2008/10/01

循環


















 ヴィシュヌは、ヒンドゥー教の三大神の中の一柱である。

 端正な顔立ちをした美少年で、手は4本あり、それぞれの手には法螺貝、輪宝、棍棒、蓮華を持ち、怪鳥ガルーダに乗っている。

ちなみに三大神とは、創造神ブラフマン、破壊神シヴァ、そして維持神ヴィシュヌであり、実は彼らは三柱であると同時に、また一柱でもあるのだ。

 ヒンドゥー教では、宇宙は1カルパという単位で生成消滅を繰り返すとされていて、1カルパはおよそ43億2000万年。そしてそこに、この三大神が重要な役割をはたしているのである。

 まず、混沌とした暗黒の大海の上に、千の頭を持つ大蛇ナーガが三巻半し浮かび漂っている。その上にヴィシュヌが横たわり微睡み始めると、ヴィシュヌの臍から一輪の蓮華が芽を出し、やがてその花弁の中から創造神ブラフマンが生まれ宇宙を創造する。

 そしてやがて1カルパが近付くと、100年におよぶ旱魃が起こり、生物はことごとく死滅する。

 そこでヴィシュヌは破壊神シヴァとなり、まず世界を徹底的に涸渇させ炎に包み、炎は地下界から天界にまで達し、いよいよ三界すべてを焼きつくす。

 またシヴァは次に巨大な雲を吐き出し、雲は雷鳴を轟かせ100年にわたり雨を降らせ、世界は水没し、とうとう三界もろとも一つの混沌とした暗黒の大海となるのだ。

 こうして、その混沌とした暗黒の大海の上に、やがて大蛇ナーガが三巻半し浮かび漂い始めると、ヴィシュヌはその上に横たわり、再び微睡みに就くのである……。

同化


















 フランスによるラオス統治が「愚民政策」だったのに対して、仏領インドシナ連邦の中心だったヴェトナム統治は、まさに「同化政策」だった。
 それは、植民地ヴェトナムを本国フランスと同化させようとするもので、政治、経済、文化、教育のあらゆる面に及んだのだ。

 そこには「野蛮人」の幸福は、白人を模倣し、白人と同じ生活習慣を身につけ、そしてキリスト教に改宗することだとする、誇り高きフランス人の善意があったことは否定しない。
 だがこの同化政策は残念ながら、ヴェトナム人をフランス人と同化させ、お互いに良好な交友関係を確立しようとしたものでは決してなく、あくまでもそれは、植民地統治を円滑に運営し、植民地から効率よく営利を貪り取るための一つの手段だったのである。

 かくして、宗主国フランスによる同化政策は容赦なく行なわれたわけだが、そんな中で、ヴェトナムの文化からある大きなものが失われてしまったのだ。文字である。

 もともと中国の強い影響下にあったヴェトナムでは、かつての日本と同様、古くから漢字が公式の文字として用いられており、漢字は儒学者の文字を意味する「字儒」と呼ばれていた。
 そして日本で平仮名が、片仮名が生み出されたように、ヴェトナム独自の文字も生み出されたのだ。「字喃」である。

 字喃は、漢字をもとにして作られた一種の合成語なのだ。たとえば、「正」を偏に「月」を旁にして正月を意味するといった会意文字や、「南」を偏に「五」を旁にして「ナム」と発音し五を意味するといった形声文字など、まさにヴェトナム民族固有の言葉を書き記すことへの情熱が、この字喃の一点一画に溢れていたのである。

 しかし今ではもう、その文字はヴェトナムにはない。今ヴェトナムで使われているのは、「クォックグー文字」と呼ばれている一種のローマ字なのだ。
 そもそもこれは、この国へやってきた宣教師たちが行なった、ヴェトナム語のローマ字表記への変換という試みから始まったのである。そしてこの試みが、この国がフランスの植民地となったことによって、ヴェトナム語のフランス語への同化の一手段として国家規模で奨励されることになり、とうとう字儒、字喃の使用は禁止されてしまうことになったのだ。

 これも、長い歴史の中での一つの文化の変遷にすぎないと言われれば、確かにそうなのかもしれない。それに筆画が多く複雑な字儒、字喃とは違い、簡易なクォックグー文字は、一般民衆の文盲の数を急速に減少させたと言われている。
 だが、文字は文化の根幹を成すものだ。太古から脈々と継承されてきたヴェトナムの文化の中から、字儒、字喃という文字がこのような形で消えてしまったという事実は、やはり一つの悲劇と呼ばれてしかるべき事実ではないかと僕は思う。

 もしもラオスが、愚民政策によって見捨てられることなく、隣国ヴェトナムと同様、宗主国フランスによる精力的な植民地統治が行なわれていとしたら、あの美しいラオスの文字も、字儒、字喃と同様、ローマ字という味気ない文字に変わっていたのかもしれない。

戒律

















 ブッダは入滅に際して弟子のアーナンダに、「私の亡き後は、私が説いた教えと私が制した戒律とがお前たちの師となるであろう」と告げたと言われている。

「戒律」とは、「戒」と「律」との合成語で、戒は仏教徒の一人として個人的に守るべき規則を指し、律は仏教教団の一員として集団的に守るべき規則を指している。
 インドシナの上座部仏教の僧には227の戒律が課せられており、そして尼僧には、さらに多くの311もの戒律が課せられていたという。その戒律が『パーティモッカ』である。

パーティモッカは、パーリー語の「絆」という言葉を語源としており、まさに僧は、この『パーティモッカ』という絆によって、聖なる共同体として結ばれているのだ。

 『パーティモッカ』は、8つの項目から構成されている。「パーラーチック」「サンカティセー」「アニヨット」「ニッサッキヤ・パーチッティ」「パーチッティ」「パーティデーサニーヤ」「セーキヤ」「アティカラナサマタ」である。そしてこれらはその違反によって、許されぬ大罪、許される小罪、また罰則のあるもの、罰則のないもの等に分類されている。


【パーラーチック】パーラーチックは、許されぬ大罪である。これに違反すると、僧衣を剥脱され、教団より追放される。4ヵ条から成っている。

性交をしてはならない。これは、女性との性交に限らず、同性との性交も、また動物との性交も含まれている。

窃盗をしてはならない。ただし、五マーソクという小額以下のものを盗んだ場合は、これには含まれない。

殺人をしてはならない。これには、他人に殺人を依頼した場合も、自殺を勧めた場合も含まれる。

虚言をしてはならないの。これは単なる嘘ではなく、信徒からの寄進を集めるために、悟を得てもいないのに、悟を得たと他言することや、超能力者だなどと自称することを指す。


【サンカティセー】サンカティセーは、許される小罪の内の重罪である。これに対しての違反は、定められた方法で懺悔することで免罪される。13ヵ条から成っている。

オナニーをしてはならない。ただし夢精はこれには含まれない。

女性の身体に触れてはならない。これには頭髪も含まれる。

女性に淫らな言葉をかけてはならない。

女性を欲情をもつて誘惑してはならない。

男女の仲をとりもってはならない。

自ら僧房を建てる場合、規定されている以上のものを建ててはならない。

寄進者に僧房を建てさせる場合、許可なくして、規定以上のものを建ててはならない。

無実の僧に、パーラチックの罪をきせてはならない。

他の件に事寄せ、その僧にパーラチックの罪をきせてはならない。

教団の秩序を乱し、それに対する他の僧の忠告を無視してはならない。

教団の秩序を乱す僧に同調し、それに対する他の僧の忠告を無視してはならない。

忠告されたことによって、その僧を貶め、それに対する教団の忠告を無視してはならない。

信徒と人情関係を結び、清浄なる信仰を乱し、それに対する教団の忠告を無視してはならない。


【アニヨット】アニヨットは、2ヵ条から成っている。

女性と隠れた場所で、パーラチックやサンカティセーなどの罪を行なっているところを発見された者は、アニヨットの罪になる。

女性と露な場所で、パーラチックやサンカティセーなどの罪を行なっているところを発見された者は、アニヨットの罪になる。


【ニッサッキヤ・パーチッティ】ニッサッキヤ・パーチッティは、許される小罪の内の軽罪である。僧の所持を禁止されている物、また禁止されている量について定めており、これに対しての違反は、違反した物を捨て、定められた方法で懺悔することで免罪される。30ヵ条から成っている。

余分な衣は、10日間は所持していてもよいが、それを超えてはならない。

一夜なりとも、衣を脱ぎ裸で寝てはならない。

衣を作る布が寄進されたが、布の寸法が足らず、次の寄進まで待っている場合、1ヵ月は所持していてもよいが、それを超えてはならない。

親類ではない尼僧に、衣を洗わせたり、染めさせたり、鏝あてをさせてはならない。

親類ではない尼僧から、衣を受けてはならない。ただし、交換する場合はこれには含まれない。

親類ではない信徒に、衣の寄進を要求してはならない。ただし、衣を盗まれたり、失ったり、火に落ちたり、水に落ちたりした場合はこれには含まれない。

衣が、盗まれたり、失ったり、火に落ちたり、水に落ちたりして、衣の寄進を要求するのはいいが、前のもの以上のものを要求してはならない。

親類ではない信徒が衣の寄進をすることを知り、信者のもとへ赴き、より良質で高価なものを要求してはならない。

親類ではない幾人かの信徒が衣の寄進をすることを知り、それらを一つにまとめ、より良質で高価なもの得てはならない。

寄進者が使者を差し向け、衣を買うお金を僧に届ける場合は、僧に直接渡さず、僧の世話役に渡さなくてはならない。その後、僧が衣を必要とする際は、僧は世話役に要求するわけだが、3度要求しても得られない場合は、6度まで世話役のもとへ赴き要求することができるが、それを超えてはならない。かくして僧が世話役から衣が得られない場合は、寄進者のもとへ赴き、世話役からお金を取り返すよう依頼すべきである。

絹と羊毛の混紡の臥具を作ってはならない。

純黒羊毛の臥具を作ってはならない。

純白羊毛の臥具を作ってはならない。規定された割合で、黒、白、黄褐色の羊毛を混織すべきである。

6ヵ年に満たない内に、新しい臥具を作ってはならない。

新しい座具を作る場合は、色を鈍くするために、古い座具の四辺より一定の長さの布片を取り、縫い込まなければならない。

行脚の途中、信徒から羊毛の寄進があれば受けることはできるが、従者がなく自ら携帯する場合は、3ヨジャーナ(約21キロメートル)は携帯していてもいいが、それを超えてはならない。

親類ではない尼僧に、羊毛を洗わせたり、染めさせたり、梳かせてはならない。

金銭を自らの手で受け取ってはならない。また金銭を自らのために貯えてはならない。

金、銀、宝石を売買してはならない。

俗人と物品の売買に関与してはならない。

余分な鉢は、10日間は所持していてもよいが、それを超えてはならない。

10ニウ(約10インチ)にも達しない罅もないのに、親類でもない信徒に新しい鉢の寄進を要求してはならない。

病に伏せた僧の食す五5つの物、牛乳、バター、油、蜂蜜、サトウキビの汁は、7日間は所持していてもよいが、それを超えてはならない。

規定された時期の前に、衣を調達してはならない。

かつて与えた衣を、感情のもつれから、後になって奪い返してはならない。

親類ではない信徒に棉糸の寄進を要求し、衣を織らせてはならない。

親類ではない信徒が衣の寄進をするにあたって、織師に布を依頼することを知り、織師のもとへ赴き、己れの好みに織らせてはならない。

信徒が衣を寄進する行事で衣を受けた場合、規定された期間以上に所持していてはならない。

山野で修行していた僧は、修行の後、6日間は衣を民家に預けておくことはできるが、それを超えてはならない。

教団に対して寄進された物を、己れの物として着服してはならない。


【パーチッティ】パーチッティは、許される小罪の内の軽罪である。僧の主に精神的な働きに原因する行為について定めており、これ対しての違反は、定められた方法で懺悔することで免罪される。92ヵ条から成っている。

虚言をついてはならない。

他人を誹謗してはならない。

皮肉を言ってはならない。

教団に属す資格「具足戒」を受けていない者と共に、聖句を唱えてはならない。

教団に属す資格「具足戒」を受けていない者と共に、隠蔽された場所に3夜以上同宿してはならない。

女性とは一夜たりとも同宿してはならない。

女性に対して6語以上、説法してはならない。ただし、成人男性が隣席している場合はこれには含まれない。

教団に属す資格「具足戒」を受けていない者に、上人法を説いてはならない。

教団に属す資格「具足戒」を受けていない者に、他の僧の罪を暴露してはならない。

地を掘ってはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

地や水に生えている植物を伐り、棄て、打ち、燃やしてはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

破戒行為をなした僧を、隠蔽したり、口を閉ざしたりしてはならない。

教団によって任命された僧を、嫌悪し、軽蔑してはならない。

教団の寝台や椅子、敷物を露地で使用した後、もとに戻さず放置してはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

教団の寝台や椅子、敷物を己れの僧房で使用した後、もとに戻さず放置してはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

すでに他の僧の居住まいする僧房に、後から押し入り、追い出してはならない。

怒って僧を房から追い出してはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

丈夫ではない寝台や踏台に座ったり、寝ころがってはならない。

僧房の天井や壁を漆喰で塗る場合は、3度を超えてはならない。

中に虫がいることを知りながら、その水を草や地にまいてはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

教団の任命を受けずに、尼僧に法を伝えてはならない。

教団に任命され、尼僧に法を伝える場合、日没には止めなくてはならない。

尼僧に法を伝える場合、尼僧の僧房に入ってはならない。ただし、尼僧が病気の場合はこれには含まれない。

尼僧に法を伝える僧を、利欲のために行なっているなどと非難してはならない。

親類ではない尼僧に衣を与えてはならない。ただし、交換する場合はこれには含まれない。

親類ではない尼僧のために衣を作らせてはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

尼僧と共に歩いてはならない。ただし、荒涼たる危険な道を行く場合はこれには含まれない。

尼僧と共に乗船してはならない。ただし、川を向こう岸に渡る場合はこれには含まれない。

尼僧が調理したもの、または尼僧が信徒に依頼して調理させたものを食べてはならない。ただし、尼僧に依頼される以前に、信徒が供養の気持ちを起こし調理しようと思っていた場合はこれには含まれない。

尼僧と共に、隠蔽された場所に座してはならない。

病気でもないのに、施食処で2度以上、食物を受けてはならない。

信徒が家に招き、飯、水菓子、乾菓子、魚、肉の5種のいずれかを寄進する場合、4人以上の僧が赴いてはいけない。

信徒が家に招き、飯、水菓子、乾菓子、魚、肉の5種のいずれかを寄進すると伝えてきたにもかかわらず、それを無視し、他家へ赴いてはならない。

托鉢で、信徒が多量の食を差し出した場合、3鉢以内は受けることができるが、それ以上を受ける場合は、他の僧に分配しなくてはならない。

病気でもないのに、食事を終えた後、追加の食事をしてはならない。

食事を終えた僧に、戒律を破らせるため、追加の食事を勧めてはならない。

定められた時以外に食事をしてはならない。

食物を一晩貯蔵し、翌日食べてはならない。

病気でもないのに、親類でもない信者に、牛乳、バター、ヨーグルト、チーズ、油、蜜、砂糖、魚、肉などの好美食の寄進を要求してはならない。

信徒から食物の寄進を受ける前に、食物を口にしてはならない。ただし、水と楊枝はこれには含まれない。

他教徒に食物を与えいはならない。

他の僧と托鉢に行く際、良からぬ行為をするために、その僧を追い返してはならない。

招かれてもいないのに、食事中に家に立ち入って、座についてはならない。

男性を伴わない女性と、隠所で共に座してはならない。

露な所で、女性と共に座してはならない。

信徒の家で、飯、水菓子、乾菓子、魚、肉の五種の食物を寄進されている際、同席する他の僧に何も告げずにその場を去り、他家へ赴いてはならない。

定められた4ヵ月以外に、衣、食物、寝具、医薬の四資具の寄進を受けてはならない。

軍隊を見に行ってはならない。ただし、然るべき理由のある場合はこれには含まれない。

然るべき理由があり、軍隊を見に行く際は、部隊内で3夜以上止宿してはならない。

然るべき理由があり、軍隊を見に行く際は、戦闘行為や、兵力の編成配置などを見てはならない。

酒を飲んではならない。

他の僧をくすぐってはならない。

水に入って戯れてはならない。

他の僧からの忠告を、軽視したり、無視したりしてはならない。

他の僧を恐がらせてはならない。

病気でもないのに、暖を取るために火を燃やしてはならない。また、それを他人に依頼してはならない。

僧は半月に一度、水浴すべきであり、半月に満たない内に水浴してはならない。ただし、わが国では常に水浴してもよい。

新しい衣を受けた場合は、青色、黒色、黄褐色の3種のいずれかで壊色しなくてはならない。

他の僧に与えた衣を、相手の同意を得ずして、身に着けてはならない。

他の僧の鉢、衣、座具、針筒、腰帯などの資具を、たとえ戯れでもかくしてはならない。

生き物を殺してはならない。

中に虫がいることを知りながら、その水を飲んではならない。

審議の終わった事件を、再び問題として持ち出してはならない。

他の僧の罪を知りながら、それをかくしていてはならない。

未成年の男子に具足戒を授けてはならない。

盗賊と共に歩いてはならない。

女性と共に歩いてはならない。

ブッダの教えを誹謗し、それに対する他の僧の忠告を無視してはならない。

ブッダの教えを誹謗する僧と、寝食を共にしてはならない。

ブッダの教えに異義を称えた若年僧を、保護し、寝食を共にしてはならない。

戒律に反した行為を成し、忠告する他の僧に対して開き直ってはならない。

他の僧が戒律の条項を読み上げているのを妨害してはならない。

戒律の条項を読み上げている時、その中の戒律を犯しておきながら、今までそんな条項があったことを知らなかったなどと言い逃れをしてはならない。

怒って他の僧を殴ってはならない。

怒って他の僧を殴ろうと、手を振り上げてはならない。

嘘のサンカティセーで、他の僧を誹謗してはならない。

疑念をかけ、他の僧を不安にしてはならない。

他の僧が口論しているのを、好奇心で陰から盗み聞きしてはならない。

審議の結果に賛同しておきながら、後になって非難してはならない。

審議に出席中、途中で退出してはならない。

教団の指示で衣を他の僧に与えておいたものを、後になって不平を言ってはならない。

教団に寄進されたものを、個人にまわし与えてはならない。

許可を得ずに、王と王妃が共にいる室へ入ってはならない。

落ちていた物を拾って、着服してはならない。また、それを他人に依頼してはならない。もしそれが僧院内であった場合は、所有者へ変換するまでは保管していてもよい。

他の僧に告げずに、僧院外へ出てはならない。ただし、急用のある場合はこれには含まれない。

骨、角、象牙で針筒を作ってはならない。もし作った場合は、打ち砕かなくてはならない。

寝台や椅子を作る場合、脚は8ニウ(約40センチメートル)の高さを超えてはならない。もしこれを超えた場合は、切り取らなくてはならない。

寝台や椅子を作る場合、棉を入れたものを作ってはならない。

座具を作る場合、規定の大きさ以上のものを作ってはならない。もしこれを超えた場合は、切り取らなくてはならない。

覆瘡衣を作る場合、規定の大きさ以上のものを作ってはならない。もしこれを超える場合は、切り取らなくてはならない。

雨浴衣を作る場合、規定の大きさ以上のものを作ってはならない。もしこれを超える場合は、切り取らなくてはならない。

ブッダの衣よりも、大きなものを作ってはならない。


【パーティデーサニーヤ】パーティデーサニーヤは、許される小罪の内の微罪である。僧の食事について定められており、これに対しての違反は、定められた方法で懺悔することで免罪される。4ヵ条から成っている。

親類ではない尼僧から、直接、食物を受けてはならない。

信徒の家で食物の寄進を受ける際、尼僧が信徒に食物について指示したならば、尼僧に席を外すよう命ずべきである。

病気でもないのに、赴いてはならない家で食物の寄進を求めてはならない。

病気でもないのに、森林で修行する僧が、予め危険であることも伝えず信徒に食物を運ばせ食べてはならない。


【セーキヤ】セーキヤは、許される小罪の内の微罪である。僧の生活についての作法や心得が定められており、これに対しての違反は、心の中で懺悔するこしで免罪される。75ヵ条から成っている。 

パー・ヌンで下半身を正しく整えるべきである。

パー・ホームで上半身を正しく整えるべきである。

信徒の家へ赴く際は、衣を正しく身につけるべきである。

信徒の家で座す際は、衣を正しく身につけるべきである。

信徒の家へ赴く際は、威儀を正すべきである。

信徒の家で座す際は、威儀を正すべきである。

信徒の家へ赴く際は、視線を下げて赴くべきである。

信徒の家で座す際は、視線を下げて座すべきである。

信徒の家へ赴く際は、衣を肩にからげててはならない。

信徒の家で座す際は、衣を肩にからげててはならない。

信徒の家へ赴く際は、へらへらと笑っていてはならない。

信徒の家で座す際は、へらへらと笑っていてはならない。

信徒の家へ赴く際は、がやがやと雑談していてはならない。

信徒の家で座す際は、がやがやと雑談していてはならない。

信徒の家へ赴く際は、ふらふらと体を揺すっていてはならない。

信徒の家で座す際は、ふらふらと体を揺すっていてはならない。

信徒の家へ赴く際は、ぶらぶらと腕を振っていてはならない。

信徒の家で座す際は、ぶらぶらと腕を振っていてはならない。

信徒の家へ赴く際は、ぐらぐらと頭を動かしていてはならない。

信徒の家で座す際は、ぐらぐらと頭を動かしていてはならない。

信徒の家へ赴く際は、腰に手をあてていてはならない。

信徒の家で座す際は、腰に手をあてていてはならない。

信徒の家へ赴く際は、頭を衣で包んでいてはならない。

信徒の家で座す際は、頭を衣で包んでいてはならない。

踵を上げ爪先だけで歩いてはならない。

膝を立て両手で抱えて座してはならない。

食物の寄進を受ける場合は、心して受けるべきである。

托鉢の際は、鉢のみに視線を向けるべきである。

ご飯と共に適量の副食物も受けるべきである。

托鉢の際は、鉢の縁に達するまで食物を受けるべきである。

寄進された食物を食べる際は、心して食べるべきである。

寄進された食物を食べる際は、鉢のみに視線を向けるべきである。

ご飯を穴を掘るようにして食べてはならない。

ご飯と共に適量の副食物も食べるべきである。

ご飯は、端からきれいに食べるべきである。

更に多くの副食物を得るために、ご飯で副食物を覆い隠してはならない。

病気でもないのに、自分の好みで食物を求めてはならない。

他の僧の鉢の中を覗いてはならない。

ご飯を大きな塊にして、口に入れてはならない。

適度な量のご飯を小さく丸め、口に入れるべきである。

ご飯を口に運ぶ前から、物欲しそうに口を開けたままにしていてはならない。

食事の際、口の中に指を入れてはならない。

口の中に食物がある時に、話してはならない。

口の中に食物がある時に、更に食物を投げ込んではならない。

食物を半分に噛み切って食べてはならない。

頬を膨らませ食べてはならない。

手をぶらつかせ、食べてはならない。

あたりにご飯粒をこぼしながら食べてはならない。

舌を出して食べてはならない。

音を立てて噛んではならない。

音を立てて吸ってはならない。

手を舐めてはならない。

鉢を舐めてはならない。

唇を舐めてはならない。

汚れた手で食器を扱ってはならない。

ご飯粒のついた鉢を洗ってはならない。

日傘をさす者に法を説いてはならない。

杖を持つ者に法を説いてはならない。

刃物を持つ者に法を説いてはならない。

武器を持つ者に法を説いてはならない。

草履を履いた者に法を説いてはならない。

革靴を履いた者に法を説いてはならない。

車に乗る者に法を説いてはならない。

寝台で寝ている者に法を説いてはならない。

立て膝をして座す者に法を説いてはならない。

頭を包んでいる者に法を説いてはならない。

顔を覆い隠している者に法を説いてはならない。

椅子に座っている者に、地に座して法を説いてはならない。

高所に座す者に、低所から法を説いてはならない。

座す人に、立って法を説いてはならない。

前を歩く者に、後から法を説いてはならない。

道の中央を歩く者に、道の端から法を説いてはならない。

立ったまま大小便をしてはならない。

大小便や唾を草木にかけてはならない。

大小便や唾を水の中に流してはならない。


【アティカラナサマタ】アティカラナサマタは、教団内で争いが起こった際の裁定の仕方が定められている。7ヵ条から成っている。

罪を犯した僧は、教団の面前において、事実の面前において、法の面前において、裁定されるべきである。

教団は、証人、および証拠をもとに、充分な調査を行なった後、有罪無罪を下すべきである。

精神錯乱の結果犯した罪は、その事実を確かめた上、無罪とすべきである。

裁定は、本人の自白を待って下すべきである。

裁定は、多数決で下すべきである。

自白を求めるには、審議の同意をもって行なうべきである。

有罪無罪の判断がつきかねる場合は、草をもって汚物を覆うがごとく、双方ともに懺悔し和解させるべきである。


 これら、微に入り細に入り定められた戒律を、僧の修行生活における単なるルールと解釈することは適切ではない。戒律は、僧の修行の根本を成すものであると同時に、また僧の存在の根本を成すものでもあるのだ。

 すなわち、戒律なくして僧の存在はなく、戒律を遵守するものであるがゆえに、僧は僧として存在しているのである。そして、仏教もまた然り。5世紀の大学僧ブッダゴーサの言うように、「戒律は仏教の命であり、戒律の在る所、すなわちそこに仏教がある」である。

 もちろん、これら戒律の中には、現代の価値観や倫理感にはそぐわないものもあるが、そもそも宗教とは、人類がその長い歴史の中で研鑽してきた、「いかに生きるか」というテーマに対する膨大なる蓄積である。そこには必ず、我々が生きて行くためのヒントが隠されているはずだ。

2008/09/29

開拓

















「イサーン」。タイ東北部は、そう呼ばれている。イサーンは、サンスクリット語の「イーシャーナ」を語源としていて、これはヒンドゥー教の三大神の一柱シヴァを意味している。
 しかし、神々しい名前とは裏腹に、イサーンはタイ全土の中でも最も貧困な地域とされていて、そのイサーンという言葉にはかつて、「貧しく無教養な田舎者」といった侮蔑の意味をも含んでいたらしい。

 そんなイサーンを、ローカルバスの車窓から眺めていると、右も、左も、どこまでも乾ききった潤いのない大地が、遠く地平線の彼方まで続いている。そして、広い大地の中に点在する、実に貧弱な潅木の近くには、同じくらい貧弱な骨張った牛たちが、わずかな草叢から大地の恵みを貪っている。

 しかし、少なくとも17世紀末には、こんな情況ではなかったようだ。当時、この国に滞在していたフランス人宣教師ジェルヴェーズはその頃の有様を、「ここの森林は国土の大半を覆い尽くす極めて広大なもので、そのとてつもない深さによってこの国を横切ることはおそらく不可能だろう」と書き記している。すなわちタイ東北部にもかつては、多くの野性動物の生息する豊かな森林が、確かにあったのだ。

 その森林に異変が起こり始めたのは、19世紀初頭のことだった。ヨーロッパの列強が地球規模で、木材の確保に乗り出したのである。この熱帯の国の森林から伐り出された豊富な木材はかつて、この国の海外貿易における重要な輸出品だったのだ。

 だがもちろんヨーロッパも、かつては南部地域をのぞいた全土のほぼ95パーセントが、鬱蒼とした豊かな森林に覆われていたのだ。
 ところが、人口の増加による生活資材としての木材需要の増大や農地の拡大によって、森林は次第に姿を消し始めるのである。そしてさらに、産業構造のめざましい発展によって、またその結果として生じた生活様式の華々しい向上によって、木材は様々な分野で飛躍的に需要をのばし、ヨーロッパの森林は見る見るうちに伐りつくされてしまうことになるのだ。

 そんな情況の中、イギリスでも木材資源の枯渇は、早くから深刻な問題となっていた。特に大航海時代をむかえ17世紀になると、すでに大型の輸送船や軍艦を造るための木材を国内で確保することが難しくなり、イギリスは、スカンジナビアやロシア、バルト海の沿岸から木材を調達し始める。だが、17世紀後半になると、もうヨーロッパの主要な積み出し港周辺の森林はほとんど伐りつくされてしまうのだ。

 そこでイギリスは、次にアメリカからの木材の調達に乗り出すのだが、これも18世紀末になると、主要な河川周辺の森林はほとんど姿を消してしまう。そして19世紀初頭、アメリカに続き木材の調達を行なっていたカナダにおいても主要な森林がほとんど伐りつくされてしまうと、いよいよイギリスは東南アジアの森林に目を向けることになるのである。
 こうして、やがてタイの森林から伐り出された膨大なチーク材がイギリスを目指し、はるばる海を渡り始めるのだ。

 実はこの「チーク」と呼ばれる、ここインドシナに自生するクマツヅラ科の高木は、極めて大きな強度と優れた耐久性をかねそなえた、まさに船材として最適なものだったのだ。だがトラックはおろか、道路すらなかった当時、この比重の重い大木を山地から伐り出し運搬するには、相当な労力を要したのである。

 その最盛期、タイでは数万頭ものゾウが作業に従事させられていたらしい。伐採されたチーク材はまずゾウに牽かせ、山から下ろし、川まで運ばれた。そして、そこから川に浮かべられ、支流から本流へと、チャオプラヤ河をはるばる河口のバンコクまで流されたのである。
 しかし、こんなふうに言葉にすると、至極簡単な作業のように思えるが、実際は、我々が思い描くよりもはるかに大変な作業だったのだ。なにぶんにも、流されるのは小さな笹舟などではなく、巨大な木材である。

 必然的にその作業の多くは、川が水量を増す雨季に行なわれるものの、いくら雨季とはいえ、途中、何らかの障害によって木材の流れが止まってしまうこともあった。そんな時はまたゾウを使い、流れなくなってしまった巨大な木材を引き戻し、押し流し、こんなことを何度も何度も繰り返しながら、下流へ下流へと流していったのである。
 なんと、山から伐り出された一本のチーク材がバンコクの河口まで辿り着くには、平均して4、5年もの歳月を要したらしい。現代からは想像もつかない、気の遠くなる話である。

 こうして19世紀初頭、ヨーロッパ列強の侵食によって異変が起こり始めたこの国の森林は、確実に、しかも急速に減少し始めるのだ。そしてさらに、この国の米による国際市場への進出が始まり水田需要が爆発的に増大すると、いよいよこの国の森林は壊滅的な事態をむかえることになるのである。
 ある資料によると、タイの森林は1961年の時点で、全土の52.3パーセントにまで減少しており、それからまたわずか30年の間に26.0パーセントにまでも減少してしまっているのだ。

 実は、そんなタイ全土の中でも最も森林の減少の激しいのが、タイ東北部イサーンなのである。1961年の時点で、42.0パーセントにまで減少していたイサーンの森林は、1973年になると30.0パーセントにまで減少し、1982年には15.3パーセントに、そして1993年には、12.7パーセントにまでも減少してしまっているのだ。
 すなわち、イサーンではわずか30年余りの間に、なんと7割もの森林が消滅してしまったのである。

 僕はいつも、タイの田舎をバスで走っていて、すっかりと見渡すかぎりの荒野と化してしまった大地の中に、ポツンと一本だけとり残された孤独な大木を見つけると、必然なのか、それとも偶然なのか、その木が今まで人間に伐り倒されることなく、そこにそうして残ったという奇跡のことを思う。そして改めてまた、人間という生き物のいとなみの壮絶さを思わずにはいられない。
 イサーンには、太古から途切れることなく続いてきた、人間と自然との関わりにおける一つの答えが、現実の風景として広がっているのだ。

 あの日、荒野の中にボツンと取り残されていた大木の傍からバスに乗り込んだ親子は、僕の斜め後の席に座っていた。母親は、子供の肩をやさしく抱きかかえながら居眠りを始め、子供もまた、母親の膝に吸い付くようにして眠っていた。
 その小さな子供が大人になる頃、あの辺りはいったいどうなっているだろう。あの大木は、まだあそこで無数の木の葉を風に揺らしながら、涼しい木陰を落としているだろうか。
 またそんな大木が、かつてのように多くの仲間たちに囲まれ空いっぱいに枝を広げる日が、はたしてこれからやってくるだろうか。もしも未来に、そんな日が本当にやってくるとすれば、それは、我々人間がこの地球上から消え去った後のことなのかもしれないが。

2008/09/11

立前

















 タイの僧は、托鉢で得たものは肉でも魚でも何でも食べる。ところが、破戒にはならない。それは「三種の浄肉」と呼ばれる、それが己れのために殺した肉ではなく、己れのために殺したということを聞いた肉でもなく、また己れのために殺したという疑いのない肉であれば食べてもかまわないという、実に柔軟な理論によるのだ。

 これは、ずいぶんと都合のいい言い訳のように思えるが、頭を丸め「精進」などという表看板を掲げ高潔を装いながら、裏では酒をあおり、肉をくらっているよりは、よほど清潔だと言えるだろう。それに、もともと原初の仏教では肉食は必ずしも禁じられてはいなかったし、そもそも人間は草食動物ではないのだ。こと「自然」という観点から考えてみても、人間が肉食をするという行為は、とても自然な行為なのである。

 したがって、草食動物ではない我々は、我々以外の生き物を大なり小なり食べなくてはいけない。もちろん、菜食主義というものもあるにはあるが、それはあくまでも「主義」であって、人間という生物の「性質」ではないのだ。

 実際、植物から摂られるタンパク質には、動物から摂られるタンパク質に比べ、必須アミノ酸がはるかに少ない。必須アミノ酸が少ないということは、体内で体の組織を作るために必要なタンパク質にすぐに変化できないということであり、その結果として、菜食主義者には常にタンパク質が不足する危険性がつきまとっている。
 また、玉子や乳製品さえ口にしない厳格な菜食主義者は、カルシウムやリン、鉄といったミネラルやいくつかのビタミンが欠乏する恐れがあり、彼らには日々、栄養バランスの維持のための多大な努力が必要となるのだ。

 ようするにタイの僧にとって重要なのは、不必要に生きものを殺さないということであって、食べないことではないのだ。

 ちなみに僕は非常に極端な男で、もちろんそれを奨励しているわけではないが、レジャーとしての釣りよりも、食べるための捕鯨の方がよほどましだと思っている。
 残念ながら、魚を針で引っ掛けて釣り上げ、口の肉を引き千切って針をもぎ取り再び水の中へと返してやる、釣り愛好家たちの愛の形「キャッチ・アンド・リリース」に、僕は愛などこれっぽっちも感じない。

2008/09/02

宇宙


















 インドでは古くから、宇宙の構造や生成に関する論議が盛んに行なわれていた。『リグ・ヴェーダ』の中にも、その熱い研鑽の痕跡が見て取れる。『リグ・ヴェーダ』とは、バラモン教、および後のヒンドゥー教の根本聖典である。

 「ヴェーダ」という名称は、「知る」を意味する言葉を語源としていて、聖句マントラを集めた古聖典の総称なのだ。
 ヴェーダは、『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、そして『リグ・ヴェーダ』の4種を数えで、『リグ・ヴェーダ』はこれら4種のヴェーダの中でも、最重要、かつ最古のものとされ、その起源は遠く紀元前十数世紀にまでさかのぼると言われている。
 そこには、宇宙創成をうたった数々の劇的な哲学的詩編が綴られており、その宇宙観は、やがて同じインドという大地から生まれる、仏教やジャイナ教を始めとする数々の宗教教理の中で、さらなる発展をとげることとなるのだ。

 それらの宇宙観は、それぞれに独自の理論を形成してゆくわけだが、また多くの共通点も内蔵していたのである。その共通する最も特徴的な点が、宇宙の中心に地から天へ貫く聖山を据えていることである。聖山は「メール山」、または美称接頭辞をつけ「スメール山」と呼ばれ、それがまた漢字音写され「須弥山」などとも呼ばれた。
 仏教では、5世紀にインドの仏僧ヴァスバンドゥによって著された『倶舎論』の中で、須弥山を取り囲み広がりゆく大宇宙が壮大なスケールで具現化されている。その仏教の宇宙観によると、まず須弥山の高さは8万由旬とされている。「由旬」とは、古代インドの距離を表す単位である。

 ちなみに古代インドに開花した文明は、インカとともに「0」を用いた最古の文明であることが知られているが、「アラビア数字」と呼ばれている今日ごく一般的に使われている数字もまたインドのグワリオール数字を起源として生まれたもので、実は古代のインド人は、世界有数の極めて高度な数学的知識を持っていたのだ。
 彼らはこういった知識をもとに、身の回りのものから、神話、空想の世界にいたる、ありとあらゆるものを数に置き換え表現しており、古代インドの空間や時間を表す単位の豊かさは、その数字の桁外れな大きさと共に、まさに目を見張るものがある。
 須弥山の高さを表すこの「由旬」という単位は、現代の単位に換算すると、1由旬、およそ7キロメートルになる。ということは、須弥山の高さ8万由旬は約56万キロメートル。ちなみに、地球から月までの距離が38万4,400キロメートルということは、須弥山という山がとてつもない高さであることがわかるだろう。

 須弥山は、金、銀、瑠璃、水晶の四宝でできており、中腹にはおびただしい数の諸天の居所が連なっている。この場合の「天」というのは、いわゆる「神」のことを意味し、それら建ち並ぶ諸々の天の居所の最上部には、四天王が居を構えている。
 四天王とは四方を守護する、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四天のことである。これらの天は、もとはインド古来の神だったのだが、仏教はそういう意味では実に寛容な宗教で、他宗教の神を否定するどころか、このように積極的に採用しているのだ。

 こういった寛容さと言うか、曖昧さと言うか、悪く言えばいいかげんな性質は、何も仏教に限ったことではなくて、アジアの種々の宗教の間では、むしろ「包容と調和」はいたって自然な現象だったのである。たとえば、日本の七福神にしてもしかりだ。
 七福神とは言わずと知れた、恵美須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七神のことである。しかし、恵美須はわが国の神道の商売繁盛と海運守護の神だが、大黒天はインドのヒンドゥー教の破壊神シヴァのことで、毘沙門天はインドの財宝の神、弁財天もインドのヒンドゥー教のもとは水の守護神で、福禄寿と寿老人は中国の道教の長寿の神、そして最後に布袋はなんと中国の仏教の禅僧なのだ。こんなインターナショナルな神々が、仲良く1つの船に乗って正月の茶の間にやってくることなど、キリスト教を始めとする、一神教を信仰する人々にとってはまさに想像を絶することに違いない。
 もちろん、あの宗教の坩堝インドにおいてもしかりで、たとえばヒンドゥー教では、なんとブッダも神ヴィシュヌの化身の1つとされていて、インドでは仏教をヒンドゥー教の一派だと思い込んでいる人々すらいるのだ。この辺が、多神教のなんとも大らかなところである。

 そんな、諸天で賑わう須弥山の形は方形とされていて、山頂は一辺が標高と同じ8万由旬という、これまた桁外れの大きさで広がっているのだ。そこには三十三天の居所「トウ利天」があり、中央には帝釈天、いわゆるバラモン教で言うところのインドラ神の居所「殊勝殿」が絢爛と光り輝いている。
 ちなみに太陽は、月や星たちとともに、この須弥山の中腹を廻っているのだ。しかし廻っているとは言っても、そのまま宙に浮遊しているのではない。太陽も月も、それぞれ天宮の中に納まり、その天宮が須弥山の中腹を廻っているのだ。太陽の天宮には火の車輪があり、月の天宮には水の車輪がある。

 そして、この須弥山の上空に「天界」が広がり、そこにまた数々の諸天の天宮が浮遊しているのである。
 須弥山山頂より8万由旬上空に夜摩天の天宮があり、さらにそこから16万由旬上空に兜率天の天宮が、さらにそこから32万由旬上空に楽変化天の天宮があり、またさらにそこから64万由旬上空に他化自在天の天宮がある。須弥山山頂からこの他化自在天の天宮までの総距離は120万由旬、なんと約840万キロメートルとなる。

 「欲界」。まず、ここまでの世界をそう呼んでいる。ようするに、須弥山や、ここまでの天界に居所する諸天は、神とは言えども、いまだ欲望のとらわれから解放されていないのだ。実際に、須弥山山頂の地図を開いてみると、そこには今で言うところのレストランやブティック、はてはキャバレーまでも並んでいて、そういう意味で仏教の神は、実に人間臭いのである。

 しかし、より上空に居所する諸天ほど欲望のとらわれからの解放がすすんでおり、須弥山山頂までの諸天が人間と同様、性器の挿入なくしては欲望を解消できないのとは異なり、その上空の夜摩天は軽く抱くだけで、その上空の兜率天は手を握るだけで、その上空の楽変化天は微笑しあうだけで、そして一番上空の他化自在天はただ見つめあうだけで、欲望を解消できるとされている。

 また、この欲界の上空にはさらに「色界」「無色界」と呼ばれる天界が広がり、それらを欲界と合わせ「三界」と呼んでいる。
 色界は欲界の上空、須弥山山頂より248万由旬、約173六万キロメートル上空から始まり、1,677億7208万由旬、約1兆1744億456万キロメートル上空まで広がっている。ちなみに「有頂天」という言葉は、この色界の最高所のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうるてっぺん、天上の極みということなのだ。

 色界は、欲界とは異なり、欲望のとらわれより解放されてはいるが、いまだに形を有するものの天界である。実は我々人間も、正しい修行をつみ、欲望のとらわれより解放されると、ここへ昇ることができるとされているのだ。
 この、人間がその各々の行い次第で、神よりも高いステージに昇格されるという仏教の宇宙観は、神の存在を絶対とするキリスト教やイスラムの信徒にとっては、これまた想像を絶することに違いない。

 そして無色界は、欲望もなく、形もなく、もはやただ純粋なる精神のみが存在する天界である。その場所も、欲界や色界との上下関係で表すことはできず、まさに無色界は空間の概念をも超越した存在なのだ。

 また須弥山は、「山」という言葉がついている通り確かに山であり、山は頂があれば、当然、麓もある。しかし須弥山の麓は、満々と湛えられた水の底に没しているのだ。その水深は、須弥山の高さと同じ8万由旬、ようするに地球から月までの距離よりも深い。
 この水は、円筒型をした「金輪」の上に湛えられており、金輪の厚みは32万由旬、約224万キロメートル、直径は120万3,450由旬、約842万4,150キロメートルある。金輪の縁は、「鉄囲山」という山脈によってぐるりと取り囲まれており、これによって水が外にこぼれ落ちないようになっているのだ。須弥山はちょうどその中心に、水面から天空に向かって突き出ているのである。

 そして金輪はまた、同じく円筒型をした「水輪」の上にのっている。水輪の直径は金輪と同じで、厚みは80万由旬、約560万キロメートルある。ちなみに「金輪際」という言葉は、この金輪と水輪との境目のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうる行き止まり、限界ということなのだ。

 さらに水輪は、同じく円筒型をした「風輪」の上にのっていて、風輪の厚みは160万由旬、約1120万キロメートル、その円周はまた桁外れに大きなもので、10の59乗由旬、すなわち約700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000キロメートルもあるのだ。まさに、人間の感覚で想像しうる距離の限界を、遥かに超えた巨大さである。

 もちろん、須弥山上空に天界が存在すれば、また地獄も存在している。
 地獄は「ナラカ」と呼ばれていて、地下深くに暗々と広がっているのだ。ちなみに奈落の底の「奈落」という言葉は、このナラカが漢字音写されたものである。
 『リグ・ヴェーダ』では、地下深くに暗い部分があり、悪業をなした人間は神によってそこへ堕とされる、といった程度の地獄観でしかなかったが、長い歳月と幾多の熟考の末、地獄は、成した悪業を報いるべく、より過激に、より苛酷に発展していったのだ。

 まず地下500由旬、約3,500キロメートルは泥の層になっている。その下は、また同じく500由旬の白ゼンと呼ばれる白色の土の層になっており、さらにその下1,000由旬、約7,000キロメートルは、上より白土、赤土、黄土、青土の4層になっている。
 地獄はいよいよここから始まるのだが、地獄の形はそれぞれ立方体をしていて、まず最初に一辺の長さが5,000由旬、約35,000キロメートルの熱地獄が8つ連なっている。上から「等活地獄」「黒縄地獄」「衆合地獄」「号叫地獄」「大叫地獄」「炎熱地獄」「大熱地獄」である。
 そして最深部、地表から2万由旬、約14万キロメートル下に、熱地獄の中で最大の「無間地獄」があるのだ。無間地獄の一辺は2万由旬、約14万キロメートルで、ここに堕とされるのは、「五逆罪」と呼ばれる罪を犯した者である。五逆罪とは最も重大な罪のことで、ブッダの体から血を流させた者、聖者を殺した者、教団の和合を破る者、父を殺した者、母を殺した者である。彼らの身はここで、絶え間なく繰り返される、ありとあらゆる苦痛によって苛まれ続けるのだ。

 しかし地獄に堕ちる者は、これら八熱地獄だけでは許されない。立方体をしたそれぞれの地獄の各壁面には門があり、その奥にまたご丁寧に「トウイ副地獄」「屍糞副地獄」「鋒刃副地獄」「烈河副地獄」という副地獄が付随しているのだ。
 これら地獄の責め苦を考え出した古代インド人の想像力の豊かさはまさに圧巻の一言だが、実は地獄はまだこれでは終わらない。八熱地獄があれば、ちゃんと八寒地獄も用意されているのだ。「ア部陀地獄」「尼刺部陀地獄」「アタ陀地獄」「カカ婆地獄」「虎虎婆地獄」「ハ鉢羅地獄」「鉢特摩地獄」「摩訶鉢特摩地獄」である。
 もちろん、こういったおびただしい数の地獄は、どれも人間が悪をなさないための戒めとして生み出されたもので、地獄の観念は世界中のほぼあらゆる民族の精神文化の中に大なり小なり存在しているのだ。まったく人間というのは、やっかいな生き物である。

 そして、これらの数々の地獄や天界、須弥山、金輪に水輪、風輪がもろとも、虚空の中に浮かんでいるのだ。「虚空」とは、無辺、無量、無為で、一切の変化をもたないものである。しかしこの虚空に浮かぶ宇宙は、全宇宙のほんの一部でしかなく、これを「一世界」と呼んでいる。
 全宇宙には、この一世界がまた気の遠くなるほど存在しており、一世界が千個集まった宇宙を「小千世界」と呼び、その小千世界がまた千個集まった宇宙を「中千世界」、さらに中千世界がまた千個集まった宇宙を「三千大世界」と呼び、古代インドに発芽した仏教の大宇宙は、どこまでも果てしなく広がっているのだ。

 では、いったい我々人間はその宇宙のどこに住んでいるのか。我々が住んでいるのは「贍部州」という島なのだ。
 須弥山のまわりの満々と水を湛える大洋の中には、「七金山」と呼ばれる環状の7つの山脈が、ちょうど水の波紋のように須弥山を取り囲んでいて、その七金山の外側に4つの島がある。東に「勝身州」、西に「牛貨州」、北に「倶盧州」、そして南に「贍部州」である。これらの島は形と色がそれぞれ異なっており、勝身州は半月形で黒、牛貨州は円形で赤、倶盧州は正方形で黄、贍部州は台形で青となっている。

 この我々の住んでいる贍部州の青という色が、「地球は青かった」とガガーリンに言わしめたあの青と何らかの関係があるのかどうかは分からない。なにぶんにもこれは、古代インド人の考えた話である。だが、もしかして彼らは、我々の地球が青いという事実を知っていたのかもしれない、そんな空想が違和感なく思い描けてしまうことが、この古代インド人の宇宙観の中にはまだあるのだ。

 実は、我々の住んでいるとされているこの贍部州の形は、確かに台形と記されてはいるが、実際はほとんど逆三角形に近い形をしているのである。ではなぜ我々の住む贍部州は逆三角形なのか。それは、この宇宙観がインド人によるものであることを考えれば、おのずと見えてくる。
 そう。贍部州はインド亜大陸の形になっているのだ。おまけに贍部州の南海上には、東西一対の小島も表されている。東の島は「遮末羅」、西の島は「筏羅遮末羅」と呼ばれ、西の島はもちろん現在のスリランカを指し、東の島はモルディブ諸島あたりを指すと言われている。飛行機も、ロケットもなかった古代のインド人が、自分たちの住んでいる大陸の形をここまで知り得たという事実は、まさに驚異としか言いようがない。

 ところが贍部州は、その形以外にも、インド亜大陸に類似した多くの要素を備えているのだ。まず贍部州の北には、「雪山」と呼ばれる雪を頂いた峨々たる山脈が東西に連なっている。これはもちろんヒマラヤ山脈である。雪山の北にはまた、「香酔山」と呼ばれる高峰が聳えていて、これはチベット高原にあるカイラーサ山を指している。香酔山には、芳しい香を発する樹木が生い茂り、その香を食べて生きている歌舞音曲を司る神たち、乾闥婆や緊那羅が住んでいるのだ。

 香酔山の麓には、8種の特性を具えた清水を湛える「無熱悩池」と呼ばれる巨大な湖があり、これはカイラーサ山の傍にあるマナサロワル湖を指している。8種の特性とは、甘い、冷たい、軟らかい、軽い、清い、臭いがない、喉を損なわない、腹を痛めない、の8種だ。
 またこの無熱悩池からは、4つの動物の口から大河が四方へ流れ出している。東の銀の牛の口からはガンジス河が、南の金の象の口からはインダス河、西の瑠璃の馬の口からはオクサス河、そして北の水晶の獅子の口からはシーター河が流れ出しているのだ。

 それにしても、微に入り細に入り、なんとも奇妙奇天烈なことを考えたものである。だが、このアジアの宇宙観における、想像を絶する巨大さや極端な神格化は、またそのまま人々の、己れを取り巻き、己れを生かし続ける何ものかへの、畏怖や畏敬の念に他ならなかったのだ。そして宇宙は当然、我々人間が足を踏み入れることを許されない、まさに侵されざる存在だったのである。

 ちなみに「世界」と「宇宙」は、ほぼ同じ言葉らしい。ともに「世」と「宙」が時間を表し、「界」と「宇」が空間を表している。ただひとつ違うことは、世界が人間の存在を大前提にしているのに対して、宇宙は必ずしも人間の存在を大前提にしていないということだ。


2008/09/01

食欲

















 我々人間の、こと「食べる」という欲望はそら恐ろしいものである。事実、我々人間はその長い歴史の中で、数多くの動物を、まさに絶滅に追いやるまで食いつくしてきたのだ。
 たとえば、ペンギンもそうである。

 実は、現在あの南半球に生息している飛べない海鳥が「ペンギン」と呼ばれるようになったのは、北半球に生息していた「ペンギン」という海鳥にすこぶる似ていたことによって、「南のペンギン」と呼ばれたことがそもそもの始まりだったのだ。
 ペンギンとは古代ケルト語で「白い頭」を意味していて、その北半球に生息していた白い頭の海鳥こそが、1844年に絶滅した「オオウミガラス」である。

 オオウミガラスは、かつて北方ヨーロッパ辺りに広く、おびただしい数で生息していた。しかし、不幸にもこの北半球のペンギンの肉は、南半球のペンギンの肉とは逆に、とても美味だったのである。そして、さらに肉以上に我々人間の舌を魅了したのが、彼らが1シーズンにたった1個しか産み落とさない貴重な卵だったのだ。

 人間たちによる乱獲が始まると、おびただしい数で生息していたオオウミガラスは、次第に人間の住む沿岸地域から姿を消し始め、それに追い打ちをかけるようにして、やがて航海術が発達し人々が容易に海を渡るようになると、彼らの生息数はみるみる内に激減し生息地もどんどんと遠くへと追いやられていくことになる。

 これにはまた、彼らが南半球のペンギンと同じく、陸上では極めておぼつかない足取りだったことが災いしたのだ。ようするに、彼らを捕獲するには、棍棒が1本あれば要は足りたのである。彼らは1度に何百羽、何千羽という単位で撲殺されたのだ。

 そして1830年、彼らにとっての致命的な出来事が起こるのである。当時、彼らの最後の棲息地として知られていたアイスランドの小島の近海で海底火山の噴火が起こったのだ。この噴火によって、彼らの繁殖の場である海岸線の岩場が無残にも崩れ落ち、冷たい波間に沈んでしまったのである。

 この出来事によってオオウミガラスの生存は絶望的になり、そのニュースが広く知れ渡ると、1つの面白い現象が起きたのだ。世界中の博物館やコレクターが我先にと、絶滅近きこの鳥の確保に乗り出したのである。
 棲息地が水没する直前に、近くのエルディという小島に50羽ほどのオオウミガラスが逃げ延びていたことが分かると、彼らと、彼らの卵に莫大な報奨金がかけられ、駆り集められることになった。もちろんこれは、あくまでも陳列棚を飾る剥製にするためであり、したがって、わざわざ生きたまま捕獲する必要などまったくなかったのである。

 そして1844年6月4日、エルディ島に1艚の小舟が繋留された。島へ上がった漁師は、間もなくして卵を温めていた2羽のオオウミガラスを見付ける。2羽はただちに、博物学の発展と、漁師の営利のために絞め殺された。これが、この北半球のペンギンの、最後の2羽だったのである。

 こうして、とうとうオオウミガラスは、博物館の陳列棚に剥製と、南半球に「ペンギン」という愛くるしい名前だけを残し、この地球上から消え去ってしまったのだ。

 また、かつてアメリカ大陸には、その数十億羽というとてつもない数で生息していた、「リョコウバト」という美しいハトがいた。しかし彼らも、アメリカンドリームを夢見て新大陸に押し寄せた、これまたとてつもない数の人間の胃袋の中に、みるみる内に消えてしまったのである。それはまさに、「まさか」の絶滅だったのだ。

 集団で営巣する彼らは、何百万羽、何千万羽という桁外れな単位で行動し、リョコウバトが上空を渡ると、辺りはたちまちにして暗闇に包まれたという。1810年頃、イギリスの鳥類学者ウイルソンが残した記録によると、1つの群れにはなんと22億3000羽ものハトがいたらしい。 そして、そんな彼らの発達した胸肉はまた、きわめて美味だったのである。

 人々は、彼らが上空を渡り始めると、狙いも定めずただ銃口を上にして銃を打っ放した。それだけで、大空から何十羽という美味なる胸肉が、バサバサと地上に落ちてきたのである。
 この肉は、街へ持って行くととても良い値で売りさばけ、やがてアメリカ大陸の東西を貫く鉄道が開通すると、何百樽という、大きな樽に塩漬けにされた莫大な量のリョコウバトの肉が、その新しい流通手段を利用し街へと頻繁に運ばれることになったのだ。
 折しもアメリカは、ヨーロッパからの入植者が増加の一途をたどり人口が爆発的に増え、それにともなう食糧の確保が問題化していたのである。

 実はリヨコウバトという鳥は意外にも、繁殖力の非常に弱い鳥で、そんな彼らがアメリカの地でこれだけの数で繁栄できたのは、ただ天敵がいなかったという、そのたった1つの幸運によったのだ。
 実際、先住民のインディアンも、ヒナを育てている最中の親鳥は決して殺さなかったし、自分たちが食べる以上の、不必要な数を殺すなどということもなかったのである。

 もちろん、リヨコウバトの生存を脅かした原因は、こういった入植者たちの狩猟行為だけではない。新大陸アメリカの開拓も、その大きな原因の1つである。ようするに入植者たちは、広大な森林や原野を次から次へと伐採し大農園へと作り変えていっったわけだが、これによって鳥たちの大切な繁殖地が奪われてしまったのだ。

 ある時には群れが上空を通過するのに、3日もの時間を要したという、その数、無限と思われていたこのリョコウバトが、まさか絶滅するなど、誰ひとりとして予想だにしていなかった。
 1914年9月1日午後1時、オハイオ州の動物園で、アメリカ初代大統領ワシントンの夫人にちなみ「マーサ」という愛称で呼ばれていた1羽の老いた鳥が、突然止まり木から落ち、そのまま静かに冷たい檻の中で息絶えた。これが、かつて数十億羽というとてつもない数で生息していたリョコウバトという美しいハトが、この地球上から絶滅した瞬間だったのだ。

 これは人間が生物を食いつくした歴史の、ほんの1コマに過ぎない。もちろん、たとえ肉が不味くて食べられなくとも、美しい毛皮を、美しい羽根を持っているだけでも、我々人間の欲望を満たすために、多くの種の生物が絶滅していったのである。

 ちなみにタイ語でスズメのことを「ノック・クラチョーク」と言う。ノックは「鳥」を、クラチョークは「見窄らしい」といったことを意味している。よりによって、ずいぶんと酷い名前を付けられたものだ。
 しかし、もしこのスズメたちに柔らかく美味しい豊かな胸肉があり、美しく輝くコバルト色の羽がついていたとしたら、彼らも遠の昔に絶滅していたかもしれないと思うと、その「見窄らしい鳥」という名前もまんざら悪くはないだろう。

2008/08/31

進化

















 進化論とは、イギリスの生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンが1859年に出版した『種の起源』の中で説かれている、生物は徐々に単純なものから複雑なものへ、下等生物から高等生物へと進化していったのだとする理論だ。

 これは、今ではもう誰でも理解している言わば1つの常識だが、この進化論が発表されたことによって、当時のキリスト教世界は大混乱に陥ったのである。
すなわちダーウィンの進化論は、『聖書』にある、人間も動物もみな神が一夜にして造ったのだという説を根底から否定することになったのだ。そしてまた、人間は特別な存在などではなく、他の生物と同じ地平にあることを科学的に証明したことによって、ダーウィンは神によって創造された特別な存在だとする人間の尊厳を傷つけ、唯一無二の創造主である神を冒涜したとみなされたのである。

 実は、こういったキリスト教と科学との対立は、何もダーウィンの進化論に始まったことではない。たとえば17世紀、地動説を説いたガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられ、強制的に地動説を破棄するよう誓わされたことはよく知られているところで、以後もキリスト教は、その『聖書』という1つの絶対真理を前にして、科学との長い長い軋轢の歴史を刻むことになるのである。

 そして、20世紀をむかえた1925年、アメリカのテネシー州デートンのレア裁判所で、ある有名な裁判が開かれたのだ。「スコープス進化論裁判」である。
 被告は、デートンの公立学校の生物教師ジョン・T・スコープス。彼は、州の定めるバトラー法を犯した罪で逮捕され、裁判にかけられることになったのだ。そのバトラー法とは、こんな法である。

〈州内にある学校のうち、運営資金のすべてあるいは一部を本州の公立学校基金から受けているすべての大学、師範学校、およびそのほかすべての公立学校において、教師が『聖書』に教えられている神による人間の創造を否定するいかなる説を教えることも、そしてそれにかわって、人間は下等な動物に由来するという説を教えることも、これを違法とする〉

 ようするに彼は、学校の授業で進化論を教えたことによって逮捕、起訴されたのだ。そして、なんと『聖書』の説く真理と、ダーウィンの説く理論のどちからが正しいのか、司法の場で裁かれることになったのである。

 実はアメリカという国は、プロテスタント教会の保守派から起こった「キリスト教原理主義」のとても強い国で、これは『聖書』に書かれていることは一字一句すべてが正しく、いかなる誤りもないのだという主張を大前提にしている。
 また彼らは、自分たちの信念に同調しない者は真のキリスト教徒ではないという確信をもっていて、それによって時として非常に強硬な姿勢をとることがあり、この進化論論争はその1つの好例と言えるだろう。

 裁判は、全米の注目を集め、人間は神によって造られたのか、はたまたサルから進化したのかと、滑稽なまでに白熱した議論が交わされたのである。
 『聖書』の奇跡を讃える陳述に傍聴席から「アーメン」の大合唱が沸き起こり、「モンキー裁判」と呼ばれたこの大イベントに、チンパンジーの見せ物屋までも押し寄せた。
 そして審理は終わり、ついに判決が下されたのである。

 それはなんと、進化論を学校で教えた生物教師スコープスの有罪判決だった。スコープスは罰金刑を言い渡され、これによって以後、アメリカの授業からダーウィンの進化論はすっかり影をひそめることになるのである。それは、ソヴィエトがアメリカの先手を切って人工衛生スプートニクを打ち上げたことによって、アメリカの学校教育の決定的な遅れに気付かされるまで続いたのだ。

 ところがである。進化論を学校で教えることに対する根強い反感はその後も一向に衰えることなく、再三、スコープス進化論裁判の再燃を繰り返すことになるのである。あのドナルド・レーガンも1980年の大統領選挙戦の際、キリスト教原理主義者の多いテキサス州ダラスの聴衆を前にして、進化論についてこんな演説をしていたという。

〈あれは理論ですよ、ただの科学理論。しかも、ここ何年かは科学の世界でも異議を唱えられてきたし、科学界でも昔のように絶対に正しいと信じられているわけではないでしょう〉

 何年か前のNHKのニュース番組でも、この現代においてもなお進化論を学校で教えることを断固否定し、それを違法として規制しようとしているアメリカ市民の特集をしていた。その中でインタビューされていた市民の答えは、「自分たちの祖先がサルだなんてことを子供たちに教えれば、人間としての自信を失わせ、子供たちを傷つけることになるじゃないか」というものだった。

 だが、21世紀を目前にした1996年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、歴史的な、極めて重大な発言をしたのである。

〈ダーウィンが初めて採用した見解は、その後多様な知的分野で達成された一連の発見にともなって研究者たちの心の中に深く定着しており、今や進化論を仮設以上の理論であると認めることができる〉

 そう。ローマ教皇がこの年ついに、事実上ダーウィンの進化論との和解と思われる発表をしたのである。

大小

















 インドシナのビルマ、タイ、ラオス、カンボジアは、古くからとても敬虔な仏教国として知られていた。しかし「仏教」とは言っても、キリスト教にカトリックやプロテスタントがあるように、それは一枚岩ではなかったのである。これらの国々の仏教は、「上座部」と呼ばれる仏教なのだ。

 仏教とはもちろん、今更あらためて云々するまでもなく、ブッダ、すなわち悟りを開いたサキャカ族の王子ゴーダマ・シッダールタが説いた教えをもとに、その入滅後に生まれた宗教である。そう。ブッダの死は終わりではなく、またひとつの大いなる始まりだったのだ。

 紀元前、キリストが生まれるはるか前、ブッダがサラソウ樹の下で入滅すると、残された弟子たちは悲嘆に暮れる間もなく、ブッダの偉大なる教えが散逸し、誤伝することを恐れ、直ちに一同結集し、その教えを確認し合った。第1結集である。ちなみに仏教では、この結集を「けっしゅう」ではなく、特別に「けつじゅう」と発音している。

 そしてブッダの入滅後さらに100年が経過した頃、再び弟子たちは結集し、第2結集が行なわれた。この際、ある僧たちが金銭を受け取っているなどといった10項目にわたる問題が持ち出され審議されたのだが、これをきっかけに教団は、革新を求める進歩派と伝統を重んずる保守派に分裂してしまうのである。
 前者の進歩派を「大衆部」、そして後者の保守派を「上座部」と呼び、すなわちその保守派の仏教がインドから南方のスリランカを経てここインドシナへと伝播したというわけなのだ。その経路から、この仏教はまた「南伝仏教」とも呼ばれている。

 参考までに日本の仏教は、インドから北方のチベット、モンゴル、中国、朝鮮を経て伝播した「北伝仏教」で、この仏教はまた「大乗仏教」とも呼ばれている。「大乗」とは、サンスクリット語の「マハーヤーナ」の漢訳で大きな乗りものを意味し、実はこれは、上座部、大衆部を始めとする数々の教団が分裂を繰り返していた過程の中で興った、ひとつの大改革だったのだ。

 その頃になると分裂した部派は、それぞれにブッダの教えを整備、研究し、よりいっそう厳しい修行に専念し、出家修行者の質と地位は目まぐるしく向上していた。そして一方、仏教に帰依し、ブッダの遺徳を忍び、出家修行者に奉仕する在家信者の数も確実に増えていたのである。
 大乗は、こういった情況の中、それまでの出家中心だった教理を改め、出家、在家に関わらず、誰もがみな良き行いによって仏と同じ悟に達することができるとする教理を説いたのだ。ようするに、仏教はここでいよいよ一般民衆に明確な手、すなわち悟りへと導くための「大きな乗りもの」を差し向けることとなったのである。

 しかし大乗仏教はここで遂に、ブッダの教えに忠実であるという在り方を捨て、まったく新しい独自の教理を自由に発展させていくこととなるのだ。したがって厳密な意味において、今日に伝わる大乗仏教の教理は、もはやブッダ自身の純粋なる教えと呼ぶことはできないのである。

 ブッダは、また入滅に際して弟子のアーナンダに、「私の亡き後は、私が説いた教えと私が制した戒律とがお前たちの師となるであろう」と告げたと言われている。そして保守派として分裂しインドシナへと伝播した上座部仏教の人々は、その言葉通り、以後も変わることなく営々として結集を繰り返し、その都度、ブッダの教えと戒律についての熱い討論を交わしたのだった。

 結集は、13世紀、イスラム教の侵入によってインドで仏教が衰滅した後は、他国へとその場所を移すこととなり、19世紀には、イギリスの植民地となる直前のビルマで行なわれている。
 この結集は4年間にもおよぶもので、イギリスによる仏教の弾圧を恐れ、ブッダの教えを石に刻み残す作業が行なわれたという。また第二次世界大戦終結後にも、同じくビルマのラングーンで行なわれている。

 このように、ブッダが臨終に際して残した言葉に従って、ブッダの教えと戒律を幾世紀にもわたって師と仰ぎ守り伝えてきた上座部仏教は、また「戒律仏教」とも呼ばれている。すなわち上座部仏教の修行の根本は、難行や苦行などではなく、このブッダによって定められた戒律にしたがい、ただひたすら正しい日々を送り続けることにあるのだ。

 実はそんな上座部仏教には、もう1つの呼称がある。「小乗仏教」である。「小乗」とは、サンスクリット語の「ヒーナヤーナ」の漢訳で、その対極にあるのがすなわち大乗仏教なのだ。
 この呼称は、ブッダの教えに忠実であることに固執し続け、大衆の救済に意を注ぐこともなく己れの修行にばかり専心する上座部仏教の人々のことを、大乗仏教の人々が「卑小なる乗り物」だと侮蔑して呼んだことに始まるのである。ちなみに我々日本人も古くから、大乗仏教の栄えるこの日本という国を自ら、「大乗相応の地」と誇り高く呼び慣わしてきたのだ。

 だが世の宗教が、長い歴史の中で繰り返してきた数えきれないほどの、「他人を救う」という大義名分のもとに犯してきた悪や「布教」という名の暴力を思えば、この上座部仏教の「小乗」という在り方は、実に清潔な宗教活動だと言えるだろう。

まずは己れの人格形成。これこそが、宗教のスタートラインであると同時に、またゴールでもあるのだ。

2008/08/26

港市

















 現代のように全土に道路網が張り巡らされる以前、ほとんど密林や湿地に覆われていたインドシナでは、河川が人々の生活におけるメインストリートだった。そして、その河口を始めとする流れの要所には決まって市場がつくられ、河川を媒介にして様々な物が交易されていたのだ。

 かつてそういった市場には後背地の豊かな森林物資が集まり、やがて賑わう市場のまわりには人が住み始め「港市」が形成され、さらにいくつかの港市は巨大な「港市国家」へと変貌していったのである。タイのアユタヤも、ビルマのペグーも、カンボジアのプノンペンも、いずれもそういった性質の港市だったのだ。

 そして、アジア各地に点在していたそういった港市はまた、お互い極めて高度に発達した交易ネットワークによって結ばれていて、様々な物が盛んに交易されていたのである。

 その交易ネットワークの中で中心的存在になっていたのが、やはりなんと言ってもマラッカである。
 マラッカはその立地から、インドを基軸とするアラビア海・ベンガル湾交易圏と中国を基軸とする東シナ海・南シナ海交易圏とを結ぶ、東西交易の中継地として比類なき発展を遂げることになるのだ。
 たとえば、それまで中国とインドの間を往復するのに2年かかっていたものが、ここを中継地とすることによって、わざわざ2年もかけて中国とインドの間を行き来する必要がなくなり、交易のスピードは半分に縮まることになったのである。

 かくして、マラッカへは各地から様々な物資が流れ込み、当時ここでは西はエジプトから東は中国までの、84もの言語が飛び交っていたらしい。そして、インドシナの港市からも、積み荷を満載した船が盛んにマラッカを目指したのである。

 では実際に、インドシナの各地とマラッカとの間でどのような交易が行なわれていたのだろうか。1512年から15年まで、マラッカに滞在していたポルトガル人トメ・ピレスの残した『東方諸国記』の中に、その当時の交易の様子が詳細に記されている。

 まず、ビルマのペグーからマラッカへ運ばれたのは、米、ニンニク、タマネギ、カラシ、バター、油、塩などの食糧品。安息香、麝香などの香料。ラック。銀などの貴金属。ルビーを始めとする宝石などである。
 宝石は古くから、ビルマにおける重要な交易品だったのだ。あれはもう、かれこれ30年ほど前になるが、ビルマの街を歩いていると至る所で、闇の宝石売りに肩を叩かれたものだった。
 ビルマではルビーを筆頭に、ガーネット、スピネル、ダイヤモンド、ジルコン、アパタイト、サファイア、トルマリン、ペリドット、ムーンストン、ジェード、コハクなど、実に多くの宝石を産するのである。中でもルビーはビルマ産が世界最高品質とされていて、サファイアもビルマ産はインド産、スリランカ産とともにその品質の最高位を争っている。
 またジェード、いわゆる翡翠も、ビルマが最も重要な産地とされていて、ビルマ産のその半透明に光り輝く神秘的な翡翠は「インペリアル・ジェード」と称され、古くから中国へ盛んに輸出されていたのだ。

 逆にマラッカからペグーへ運ばれたのは、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。金などの貴金属。水銀、銅、錫、辰砂などの鉱物。フルセレイラ。真珠母。中国製の緞子、陶磁器などである。
 「フルセレイラ」というのは、「真鍮の削り屑を集めて作った塊」といった意味を持つ古いポルトガル語で、銅や錫、鉛などの粗質の合金のことである。交易は当初、もちろん物々交換によって行なわれていたのだが、交易が大量かつ複雑になってくると、必然的に一種の通貨としての役割を担うものが生まれてくる。フルセレイラも、そういった性質のものだったのだ。そして、やがて交易における国際通貨としての地位を獲得するのが、銀である。

 つぎに、タイのアユタヤからマラッカに運ばれていたのは、米、塩、干魚、ココナッツ、野菜などの食糧品。安息香などの香料。ラック。薬物。蘇芳などの染料。象牙。金、銀などの貴金属。鉛、錫などの鉱物。織物。金や銅で作った壷。ルビーやダイヤモンドの指輪などである。
 蘇芳というのは、インドからここインドシナにかけて自生するマメ科のある樹木から採られる染料で、特にタイは古来、多くの蘇芳を各地へ送り出していた。蘇芳の染料は芯材と、種を覆う莢から得られるのだが、その発色は煎じる際に加えられる媒染剤によって変化する。明礬を媒染剤にすると赤に、椿の灰を媒染剤にすると赤紫に、そして鉄塩を媒染剤にすると紫に発色するのだ。
 この蘇芳は、日本にはすでに奈良時代には渡来しており、正倉院にも蘇芳によって染めた『黒柿蘇芳染金銀絵如意箱』が伝わっている。また『源氏物語』の中で、源氏が六条院の正月に女楽を催した際、和琴を爪弾く最愛の紫の上が着ていたのも、蘇芳染めの細長だった。

 逆にマラッカからアユタヤへ運ばれたのは、コショウ、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。白檀、竜脳などの香料。阿片などの薬物。蜜蝋。水銀、辰砂、雄黄などの鉱物。子安貝。インド製の綿織。ペルシアおよびアラビア製の薔薇水、呉絽、毛氈。奴隷などである。
 ここでいうところの奴隷というのが、いったいどういう人々なのかはよくわからないが、東南アジア諸国全般における「貴族、平民、奴隷」という身分の区別は、インドのカーストや日本の士農工商ほどの厳しさはなかったようだ。面白いことに、タイの身分制度の中には「王族逓減の法則」というものがあり、王族は一代下るごとに身分が一階級下がるというシステムになっている。ようするに、たとえ王族といえども、六代下るとなんと平民になってしまうのだ。そんなタイでは、奴隷も自己の責務さえはたせば自由に平民へ戻ることができたらしく、またタイの奴隷は、キリスト教徒の社会における奴隷ほど酷い扱いは受けておらず、イギリスの召使よりも待遇がよかったらしい。

 トメ・ピレスの『東方諸国記』には、この他にもカンボジアやチャンパー、コーチシナといった、インドシナの各港市からの交易の様子が記されている。
 上記以外の当時の交易品を他資料からもざっと上げてみると、砂糖、茶、蜂蜜、タマリンド、ナマコ、フカヒレ、ツバメの巣、シャコガイ、サゴヤシ、シナモン、カルダモン、白檀、乳香、蘇合香、樟脳、蘆薈、没薬、ジャコウネコの腎臓、クジャクの尾、カワセミの羽、犀角、虎皮、鹿皮、鮫皮、白い牛の尾、ベッコウ、真珠、サンゴ、チーク材、黒檀、漆、籐、檳榔子、阿仙薬、大黄、キンマ、ダイヤモンド、サファイア、トパーズ、ジェード、コハク、鉄、明礬、硫黄、硝石、火薬、生糸、絹織物、毛織物、ガラス玉、ビーズ、針、扇、紙、鏡、武器、船、ゾウ、ウマ、クジャク、オウムと、まさに目を見張らんばかりの多彩さである。

 実は、この華々しき交易圏の中には、はるか東シナ海の果ての島国、すなわち日本もやってきている。この交易圏への日本の参入を大きく後押ししたのは、何といっても日本に産する世界屈指の埋蔵量を誇ったその豊富な銀だったのだ。
 日本はこの南海の交易でその銀を使い、主に鹿皮や鮫皮、蘇芳、沈香などを持ち帰った。鹿皮は武士の胴着や袋に、鮫皮は刀の柄や鞘、鎧のおどしに用いられ、なんと日本はそのピーク時、鹿皮を年間19万枚、鮫皮を年間3万枚も輸入していようだ。

 もちろん、交易されている物も、またその市場の形態も、当時とはあきらかに違ってはいるが、今でもインドシナの水辺の市場の賑わいには、そんな昔日の熱帯の港市の残香が、微かに漂っている。

2008/08/23

移動

















 ちょうど100年ほど前。20世紀が今まさに始まろうとしていた1900年。イギリス留学のため、9月8日に日本を発った夏目漱石がイギリスへ着いたのは、10月28日のことだった。

午前8時、漱石を乗せ横浜港を出航したドイツ船籍プロイセン号は、神戸、長崎を経て、上海、福州、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、ポートサイド、ナポリと、点々と南海の港に寄港しつつ、41日目の10月19日、ジェノヴァに入港する。そして、そこから列車に乗り換え陸路パリへ向い、再び船に乗り換えドーヴァー海峡を渡り、10月28日の夜、ようやく目的地ロンドンへ辿り着いたのだ。

 その途中、数日間パリに滞在し、パリの万国博覧会などを見物しているのを差し引いても、日本からイギリスまで50日近い日数を要したことになる。もちろんこれは、漱石が優雅で気長な旅を欲した結果、こういった日程になったのではない。それが当時の、最良にして最短の方法だったのだ。

 その、日本からイギリスまでの50日近い所用時間は、今では10時間足らずにまで縮まったのである。なんとそれは1世紀、すなわちたった100年間で100分の1になった計算になる。まったくもって、驚きとしか言いようがない。

 しかし、そういった距離感は、なにも時間的なものだけによって縮まったわけではないのだ。移動の快適性の進歩によっても、距離感はよりいっそう縮まったと言えるだろう。漱石の日記を読んでみると、その当時の船旅の苦労が縷々と書き連ねてある。

「船少しく揺く、晩餐を喫するに能わず」、「船の動揺烈しくして終日船室にあり。午後勇を鼓して食卓に就きしも、遂にスープを半分飲みたるのみにて退却す」、「船頗る動揺、食卓に枠を着けて顛墜を防ぐ」、「昨日の動揺にて元気なきこと甚だし。且つ下痢す。甚だ不愉快なり」、「床上に困臥して気息淹々たり」、「昨夜、キャビンに入りて寝に就く。熱苦しくて名状すべからず。流汗淋漓、生たる心地なし。此夜、又然り」等々。

 出航前、友人の寺田寅彦に、「秋風の、一人をふくや、海の上」などと洒落れて俳句などを書き送っていた漱石だったが、いざ出航してみるとこんな有様で、途上、妻に宛てた手紙には、「目が余程くぼみ申し候」などと書き記している。

 そもそも旅を意味する英語「travel」は、「苦痛」とか「骨折り」を意味するフランス語「travail」を語源としているらしいが、やはり当時の日本人にとっての海外への旅は、その費用もさることながら、時間的にも、体力的にも、よほどの決心なくしては実現しえないものだったのだ。

 それが今ではどうだろう。たとえば東京からバンコクまでの移動に使う飛行機の所用時間は、およそ6時間。空調管理システムによって適温に保たれた機内の柔らかいシートに腰掛け、スタッフが手元まで運んでくれる冷たいドリンクを飲み、温かい機内食を食べながら、音楽を聴き、映画を観て、そして時として居眠りもし、あっという間に目的地へ到着するのである。
 何もかもが目まぐるしく進歩した現代、ウトウトと柔らかいシートで居眠りしながら、ほんの数日で地球をひと回りすることさえも可能となったのだ。そしてこの距離感はこれからも確実に、もっともっと縮まってゆき、地球はさらに、よりいっそう小さくなっていくはずである。

 そういえば子供の頃、駅で見送る列車がプラットホームから離れどんどんと小さくなってゆき、とうとう線路の彼方に消えてしまった瞬間、その列車はもう自分の想像もおよばない、はるか遠い世界へ行ってしまったような気がした。それは、今、思い描く「外国」などという所よりも、もっともっと遠かった。
 確かに、僕もそんな現代文明の恩恵にあやかり、あっという間に海を飛び越えノラリクラリと海外で休暇を過ごすわけだが、やはりあの子供の頃に感じたはるか遠い世界が、もうこの地球上からなくなってしまったことは、それはそれで何だか少し淋しくもあるのだ。

十字

















 ラオス南部、かつて大河メコンの畔に栄えたサヴァナケットという街は、眠っているような街である。しかも、眠りを醒ます王子が現われないまま延々と眠り続け、とうとう老いさらばれてしまった美しき眠り姫、といった感じなのだ。

 フランスはここインドシナの地でも、世界に散らばる他の植民地の例にもれず、誇り高きフランスの街並みを精力的に造営している。
 その仏領インドシナ最大の都市となる、植民地経済の中心地サイゴンでは、フランス植民地統治の象徴としてのインドシナ総督府を手始めに、サイゴン大聖堂、市庁舎、税関、裁判所、銀行、郵便局、市場、オペラ座、ホテルと、宗主国の威信を知らしめるかのように、本国フランスの街を模した壮大な建造物が次々と建てられ、その美しい街並みは以後その街に「東洋のパリ」という称号を与えることになる。
 同じく、仏領インドシナの政治の中心地ハノイでも、理事長官邸やハノイ大教会を始め、銀行、郵便局、オペラ座、ホテルと、旧来のヴェトナム人の街を押し崩し、燦然たるフランスの街が出現したのだ。そして規模の差こそあれ、サヴァナケットもまた、そういった街だったのである。

 メコンの船着場からのびる狭い路地を抜けると、おそらくこの街が造られた植民地時代、そこがこの街の中心だったのか、見ようによってはパリのどこかの広場にでも見えなくもない、ネコの額ほどの小さな広場になっている。
 しかし広場は、今ではもうすっかりと寂れ果てていて、往時の輝きをしのばせるものと言えば、その矩形に区画された植え込み中で淋しく揺れる、ブーゲンビリアの花くらいのものだ。

 だが、そんな寂れ果てた広場の奥に目をやると、そこにはまばゆいばかりに光り輝く白亜の教会が、サヴァナケットの小さな空に、小さな十字を高々と掲げていた。
 外壁に塗られている真新しいペンキの白は、やはりこの辺りの地味な景色の中ではあまりにも異質で、あたかもそれは、白い墓標のように光り輝き聳え建っているのだ。
 かつて、植民地主義の一里塚のごとく世界各地に立てられていった、これもまたそんな十字の一つだったのか。

「キリスト教徒と香料」
 この合言葉を旗印にして、輝かしき大航海時代の幕は切って落とされたわけだが、キリスト教の布教は、キリスト教徒にとっての使命であり、また何といってもそれが彼らの善意でもあったことも疑いのないことである。
 彼らは、彼らの言うところの世の絶対的真理を知っていて、それはとても幸福なことで、逆にそれを未だ知らない人々は、彼らにとってとても不幸な人々だったのだ。

〈あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らの父と子の聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい〉(新約・マタイ福音二八—一六)

 かくして彼らは、聖書に綴られた言葉を胸に熱い使命感と善意に燃え、未知なる大海の彼方へと向かうことになったのだ。
 ところが残念ながら、彼らのその誇り高き善意は現実として、傲慢で排他的な、独善極まりない行為として各地の歴史に暗い影を落とすことにもなったのだ。

 特に南アメリカにおける彼らの非人道的と言わざるを得ない改宗行為は枚挙にいとまがないが、インドでも、異教徒を根こそぎにするためヒンドゥー教の寺院を破壊し、また改宗させた人々を完全にヒンドゥー教から離別させるため、ヒンドゥー教が神聖なる生き物として食べるこを戒めているウシを強制的に食べさせることさえ行っていたらしい。

 幸いインドシナでは、そのような露骨な改宗行為は行われなかったようだが、十七世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジの著書『シャム旅行記』(岩波書店)の中には、タイの王の謁見の場でルイ十四世の言葉を代弁する大使の演説が入念に書き残されている。それを見ると、当時の彼らキリスト教徒の、キリスト教徒としての揺るぎない自尊心と、排他的な歪んだ正義感がよく現れていて面白い。

〈王は陛下の真の栄光に思いを至らせばこそ、ぜひとも陛下が、現在地上において包まれておられるこの至上の尊厳の由って来たるところは、真の神を措いて他にないことを御賢慮下さるよう、切に願っておられます。真の神とはすなわち全能、永遠、無限の神、キリスト教徒の認める神であり、諸々の王をして君臨せしめ、万民の運命を司るのは、ただこの神のみであるゆえに、陛下のあらゆる偉大さを捧げるべきは、天と地の神なるこの神であって、東洋において人びとの崇める弱き神々ではございませんし、そもそもこれらの神々の無力さは、かくも英邁にして明敏であらせられる陛下の御洞察を免れるはずのないところでございます〉

 しかし、何と言っても特筆すべきは、また彼らのそれが多くの場合、まさに布教という皮をかぶった侵略行為以外のなにものでもなかったということである。異教徒を強制的に改宗させ、富を掠奪し、異教徒の土地を流血をもって征服することが、「キリスト教」という旗の下に、みごとに正当化されたのだ。
 皮肉にも、布教という宗教行為が軍事力と両輪をなし、ヨーロッパの植民地帝国は全世界へと拡散拡大してゆくのだった。。

 かくして、その侵略者たちの血塗られた足跡には、煌めく十字架が一本、また一本と立てられていったのである。

2008/08/21

自然

















 〈神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのを支配させよう」
 神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」〉(旧約・創世記1-25)

 これは『旧約聖書』の「創世記」の中にある、あまりにも有名な一説である。
 そもそも『聖書』という書物は、他の宗教のそれと同様、表現方法において実に複雑な比喩を駆使していることから、さまざまな解釈を可能にする含みを持っている。しかし少なくとも、『聖書』という書物に説かれている世界観が、人間をその中心的存在として展開していることは、疑いの余地のないことである。

 そんな、人間中心主義の宗教と言われるキリスト教世界では、「創世記」にある通り、まず人間と動物とはまったく異なった意義を持ってこの世に存在しているのだ。
 すなわち人間は、神が自らに似せて造った特別な創造物であり、動物や鳥、魚といった人間以外のすべての生物は、神がその人間の利益のために造ったものなのである。ようするに人間は自然の一部などではなく、完全に自然から超越したものとしてこの世に存在していて、人間は、人間のために存在しているすべての生物を思いどうりに利用できる権利を、神によって与えられたというわけなのだ。

 したがって基本的に彼らキリスト教徒は、たとえば動物を殺し食べる際にその動物に対して、特別な畏怖や畏敬の念を感じる必要性はなかったのである。食卓に肉がのぼることへの感謝は、もとより動物にではなく、神に対して行なうのだ。

 このように、そもそもキリスト教を始めとするヘブライ起源の宗教には、「自然」というものを神聖視する観念は存在しなかったのである。たとえば、「神聖なる森」などというものもなかった。森も、木も、そして動物も鳥も、すべて神から人間に与えられた一つの資源であり、『聖書』の中に神の心を読み取るように、自然の中に神の計画を読み取ることはできるが、その自然自体を神自身に置き換えることは、すなわち神を冒涜することを意味したのである。

「キリスト教は自然を殺した」
 そう指摘されたように、これがかつての狭い意味でのヨーロッパ人が、何の気の咎めを感じることなく、動物を殺し、森林を伐採してきた所以であり、またそれはすなわち、彼らの神の意志でもあったわけだ。

 いっぽう古代インドでは、取り巻く自然というものを単なる物質としてとらえる考え方は、ついに生まれなかった。
 よって古代インドでは、我々が普通に使うところの「自然」を意味する言葉が存在していなかったのである。では、古代インドにおいて「自然」にもっとも近い言葉とはいったい何だったのかというと、それはどうやら「神」という言葉になるらしい。

 自然現象はことごとく神格化され、人々は彼らの力を強化するために祭祀を行い、供物を捧げ、讃歌を謳い、そんな神はその見返りとして、人々に多くの恵みを与えるものだったのである。まさに彼ら古代インド人にとって自然は、ただひたすら賛嘆する対象であり、神格化された自然と人間との間には、強い共存の相互関係が保たれていたのだ。

 またインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』の中には、「リタ」という言葉が出てくる。リタは、天体の運行や季節の循環を始めとする、宇宙、自然を貫く秩序を意味していて、日月や大気の流転も、また万物の生成消滅もすべて、このリタにしたがい繰り返されると考えられていた。そして面白いことに、リタを彼らは、人間の倫理や道徳をも貫く根本原理としてとらえ、リタに正しくしたがい生きることを、人間の在るべき真の姿としたのである。

 ちなみに我々の使う「自然」という言葉の起源だが、その古代中国で用いられた「自然」という言葉は、「自ずから然りあり」「あるがまま」といったことを意味したもので、今言うところの「自然」には、「天」「天地」「造化」「万物」などといった言葉が用いられていた。その中でも、最も重きをおかれていたのは天である。

 すべての自然現象は天に起因し、天に根源を持ち、人間もまた天に従属する存在にすぎなかった。人間は天と合一することによって、従来の不完全性を克服し、それはそのまま、天を介しての自然と融合することでもあったのだ。

 また、万物の実体を形づくるものとして発展していった「気」の概念においても、人間はそれら万物と何ら隔たった存在ではなく、まさに人間共々、万物はすべて、気という実体によって連続、一体化するものと考えられていた。そして道教においては、人為を否定した無為自然こそが、人間の在るべき真の姿とされたのである。

 もちろん日本でも、古代神道はまさに自然崇拝の最たるもので、山にも海にも、滝や岩、老木、シカやサルにも、神の姿を見出だしていたのである。また「花鳥風月」という言葉が示すとおり、我々日本人は、自然を愛でるという独自な文化も発達させたのだ。

 ようするにアジアでは、古来、自然は常に侵されざる神聖なものだったのだ。多くの神々が、太陽や大地、森や川、鳥や獣に姿を変え、我々人間の生を圧倒的な威光を放ち取り巻いていたのである。
 したがって、自然そのものに神を見るアジアでは、キリスト教世界のような、人間の力で自然を征服しようなどという思考はついに生まれなかったのだ。

尊厳

















 近頃「食の尊厳を」などという言葉をよく耳にする。爆発的な経済成長を遂げ、その取り巻く物資の豊かさもさることながら、供給される食物の量も目を見張るほど豊かになり、日常生活の中には食物が溢れ返り、食に対する尊厳が失われたと危機を感じ始めたのだ。そこで、食物を大切にしようというのである。

だがそれを、今の若い世代に求めたところで、所詮無理な話しなのかもしれない。もう我々は、食物の生産の場から、完全に離れてしまっているのだ。もはや我々にとって食物は、額に汗して畑を耕し手に入れるものではないのである。今日の我々の社会では、食物はスーパーマーケットやコンビニエンスストアで簡単に、欲する時に欲するだけ、いくらでも手に入るのだ。

 ようするに、もはや我々に食物をもたらしてくれるのは、太陽の輝きでも、肥沃な大地や豊穣の海でもなく、農夫や漁師たちの汗でも、もちろん神や仏でもない。すなわちそれは、「マネー」なのだ。
 そして、そんなスーパーマーケットやコンビニエンスストアでは、マニュアルに定められた時刻になると、まだまだ十分に食べられる食物が、次から次へと大量にゴミ箱へ投げ捨てられている。こんな社会の現実を前にして、いかにして食の尊厳を説くというのか。

色彩

















 そういえば、僕が青春を過ごした70年代から80年代は、とにかくアメリカは素晴らしいという時代だった。アメリカ人のようにナイフとフォークを美しく使いこなせ、アメリカ人のように流暢に英語が話せることが、我々日本人にとっての憧れであり、それは一種のステイタスでもあったのだ。

 今でこそ、日本の伝統はある種の格好良さとして受け入れられているが、当時、雅楽をやっていた僕に対するまわりの人々の反応は、「何でまたそんな古くさいものを?」というのが常であったし、日本のサラリーマンのスーツの色を欧米のサラリーマンのスーツの色と比べ、自ら「ドブネズミ色」だと酷評していたのもこの頃の話しである。

 そんな頃世間では、アメリカ人はぜったいに「ごめんなさい」と言わないのだという話が広く取り沙汰されていた。アメリカ人にとって「ごめんなさい」と言うことは負けを意味することであって、何かにつけてすぐに「ごめんなさい」と謝る日本人のことを、我々日本人自らが国際社会における敗者だと侮蔑していたのである。

 だが僕はアジアを旅し始めて、幾度となく実にたくさんの、アメリカ人の「ごめんなさい」を聞いた。そして今、僕は東京の街の中を歩いていると、「ごめんなさい」という言葉がすっかり消えてしまったなと感じる。肩がぶつかっても、足を踏み付けても、もはや「ごめんなさい」を口にする若者はほとんどいなくなった。

 これを、若者たちの倫理感が欠落したのだと、彼らを一方的に批判することは大きな間違いである。70年代を、そして80年代を生きた我々大人たちが、素晴らしいアメリカ人を夢見、決して謝らない、強い日本人を目指して齷齪してきたその努力が、ようやく今こうして次の世代である若者たちの心の中で実を結んだのだ。

 ちなみに、サラリーマンのスーツの「ドブネズミ色」だが、色彩というのは、その民族の生を営む風土の中から生まれるものである。したがって、イタリアの乾燥した明るい太陽の下で生まれた色彩感覚と、日本の湿潤な陰影の中で生まれた色彩感覚とは当然、異なってしかるべきものであって、それを比べ、優越つけるなどという行為自体が、そもそもバカげたことなのだ。

 灰色、灰白色、灰汁鼠、鼠色、白鼠、薄鼠、素鼠、中鼠、繁鼠、濃鼠、黒鼠、墨色、薄墨色、濃墨色、桜鼠、梅鼠、白梅鼠、薄梅鼠、松葉鼠、島松鼠、呉竹鼠、青柳鼠、牡丹鼠、藤鼠、山吹鼠、桔梗鼠、浮草鼠、千草鼠、葡萄鼠、小豆鼠、暁鼠、薄雲鼠、空色鼠、水色鼠、紅鼠、紫鼠、臙脂鼠、藍鼠、藍生鼠、藍味鼠、茶鼠、茶気鼠、黄鼠、玉子鼠、貴族鼠、源氏鼠、小町鼠、絹鼠、御召鼠、軍勝鼠、遠州鼠、利休鼠、都鼠、鴨川鼠、嵯峨鼠、江戸鼠、深川鼠、浪速鼠、淀鼠、湊鼠、鴇色鼠、鳩羽色、鳩羽鼠、山鳩色、鈍色、青鈍、銀鼠、銀色、白銀色、錫色、鉛色、鉄色、鉄鼠、錆鼠、砂色、壁鼠、生壁鼠、納戸色、納戸鼠、錆納戸、消炭色……。

 我々日本人は、世界に類をみない、目を見張るほど豊かな、美しい「ネズミ色」を持っているのである。

2008/07/30

恩恵


















アメリカネムノキ。タイの田舎を旅していると、その大木によくお目にかかるが、このマメ科の植物はその呼び名の通り、実は西インド諸島から中央アメリカにかけての原産なのである。

 こういった外来の植物は、往々にして、在来の植物が守り続けてきた自然界の均衡を撹乱し、果てはそのすべてを破壊しまう悪役として受け取られる場合が多いが、このアメリカネムノキは、ここに在来していたある生物との出会いによって、ここに暮らす人々に多大な恵みをもたらすことになったのだ。
 その生物とは、指先でいとも簡単にひねりつぶせる小さな虫。カイガラムシである。

 カイガラムシというのは、樹木の枝や葉に付着し樹液を吸う、いわゆる寄生虫で、農業従事者にとってこの虫は、農作物を枯死させる害虫以外の何者でもない。
 しかし、このアメリカネムノキとともに人々に多大な恵みをもたらすカイガラムシは、農作物に喰らいつく素性の悪いカイガラムシではなく、「ラックカイガラムシ」と呼ばれる特殊なカイガラムシなのだ。

 カイガラムシという虫は、孵化すると1ミリにもみたない小さな体で樹木の枝や葉の上を自由にはい回り、お気に入りの場所を見つけると、そこに付着し樹液を吸い始める。するとこの虫は、なんと脚がなくなり動けなくなってしまうのだ。そして、そのまませっせと樹液を吸い続けながら分泌物を出し、やがて自分の体を覆う貝殻状の殻を作る。これが、彼らが「貝殻虫」と呼ばれる所以なのだ。

 ラックカイガラムシもまた例外なく、他のカイガラムシと同様にして殻を作るのだが、古来人々はそれを特別に「ラック」と称し、この分泌物の塊から多大な恵みをもたらされていたのである。

 では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような働きをするのか。実は、このラックという名前を語源とした、我々にもよく知られた加工品がある。「ラッカー」である。
 ラックはアルコールに溶けやすく、粘着性と耐油性が強いという特性から、古来、ニスの原料として使われており、ラッカーを始め、ペンキやマニキュア、エナメルなどの塗料やワックスなどにも加工されているのだ。あの、ヴァイオリンの名器として名高いストラディバリウスにも、このラックが使われているとのことである。

 これ以外にもラックは、食品の光沢材や、ガムやチョコレートのコーティング、また、ラックが酸に強いという特性から、胃で溶けずに腸で溶けるための医薬品の錠剤のコーティングなどにも使われていて、我々の生活は知らず知らずの内に、この熱帯の大木と、それに寄生する小さな虫の恩恵を受けているのだ。

 実は、このラックと日本との関わりは遥かに古く、正倉院の北倉にかつての渡来品が伝わっている。それは「紫鉱」と呼ばれ、当時は外用薬とされていたらしい。しかし、ラックと日本との関わりはこれだけではない。

 ラックは、もともと古代インドで染料として使われていたもので、やはり日本へも、古くから染料として渡来していたのだ。では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような色を生み出すのか。実は、その色は我々にもよく知られた日本の伝統色の一つとなっているのだ。「臙脂」である。

 ラックから精製した色素を綿に染み込ませ、薄い円盤状にしたものを「生臙脂」、または「臙脂綿」と呼び、日本へは古来このような形で輸入されていたらしく、江戸時代になり友禅染が隆盛すると一気に需要が増大し、長崎の出島から大量に輸入されるようになるのだ。

2008/07/29

影響

















 一番好きなタイ料理は何かと聞かれたら、僕は迷わず「ヤム・ウンセン」と答える。ヤム・ウンセンの「ヤム」は合える、「ウンセン」は春雨という意味で、これは一般に春雨サラダと呼ばれているものである。

 この「ヤム」と呼ばれるタイのサラダは、主に「マナオ」と「ナンプラー」と「プリック」で味がついている。

 マナオは青く小さな柑橘類で、ちょうど日本のスダチのようなものだ。酸味はタイ料理にはかかせない重要な味覚の一つで、インドシナ諸国全般の特徴として、酸味には酢よりも、柑橘類やハーブ類を使うことが多い。酸味を出す食材は、豆科植物「マッカム」(タマリンド)の実、柑橘植物「マックルー」(こぶ蜜柑)の皮と葉、イネ科植物「タックライ」(レモングラス)を始め、実にたくさんある。

 ナンプラーは、魚を塩漬けにして発酵させ、そこに出た上澄み液から作った醤油である。グルタミン酸を多量に含み、料理に独特の旨味をつけるのだ。これは、もともと保存食として魚を塩漬けにする過程から考え出されたと言われていて、ヴェトナムの「ニュクマム」、カンボジアの「タクトレイ」、ラオスの「ナンパー」、ビルマの「ガンピャイェー」と、東南アジアにはなくてはならない調味料なのである。ちなみに、このような魚から作ったソースを使っているのは、世界的に見ても、東南アジア以外には日本と中国、そして古代ローマくらいらしい。

 プリックは、いわゆるトウガラシのことで、「プリッキーヌー」「プリックチーファー」「プリックルアン」を始め、その種類は極めて豊富である。タイ料理は辛いという通説が世間に浸透していて、その辛さの主たるものがトウガラシだということも、今ではもう誰でも知っている。このトウガラシという食材なくして、タイ料理を語ることはできない。しかし、トウガラシは南米原産の植物で、実は近代になってから持ち込まれたものだったのだ。

 16世紀、当時の王都アユタヤのオランダ商館に勤務していたイレミアス・ファン・フリートは、当時のこの国の食事について次のように記している。

〈かれらの食事はなみはずれたものではなく、質素である。通常は米と乾魚、塩魚、生魚および野菜である。ソース、つまり調味料にはブラチャン、魚、および胡椒で味をつけた水を用いる。ブラチャンはえび、蟹、胎貝および魚から作られ、それに胡椒と塩がまぜられる。それはわれわれにとって悪臭を放つだけのものに過ぎないが、かれらにとっては美味なものなのである。かれらは宴会もおいしい食事も知らない〉

 ここに、トウガラシのことはまだ何も記されていない。彼がここに記しているソースは、おそらくナンプラーだろう。「ブラチャン」は、エビなどをナンプラーのように塩漬けにし発酵させて作るペースト状の調味料「カピ」なのかもしれない。カピはタイ語だが、マレー語では「ベラチャン」と言う。
 それにしてもこのオランダ人が、タイの人々のことを「かれらは宴会もおいしい食事も知らない」などと記しているところが、何とも面白い。まったく大きなお世話である。

 だがこれを見ると、やはりトウガラシのなかった頃のタイ料理は、現在の我々の思い描くところの、多様で多彩なあのタイ料理とは比べものにならないほど、単調なものだったのかもしれない。

 参考までに一つ補足しておくと、飯屋や屋台に並ぶ日本でもお馴染みの野菜や果物もまた、その多くが外から持ち込まれたものである。
 インド原産のナス、キュウリ、コショウ。西アジア原産のニンニク、ニラ、ネギ、玉ネギ、ニンジン。イラン原産のホウレンソウ。ヨーロッパ原産のキャベツ、カリフラワー、ブロッコリー、アスパラガス。地中海原産のコリアンダー。アフリカ原産のスイカ、タマリンド。中南米原産のトウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、インゲン、パパイヤ。南米原産のピーマン、ジャガイモ、トマト、パイナップル、等々。

 もちろんこれらは、それぞれの故国から風に吹かれ、波に揺られ、はるばるここまで辿り着いたのではない。人が動き、食が動いたのだ。それが、どういった使命感によるものであったのかは別として、かつてこの地球の上を、命もいとわず歩き続けた人間が、確かにいたということである。とにかく、まさにトウガラシは、タイに持ち込まれた外来文化としては、第一級にあたいする影響力だと言えるだろう。

2008/07/22

発見

















「キリスト教と香料」
この合言葉を旗印にして、輝かしき大航海時代の幕が切って落とされたことは、よく知られているところである。香料は彼らヨーロッパ人にとって、未知なる大海の彼方からもたらされる神秘的で魅惑的な産物であり、彼らはそれを一手に握り、多大な利益を上げることを目論んだのだ。
 その先陣を切り、空白の大海へと船出したのが、スペインのクリストファー・コロンブスと、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマだったことは、今さら云々するまでもなく広く世に知られているところである。

 だが、1492年。大西洋を西へ向かったスペインのコロンブスが到達したのは、結局、目標であったインディアでもジパングでもなくキューバだったわけだが、スペインはさっそく手回しよく、その翌年の1493年、この彼らの言うところの「発見」した未知なる陸地と、これから再び大西洋を西へ向かい「発見」するだろうインディアまでの世界が、スペインのものであるという権利の要請をするのだ。

 実を言うと面白いことに、なにをかくそうこの地球は、神が彼らキリスト教徒たちへ与えたものだったのである。したがって、そんなとんでもない権利をいったいどこの誰に要請したのかというと、それはもちろん、この地球が神が彼らキリスト教徒たちへ与えたものである以上、ローマ教皇へである。

 これによってスペインは、時の教皇アレクサンデル6世から、大西洋のヴェルデ岬諸島の西方約560キロの経緯から西側をすべてスペインのものとし、また、スペインによってその西方の住民にたいするキリスト教の布教が円滑に進展することを願い、インディアをスペインへ贈与する、という教書を取り付けたのだ。

 だが、こんな話が宿敵ポルトガルの耳に入ると、当然、彼らも黙っている訳がない。異議を唱えるポルトガルとスペインとの間でしばらくすったもんだがあり、結局、再び登場したローマ教皇の仲介によって、両国は一応の和解に漕ぎ着けるのだった。
 その際に結ばれたのが、かの有名な「トルデシリャス条約」である。1494年のことだった。

 この条約によって、なんとこの地球を両国で仲良く半分こすることになり、大西洋のヴェルデ岬諸島の西方約2000キロの経緯を分界線にして、西側がスペインのもの、東側がポルトガルのものとなったのである。この結果、南アメリカで唯一、分界線から東側に突き出していたブラジルだけがポルトガル領となってしまったという話は、よく知られているところである。

 こういったスペインとポルトガルの、「この線から向こう側は君のもので、こっち側は僕のもの」という地球の分割は、彼らとて、そこにいったいどんな海と陸地があり、またどんな人々がどんな文化をもって暮らしているのかといったことなども、まったく知らない上で、何の疑いもなく自分たちで「決めた」のだ。

 もちろん、我々の先祖を始めとする、すでにその地で暮らしていた人々にとっては、そんな見たことも聞いたこともないユーラシア大陸の突端に住む人々が、自分たちの暮らしている土地を勝手に「向こう側は君のもので、こっち側は僕のもの」と「決めた」ことなど、まさに知る由もないことで、おまけに、この地球は実は神が彼らキリスト教徒たちに与えたものなのだなどという話も、まったくもって縁も所縁もない話だったわけである。
 しかしスペインとポルトガルの両国は、ローマ教皇からのお許しも取り付け、これで心置きなくアジアの香料を求め、「発見」に情熱を注ぎ込むことになるのだ。

 ところがである。しばらくすると、この地球をなにゆえにスペインとポルトガルだけが占有するのかと、異議を申し立てるものたちが現われてくるのだ。その異議を申し立ててきたのは、残念ながら博愛主義団体ではなく、同じキリスト教徒の国、すなわちイギリスやフランス、オランダを始めとする他のヨーロッパ諸国である。

 こうして、とうとう神がキリスト教徒たちに与えたこの地球という宝の山を、キリスト教徒の国々が群がり、奪い合いを始めたのだ。
 そして、そんな彼らのアジアの交易圏への進出は、やがて交易の独占を経て領土支配へと加熱してゆき、いよいよアジアは、ヨーロッパ諸国による横行と掠奪の渦巻く、長い長い暗黒の時代の幕開けを迎えるのである。

2008/07/21

輪廻


















 輪廻「サンサーラ」という言葉は、「流れる」「廻る」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、まずこの思想の基本は、霊魂の存在というものを絶対肯定する所にある。霊魂は人間の存在の本質であり、永遠不変なのだ。したがって霊魂は、死によっても滅することなく存在し続けるのである。

 そんな輪廻の原形とされる、霊魂がこの世に再生するプロセスが、『ヴェーダ』の奥義書『ウパニシャッド』の中に説かれていた。「五火説」である。

 それによると、まず人が死に火葬されると、霊魂は肉体を離れ煙と共に立ち昇り、まず月へと至る。月へ至った霊魂は、やがて雨となって地上へ降り落ち、雨は大地にしみ込む。大地にしみ込んだ雨は、つぎに植物によって根から吸い上げられ、葉が繁り、花が咲き実を結ぶ。その実を男が食べると、霊魂は精子となり、それが男女の交合によって母胎へと至ると、やがてまた新たな生命としてこの世に再生するというのである。

 そして、この輪廻にもう1つの思想「業」が加わると、いよいよ人々の現世での生き方そのものに多大な影響を及ぼすことになるのだ。

 業「カルマン」という言葉は、「成す」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、業は精神的作用も含め、人の行いのすべてを包括しており、さらに、それによってもたらされるであろう潜在的なことまでも引き込んでいるのである。

 この生前の行い、すなわち業は、霊魂によって担われ、死すと霊魂は業の善悪によって、しかるべき来世へと生まれかわると考えられるようになっていったのだ。
 その、業の善悪によって振り分けられる来世こそが、後に仏教で「六道」へと発展する、天上、地獄、人間、動物等の各界である。ようするに霊魂は、生前の行いが生む業という絶対的力によって常に来世を決められ、永遠に死と再生を繰り返していくのだ。これが輪廻だ。

 したがって、我々が何気なく食べているウシやブタやニワトリも、ひょっとすると死して別れた家族や恋人たちの生まれ変わりなのかもしれない。そしてまたそれは、もしかすると己れ自身の来世の姿なのかもしれないのだ。

浪漫

















 なぜエベレストを目指すのか、という質問に対して「そこに山があるから」と答えたのは、イギリスの登山家ジョージ・ハーバート・リー・マロリーである。

 「登山」という行いは古来、数ある我々人間の行いの中でも特別に、一種の聖域に属する最も気高いロマンティシズムとして存在している。それは、山自体の偉大さや、その山の偉大さと比べると取るに足らないほど小さな我々人間が、命もいとわずその頂点へと挑もうとする、まさにそんな人間の限界に立ち向かう姿が、人々に身震いするような感動を与えるからだろう。

 だが僕は毎年決まって目にすることになる、山で遭難し救助された人々がメディアの前で頭を下げ、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするのを見る度に、実に腹立たしい気持ちになる。登山ほど無責任な行いもないものだ……。

 山へ登るのが自由であれば、遭難するのも自由だ。しかし、それを救助する救助隊はたまったものではない。救助要請があれば、悪天候であろうが直ちに、まさに決死の覚悟で救助へ向かう。そして、その救助へ向かった救助隊が命を落とすという事故も後をたたないのだ。

 そんな無責任な行いを「ロマン」などという言葉で簡単に許していいのか?登山家の「ロマン」は、救助隊の「人命」よりも重いのか?

 何年か前、劣化ウラン弾の絵本を作るとか、ストリートチルドレンを助けるとか、いい報道写真を撮りたいなどという大義名分を胸に、タクシーに乗り込み戦火のイラクへ向かい拉致された3人の若者を、日本国民は声を揃えて「無責任」と非難した。僕には彼らの行いと、極めてごく個人的な達成感のために険しい山の頂を目指し、遭難し、救助に向かった救助隊を死の危険にさらす登山家と、どこが違うのか分からない。

 だがおそらく今年も、多くの人々が山の頂へ挑み、その何人かは遭難をし、救助され、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするだろう。そして彼らは、しばらくするとまた山へ向かい、人々はそれを「ロマン」だと目をうるわせ拍手喝采するのだ。

御手

















 古代ギリシアでは、「自然」を意味する言葉として「ピュシス」が存在していた。

 ピュシスは、「生まれる」という動詞「ピュオマイ」に由来すると考えられていて、古代ギリシアの自然とは、生成、成長、衰退、消滅という意味合いを帯びた、生ける調和的統一体だったのである。もちろん人間も、この自然の中に内在する一部分にすぎず、神もまたそれを越えるものではなかった。

 そして古代ローマでは、ギリシア語ピュシスに対して「ナートゥーラ」というラテン語があてられる。
 ナートゥーラは、ギリシア語と同様「生まれる」という動詞「ナスコ」に由来し、ここでも自然は、人間や万物、そして神も、何もかもが対立することのない調和的統一体としてとらえられたのである。

 ところが、やがてこれが中世キリスト教世界に入ると、この調和的統一体としての自然観は一気に崩れ去ってしまうことになる。

 創造主としての神と、被創造物としての万物とが明確に分離し、「神—人間—自然」という階層関係が確立されるのである。神は、創造主としてより超越的存在となり、人間は、神の特別な創造物として自然より分離され、そして自然は、神から人間に贈与されたものとして人間みずからが支配すべく存在と化したのである。

 こうしてとうとう我々人間は自然界から抜け出し、自然を物質、資源とみなすヨーロッパ世界の「自然支配」の構図が誕生し、産業革命へと向かう思想的基盤が準備されたのだ。

 参考までにイスラム世界では、ギリシア語ピュシスに対して「タビーア」というアラビア語があてられた。
 タビーアは、「刻印する」「封印する」という動詞「タバア」に由来し、神が印をつけるという行為を、万物の存在の成り立ちとするという意味合いを帯びていた。すなわちイスラム世界でも自然は、創造主としての神の御手によって生成されると信じられていたのである。

 20世紀とは何かという問いに対して、「発明」や「経済」、そして「戦争」といった様々な言葉を用い表現されているが、20世紀はまた、そのヨーロッパ文明の傑出した英知によって、遂に人間が「神」となった世紀でもある。すでにこの星の何もかもが、人間の御手に委ねられた。はたして我々人間は神として、新たな自然界の秩序を生み出すことができるだろうか。その答えは、案外、早く出されることになるだろう。

誤差

















 「マイペンライ」という言葉がタイ語にある。マイペンライとは、日本語にすると「どういたしまして」といった意味で、これは相手への思いやりに満ちたとてもいい言葉である。ところがこれがまた、タイ人の気質を表す悪名高い言葉でもあるのだ。

 マイペンライはこの「どういたしまして」以外にも、「大丈夫」とか、「気にしない」といった意味があって、それが時として我々日本人からはちょっと理解できない使われ方をするのである。たとえば、上司に間違いを指摘された部下が返す言葉が「マイペンライ」だったり、車をぶつけた人がぶつけられた人に返す言葉が「マイペンライ」だったりするのだ。

 ようするにタイ人は、小さなことをクヨクヨ気にしない、とても大らかな気質なのだが、悪く言えばいい加減、無責任といったことにもなり、それがこの「マイペンライ」という言葉に集約されているのである。ある本にはそんなタイ人の気質について、「怠情で、よほど困窮しなければ働かず、自分の運命に甘んじ、金銭に執着せず、生活向上にも関心がなく、隷属的地位に不満を持たない」などと書かれていたりする。
 だが「マイペンライ」は、かつて旅行者たちの間で中国人の気質を表した悪名高い言葉「メイヨー」とは比べものにならないほど、遥かに愛くるしい言葉だと言えるだろう。

 そして、タイ人とほぼ同じ民族文化を共有しているお隣ラオスのラオ人もまたしかりである。「マイペンライ」にあたる言葉は、ラオ語では「ボーペンニャン」と言い、ラオ人もタイ人同様、小さなことをクヨクヨ気にしない、とても大らかな気質なのだ。その気質は、内陸の、あまり外界との接点を持っていなかった彼らラオ人にとって、より顕著だと言えるかもしれない。
 かつてラオスを植民地としたフランス人は、そんなラオ人のことを同じ仏領インドシナ連邦の同胞であるヴェトナム人とカンボジア人を引き合いに出して、こう表現している。

〈稲を植えるのがヴェトナム人、稲の育つのを眺めるのがカンボジア人、そして稲の育つ音を聞いているのがラオ人である〉

 と、まあこんなボーペンニャンな気質のラオ人は、あの戦時中のアメリカへの恨みなど、もうすっかりと忘れてしまっているようだ。
 もっとも、こういったタイ人やラオ人の気質には、もしかすると気候というものも大きく関係しているのかもしれない。身も強ばる寒冷地とは違い、こんな一年中ダラダラと暑い土地で暮らしていると、そんな昔の恨み辛みを考えているのも、きっとバカバカしくなるのだろう。

肉食

















 世界の多くの民族は、何らかの食に対する戒めを持っているものだ。その戒めは、やはり肉食に関して顕著であり、たとえばヒンドゥー教徒がウシを食べないことと、イスラム教徒がブタを食べないことは、特によく知られているところである。

 ヒンドゥー教が食べることを戒めているウシは、神ブラフマンによって創造された極めて尊き生き物で、また神シヴァの神聖なる乗り物としても広く崇められている。そして、そもそもウシは彼らインド人にとって、日々多大な恩恵を与えてくれる動物でもあったのだ。
 たとえば雄牛は大地を耕す労力に。雌牛は乳を出し滋養を。糞は貴重な燃料に。そして尿すら薬として飲まれたらしく、こういった人間にとっての有用性が、ヒンドゥー教徒にこの動物を食べることを戒めさせた大きな要因になったのではないかと考えられている。

 では、イスラム教では何故にブタを食べることを禁じられているのかというと、それは蹄がどうのとか、反芻がどうのとかいろいろなことが言われているが、実際のところは『コーラン』で穢れたものとして禁じられているからだということ以外、確実なことは分かっていないらしい。
 しかし面白いことに、イスラム教のこの戒めはまた非常に徹底していて、ブタ以外の清浄なる食物「ハラル」であるはずのニワトリやウシやヒツジであっても、イスラム教徒以外の者が屠殺した肉は不浄なる食物「ハラム」となり、食べることが禁じられている。

 そして、同じヘブライ起源の宗教、実はキリスト教でもブタは汚れたものとされていて、本来、食べることが禁じられていたのだ。
 『旧約聖書』のレビ記の「清いものと汚れたものに関する規定」には、ブタを始め、彼らにとっての清い動物と汚れた動物とが、こと細かく規定されている。

〈地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。いのししはひずめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはなにない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
 水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。これらは汚らわしいものであり、その肉を食べてはならない。死骸は汚らわしいものとして扱え。水の中にいてひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。
 鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。
 禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、森ふくろう、魚みみずく、大このはずく、小きんめふくろう、このはずく、みさご、こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。
 羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。ただし羽があり、四本の足で動き、群れを成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ肢を持つものは食べてよい。すなわち、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい。
 しかし、これ以外で羽があり、四本の足をもち、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。
 以下の場合にはあなたたちは汚れる。死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。
 ひづめはあるが、それが完全に割れていないか、あるいは反すうしない動物はすべて汚れたものである。それに触れる者もすべて汚れる。四本の足で歩くが、足の裏の膨らみで歩く野性の生き物はすべて汚れたものである。この死骸に触れる者も夕方まで汚れる。死骸を持ち運ぶ者は夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。それらは汚れたものである。
 地上を這う爬虫類は汚れている、もぐらねずみ、とびねずみ、とげ尾とかげの類、やもり、大とかげ、とかげ、くすりとかげ、カメレオン。以上は爬虫類の中で汚れたものであり、その死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる〉(旧約・レビ記11-2)

 食に関する戒めが緩いとされているキリスト教でさえ、実はこれだけの多くの戒めがあり、ここにある「イノシシ」が、いわゆる今言うところのブタである。
 また『旧約聖書』のマカバイ記2を見てみると、エレアザルという律法学者が口をこじ開けられ、強制的に豚肉を食べさせられる下りがある。しかしエレアザルは、「不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責め道具に身を任そうとした」というのだ。彼らのブタに対する嫌悪感というのも、なんとも凄まじいものである。

 しかし、やはりキリスト教においても、イスラム教と同様、蹄は割れているが反芻しないということがブタの汚れている理由らしいが、それに対して「なぜ?」と疑問をいだいた所で、これ以上の答えは出てこない。
 もっともこういった宗教の戒めは、実は論理的にも説明できないものの方が多く、むしろ説明できないからこそ、今日まで途絶えることなく残ったのだという指摘もある。
 確かに、宗教とは信じるものであって、解明するものではないのである。ガンジスの河の水が、ルルドの泉の水が、H2Oだと解明された所で、それは何の意味も持たないのだ。

 日本でも、仏教の伝来は、我々日本人から肉食の習慣を忌避させることになった。
 678年、天武天皇は仏教の不殺生戒にしたがい、ウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉を食べることを禁ずる詔を出し、やがて国家宗教として開花し始めた仏教が長い時を経て庶民の心の中に広がりゆく過程において、日本人の生活から次第に肉食が消えていったのである。
 1549年、我が国へキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザヴィエルは、こんなことを書き残している。

〈日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物に依って、いかに健康を保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている〉

 これは、日本で2年あまりの布教生活を送り、その食生活に苦労したザヴィエルがある神父に宛てた手紙で、すなわち日本へ布教に行くには、肉の食えない、草はがりを食べる粗食に耐える覚悟が必要だと諭しているのである。これを見てもわかるように、実際、彼らヨーロッパ人宣教師にとって、仏教の戒律に従って肉を口にできないことが、日本での布教活動における重大な問題だったようだ。

 かくして日本料理は、世界的に見ても類い稀な、肉という食材を欠いた特異な料理体系となったのだ。

住居

















 住居とはそもそも、風土から形作られるものだった。これは、生活を快適にしたいという人間の根源的な欲求によるもので、よって自然環境が異なれば、おのずと住居の形態も異なるわけである。

 ちなみに日本では、「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」と、『徒然草』の中で吉田兼行が言うように、古来、住居は夏のむし暑さを主眼にして建てられたのである。これは防寒を第一に考え建てられるヨーロッパの建築とは明らかに異なる点で、ようするに雪を愛でる日本の冬は、ヨーロッパのそれと比べると遥かに過ごしやすかったのだ。

 そんな愛すべき良好な気候に育まれた日本の建築はまた、ヨーロッパの建築とは細部においても数多くの相違点をもっている。
 たとえば、「軒下」という言葉のないヨーロッパの建築とは異なり、日本の建築には軒や廂、縁といった自然と連動する空間があり、そこは我々日本人にとってとても快適であると同時に、なくてはならない大切な空間だったのだ。『源氏物語』に代表される数々の王朝文学も、この軒や廂、縁といった空間なくしては生まれなかったとも言われている。

 そして、日本の建築の中で数少ない、ヨーロッパの建築と共通した自然と連動する場所である窓すらも、日本では語源は「間戸」である。これはもともと、柱の間に建てこまれた光を採るための開放的な戸のことであって、少なくとも外界と遮断する壁に開けた穴ではなかったのだ。面白いことに窓というものの形態も、風を取り込むことを主眼とした日本の窓は横長に、光を取り込むことを主眼としたヨーロッパの窓は縦長に作られたのだ。

 もしも熱帯の山奥に、分厚いコンクリートの壁に囲まれ、頑丈なガラス窓によって密閉された住居を建てたならば、エアコンを一日中フル稼働させる膨大な電力が必要になるだろう。こういった環境を無視した住居が可能となったのは、もちろん、電力やガスを始めとするエネルギーを使い、簡単に快適な環境が作り出せるようになった、まさにごく近代のことである。

香料



















 香料は大別すると、主に動物性のものと植物性のものに分けることができる。この割合は、圧倒的に植物性のものが多く、動物性のものは遥かに少ない。その動物性の代表的香料である「麝香」「霊猫香」「竜涎香」の3種の内、2種がインドシナに産している。

まず麝香、いわゆる「ムスク」とは、ジャコウジカの雄の生殖腺分泌物である。ジャコウジカは、チベットから中国雲南へかけての山岳地帯に生息しており、雄雌共に角はないが、雄は顎の下まで突き出した左右一対の長い牙を持つ。
 麝香は、雄の生殖器近くの麝香嚢の中に納まっていて、交尾期に分泌し、この匂いで雌をおびき寄せるのである。その雄がおびき寄せる雌は、当然すぐ近くにいるとは限らない。したがって、遥か遠くの雌までもおびき寄せる実際の麝香の匂いたるや強烈なもので、麝香の「麝」という文字は、鼻を突き射すような凄まじい匂いであることから、「鹿」と「射」の2字を合わせ生まれたらしい。すなわち麝香は、ごく薄く希釈して初めて、妙香としての輝きを発するのだ。

 麝香が薬物としての効果を持つことは古くから知られており、発汗を清浄にし、心臓を強くし気力を増すといった効能が、アラビアの古い医学書にも書かれている。また中国唐代には、「挙体異香」といって、女性が微量の麝香を服用し、排泄物や汗といった体臭を消したという記述が残っている。
 しかし古来、薬物としての麝香の最大の魅力は、やはり媚薬としてのものだった。性交合を宇宙の原理とした、インドの「タントラ」や中国の「タオ」の実践にも、麝香は特別な存在価値を有していたし、その狂おうしいほどの芳香と強精剤としての力は、広く中東、西欧世界の閨房の奥深くにも浸染していったのだ。

 つぎに霊猫香、いわゆる「シベット」は、ジャコウネコの肛門腺分泌物である。麝香がジャコウジカの雄だけにそなわっているのとは異なり、霊猫香はジャコウネコの雄雌共にそなわっていて、肛門近くにある香嚢に納まっている。
 霊猫香の採取方法も、麝香がジャコウジカを殺し、体内から麝香嚢を摘出するのとは異なり、体外に突出している香嚢の先端にある穴にヘラを差し込み、中に納まっている乳白色の香料を掻き出すのだ。ジャコウネコは、与える餌が上質であればあるほど分泌する香料の質が良くなると言われていて、また驚かせたり興奮させるとより一層多く量を分泌すると言われている。

 ちなみに、残るもう1つの動物性香料の竜涎香、いわゆる「アンバーグリス」は、マッコウクジラの体内に生ずる病的結成物である。100頭、あるいは200頭に1つあるかないか、という極めて貴重な物で、何らかの折りに体外へ排出され、それが漂流し海岸に打ち上げられるのだ。竜涎香は鈍い灰色の固まりで、永く海面に漂い陽に曝された物ほど上質と言われている。

 しかし、竜涎香はかくして発見されるものの、それがいったい何なのかは、長く謎のままだったのだ。海底の泉から湧き出た泡の固まった物、大量に海中に流れこんだ蜂蜜、海底に生えるキノコ、海中に生息する牛の糞、といったように古来、様々な憶測が張り巡らされていて、『アラビアンナイト』の中にも、この竜涎香についての奇譚が記されている。

〈島には、瀝青色をした液体の生のままの竜涎香の泉がひとつあって、それが太陽の作用で、溶けた蝋のように浜辺に流れ出す。それを大きな魚が海から出てきて呑み込み、腹のなかで温めていて、しばらくたつと、水面に吐き出す。するとそれは固くなり、性質と色が変わる。波はそれを浜辺に打ち上げて、浜辺はその香で馨っている〉

 「アンバーグリス」という呼び名は、竜涎香を最初に発見したと言われているアラビア人の呼び名「アンバル」に由来し、アンバルは香りの王者を意味した。「竜涎香」という呼び名は、イスラム商人によって初めて知らされたアンバーグリスとその奇譚を 中国人が勝手に竜の涎に置き換えてしまい、以後、中国でアンバーグリスは、海底に潜む竜の涎であるという説が定着してしまったのである。

 それが後に、マッコウクジラの体内に生ずる病的結成物であることが判明すると、竜涎香は捕鯨によって直接、体内から摘出されるようになるのだが、依然としてその成因は謎のままで、摘出率が極めて低い確率であることも変わりはない。
 竜涎香も、やはり薬物としての効果を持つことが信じられていて、古くから脳や神経、心臓の妙薬とされていたのだが、香料としての竜涎香の効果としては、なんと言ってもその香気の持続性が上げられる。竜涎香の香気は何百年もの間、失せることなく保たれるらしく、イギリスのハンプトン旧王宮の中には、しみ込んだ竜涎香の香気が1世紀以上に渡って香り続けている部屋があるらしい。

 そして、インドシナに産する植物性の代表的香料と言えば、やはり何といっても「沈香」と「安息香」が上げられるだろう。

 「香すなわち沈」という言葉があり、これは「沈」の秀逸を言い表したもので、沈とはもちろん「沈香」のことである。沈香は比重が重く、水に沈むことからこの名があり、古く中国で「香」と言えば、この沈香だけを意味していたのだ。
 熱帯に自生するジンチョウゲ科のある樹木が何らかの要因で傷つくと、樹脂の分泌が始まり、それがバクテリアの作用で幹に濃密にしみ込み、固まる。こうして、その樹木が倒れ土中に埋没すると、樹質は腐敗し分解消滅してしまうが、樹脂の固まった部分だけは腐敗せずに、そのまま土中に残る。それが沈香である。

 沈香は、熱帯アジア、特にインドシナに多くを産し、「伽羅」と呼ばれる最も上質な物は、主にヴェトナムに産する。伽羅の価値は、他の香料とくらべて桁違いに高く、金をもしのぐほどで、それだけに、古くから伽羅争奪にまつわる血腥い話も多く、確かに、伽羅のその深遠と立ち昇る香気には、人為を遥かに越えた一種霊的と思えるほどの風格と気品がある。かのナポレオンも、香料に対して並々ならぬ愛着を持っていたことが知られているが、中でも特に沈香は大のお気に入りだったらしい。

 安息香とは、ラオスからタイへかけて自生するエゴノキ科のある樹木の分泌物である。その樹幹についた傷から滲み出てくる乳白色の分泌物が、空気に触れ凝固したものが安息香である。古来、最も上質な物を「トラの涙」と称し、安息香はインドシナの他、インドネシアのスマトラにも産するが、やはりインドシナ産の香気には及ぶものではない。
 安息香の薬効としては、古くから強心作用と沈静作用が上げられていた。しかし安息香は、そのやわらかく甘美な香気から、ヨーロッパでは特に、化粧品や芳香料などの香りづけに多用されていたのだ。

 その昔、ヨーロッパの上流社会の女性たちの間では、芳香料の処方を蒐集することが流行していたらしく、新たに手に入れた処方は各自が愛蔵する手書きの処方書に丁寧に書き加えられ、こうして蒐集された処方の質と数が、また彼女たちの1つのステイタスでもあったのだ。
 その、今に伝わる数々の処方書を見てみると、安息香を始めとする、インドシナからもたらされた数々の香料の名前が実に多く散見できる。

 まず16世紀、ヨーロッパでとても人気が高かったらしい「ダマスク・ローズ」という芳香料は、ダマスク・ローズの葉、安息香、麝香、蘇合香、ショウブ、ガリンゲール、ラダヌムといった香料を混ぜ合わせたもので、それを小さな絹の袋などに入れ携帯していたらしい。ちなみに当時は、まだアルコールを使い香料から精油を抽出することが知られていなくて、こういった芳香料は、香料を砕いて混ぜ合わせたり、それをさらに粉末にしパウダー状にしたものが主だったのである。

 つぎに、フランスのアンリ王の愛用したリンネル製品に賦香するための「スミレ香粉」は、白花イリスの根、バラの葉、糸杉、ショウブ、コリアンダー、ラベンダー、白檀、安息香、蘇合香、桂竹香、竜涎香、マジョラムを粉末にして混ぜ合わせたものだったらしい。また、スペインのイサベル女王は、バラの葉、白花イリスの根、ショウブ、安息香、蘇合香、桂竹香、コリアンダーを混ぜ合わせた香粉を愛用していたとのことである。

 当時、ヨーロッパで用いられていた芳香料としては、こういった香粉以外にも、様々な種類のものがあったようだ。練香もその1つである。これは象牙や金、銀などで作られたプランタニエと呼ばれる小さな携帯用の香炉で用いるもので、ブラガンサ公爵夫人とパルマ公爵夫人が愛用したとされる練香は、竜涎香、麝香、霊猫香、桂竹香、シトロン芳香花精を混ぜ合わせ、練り上げて作られたらしい。この二人の公爵夫人は、殊の外、香料に対する執着が強かったようで、彼女たちの愛用した手袋用香料の処方も伝わっている。竜涎香、麝香、ジャスミン油、バラ水を混ぜ合わせたものを、せっせと手袋にすり込んだのである。

 婦人用芳香ネックレス、などというものもあった。安息香、蘇合香、麝香、霊猫香、ラダヌム、バラ水を乳鉢の中で加熱しながら練り上げペースト状にし、それを小さなビーズ状に丸め、糸を通してネックレスにするというのである。また後には、小さな箱のついた指輪も作られ、そこにお好みの香料を入れ、一人密かに芳しき香りを愉しんでいたらしく、これ以外にも、芳香ランプや香粉ふいご、嗅ぎタバコなど様々なものが考案され、紳士淑女たちの豪奢な生活は、溢れんばかりの香りによって彩られていたのである。

 実を言うと、こういったヨーロッパ人の香料に対する執着は、愉しみというよりも、ひとつ大きな必然があってのことだったのだ。当時、平均的なヨーロッパ人は、せいぜい1年に数回、水浴びでもすればましな方だという、清潔とはおよそかけ離れた、驚くべき不潔な生活を送っていたのである。したがって、その体臭はかなりひどかったらしく、この悪臭を消すために、こういった芳香料、また後の香水の文化が飛躍的に発達していったというわけなのだ。

 面白いことに、17世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジは、シャム王から「フランス人は清潔か、歯は手入れしているか、口をすすいだり体を洗ったりするか」と訊ねられたと、その旅行記の中に記している。ショワジはこのシャム王からの質問に対して、「これは愉快な話だ。われわれが見るのは褐色の肌の、全裸に近い人々である」と一笑した後、「しかし彼らは食べること、着る物、話し方に至るまで、全てにおいて世界で最も潔癖な人たちだ」と結んでいる。

 かくして、かの大航海時代が始まり、ヨーロッパにおける香料の需要が増大すると、インドシナ各地の港市から大量の香料が船積みされ、海を渡り始めるのだった。

絶滅

















 『旧約聖書』によると、もともと我々人間はみな同じ言葉を話していたらしい。それが何故に違う言葉を話すようになったのかというと、それは人間が天まで届く塔、いわゆるバベルの塔を築き始めたことに神が怒り、人々を四散させ、言葉を混乱させたかららしいが、今、世界で使われている言語の数は、およそ68000語ほどあるらしい。

 だが、少なくともその半数が、今世紀中に絶滅してしまうだろうと言われている。ある推定によると、すでに過去500年の間に4000語から9000語もの言語が絶滅したのだ。
 こういった言語の絶滅には、戦争やジェノサイト、そして植民地化による強制的な言語統制など、いくつかの要因が上げられるが、これから確実に、その最も大きな要因になるだろうと懸念されているのが、なんと言っても文化的同化である。
 それは、テレビを始めとする様々なメディアの発達によって、ますます加速されるだろう。日本でも、あの誇り高き大阪弁ですら、確実に東京弁化しているのである。

教育

















 僕はアジアを旅していて、子供たちの純真なあの笑顔に接すると いつもある本の一節を思い出す。オールコックの『大君の都』(岩波書店)だ。彼は、幕末の日本に来航したイギリスの外交官で、日本駐在の初代公使・総領事になった男である。『大君の都』は彼がその際、日本で見聞きした様々な事どもを一冊の本に記したものなのだ。その中に、こんな一節があった。

〈イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっているとわたしはいいたい。すなわち日本の子供たちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることはない〉

 オールコックが見た日本は、今から百数十年前の日本である。この百数十年の間、日本は、その長い歴史の中でも最も激しい変化を経験したと言えるだろう。

 そんな変化の中で、我々の生活もまた目まぐるしく変わり、かつて想像もつかなかったほどの快適さを、我々は手に入れたのだ。そして今の子供たちはと言えば、彼らは少なくとも僕の知る限り、アジアのどこの国の子供たちよりも格段に、ある意味において、とても「文化的」な生活を送ってる。異常なまでに清潔で快適な居住空間に、有り余るほど豊富な食糧。目新しくきれいな衣服に、戸惑いを覚えるほど多くの刺激的な娯楽。

 ところが今、日本の子供たちには、かつて思いもよらなかったような、いろいろな問題が露呈してきている。それは、親や社会が子供のために、過去のどの時代よりも遥かに膨大な情熱と金を注ぎ込んでいるにもかかわらず、問題はそれに反比例するかのように多発化、多様化の一途を辿っているのだ。

 もしかすると、それらの問題の多くは、食べることや、生きることが大変だった時代にはなかった問題だったと言えるかもしれない。もちろん、そういった時代が良かったと言っているわけではなく、問題はそんなに単純ではない。しかし、1つだけ言えることは、これは今まで我々大人たちが追い求め、作り上げてきた社会に対して出された、ひとつの答えだということである。

 子供の精神は、なにも密閉された試験管の中で突発的に自己形成されるわけではない。生育の段階での、家庭や、社会といった取り巻く環境の影響を受けつつ形づくられていくのである。確かに、子供たちにとっての「生」の在り方は、家庭環境の、社会環境の激変とともに大きく変わったのだ。

 子供たちは、生まれ落ちたその時から、親の価値観の下に「ブランド化された人生」のレールの上に乗せられ、目的意識をなくし空洞化した受験教育の枠に有無も言わせずはめ込まれ、「自由」と「権利」ばかりを教え「義務」を教えない社会の中を、大学の門を目指しひたすら走り始める。「塾」という入学試験合格者養成所と、それによって存在感を失ってしまった「学校」という学歴取得所の、2つの場を行き来しながら。

 そして彼らはまた、その決して例外を許さない、採点や偏差値によって判断される、数字による高度な平均化を理想とした教育プログラムの中で、相反する「個性」という極めて不明確な言葉を繰り返し唱えられ、あたかも個性的であることが生きる意味であるかのごとく暗示を受け、時としてそれが大きなコンプレックスとして彼らに植え付けられることにもなる。

 家庭生活はと言えば、子供たちにとって「勉強する」という責務以外のすべてのことは手放しに許され、少子化という現象も手伝って、親は子供の意のままに、何でも好きなものを買い与え、好きなものを好きなだけ食べさせ、親のすべてが子供に集約される。これによって子供たちは、「我慢」という節度を永遠に見失ってしまうのだ。

 かくして、家庭生活の中心に大切に据えられた子供たちは、親の盲目的な愛を一身に受けつつも、手応えある充足感を得られず、その結果、また極端な息抜きに熱中するようになる。中でも特に、テレビに対する依存度は絶大だ。スポンサーの確保に視聴率を稼ぐためなら何でもやる短絡的な番組や、ブラウン管の中でお手軽に人殺しの体験ができる刺激的なゲーム。そして子供たちは、そんなテレビから、価値観を、人生観を学ぶのだ。

 当然、もはや家庭生活の中で、「躾」などという言葉は死語である。勉強さえしていれば際限なく甘やかされる子供たちは、また過剰なまでに保護されることによって自己責任能力を奪われ、確実に善悪の判断基準を見失っていく。そして、その結果としての不具合の責任はすべては、学校という教育の場へ転化するという、無責任な慣例を定着させることにもなった。

 こうしてそんな長い受験教育が、いよいよ大学の合格発表という形で幕を閉じると、彼らには、「ただなんとなく」と、無意味に時を浪費させることが「青春」という名の下に美化される夢のような空白の時代が始まるのである。だが、本来は「手段」であるべきはずの大学への入学を、ただひたすら「目的」として育てられていた彼らは、大学への入学を果たした途端に目的を失い、以後「自分」探しに、長い長い人生の路頭を迷うのだ……。

 確かにアジアの多くの国々では、学校などの教育施設や、教科書などの教育資材、そして就学するための家庭環境や経済状態と、問題は山積みだ。しかし、やがてそれらの国々も、先進国と呼ばれる大国の後を追い、めざましい経済発展を遂げ、日本のような高い就学率を誇る国へと変貌してゆくだろう。

 僕は「先進国」とか「後進国」という言葉は嫌いだが、後進国は先進国の後を歩んでいるからこそ、先進国のおかした過ちを回避できる猶予がある。少なくともイギリスの、そしてすでに日本の子供たちから奪われてしまった、オールコックの言うところの「美点」を、アジアの子供たちからは奪ってほしくないと、僕は心から願わずにはいられない。

肥満

















 豊かな生活を送っている、「先進国」と呼ばれる世界の人口のわずか11%の人々が抱えている問題の1つが、肥満なのだそうだ。
 そんな先進国の先頭を突っ走るアメリカでは、特に肥満は深刻な社会問題と化しているらしい。BMI、肥満指数によると、なんとアメリカの成人人口の61%が肥満で、これは堂々と世界第1位の記録である。もっとも、アメリカでは肥満は成人に限ったことではなく、子供も5人に1人が肥満とされているのだ。

 ちなみに肥満というのは基本的に、食物によるエネルギーの摂取量が、運動によるエネルギーの消費量を上回って起こる現象だが、これはまた、多くの病気を引き起こす要因にもなっていることが知られている。肥満は、先進国の4大死因である脳卒中、心臓病、糖尿病、ガンのすべての病気の主要な原因となっていて、アメリカは、肥満が引き起こす病気にかかる医療コストを、年間およそ1180億ドルと推定し、警鐘を鳴らしているのだ。

 こういった先進国における肥満の増加は、工業化と都市化が大きく関与していると言われていて、その社会は、より多くの食物を簡単により安く手に入れることができ、しかもそのライフスタイルは、どんどんと身体を動かさない方向へと進んでいるのである。

 このようにして、太りゆく先進国の人々が増加の一途を辿り、そのペットまでもが栄養過多で飼い主と共にダイエット食品に頼り、またアメリカでは毎年何十万人もの人々が過食して体にたまった脂肪を吸引する美容手術を受けている。
 そしてその一方、世界各地では10億人もの人々が飢えに苦しみ、平均して毎日2万人近い子供たちが、栄養不良や飢餓のためにどこかで死んでいる。これが現実なのだ。

語学

















 僕が本腰を入れてタイ語を勉強し始めて、いったいどれくらい経っただろうか。おそらく年月だけはいたずらに長いわりに、ほとんどうまくはなっていないと思う。だが、うまくはなっていないが、馴れてはきている。
そもそも、僕がタイ語を勉強することになったきっかけは、根本的な英語嫌いにあった。英語は僕にとって、勉強し始めた中学生の頃から、単なる「学校の科目」の1つでしかなかったのである。
 それは僕自身、小さい頃からあまり西洋指向がなかったということもあり、英語を身につけ英語圏の国の人々と親交を深めたいという憧れもなかったし、また将来、英語を武器にして仕事をしたいという夢もなかったのだ。ようするに英語は僕にとって、「目的」でも「手段」でもなかったのである。だから、「学校の科目」以上の勉強はあえてしなかった。

 したがって僕は、こういったことによる必然もあって、旅は極力可能な限り、その旅する国の言葉で旅するという主義にしている。ビルマはビルマ語で、ヴェトナムはヴェトナム語で、カンボジアはカンボジア語でといったように、出国前にはいつも語学の本を買い込み、せっせと勉強するのだ。もちろん、アメリカやイギリスを旅する時は、英会話の本を買い込みせっせと英語の勉強をすることになるのだろうが、今までそういう機会はなかったし、これからも今のところそういう計画はない。

 だが、基本的に語学というものに対するセンスを持ち合わせていない僕が、そう簡単にビルマ語やヴェトナム語をマスターできるはずもない。したがって旅に出ると、いつでも言葉で苦労する。だが、これは決して負け惜しみではなく、言葉が通じないというのも、なかなかいいものだと近頃は思っている。

 英語が、もはや地球語となった感のある現代。英語圏の国の人々は、彼らが日常使っている言葉で、ほぼ世界中どこへでも旅できてしまうのだ。もちろん田舎や辺境の地は別だが、ほとんどの国の空港や駅でも、ホテルでも、そしてレストランでも、必ずといっていいほど英語の表示があり、英語を解するスタッフの1人や2人は必ずいるだろう。おまけに、主要な都市のホテルでテレビをつけると、1日中CNNが英語のニュースを流し続けている。
 そういう情況を見ていると、いつでも僕は、英語圏の国に生まれなくてよかったと思う。もしも、日本語が英語のように地球語となり、世界中どこへ行っても日本語の表示があり、どこへ行っても日本語が通じ、日本語で話しかけられるようなことにでもなれば、それはそれで確かに便利なのかもしれないが、僕にとって旅は少し味気ないものになってしまうだろう。誰が教えたのかは知らないが、バンコックの土産物屋で「社長サン、見るだけ見るだけ、目の保養」という日本語を聞くたびに、僕はますますこの思いを頑なにする。

 せっせとその国の言葉を勉強し、拙い発音で苦労しつつ、なんとか相手に自分の思いを伝える。これも確かに僕の旅の、1つの楽しみなのだ。
 それに言語を学ぶということは、すなわちその言語圏の文化を学ぶということである。言葉を知ることによって初めて見えてくる、余りある多くのことがある。そしてもう1つ。たとえ短く、拙い一言であっても、相手の国の言葉を話すことによって、お互いの距離は確実に近くなる。それが何といっても楽しい。