする、宇宙、自然を貫く秩序を意味していて、日月や大気の流転も、また万物の生成消滅もすべて、このリタにしたがい繰り返されると考えられていた。そして面白いことに、リタを彼らは、人間の倫理や道徳をも貫く根本原理としてとらえ、リタに正しくしたがい生きることを、人間の在るべき真の姿としたのである。

 ちなみに我々の使う「自然」という言葉の起源だが、その古代中国で用いられた「自然」という言葉は、「自ずから然りあり」「あるがまま」といったことを意味したもので、今言うところの「自然」には、「天」「天地」「造化」「万物」などといった言葉が用いられていた。その中でも、最も重きをおかれていたのは天である。

 すべての自然現象は天に起因し、天に根源を持ち、人間もまた天に従属する存在にすぎなかった。人間は天と合一することによって、従来の不完全性を克服し、それはそのまま、天を介しての自然と融合することでもあったのだ。

 また、万物の実体を形づくるものとして発展していった「気」の概念においても、人間はそれら万物と何ら隔たった存在ではなく、まさに人間共々、万物はすべて、気という実体によって連続、一体化するものと考えられていた。そして道教においては、人為を否定した無為自然こそが、人間の在るべき真の姿とされたのである。

 もちろん日本でも、古代神道はまさに自然崇拝の最たるもので、山にも海にも、滝や岩、老木、シカやサルにも、神の姿を見出だしていたのである。また「花鳥風月」という言葉が示すとおり、我々日本人は、自然を愛でるという独自な文化も発達させたのだ。

 ようするにアジアでは、古来、自然は常に侵されざる神聖なものだったのだ。多くの神々が、太陽や大地、森や川、鳥や獣に姿を変え、我々人間の生を圧倒的な威光を放ち取り巻いていたのである。
 したがって、自然そのものに神を見るアジアでは、キリスト教世界のような、人間の力で自然を征服しようなどという思考はついに生まれなかったのだ。

尊厳

















 近頃「食の尊厳を」などという言葉をよく耳にする。爆発的な経済成長を遂げ、その取り巻く物資の豊かさもさることながら、供給される食物の量も目を見張るほど豊かになり、日常生活の中には食物が溢れ返り、食に対する尊厳が失われたと危機を感じ始めたのだ。そこで、食物を大切にしようというのである。

だがそれを、今の若い世代に求めたところで、所詮無理な話しなのかもしれない。もう我々は、食物の生産の場から、完全に離れてしまっているのだ。もはや我々にとって食物は、額に汗して畑を耕し手に入れるものではないのである。今日の我々の社会では、食物はスーパーマーケットやコンビニエンスストアで簡単に、欲する時に欲するだけ、いくらでも手に入るのだ。

 ようするに、もはや我々に食物をもたらしてくれるのは、太陽の輝きでも、肥沃な大地や豊穣の海でもなく、農夫や漁師たちの汗でも、もちろん神や仏でもない。すなわちそれは、「マネー」なのだ。
 そして、そんなスーパーマーケットやコンビニエンスストアでは、マニュアルに定められた時刻になると、まだまだ十分に食べられる食物が、次から次へと大量にゴミ箱へ投げ捨てられている。こんな社会の現実を前にして、いかにして食の尊厳を説くというのか。

色彩

















 そういえば、僕が青春を過ごした70年代から80年代は、とにかくアメリカは素晴らしいという時代だった。アメリカ人のようにナイフとフォークを美しく使いこなせ、アメリカ人のように流暢に英語が話せることが、我々日本人にとっての憧れであり、それは一種のステイタスでもあったのだ。

 今でこそ、日本の伝統はある種の格好良さとして受け入れられているが、当時、雅楽をやっていた僕に対するまわりの人々の反応は、「何でまたそんな古くさいものを?」というのが常であったし、日本のサラリーマンのスーツの色を欧米のサラリーマンのスーツの色と比べ、自ら「ドブネズミ色」だと酷評していたのもこの頃の話しである。

 そんな頃世間では、アメリカ人はぜったいに「ごめんなさい」と言わないのだという話が広く取り沙汰されていた。アメリカ人にとって「ごめんなさい」と言うことは負けを意味することであって、何かにつけてすぐに「ごめんなさい」と謝る日本人のことを、我々日本人自らが国際社会における敗者だと侮蔑していたのである。

 だが僕はアジアを旅し始めて、幾度となく実にたくさんの、アメリカ人の「ごめんなさい」を聞いた。そして今、僕は東京の街の中を歩いていると、「ごめんなさい」という言葉がすっかり消えてしまったなと感じる。肩がぶつかっても、足を踏み付けても、もはや「ごめんなさい」を口にする若者はほとんどいなくなった。

 これを、若者たちの倫理感が欠落したのだと、彼らを一方的に批判することは大きな間違いである。70年代を、そして80年代を生きた我々大人たちが、素晴らしいアメリカ人を夢見、決して謝らない、強い日本人を目指して齷齪してきたその努力が、ようやく今こうして次の世代である若者たちの心の中で実を結んだのだ。

 ちなみに、サラリーマンのスーツの「ドブネズミ色」だが、色彩というのは、その民族の生を営む風土の中から生まれるものである。したがって、イタリアの乾燥した明るい太陽の下で生まれた色彩感覚と、日本の湿潤な陰影の中で生まれた色彩感覚とは当然、異なってしかるべきものであって、それを比べ、優越つけるなどという行為自体が、そもそもバカげたことなのだ。

 灰色、灰白色、灰汁鼠、鼠色、白鼠、薄鼠、素鼠、中鼠、繁鼠、濃鼠、黒鼠、墨色、薄墨色、濃墨色、桜鼠、梅鼠、白梅鼠、薄梅鼠、松葉鼠、島松鼠、呉竹鼠、青柳鼠、牡丹鼠、藤鼠、山吹鼠、桔梗鼠、浮草鼠、千草鼠、葡萄鼠、小豆鼠、暁鼠、薄雲鼠、空色鼠、水色鼠、紅鼠、紫鼠、臙脂鼠、藍鼠、藍生鼠、藍味鼠、茶鼠、茶気鼠、黄鼠、玉子鼠、貴族鼠、源氏鼠、小町鼠、絹鼠、御召鼠、軍勝鼠、遠州鼠、利休鼠、都鼠、鴨川鼠、嵯峨鼠、江戸鼠、深川鼠、浪速鼠、淀鼠、湊鼠、鴇色鼠、鳩羽色、鳩羽鼠、山鳩色、鈍色、青鈍、銀鼠、銀色、白銀色、錫色、鉛色、鉄色、鉄鼠、錆鼠、砂色、壁鼠、生壁鼠、納戸色、納戸鼠、錆納戸、消炭色……。

 我々日本人は、世界に類をみない、目を見張るほど豊かな、美しい「ネズミ色」を持っているのである。