2008/08/21

色彩

















 そういえば、僕が青春を過ごした70年代から80年代は、とにかくアメリカは素晴らしいという時代だった。アメリカ人のようにナイフとフォークを美しく使いこなせ、アメリカ人のように流暢に英語が話せることが、我々日本人にとっての憧れであり、それは一種のステイタスでもあったのだ。

 今でこそ、日本の伝統はある種の格好良さとして受け入れられているが、当時、雅楽をやっていた僕に対するまわりの人々の反応は、「何でまたそんな古くさいものを?」というのが常であったし、日本のサラリーマンのスーツの色を欧米のサラリーマンのスーツの色と比べ、自ら「ドブネズミ色」だと酷評していたのもこの頃の話しである。

 そんな頃世間では、アメリカ人はぜったいに「ごめんなさい」と言わないのだという話が広く取り沙汰されていた。アメリカ人にとって「ごめんなさい」と言うことは負けを意味することであって、何かにつけてすぐに「ごめんなさい」と謝る日本人のことを、我々日本人自らが国際社会における敗者だと侮蔑していたのである。

 だが僕はアジアを旅し始めて、幾度となく実にたくさんの、アメリカ人の「ごめんなさい」を聞いた。そして今、僕は東京の街の中を歩いていると、「ごめんなさい」という言葉がすっかり消えてしまったなと感じる。肩がぶつかっても、足を踏み付けても、もはや「ごめんなさい」を口にする若者はほとんどいなくなった。

 これを、若者たちの倫理感が欠落したのだと、彼らを一方的に批判することは大きな間違いである。70年代を、そして80年代を生きた我々大人たちが、素晴らしいアメリカ人を夢見、決して謝らない、強い日本人を目指して齷齪してきたその努力が、ようやく今こうして次の世代である若者たちの心の中で実を結んだのだ。

 ちなみに、サラリーマンのスーツの「ドブネズミ色」だが、色彩というのは、その民族の生を営む風土の中から生まれるものである。したがって、イタリアの乾燥した明るい太陽の下で生まれた色彩感覚と、日本の湿潤な陰影の中で生まれた色彩感覚とは当然、異なってしかるべきものであって、それを比べ、優越つけるなどという行為自体が、そもそもバカげたことなのだ。

 灰色、灰白色、灰汁鼠、鼠色、白鼠、薄鼠、素鼠、中鼠、繁鼠、濃鼠、黒鼠、墨色、薄墨色、濃墨色、桜鼠、梅鼠、白梅鼠、薄梅鼠、松葉鼠、島松鼠、呉竹鼠、青柳鼠、牡丹鼠、藤鼠、山吹鼠、桔梗鼠、浮草鼠、千草鼠、葡萄鼠、小豆鼠、暁鼠、薄雲鼠、空色鼠、水色鼠、紅鼠、紫鼠、臙脂鼠、藍鼠、藍生鼠、藍味鼠、茶鼠、茶気鼠、黄鼠、玉子鼠、貴族鼠、源氏鼠、小町鼠、絹鼠、御召鼠、軍勝鼠、遠州鼠、利休鼠、都鼠、鴨川鼠、嵯峨鼠、江戸鼠、深川鼠、浪速鼠、淀鼠、湊鼠、鴇色鼠、鳩羽色、鳩羽鼠、山鳩色、鈍色、青鈍、銀鼠、銀色、白銀色、錫色、鉛色、鉄色、鉄鼠、錆鼠、砂色、壁鼠、生壁鼠、納戸色、納戸鼠、錆納戸、消炭色……。

 我々日本人は、世界に類をみない、目を見張るほど豊かな、美しい「ネズミ色」を持っているのである。