2009/10/07

老化


















 老化とは実に残酷なものだ。だが老化は我々人間にとって、安らかに死を迎えるための準備なのかもしれない。去年できたことが、今年はできない。今年できたことが、もう来年はできなくなる。こうして我々は、少しずつ諦めていくのだ。

 まだ何ひとつとして諦めきれない、光り輝く青春の真っただ中に死を迎えることは、おそらくとても辛いことだろう。だが、我々は老化という過程を経て、少しずつ、諦めるという作業をコツコツと積み重ねていくからこそ、やがて訪れる死というものを安らかに受け入れられるのだ。

2009/10/01

行方

















 この地球上には、確かに過去の世紀に比べて格段に少なくなってはいるものの、まだまだ我々人間に「発見」されていない種の生物が、どこかに棲息している可能性がある。しかし大型哺乳類に関しては、もはや19世紀までにほぼ発見され尽くしただろうと言われていた。実際、20世紀になって発見された大型哺乳類はわずか2種しかないのだが、その1種が1994年、ラオスの山中で発見された。「サオラー」である。

サオラーはオリックスに類するウシ科の偶蹄類で、以前、国境を隔てたヴェトナム側で幼獣が確認されてはいたが、成獣が捕獲されたのはこれが初めてだった。この21世紀を目前にした、ラオスで新種の大型哺乳類発見という世界的な大ニュースを、僕は日本のテレビで喰い入るようにして見ていた。

 ちなみに捕獲されたサオラーは、直ちに動物園での飼育が開始されたが、捕獲後わずか2週間で死亡した。死因は環境の変化と食料不足とされ、ようするにこの新種の動物が、いったい何を食べているのかわからず、とうとう何も口にしないまま檻の中で静かに息絶えたのである。その後の解剖によると、このサオラーはメスで妊娠していた。胎児はすでに体も形成されていて、この世に生まれ出るのはもう間近だったという。

 そもそも生物と環境との関係はとても親密で、またとても複雑なものである。そして、それに関して我々人間が知り得ていることは、まだまだほんの一部分に過ぎず、その我々の多く無知が、過去に多くの悲劇を生んできたのだ。

 その悲劇、すなわち人間がもたらした生物の絶滅は、たとえば食欲を満たすためや、婦人たちの身を飾る羽根や毛皮のための乱獲、また「狩り」という紳士たちの優雅な嗜みによる殺戮といった直接的なものだけではなく、無知ゆえに、それは我々人間の予想だにしなかった方角からやってくる場合もあったのだ。

 たとえばハワイ諸島で可憐な美声を誇っていた鳥「オオハワイミツスイ」は、侵入してきたアメリカ移民によって棲息地である森林を伐採され、そして彼らの絶滅をさらに加速させたのは、その際に持ち込まれた疱瘡だったし、「ラナイハワイツグミ」や「キゴシクロハワイミツスイ」もまた、貿易船が運んできたマラリア蚊によって絶滅させられた。

 船が運んできたのは、そういった病原菌だけではない。積荷の影でひっそりと息を潜めていた密航者ネズミもいた。同じくハワイ諸島のとべない鳥「レイサンクイナ」は、アメリカの戦艦の寄港によって上陸したネズミによって、徹底的に卵やヒナを食いつくされてしまったし、ニュージーランドの生きた化石と称された鳥「オークランドアイサ」も捕鯨船の寄港によって上陸したクマネズミによって同じ運命を辿った。

 密航者ではなく、乗客のよきパートナーとして上陸したネコも、世界各地で大活躍した。ハワイ諸島の王族の王冠を飾った美しい羽根を持つ鳥「ムネフサミツスイ」は彼らの大好物となったし、メキシコのグアダルーペ島の「グアダルーペハシボソキツツキ」や「グアダルーペコシジロウミツバメ」も、カナリア諸島の「カナリアミヤコドリ」も、やはり無邪気なネコたちの犠牲になり姿を消すことになった。

 また人間たちは、彼の地でも紳士としての嗜みを忘れないよう、狩りをするための遊び相手としての動物たちも同行させていた。オーストラリアにイギリス紳士たちが持ち込んだアナウサギは、心優しき「ミカヅキツメオワラビー」の住みかを徹底的に掠奪し、この肉食動物のいない楽園で彼らは爆発的に繁殖することになった。

 そんな紳士たちの良き遊び相手だったはずのアナウサギが、やがて大切な農作物を食い荒らす天敵になると、今度はそのアナウサギを退治するために、新たにイタチやキツネたちを呼び寄せることになった。突如、楽園に出現したこの肉食動物たちは、その期待に答えアナウサギの数を減らしはしたが、同時に部外者だったはずの「サバクネズミカンガルー」や「ギルバートネズミカンガルー」もが、イタチやキツネたちの食卓にのぼることになり絶滅へ向けまっさかさまに転落してゆき、お隣のニュージーラントでも「ホオダレムクドリ」や「ワライフクロウ」が同じ運命を辿った。

 また大航海時代の勇者たちは、船出の際、己れの食料として生きたブタやヤギを同船させ、次ぎなる航海の際の食料として寄港した島に放した。したがって次ぎの航海では、手間のかかる生きた食料を同船させなくとも、島に放した食物をしとめるための銃だけを同船させればいいというわけである。ヤギは島の植物を貪欲に喰いつくし、またブタは野性に戻すと何代かでイノシシに返る習性があり、雑食性のイノシシと化した野性ブタは島の何もかもを喰いつくし、タヒチ島の水辺の妖精「タヒチシギ」も、まもなく彼らの犠牲になりこの世から姿を消した。

 もちろんこれらの絶滅は、ダーウィンの言うところの「自然淘汰」ではない。ちなみに、1600年以降に絶滅した哺乳類の内、25%は自然による絶滅、いわゆる「進化のための絶滅」と考えられているが、残りの75%は我々人間によってもたらされた絶滅だと考えられている。その人間によってもたらされた絶滅の内、33%は食肉や装飾品のための乱獲、及びレジャーのための狩猟による絶滅と考えられ、23%は先の例のような人間が持ち込んだ異種の生物による絶滅と考えられている。そして残りの19%が、現在、最も重大な問題と化しつつある、我々人間による環境の破壊による絶滅だと考えられている。

 ラオスの山中で発見されたサオラーたちに未来は残されているか。もちろん、これは彼らだけに限ったことではない。たとえばメコン本流にダムが建設されれば、そこを棲かとするカワイルカたちも、かつてチャオプラヤ河で絶滅していった兄弟たちと、おそらく同じ運命を辿ることになるだろう。

 生物と環境は「生態系」というシステムの中で相互にバランスを保ちながら存在している。生態系の構成要員である生物たちは、あまねく平等に、突発的な絶滅を防御したり、爆発的な繁殖を制御するシステムによって、自然界での生存を保障されているのである。

 もちろん我々人間も、当初はそういった自然界における生態系の一員として存在していたはずである。したがって、人間が気候の変動によって凍死することも、餓死することも、伝染病によって病死することも、猛獣によって捕殺されることも当然のことであり、生態系のバランスを維持する上で必要不可欠なことだったのだ。ひとつ。生態系の中からある種だけが異常増殖することは、生態系のバランスを乱すだけにとどまらず、その生態系自体の破滅をきたすことになるという事実を忘れてはならない。

 しかし我々人間は、とうとうその自然界から抜け出してしまった。そしてやがて人間たちは、山を切り崩し、森林を伐採し、地表を塗り固め、それまで自然界には存在していなかった物質を作り出し大量使用し始めた。そのために人間はまた莫大なエネルギーを必要とすることになり、新たなエネルギーを確保するため、ありとあらゆる手段を駆使し、地球を変質、いわゆる「開発」してゆくことになったのである。もちろん、そういった自分たちの営みが自然界に及ぼす影響がどのようなものであるかなど、永らく、まったく眼中になどなかったのだ。

 その結果として我々人間はこの地球上で、森林消滅、生物種絶滅、土壌侵食、砂漠化、大気汚染、海洋汚染、温暖化、酸性雨、オゾン層破壊、有害廃棄物、そして人口増加といった、山積みの問題を抱えることとなる。まさに人間は、生態系の中での動植物たちのように、相互に補完し会い、自然を維持永続させてゆく共生の習性を失い、人間は自然に対し危害こそ与えるが、決して利益を与える存在ではなくなってしまったのである。地球にとって人間という生物の出現は、最も不幸な出来事だったのかもしれない。

 こういった現在この地球上で起こっている数々の悲劇は、人間が石を道具として使い、火を操る術を身につけた時点で、すでにこうなることが約束されていたと言えるかもしれない。そしてその悲劇が、輝かしきヨーロッパの産業革命によって一気に加速してしまったことは、疑いのない事実である。

産業革命以降のヨーロッパの工業文明は、飛躍的に発達する科学の後盾を得ていよいよ巨大化し、地球に潜在している資源を猛烈に収奪し始めた。そして、人間の飽くなき欲望という基壇の上に築かれた資本主義が、華々しき大消費社会を誕生させると、資源の収奪はますます激化してゆくことになるのである。

 街は、膨大な資源を費やし大量生産された真新しい物であふれ、人間の欲望の拡大を称賛する資本主義は民衆を飼い馴らし、こうして消費の増大が新しい「豊かさ」の指針となっていったのだ。すなわちここで我々人間は、遂に「豊かさ」を精神にではなく、物と貨幣に向けたのである。

 そして、このヨーロッパ原産の価値観は、かつて宣教師たちが伝道した「神」に代わって、新たなる揺るぎなき信仰として、地球の隅々までに伝道されることになる。その結果この信仰は、世界各地のそれぞれの民族のさまざまな価値観を、恐ろしいまでの感染力でもって塗り潰し、ほぼ地球全土がすべてのこの同じ信仰の下に同じ価値観を見出だしてゆくという驚異的な情況を招き、かつての民族が守り続けていた伝統的価値観の多くが、いとも簡単に淘汰されてしまったのだ。

 かくして地球全土がこの同じ信仰の下、同じ価値を求め邁進し始め、地球の悲劇はいよいよ絶望的な結末へ向け加速し始めることになった。だが我々人間も、この地球の自然の中から生まれた、自然の一部にすぎないのだということを忘れてはならない。自然の破滅は、すなわち我々人間自身の破滅なのだ。

 確かに今、どこかの森で、どこかの川で、見知らぬ生き物が絶滅したところで、我々の生活に何の影響もない。しかしそれは自然が発する、破滅へのカウントダウンの警鐘なんだということを、我々は肝に銘じる必要があるだろう。

 ラオスで発見されたサオラーは、その後、世界の生物学者の注目の的となり本格的な学術調査が開始されることになる。それらの調査によって、サオラーの固体数はわずか200頭から300頭と考えられていて、IUCN、国際自然保護連合のレッド・リストによって「絶滅危惧種」に指定された。

保存


















 僕は、動物園が大嫌いだ。

 根っからの動物好きの父親に連れられ、幼少の頃、幾度となく動物園へ行ったが、行くたびに決まって子供心に感じていたのは、物珍しい動物を目にする胸躍る感動や感激などではなかった。

 冷たい鉄格子に囲まれた檻。コンクリートで固められた山に、みどりに淀んだ池。枯れ木の枝から揺れる、鎖に吊るされた古タイヤ……。
 もちろん僕はサルやキリンにも、カバにもペンギンにもなったことはないから、彼らの心の内を知る由もない。しかし、今でも「動物園」と聞いて頭に思い浮かぶ言葉は、幼少の頃と何も変わってはいない。「かわいそう」すべてがその一言につきる。

 いったい、動物園とは何なのか。

 なんでも聞くところによると世界最古の動物園は、3000年ほど前の中国、周王朝の初代皇帝武王が作ったそれとするのが通説らしい。それは、領土の各地から集められた珍しい動物を展示した、いわゆる彼の「知の庭園」の一部だったのである。

 そして以後、世の王侯貴族を始めとする時の権力者たちも同様にして、規模の差こそあれ、世界各地から珍しい動物を集め飼育し始めたのだ。ようするにそれも彼らにとっては、絵画や彫刻、陶器や磁器を集めるのと何ら変わることのない、ごく個人的な欲求を満たすひとつのコレクションにすぎなかったわけである。

 そんな、極めて個人的なものだったコレクションを、今日の動物園ように公開した最も早い例は、18世紀のウィーンにあった。ハプスブルク家の夏の離宮、シェーンブルン宮殿の庭園内に造られた動物展示施設がそれである。マリア・テレジアの夫である皇帝フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンが、その自慢の、展示施設におさめられた生きたコレクションを、賓客を招き公開したのである。1752年のことだった。

 しかし、ここでもまだこういった施設は、あくまでもごく個人的なコレクションの展示施設以上のものではなかったのである。それが、動物を生きた研究対象として飼育し人々に広く公開するという、現代の動物園の原型となる施設へと様変わりしたのは、19世紀のロンドンでのことだった。ロンドン動物学会の研究資料収集施設として創設された、ロンドン動物園である。1828年のことだった。

 そして現代の動物園は、そんな近代の動物園の精神を継承し今日に至っているわけだが、それには主に3つの機能があるとされてきた。

 まず「研究」。研究は、動物園の創設当初からの重要なテーマであり、世界各地から集められた生きた動物を、生きた研究材料として飼育したのだ。
 つぎに「教育」。もちろんこの場合の教育というのは、動物の教育ではない。展示された生きた動物を見るというその体験を通して、我々人間の知識を豊かなものにしようという趣旨のものだ。
 そして「娯楽」。これに関しては、あえて説明するまでもないことであって、てっとり早く言えば「見せ物」である。だが、今日の動物園にとってもっとも重要なテーマが、他ならぬこの見せ物なのだ。

 ちなみにロンドン動物園の当初の一般公開は、その入園料によって研究費を捻出するためのものだったわけだが、現代の動物園はほとんどの場合、研究施設というよりは動物をテーマにした娯楽施設である。研究はだいたいの場合、大学や、より専門的な施設で行われている。
 よって娯楽施設である以上、動物園は遊園地と同様、娯楽施設としての厳しい現実と対峙しなくてはならないのである。

 我々観客は実にわがままだ。珍しい動物や、人気のある動物がいなければ、途端に観客の足は遠のき、閉園の危機にさらされることになる。
 そこで動物園は常に、我々わがままな観客の好奇心を満足させられる動物を確保する必要性に迫られるのだ。

 動物園というのは、檻さえ作っておけば、どこからともなく珍しい野生動物が集まってきて、彼らが檻の中で勝手に自炊して生活するなどという甘い世界ではない。また、それらを動物園の職員が網を持って近所の野山で捕獲してくるなどというものでもなく、動物は莫大な資金を使って商取引されるのだ。
 動物の値段は、その動物の生息数や個体の大小、捕獲や輸送の難易度によって大きく左右され、当然、希少性が高ければ値段は一気に跳ね上がることになる。トラが500万円。サイが1200万円。ゾウが3000万円。シャチともなると1億円にもなるらしい。

 これ以外にも当然、飼育にともなう動物たちの飼料費に職員の人件費。施設の整備費に光熱費と、その運営に莫大な経費を必要としている以上、動物園には、観客を集める為の努力が何にも増して重要な仕事となるのだ。

 また現代の動物園が、娯楽以外に、その存在意義を社会に求めている「教育」と「種の保存」にしても、実に危ういものがある。

 映像メディアの発達した、テレビをつけると大自然の中で生きている野生動物たちの迫力ある映像が簡単に見られるこの時代において、そんな大自然の中から強引に捕獲してきた野生動物を、あえて動物園という場で見るということが、映像以上の、どれだけ素晴らしい教育になるというのだろうか。

 動物たちは、完全に自然環境から隔離され、観客に不快感を与える臭いも除去された、自然に似せて作られた人工の箱の中で、生きている。まさにひとつの標本として。ただ与えられた飼料を食べ、排泄して、眠り、そして死んでいく……。

 そこから学ぶものがあるとすれば、それはもう人間に飼いならされ生気を失った野生動物の哀れさ以外にはないんじゃないか、と僕は思う。それは彼ら動物たちが強いられている犠牲を考えれば、あまりにも軽すぎる大義名分である。

 しかし、確かに「種の保存」に関しては、動物園の存在の大義名分になりうるかもしれない。とは言え、ダーウィンの説を持ち出すまでもなく、種は自然環境の変化とともに淘汰されるものである。それが自然界の大前提だ。

 そしてひとつ見誤ってはならないのが、現在、動物園などの隔離施設の中で「種の保存」という大義名分のもとに飼育されている動物たちは、もとは我々人間の、より豊かな生活を手に入れるための飽くなき追求によって破壊された自然環境の中で、生存を危うくされ、絶滅の危機に陥った動物たちだということである。

 豊かな生活は何ひとつとして手放さず、自然環境は破壊し続け、しかも野生動物の種は永遠に保存し続ける。こんなことが、はたして可能なのか。

 極端なことを言うと、たとえ動物園の檻や水族館の水槽の中で、絶滅の危機に瀕する生物が命を繋げたとしても、彼らの帰る自然の森や川がなければ、それはもう意味のないことだ。
 あえてそこに意味を見い出すとすれば、やはりそれは過去の博物学者や蒐集家たちを奮い起こした、達成感におけるそれ以外の何物でもない、と僕はそう思うのだが。

殺生



















 「生きものを殺すな」という戒めは、仏教の最も重要な戒めである「五戒」の中でも、第一の戒めだ。原始仏教最古の教典と言われる『スッタ・ニパータ』にもこんな一文がある。

〈生きものを害してはならない。また殺させてはならない。また他の人々が殺害するのを許してはならない。世の中の強剛な、また怯えているすべての生きものに対する暴力を抑えて〉

 しかし、確かに仏教の出家者は不殺生を守り続けてはいたが、信徒によって施された肉に関しては食すことは禁じられてはいなかったし、すべての生きものを殺さないという、厳密な意味での不殺生が行なわれていたわけではなかったのである。やはり現実問題として、我々人間が、すべての生きものを殺さないで生きるということは、不可能だと言えるだろう。
 ところがである。面白いことに、インドにはそれを極端なまでにも徹底しようとした人々がいたのだ。ジャイナ教徒である。

「ジャイナ教」
 この耳慣れない宗教は、実は仏教と同じくらい古い歴史を持ち、インドで仏教の廃れてしまった後も脈々として生き続け、今日においてもなお、この地で特異な存在感を持って生き続けている宗教なのだ。
 ジャイナ教の「ジャイナ」とは、「勝者」といった意味で、勝者とはもちろん、煩悩に打ち勝った者のことである。開祖はニガンタ・ナータプッタ。大悟して後は偉大なる英雄「マハーヴィーラ」という尊称で呼ばれた。彼は仏教のゴータマ・ブッダとほぼ同時代を生き、仏典の中にも、当時の代表的な自由思想家の1人として登場している。

 マハーヴィーラは、動物を犠牲に供す血なまぐさい祭祀を行なっていた『ヴェーダ』を否定し、不殺生の誓戒を中心とした、極めて厳格な禁欲主義を打ち立てたのだ。数あるインドの宗教の中でも、ジャイナ教ほど、ある意味で極端なまでにも不殺生を実践させた宗教はない。

〈一切の生きものは、生命を愛し、快楽に耽り、苦痛を憎み、破滅を嫌い、生きることを愛し、生きようと欲する。一切の生きものは命が愛しいのである〉

 すなわち、一切の生きものは生きたいと願っていると言うのだ。ジャイナ教はこの理論をもとにして、「修行者は一切の生きとし生けるものに、あわれみ同情あれ」と、徹底的な不殺生を課したのである。特に、出家修行者に課せられた不殺生は、まさに驚愕の一言といえるだろう。

 まず彼らは、裸足で歩かなくてはならない。履物をはいていると、気付かずに虫を踏み殺す危険性があるからだ。しかし、たとえ裸足であっても、小さな虫は踏み殺してしまうかもしれない。
 そこで彼らは、いつも小さな箒を持っている。歩く際、虫を踏み殺さないよう、それでもって地面を掃きながら歩くのだ。しかも、その箒は普通の箒ではいけない。掃いても虫を傷つけないよう、真綿などで作った柔らかい箒でなくてはならないのだ。もちろん彼らが歩くのは、地面にいる虫を見落とさないよう、明るい間だけに限られている。

 さらに彼らは、乗り物に乗ることも禁じられている。車輪で生きものをひき殺してしまう危険性があるからだ。したがって必然的に彼らの移動手段はただ一つ、柔らかい箒で足元を掃きながら裸足で歩くことになる。

 また彼らは、常に白いマスクをしている。それは空中の虫をあやまって吸い込まないためだ。水を飲む際も、水中の虫を飲み込まないよう、必ず濾過器で漉してから飲まなくてはいけない。

 そして彼らは、煮炊きしたものを口にしない。煮炊きは禁じられているのである。煮炊きする際、穀物や水、薪、地面にいる生き物が殺される危険性があるからだ。もちろん食事をするのは、午前中の、明るい場所に限られているのは言うまでもない。暗いと、食物にたかる虫をあやまって食い殺してしまう危険性がある。

 さらに彼らは、髪を切ることも、髭を剃ることもしない。髪を切ったり、髭を剃ったりすると、刃物でシラミやノミを切り殺してしまう恐れがあるからだ。したがって彼らは髪も髭も、刃物を使わず、手でもって引き抜くのである。

 これはジャイナ教の修行生活のほんの一面だが、実は厳密に言うと彼らのこの修行生活も、不殺生の戒めを完全には守りきれているとは言えない。ジャイナ教では動物と同じく、植物にも水にも霊魂を認め不殺生の対象としていることから、基本的に植物を食べることも水を飲むことも破戒、すなわち悪となるのである。

 だが動物はおろか、植物や水までも口にできないとなれば、我々人間は生命を維持していけなくなることは明白だ。したがってジャイナ教では驚くべきことに、一切の食物を断ち餓死することが、とても尊い行いとして称賛されているのである。確かに、すべての食物を口にせず餓死することは、究極の不殺生と言えるだろう。

 では、ジャイナ教の信徒は、どのような生活を送っているのだろうか。もちろん不殺生の戒めを遵守するめに、厳格な菜食主義を行い、その食事も日が暮れるまでに限られ、日々動物を傷つけないよう正しい生活を紡いでいるのだ。
 だが、信徒の喜捨によって修行生活を送っている出家者とは違い、彼ら信徒自身は現実問題として、社会の中で働かなくてはいけない。では彼らは、戒律を守り生きものを傷つけず、いかにして働いているのか。

 まず農耕は、土中の生きものを殺すおそれがあることから禁止されている。池や沼の干拓も同じだ。水中にも生きものがいる。
 林業は、木を伐採することから、木の命を奪い、また鳥の住みかも奪う。大工も同様の罪を犯すもので、また鋭い刃物を使うことから、その刃物を作る鍛冶屋が火で生きものを焼き殺す罪ともつながっている。そもそも、火を使う仕事はいっさい禁止されているのだ。鍛冶も炭焼きも、そして調理もいけない。
 また運送業も、車輪で路上の生きものをひき殺すため禁止されている。もちろん理髪業は、ハサミで髪の中にいるシラミやノミを切り殺してしまうので、これもいけない。当然、牧畜業や漁業、屠殺業などは論外である。

 このようにして、ジャイナ教の不殺生の戒めは、信徒の社会生活を限りなく不可能に近くしているのだ。そこでジャイナ教の信徒の職業は古来、現実的にあるジャンルに限られていた。
 そう、金融業と商業である。実をいうと彼らは、その世界で古くからとても成功しているのだ。

 それは、日々厳しい戒律を遵守している彼らにとって、嘘をつかないことも、盗まないこともまた、彼らにとっての重大な戒律であることから、ジャイナ教の信徒が社会的にとても信用されているからなのである。さらに、彼らは戒律を遵守するがゆえに、暴飲暴食することもなく、浪費することもなく金は貯まる一方で、面白いことにジャイナ教徒は実に裕福なのだ。
 かつてインドの民族資本の半分以上を、全人口の数パーセントにすぎないジャイナ教徒が握っていたというのだから、なんとも愉快な話ではないか。

因果

















 かつて「ラーンサーン」、すなわち百万頭のゾウの国と呼ばれていたラオスの森林の深さは、とてつもないものだったのだ。19世紀後半、ラオスを訪れたフランス人ルイ・ドラポルトは、こう書き残している。

〈われわれの旅は実に、果てしなく続くひとつの森を行くものであったといえよう。カンボジアでその森にわけ入ってから18ヵ月ののち中国領内に入るまで、我々は一歩たりとも森から出ることはなかった〉

 実際この国は、国土の90パーセントを山地や高原が占めていて、豊な森林に覆われているのだ。ひとつ面白い話がある。実は世界最貧国と呼ばれたラオスだったが、その情況は、たとえばアフリカ諸国などとは大きく異なっていたのだ。

 それは、ラオスには森林があるからだ。たとえ経済的に貧しくとも、森に入れば、彼らを養う果物や木の実、鳥や獣といった豊富な森林資源がある。したがって、エチオピアやソマリアで発生したような深刻な飢餓は、森林がある限りラオスでは起こりえないだろうと言われている。まさにこの国の人々は、つねに豊かな森の恵みにいだかれ、生かされてきたのだ。

 しかし、そんなラオスの豊かな森林も、実は世の例外になく、刻一刻と減少し続けているのである。1940年代には全国土の70パーセントを占めていた森林だったが、60年代になると64パーセントに、さらに90年代になると47パーセントにまで減少し、確かにラオスは他国と比較するとまだまだ豊富な森林が残っているとは言え、今ではもう全国土の43パーセント程度にまでも減少しているのだ。実にラオスではこの過去40年の間に、3分の1もの森林が消えてしまったのである。そして統計によると、この国の森林は今も年間0,3パーセントの割合で減少し続けているらしい。

 では、ラオスの森林減少の原因はいったい何なのか。先ずその原因として、焼畑による森林の焼失が上げられる。焼畑とは、原始的な農法の一つで、草原や森林を焼き、その焼け跡で作物を栽培する農法である。これは、焼くことによって土壌の有機物が活性化し、また雑草や害虫の発生も抑えられるという、とても有効な農法なのだ。

 そしてこの焼畑のもう一つの特徴が、一定期間その土地で耕作した後、別の土地に移ることである。これは、同じ土地で耕作し続けると地力が低下するからで、別の土地に移ることによって、それまで耕作していた土地に一定の休閑期を与え地力を回復させるという、伝統的な知恵なのだ。

 このようにしてこの焼畑という原始的な農法は、森への敬意と、そして森によって生かされている者としての節度と共に、森とのある一定のバランスを保ち共生してきたのである。そのバランスが崩れ、森林の再生が追い付かなくなり、どんどん減少させてしまうことになってしまったというわけなのだ。人口増加と貨幣経済。それが主因と考えられている。

 公衆衛生の改善、医療の発達、こういったことが出生率を上げ、死亡率を下げ、村の人口を増加させた。もちろん、それは喜ばしいことではあるが、人口が増えるということは当然、それだけ多くの食糧が必要になるわけである。

 また、古くから焼畑で自給自足の生活を送ってきた村人たちだったが、たとえば山中で目にした、ペプシの旗ゆらめく小さなバラック建ての雑貨屋に並ぶ清涼飲料水や調味料、石鹸、そういったものを手に入れるには現金が必要なのだ。それに当然、現金がなくては、子供たちを学校に通わせることも、病院で診察を受けることもできないのである。

 おまけに、電気の引かれた村のどこかにあるテレビのブラウン管からは、物資溢れる現代社会の派手な娯楽と共に、消費を煽る魅惑的なコマーシャルが一日中流れ続けているのだ。それは、この山中の村の静かな生活と比べれば、どれもこれもまさに別世界の出来事には違いないが、村人がそれに憧れをいだき、それを欲することは、ごく自然な成り行きだと言えるだろう。「いったんテレビが置かれると、肌の色、文化、背景がどうであれ、だれもが同じものを欲しがるようになる」。アンソニー・J・F・ライリーはこう指摘している。

 こうして、古くから焼畑で自給自足の生活を送ってきた村人たちの生活にも現金の必要性が高まってゆき、その結果、それまで細々と作っていた自給自足の作物を、貨幣を得るための換金作物へと切り替えることとなり、頭数の増えた家族を食わせるためにも、またより多くの現金を得るためにも、耕作地を広げなくてはならなくなったのだ。

 さらに、極端な収穫を求めるがために、それまで10年から15年ほどの休閑期を経て火入れをし耕作していた焼畑の周期が、わずか3年足らずにまでも短縮されるようになったのである。こうなると、もはや森林の植生の回復はおろか、地力の回復も望めず土壌の肥沃度は低下の一途をたどることになり、木も生えない丸裸の痩せた荒地が残され、そして、またどこかで新たな森林に火が入れられ焼き払われるのだ。こうして、ラオスの森林はどんどん姿を消していくことになったのである。

 だが、今ラオスで進行している森林減少の原因は、これだけではない。次にその原因として上げられるのは、これも焼畑と同じ現金収入の手段、商業伐採である。

 ラオスは、紫檀や黒檀、チーク、花梨に桧といった上質な木材資源を有し、木材はこの国の三大輸出品の一つなのだ。1998年の時点での木材の輸出は、ラオスの外貨獲得額のなんと42パーセントをも占めていて、その木材の最大の輸出国が、実は隣国タイなのである。

 タイの森林は、商業伐採や農地転用によって、国の近代化と共にみるみる内に姿を消してしまったわけだが、1988年に起きたある出来事が、タイの「森林」というものへの考え方を大きく変えることになったのだ。それはこの年、タイ南部を襲った大災害である。

 当時その辺りには、森林を伐り開いた大規模なゴム園が広がっていたのだが、この年の11月末、そこに週1000ミリを越える猛烈な豪雨が降ったのだ。それによって、数百ヵ所で大規模な山崩れが起こり、土石流が近隣の村落を飲み込み、多くの犠牲者が出たのだ。この大災害がタイの社会に与えた衝撃はとても大きなものだったのである。これを契機にして、森林というものの考え方が問い直され、それまでの政府の森林に対する管理体勢が厳しく批判されることになったのだ。

 かくして翌年の1989年1月、ついにタイ政府は森林伐採禁止令を施行したのである。ようするに、かつてあれほど豊かな森林に覆われ、膨大な量の上質なチーク材を世界へ供給し続けていたタイが、なんと1世紀足らずの間で、木材輸入国へと転落してしまったというわけなのだ。

 そして、このタイにおける森林伐採禁止令の施行を境にして、なんとラオスの森林伐採が急増するのである。これは、ラオスの中央政府の許可を得ず、地方の役人とタイの木材業者との直接交渉によって行なわれたため、早い話、やりたい放題の伐採が始まったのだ。

 しかしやがてラオス政府も、この自国の森林が無防備に減少してゆくのを阻止すべく、ついに丸太の輸出の全面禁止に乗り出すのである。ところがである。その翌年、タイ政府からの強い圧力によってその禁止措置は撤廃されることになり、ラオスの森林伐採は再び急増するのだった。

 ちなみに我が国日本は、世界の熱帯木材の最大の輸入国で、ラオスの木材の大手輸入国であることも忘れてはいけない。日本は、紫檀や黒檀、花梨を始め様々な高級木材を輸入しており、中でも桧は神社仏閣の重要な建築用材となっている。

 このようにして、ラオス政府の森林対策は、その後も保護保全と外貨獲得との間で大きく揺れ動いていて、現在は1996年に制定された森林法に基づき管理されているとは言え、まだまだ十分には機能していないのが現状なのだ。

 これによると、ラオスの森林は、保護林、保全林、生産林、再生林、荒廃林の五種類に分類されている。保護林は重要な水源等を有している森林、保全林は希少生物の棲息している森林といったように、それぞれの森林の性質別に分類されていて、現在、木材の伐採は生産林で行うことになっているのだ。しかも、その伐採量と伐採箇所も、農林省によって毎年の割り当てが指定されることになっている。

 ところが現実は、政府や地方行政機関、そして軍部といった様々なレベルで勝手に伐採許可を出しているという有様で、また住民による違法伐採も依然として後を断たず、毎年、政府が定めた量をはるかに上回る相当数の伐採が行なわれているのだ。それに、こういったラオスの森林減少にさらに追い打ちをかけるのが、政府が出したダム水没地域における森林の伐採許可である。

 ようするにダムで水没してしまう森林に生えている木は伐採しても良いというのだ。これは一見、水の底に沈んでしまう木材の有効利用につながる合理的な措置のように思える。だが実際これは、ダム開発の計画が持ち上がった時点の、まだ調査も満足に行なわれていない状態で、すでに伐採が始まってしまうのだ。したがってダムの建設が、その調査の結果によって途中で中止になったとしても、森林はもうすっかり伐りつくされてしまっているという事態もありうるわけである。

 実はそんな不可解な事態を絵に描いたようなダム開発計画がある。ナム・トゥン第2ダム開発計画である。

 ナム・トゥンの「ナム」は、ラオ語で川を表している。「高原の川」を意味するこのトゥン川は、メコン本流に注ぐ大支流のひとつで、この川を堰き止め、なんと琵琶湖の4分の3にもおよぶ広大な森林が水没する巨大なダムを建設しようという計画が持ち上がったのである。1986年ことだった。完成すれば東南アジア最大のダムとなり、もちろんこれは、ダムで発電した電気を隣国タイへ輸出し、外貨を稼ぐためである。

 ところが、このダム建設に重要な役割を担うはずだった世界銀行が、その経済的な意義は認めたものの、環境への影響に対する調査が不十分であるとし、計画を差戻したのだ。これによって、現実的に事業資金の確保ができなくなり、ナム・トゥン第2ダム開発計画はお蔵入りとなってしまったのである。

 しかし、2000年までに1500メガワットの電力をタイへ輸出する協定を結んでいたラオス政府は、そう簡単に諦めるわけにはいかず、1993年、ラオス政府はこのナム・トゥン第2ダムの開発許可を、オーストラリアの大手エンジニアリング会社に与えたのだった。こうして、このオーストラリアの企業の呼び掛けによって集まった、フランス電力公社やタイの大手ゼネコンなど総勢五社によって「ナム・トゥン第2ダムプロジェクト開発グループ」が発足し、お蔵入りしていたダム開発計画が、いよいよ外国の民間企業によって動き出したのである。

 だが動き出したとはいえ、この巨大プロジェクトは順風満帆とはいかなかった。その莫大な資金の調達の目処がつかず、早くも暗礁に乗り上げてしまうのである。日本政府もこのダム計画に関しては、その大きすぎる規模と、世界銀行やアジア開発銀行が融資を断っているという経緯を考慮し、出資を見合わせていたらしい。

 そしてなんとこんな情況の中で、ダムの建設によって水没することが予定される森林の伐採が始まってしまったのだ。もちろんそれは、この巨大ダム開発が環境に及ぼす影響を懸念し、世界の環境保護団体が抗議の声を上げ始めた、そんな最中の出来事である。

 実は、このナム・トゥン第2ダム開発予定地には、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれている野生動物の宝庫ナカイ高原が広がっていたのだ。ナカイ高原は1600平方キロメートルという豊かな原生林に覆われた広大な高原で、その中に絶滅に瀕する世界的に貴重な種の野性動物が生き残っているのである。実を言うと、1996年の大ニュース、新種の大型哺乳類サオラーが捕獲されたのも、ここナカイ高原だったのだ。

 しかし、このダム開発計画地での森林の伐採は、容赦なく続けられたのである。何百年という気の遠くなる歳月の間、この大空に枝を広げていた大木が一瞬にして伐り倒され、一時そのあまりの膨大な伐採量に搬出が追い付かず、そのまま山積みにされ放置されていたらしい。そして、伐採された木材が次から次へと何十台ものトラックに積み込まれ、山を下りていったのだ。その巨大な丸太を満載したトラックが、あたかも葬列のように長い長い列をつくり連なる光景は、まさに異様なものだったらしい。

 そのナカイ高原から伐り出された膨大な数の木材は、主に三つのルートを辿った。まず、国道8号線を通りラクサオに集められ、そこから首都ヴィエンチャンへ向かうルート。つぎに、ラクサオから国境を越え、ヴェトナムのビン港へ向かうルート。そして、国道12号線を通りタケークへ向かうルートである。

 ちなみにヴェトナムのビン港に辿り着いた木材は、船に積み込まれ主に日本へと輸出されたのだ。ナカイ高原には、樹齢数百年という上質な松の原生林があり、ビン港から日本へは膨大な量の松材が輸出されたらしい。もちろんタケークに辿り着いた木材は、船着場からフェリーに乗せられメコンを渡り、隣国タイへと向かったのである。

 おもしろいことに、このダム建設開始の是非を問う重要なカギを握るはずの環境調査が行なわれたのは、こういった水没予定地における大規模な森林の伐採が始まってから、なんと1年以上も経った後のことだったらしい。すでに豊かな森林が姿を消してしまった後に行なわれたこの環境調査によって、いかなる結果が出たのだろうか。

 長年、メコンの開発の実態を調査しているNGO「メコン・ウォッチ」は、このナムトゥン第2ダムがラオスの貧困を解消するとして、いよいよ世界銀行が支援を検討し始めたことに対して、警鐘をならしていた。

 森林減少。

 これは、何もここラオスやタイだけの問題ではなく、かつてのイギリスの例を見ても分かるように、ヨーロッパやアメリカの先進国と呼ばれる国々でも、大なり小なり経験してきたことなのだ。地球の多くの民族にとって、森林を伐り開くことこそが文化の出発点であり、森林は常に、人間社会の発展と共に減少してきたのである。

 それにここで一つ、我々の森林への圧力は、何も開拓や開発、商業伐採といった営為だけではないことを補足しておきたい。レジャーである。

 たとえば、「アウトドア・ライフ」などという言葉を聞くと、自然を愛する素晴らしい行為のように感じられるが、それはとんでもない間違いなのだ。自動車で排気ガスを撒き散らして山野に乗り込み、歩き回る。人間が硬い靴底で歩き回ることによって、植物は踏み潰され、土は踏み固められるのだ。

 街の公園やグランドを見れば一目瞭然だろう。踏み固められた土には、もう雑草すら生えない。もちろん踏み固められることによって、土中の微小生物の生存が脅かされ、それがまた草や木の生育に大きく影を落とすのである。そして植物の生育はまた、それに依存している虫や鳥、動物たちの生存に深刻な影響を与えるのだ。ようするに、このアウトドア・ライフという自然を愛する行為は、廻り廻って、自然の生態系のバランスをズタズタに破壊しようとしている行為に他ならないのである。

 そういえばよく雑誌やテレビで、自然保護を訴える自他共にナチュラリストと認める文化人が、山や森を伐り開きログハウスを建てて暮らしている様子が紹介されるが、所詮あれも、もとをただせば何ら変わることのない、「アウトドア・ライフ」という名の暴力のひとつにすぎないのだ。

 こういったことは、旅行についても言えることである。現代、観光化が自然に及ぼす悪影響は絶大だ。おそらく自然保護を行なうためにまずやらなくてはならないことは、観光化を防ぐことだろう。

 だが、観光は途上国と呼ばれる国々とって、外貨を獲得し、経済を活性化させる、とても大きな力を持った産業なのである。それは多くの場合、従来の農業や漁業のそれとは比べものにならないほどの、遥かに大きな利益を生み出すのだ。ラオスにおいてもしかりである。

 ちなみに、旅行者が現地でサービスや物品に金を支払うことを、現地の国からの旅行者の国への観光の輸出と見なすと、世界の83パーセントの国々で観光は輸出の項目の上位5位までに入っていて、その内のなんと38パーセントは観光が最大の外貨獲得源になっているらしい。

 そして同時にそれは、世界中の生態系にとても大きな影響力を持っているのだ。珍しい野性動物が生息している美しい森林が雑誌のグラビアを飾れば、世界中から旅行者がドッと押し寄せ、彼らの無神経な行動によって美しい森林がいとも簡単に破壊され、もはや生態系を修復不能なまでに壊滅させるなどという話は、今ではもう特にめずらしい話でもなんでもない。

 また旅行者が押し寄せることによって、電気や水、ガス、石油といった莫大なエネルギーが消費され、大量の廃棄物を生み出し、それがまた深刻な環境汚染をまねくのだ。皮肉にも、ユネスコの世界遺産に指定されると同時に、自然破壊が始まるのである。

 かつては、こういった我々人間の自然への圧力に上回る余力がまだ地球にあり、問題が、問題として具体的に現われていなかったというだけの話なのである。では具体的に森林減少が今、いったいどんな問題として現われ始めているのか。

 まず森林は、土が雨で流れ出したり、風で吹き飛ばされないように保護する役割をしている。したがって森林が伐採されると、先のタイの例に見るような、土砂崩れを始めとする深刻な土壌侵食が起こる可能性がある。

 確かに土壌侵食はひとつの自然現象であって、土壌侵食があるからこそ、侵食された土が河口へと流れ出し、堆積され、かのメコンデルタもこうして出来上がったのだ。だが、自然に反した伐採の結果に発生する土壌侵食は、こういった自然レベルの侵食をはるかに上回る速度で、かつ暴力的に発生するのである。

 これによって、たとえばダムの建設で出来上がったダム湖の底には、恐ろしい速度でもって堆積が始まるかもしれない。また下流域の川も同様、土砂の流入によって、あっという間にその流れを変えてしまうかもしれない。

 また森林の樹木は、葉などから水分を蒸散させていて、降った雨水を大気中に戻す役割をしている。実は森林のこういった生理は、降雨パターンと密接な関係をもっているのだ。したがって、大規模な森林の伐採が行なわれると、この雨水の循環作用が衰え、降雨量の低下をもたらすかもしれない。実際、森林が著しく減少した熱帯地域では、乾季が長く、雨季が短くなったというデータが出ていて、旱魃の被害が人々の生活を脅かしている。 

 さらに森林は、こういった水分の蒸散以外にも、その土壌に水分を保水する役割も担っている。これは帯水層、すなわち地下水とも密接な関係をもっていて、森林が伐採され保水力を失うと、深刻な地下水の枯渇をまねく可能性があるのだ。そして、保水力を失った山に降った雨は、そのまま地表を地にしみ込むことなく流れ出し、大洪水をもたらすかもしれない。

 そして植物は、生育する時は大気中から二酸化炭素を吸収し、枯れて分解される時は、逆に大気中に二酸化炭素を放出するという特性がある。森林が伐採されれば当然、大気中から吸収される二酸化炭素の量は減り、また大気中に放出される二酸化炭素の量は増えることになるのだ。これがまた今、人類にとっての最大の問題となりつつある、地球温暖化に加担することになるのである。

 地球温暖化。

 それは字のごとく、地球の気温が上昇し暖かくなることだが、もっとも地球は地質学的調査によっても、その生成期から、幾度かの温暖期や寒冷期を繰り返していたことが知られている。だが、現在この地球で起こっている温暖化は、我々人間の存在によって引き起こされているという点が、これまでの温暖化と異なる点なのだ。

 その、今この地球で起こっている温暖化の主因とされるのが、大気中の温室効果ガスの増加である。温室効果ガスというのは、ちょうど温室のガラスのように地球を覆い、地表からの放射熱を宇宙に拡散しにくくしているガスのことだ。実は温室効果ガスというのはいくつかあるのだが、今この地球の驚異となっているのが、石油、石炭といった化石燃料の燃焼によって増加し続けている、言わずと知れた二酸化炭素である。

 我々の生活は、産業革命を一つの転換期として、より快適な、より便利な生活へと邁進していったわけだが、またこの革命を転換期として、石炭、そして石油の燃焼は爆発的に増加し続けることになった。特に石油は、二十世紀の文化の源泉であると言っても過言ではなく、もはや我々のこの快適で便利な生活を、石油の存在なくしては考えられなくなった。

 実際、石油の使用量は、ここ50年の間で5倍近くに膨れ上がり、それに比例して大気中の二酸化炭素の濃度も上がり、そして、地表の温度は確実に上がっている。ようするに現在この地球で起こっている温暖化は、我々の豊かさの代償に他ならないのだ。

 特にアジアでは、石油の使用比率は、自動車が圧倒的に高く、あのバンコックのすさまじい交通渋滞を見れば、おのずと頷けるだろう。もちろんタイに限らず、ここラオスを始めとする発展途上国と呼ばれる国の人々が、アメリカや日本と同じ、自動車による便利な生活を求めることに対して、それを非難する権利は誰にもない。

 参考までに、アメリカの人口は世界の人口のおよそ5パーセント足らずである。しかしそのアメリカの人々が、化石燃料を燃焼して排出している二酸化炭素の量は、なんと世界の排出量の24パーセントをも占めているのだ。

これはもちろん、二酸化炭素の排出量に限ったことではない。世界の人口の4分の1にすぎない「先進国」と呼ばれる国の人々が、世界の資源の大半を消費し、世界の廃棄物のほとんどを作り出しているのが現状なのである。そしてまた、膨大なエネルギーを使って大量生産したものを、大量消費し、大量廃棄するという、先進国アメリカと同じ豊かさを、世界中の国々が追い掛けているのだ。

 イギリスの経済学者ライオネル・ロビンズは、経済学とは、人間の無限の欲望を充足させるために、有限な資源をいかにして分配するかということを考える学問であると言っているが、経済というのは、まさにそら恐ろしいものである。アメリカは今、資源はおろか、二酸化炭素の排出量すら市場化し、莫大な量の二酸化炭素を排出する権利を金で買おうとしているのだ。

 とにかく、こういった化石燃料の燃焼によって発生する二酸化炭素の重要な吸収源である森林が、今どんどんと伐採され続けていて、地球の温暖化にさらに加速させているというわけなのである。

 地球温暖化は、地球が今むかえようとしている、大きな転換期であることには間違いない。またその転換期が、我々人類の存続を脅かす、深刻な危機となりうることもほぼ間違いないだろう。では、地球温暖化は今、いったいどんな危機として現われ始めているのか。 

 まず、気温が上昇することによって、単純に考えられるのが、南極や北極の氷が解けてしまうことだ。極地の氷が解けると、当然、海面の水位が上がる。また海水自体、気温の上昇によって熱膨張する特性があることから、水位はさらに上がるだろう。

 もっとも最後の氷河期だった18000年前は、海面は今よりも100メートル以上も低かったと考えられていて、海面は気候の変動とともに常に上下してきたのだ。実際もう今すでに、気温の上昇とともに極地の氷も、ヒマラヤの永久凍土も解け始めていて、海面の水位は年々確実に上がっている。

 海面の水位が上がるということは、すなわち、陸地の面積が狭まるということだ。たとえば、海抜がたった2メートルしかないインド洋に浮かぶモルジブ共和国は、海面の水位が2メートル上がれば、国全体が海中に水没してしまうことになり、あのデルダに築かれた大都市バンコックも、アンダマン海の底に沈んでしまうことになるかもしれない。バンコックに限らず、東京も、ニューヨークも、世界の大都市の3分の2は海岸沿いにあり、世界の人口の大半が海岸線の近郊に住んでいるのである。

 そして温暖化は、気候のサイクルを狂わせ異常気象を引き起こすだろう。まず、気温の上昇によって地表や海面からの水の蒸発が進み、雨量を増大させる。だがこれは、世界に均等に降るのではなく、局地的に、集中的に降ると考えられていて、それによって猛烈な大洪水や土砂崩れを引き起こすかもしれない。

 しかし一方では、温暖化は極端な乾燥を誘発し、旱魃や熱波を引き起こす。またこれによって、各地で大規模な森林火災が多発し、砂漠化する内陸部はさらに乾燥し、その面積を広げることだろう。

 実際、海水温の上昇といった諸条件から、台風やハリケーンもますます強力になり、その発生頻度も確実に高くなっていて、温暖化と切り離しては考えられない気候の異変が、もうすでに始まっているのだ。そして何と言っても複雑な問題をはらんでいるのが、そういった気候の異変が与える、生態系への影響である。

 その影響は普通、小さい生物により迅速に、より顕著に現れるもので、それはまた人間を始めとする他の生物にとっても、重大な危機となる場合が多いのだ。たとえば、水温が上昇すると、有害なプランクトンが異常発生する危険性がある。プランクトンの異常発生は、魚や貝の大量死を引き起こすだろう。そして、すでに海水温の上昇によって、サンゴが死滅し始めている。

 実は、このサンゴの死滅にさらに拍車をかけているのが、大気中の二酸化炭素の増加なのだ。海はまた、森林と同じく重要な二酸化炭素の吸収源なのだが、二酸化炭素は海中に吸収されると化学反応を起こし、サンゴの形成に欠かせない炭酸カルシウムの濃度を減少させるのである。

 熱帯雨林と並び称される、地球に最も古くからある生物群生であるサンゴ礁は、海の生態系に大きな位置を占めていて、世界の海に棲息する魚類の少なくとも65パーセントは、何らかのかたちで、一生のうちのある期間をサンゴ礁で過ごしていると考えられている。サンゴの死滅は、多くの種の生物が棲息する海の生態系のバランスを崩し、種や棲息数を減少させ、我々人間にとっての海洋資源にも大きな影響を与えることになるだろう。実際、すでに漁獲量は世界的に減少し続けているのだ。

 また、気温の変化に特に敏感なのが、昆虫である。暖かくなれば、昆虫はより速く成長し、より頻繁に繁殖する。気温の上昇はまた、昆虫の大量発生を引き起こす危険性があるのだ。そうなれば、多くの植物がその蝕害によって枯死することになるだろう。もちろん、農作物もその例外ではない。

 そして昆虫は、その身軽さから、気候の変化に即して、自由に棲息地を移動させる可能性がある。統計的に見ると、植物、そして動物や人間に対して、何らかの危険性のある昆虫の多くは、熱帯や亜熱帯といった暖かい地帯にその起源を持っているのだ。すなわち、それまで遠い熱帯の風土病だと思い込んでいた、熱帯の昆虫が媒介する病気が、温暖化によって、思わぬ場所に拡散する可能性がある。事実、ニューヨークの衝撃は記憶に新しい。

 1999年、ニューヨークのフラッシング病院メディカル・センターに61歳の男が入院した。彼は当初、発熱に咳、衰弱というインフルエンザに似た症状を起こしていたのだが、やがて激しい頭痛と麻痺に苦しみ出したのである。

 診断は、原因不明の脳炎とされた。だが、この男が入院した数日後、また同じ症状を起こした80歳の男が運び込まれ、彼はそのまま急死してしまったのである。同じ症状を起こした患者はこの後もさらに数を増し、それによってこの脳炎が伝染性の病気であるということは判明したたものの、病名すら分からないまま、とうとう62人もの感染者を出すことになったのだ。

 そして時を同じくして、ニューヨーク州北部のデルマーで、数百羽ものカラス、スズメ、フクロウ、アオカケス、タカといった鳥がバタバタと死んでいたのである。またブロンクス動物園でも、園内の鳥の大量死が起こっていて、ロングアイランドでは馬も原因不明の病気で死に始めていた。

 これら鳥獣の突然の大量死と、病院に収容された患者たちの症状には、共に脳炎を引き起こしているという共通点があり、これによって人間、鳥獣の双方から検査に乗り出すことになったのだ。

 病院に収容された患者と死亡した鳥から採取した血液サンプルは、ただちにCDC、疾病管理予防センターに送られ、その間、この謎の伝染病の感染経路が徹底的に調べられることになった。ところが、患者たちは、同じレストランで食事をしたこともなく、同じ所に遊びに行ったこともなく、まったく共通点がなかったのである。

 ひとつ、この年のニューヨークの夏は記録的に暑かった。そして、やがて患者たちが日没後、涼を求めるために多くの時間を屋外で過ごしていたことが判明した。これによって感染経路として浮上したのが蚊だったのである。

 こうして間もなくして、この原因不明の脳炎の病名は、かつてアメリカの中西部と南部で猛威をふるった、セントルイス脳炎であると発表されたのだ。しかし何かが違っていたのである。このパズルには、どうしても噛み合わないピースがあったのだ。

 過去のセントルイス脳炎の流行でも、確かにカラスやスズメといったある種の鳥の体内に高いレベルのウイルスが検知されたが、これだけ多くの種を巻き込んだ大量死を引き起こすことはなかったし、動物園の外国の鳥が死亡することは一切なかった。ましてそれが、馬に感染するなどということは、まったくの皆無だったのである。

 そして、とうとう噛み合わなかった最後のピースがはめ込まれると、そこに浮かび上がってきたのは、思いもよらない病名だったのだ。「西ナイル熱」である。

 この伝染病が初めて確認されたのは1937年、アフリカ、ウガンダの西ナイル地区でのことだった。これが西ナイル熱という名称の由来である。そう、1999年にニューヨークを襲った謎の伝染病は、なんとニューヨークから遥か遠く離れた、アフリカの伝染病だったのだ。

 では、いかにしてアフリカの伝染病が大西洋を隔てたアメリカに辿り着いたのか。それに関しては、確実なことは分かっていないらしい。だが、最も有力視されているのが、西ナイル熱のウイルスを持った蚊が飛行機の中に紛れ込み、アフリカからニューヨークへやって来たという説である。

 だが、普通こういった熱帯からの潜入者は、越冬できず死滅してしまうもので、西ナイル熱のウイルスを持った蚊に関しても当初はそう考えられていた。ところが、暖房の効いた都市の異常なまでに暖かい環境や、また近来の温暖化も加担し、蚊はウイルスを持ったまま確実に越冬してしまったのである。西ナイル熱は、今ではもうアメリカ全土に広がりつつあり、毎年新たな感染者と、死者を出しているのだ。

 こういった伝染病の恐怖は、何もアメリカだけに限ったことではない。このまま地球が温暖化すけば、この恐怖はさらに世界各地に広がり、やがて多くの人々の命を脅かすことになるかもしれない。たとえばマラリアを媒介するハマダラカは、気温が15,5度以上になればどこでも繁殖し、マラリアを蔓延させられる。そして蚊は、気温が高いほど急速に繁殖し、頻繁に血を吸う性質を持っているのだ。

 同様にマラリア原虫自体も、気温が高くなれば、蚊の体内で成長する期間が短くなる。マラリアの中でも最も悪性な熱帯熱マラリアは、気温が20度なら成長するのに26日かかるのだが、気温が25度に上がるとわずか13日で成長してしまうのだ。ようするにマラリアの感染は、気温が高くなるとさらにその危険性を増し、そして温暖化が進み気温が上昇すれば、マラリアを媒介するハマダラ蚊はその棲息範囲をどんどん広げ、マラリアの感染の危険性はますます広範囲に広がっていくのである。もちろん、日本も例外ではない。

 事実、日本の国際空港でも、マラリアを媒介するハマダラ蚊を始めとする、日本には本来棲息していないはずの蚊が捕獲されることは、特に珍しいことではないらしい。その蚊の体内にマラリア原虫さえいれば、日本でのマラリアの感染の恐怖は現実のものとなりうるのである。

 もちろん、これはマラリアに限ったことではない。同じく蚊が媒介する黄熱病やデング熱もしかり。そして、これら以外の数限りない熱帯の伝染病が、温暖化とともにその勢力範囲を地球規模に広げようとしているのだ。

 現在、マラリアの感染地域には世界の人口のおよそ45パーセントが住んでいると言われているのだが、このまま温暖化が住めば、今世紀末には、世界の人口の60パーセントがマラリアの感染の危険性にさらされるだろうと推測されている。今、少なく見積もっても、世界では1分間に950人がマラリアを発症させ、毎日3000人がマラリアによって命を落としているのだ。

 それでもラオスの森林は、世界の森林と同様、これからも減少し続けるだろう。そしてダムも、この国の近代化と共に、確実に増えていくに違いない。

 もしかすると、今この地球上で起こっている数々の深刻な問題は、人間が石を、火を道具として使い始めた時から、すでにこうなることが約束されていたのかもしれない。そうだとすれば、この地球にとって人間という生物の出現は、最も不幸な出来事だったと言えるだろう。我々人間はガン細胞のように、この地球を食い尽くしてしまうかもしれない。

 実際、すでに生態系から転がり出て、莫大な資源を使って自然界には存在しない物質を作り、大地をコンクリートで塗り固め独自の環境を生み出し、その中で生きている我々人間は、少なくとも植物や動物がこの地球の生態系の中で担っている役割と存在理由を、すべて放棄してしまったのだ。

人間の存在は害にこそなれ、この地球にとって利であると思われることは、残念ながら僕は何一つとして思い浮かばない。

2009/09/11

水面

















 
水を意味する「ナーム」という単語は、僕が本格的にタイ語の勉強を始めた頃、最初に興味を持った単語だった。タイ語の単語には、複数の単語の合成によってできあがったものが多いが、中でもこの水「ナーム」を用いた単語はすこぶる多いのである。

 たとえば、水「ナーム」に、熱い「ローン」をつけると、湯「ナーム・ローン」。固い「ケン」をつけると、氷「ナーム・ケン」。宿る「カーン」をつけると、露「ナーム・カーン」。目「ター」をつけると、涙「ナーム・ター」。顔「ナー」をつけると、顔つき「ナーム・ナー」。色「スィー」をつけると、色合「ナーム・スィー」。音「スィアン」をつけると、音色「ナーム・スィアン」。手「ムー」をつけると、腕前「ナーム・ムー」。そして、心「チャイ」をつけると、思いやり「ナーム・チャイ」となる。

 言語は、人間が思考するための道具であり、言語と思考は同じ源に発し、共に発達してきたものだと言われているが、単語の成り立ち一つを見ても、その民族が何をどう思考してきたかがよく現われている。この、水「ナーム」との合成語の多さが示しているよに、タイの民族は水というものに対して、特別な意識を持っている。

 あれは確か30年ほど前。ビエンチャンの船着場でのことだった。僕はその朝ひとり、メコンを渡る舟を待っていた。熱帯とはいえ、乾季をむかえた内陸の朝は肌寒く、そんな少しうっすらと朝靄のかかった水際には、一、二艘の小舟が係留されていて、船頭たちが優美に長く反り返った舟の舳先に、とりどりの花飾りを括り付け、神妙に祈りをささげていた。「メー・ヤナン」という、水の神への捧げ物である。水はまさに、日々共に生き続ける対象であると同時に、それ自体、篤い信仰の対象でもあるのだ。

 そのメコンのことを、タイ語で正しくは「メー・ナーム・コン」と言う。「メー・ナーム」とは川を表す単語であり、水「ナーム」と、母「メー」によってできている。すなわち、内陸の民であったタイの民族にとって、「水の母」とは海ではなく、川なのでる。

 今もこのテーブルの脇、鬱蒼と繁った川岸の草叢の向こうに、あの頃と何も変わることなく、熱帯のまぶしい陽の光を照り返し、静かに波打ち流れゆくメコンがある。その遠い波の上には、また小さな漁の小舟が行き交っていて、たぶんそれらの小舟の舳先にも、美しく仕立てられたメー・ヤナンが括り付けられ、メコンの河風にヒラヒラとたなびいているに違いない。

2009/08/22

美食

















 実を言うと僕は、京都へ観光に行っても南禅寺で湯豆腐ではなく、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べる男である。
ようするに、その土地ならではのものを食べなくてはいけないというような特別な執着のない男なのだ。もちろん僕自身、そうすることを損だとも、恥だとも思っていない。
かといって、「グルメ」という文化を否定しようなどという気も毛頭ないのも事実である。だが、少なくとも自分自身は、グルメではありたくないとは思っている。腹がすいたら何を食べても美味しく、腹がいっばいなら何を食べても不味い。これが僕の「食」というものに対する基本的スタンスなのだ。

もっともスタンス以前の問題として、たとえそれを食べるお金はあっても、僕にはカスピ海産のキャビアの良さも、ペリゴール産のトリュフの良さも分からない。そんな男が食べるのは、まさに貴重な資源の無駄というものだ。

しかし、もしかするとこれからは、希少価値の高い新鮮な食材で究極の料理を仕立てる料理人よりも、養殖やブロイラーの食材で究極の料理を仕立てる料理人の方が、より称賛されるべき時代が訪れるかもしれない。僕は今でも、そういう料理人を心から称賛したいし、彼らの仕事を、料理の輝かしき歴史における後退だとも堕落だとも思わない。

ひもとけば、フランス料理の精緻を極めたソースも、中華料理の深遠を極めた乾物も、もとはと言えば食材の悪さや立地の悪さといった障害を克服させるために、時の料理人たちが心血を注ぎ創造したものである。
これからの料理人は、社会的にも倫理的にも、来たる時代に対してとても大きな役割を担っていると言えるだろう。

2009/08/01

優越

















 ラオスで、ヨーロッパ社会で言うところの「近代教育」が行なわれるようになったのは、19世紀後半のことである。しかしそれはラオスの、ラオスの国民による、ラオスの国民のための教育といった性質のものではなかったのだ。

 「文明化の使命」。このなんとも奇妙な信念に後押しされ、フランスの植民地支配は邁進してゆくわけだが、ここラオスでも、宗主国フランスによる道路や橋の建設といった事業が、まがいなりにも着手されてゆく。そして、教育もまた例外ではなかったのだ。

 ラオスでは1897年、王都ルアンプラバンで王族の子弟のための初等学校が開校されたのを皮切りにして、各地の省庁所在地、すなわちヴィエンチャンやチャンパサック、シェンクアン、そしてサヴァナケットにも初等学校が開校されることになる。
 しかし、この国で中等教育が行なわれるのは、1921年、ヴィエンチャンの中等学校コレージュ・デュ・パヴィの開校まで待たなくてはならなかった。そして高等教育にいたっては、同じくヴィエンチャンに高等中学校リセが開校される1947年まで待たなくてはならず、さらにそれ以上の教育を受けるには、ヴェトナムやフランスといった国外の大学へ留学するしかなかったのである。

 しかもそれらの学校の授業はラオ人ではなく、フランス人、もしくはフランス人に教育されたヴェトナム人の教師によって行なわれていたのだ。ちょうどデュラスの両親のような、誇り高き教師たちがはるばる海を渡ってやってきていたのである。
 そしてまたその授業の内容はと言えば、ラオ人が自らの言語や文化を学ぶというものではなく、このアジアの片隅の小国で、フランス本国から取り寄せた教科書を使い、フランスの歴史や地理、文化といったものをフランス語で学んでいたのだ。

 おまけに、これらラオスの学校の生徒の大半は、フランスの植民地政策によって移住させられたヴェトナム人の子弟によって占められていて、ラオ人はほとんどいなかったのである。
 当然そんな情況の中で、ラオ人がハノイやパリの大学に「留学」するなどということは、王族や貴族といった特別な階級の家柄の子弟以外には経済的にみてもまず不可能な話しで、実際1937年、612人を数えたハノイのインドシナ大学の在学生の中で、ラオ人はたったの2人だったらしい。

 「愚民政策」。これは、フランスのラオス統治を論じる際によく用いられる言葉である。

 フランスは、中国雲南へと遡るメコンの要衝としてラオスに多大な期待をいだき、強行的に仏領インドシナ連邦へ編入したわけだが、実際には、メコンは雲南への通商路としては使いものにならず、さらに、どこにも海への開口を持たない内陸の地理的孤立性と、人口の極度な希薄性といった悪条件も重なって、とうとうこの国での経済発展は見込めないという結論に至るのだった。

 そこでフランスは、ラオスには極力経費をかけず統治する方法を選ぶことになり、それがすなわち愚民政策だったのである。
 ようするにフランスは、この国の教育体制をととのえ、この国の国民を教育し植民地運営の一役を担わせるということをせず、実質的に見捨てたのだ。これがその後、ラオスにおける教育の推進を決定的に遅らせることになった所以だとされている。

 しかしこんなことは、特に驚くに足ることでもなんでもないのだ。もともとフランスの掲げた「文明化の使命」などというものは、何も地球上の人々を普く幸福にしよう、などといったものでは決してなかったのだ。
 キリスト教に改宗させ、ヨーロッパの生活習慣を押しつけ、そして、ただひたすら宗主国フランスのために働く歯車に仕立てあげる。植民地は、あくまでも宗主国のための植民地であって、その国民もまた、ひたすら宗主国に奉仕する一つの歯車でしかなかったのだ。もとより、アジアの小国に暮らす「野蛮人」の教育水準など、彼らにとってはどうでもよかったのである。

 これにはヨーロッパ人、いわゆる白人の、白人は生まれながらにして「支配する」べく人種であり、有色人は生まれながらにして「支配される」べく人種であるという、彼らにとっての大前提があったことを忘れてはならない。
 こういった、白人の有色人に対するあからさまな侮蔑意識は、確かに、彼らのキリスト教という極めて不寛容な宗教による、神によって選ばれた地上における特別にして最高の人種であるという、滑稽なまでの優越意識によって支えられていたわけである。

「インディオは人間か?」
 これは、大航海時代が始まり大海の果てを目指して船出したヨーロッパ人が、未知なる新大陸で出会ったインディオに対して、はたしてこれは人間なのかどうかと激論を交わした、かの有名な「バドリア大論争」の議題である。

 論争は、カトリックの聖職者ラス・カサスと神学者セプルベータとの間で始まり、彼らインディオも人間で、神の福音を与えるに値する存在なのかどうかと、こんな馬鹿げた論争が大真面目に行なわれたのだ。
 そしてこの大論争は結局、「インディオも人間と認める」というローマ教皇パウロ3世の宣言によって、ようやく決着をむかえるのである。

 実は面白いことに、彼らヨーロッパ人はまた、その人種としての優越性を科学的にも証明しようとしていたのだ。
 「社会ダーウィニズム」という言葉がある。これはダーウィンの『進化論』を社会に置き換えたもので、国家間や人種間の闘争をも、ダーウィンの言うところの進化の過程である優勝劣敗の自然淘汰と結びつけ、正当化するまでに発展してゆくのだ。

 かつてヨーロッパでは、この『進化論』をもとにして人種の肉体的差異を研究し、人種の優越を科学的に証明しようという試みが盛んに行なわれていたのである。
 頭蓋骨の形態や、額から顎にかけての傾斜角度を始めとした、あらゆる肉体的差異を測定し、人種の優越をつける尺度としたのだ。

 「頭蓋骨の大きさは、大きいほど高等であり、人間は動物よりも大きく、白人は野蛮人よりも大きい」「白人は生まれた時、野蛮人のもついくつかの特徴、たとえば低い鼻をしているが、成長するにつれて消える。つまり野蛮人は白人の進化する前の形態なのである」
 なんとも馬鹿げた話だが、かつてヨーロッパではこういったことが大真面目に論じられていたのだ。

 かくして社会ダーウィニズムは、不可思議な科学的裏付けを得てヨーロッパ社会に浸透してゆき、以後脈々として、彼ら白人たちの尊大なるアイデンティテイを支える柱となる、白人至上主義を確立させることになるのである。
 そしてこれがまた、「文明人」である白人による「野蛮人」の淘汰を美化させ、「優秀民族が地球上でふえるために、我々白人は世界のいたるところに進出する必要性がある」という科学者たちの推奨する熱い使命感にも駆り立てられ、植民地政策はいよいよ全盛をむかえることとなるのだ。

 ちなみに、少し補足しておくと、宗主国フランスのラオスにおける愚民政策は、ラオスにおける教育の推進を決定的に遅らせることになったが、しかしこの政策は、何もラオ人をただの「愚民」として放置していたわけではないのである。
 ラオスの国民は、人頭税や、塩やアルコールなどの間接税を始め、植民地政府によって課せられた数々の過重な税金に苦しめられることになり、また強制的に道路や橋の建設に賦役として駆り立てられるなど、「文明化の使命」という大義名分のもとに、ラオ人の生活はみごとに踏み躙られたのだ。

復讐


















 ある時のことである。ブラフマン神はこの世の滅亡を恐れ、天界から神々を、下界から悪魔たちを呼び寄せ、不死の妙薬アムリタを得ようと思い立った。

 そこでブラフマン神はまず、サンカ島に聳えるマンダラ山を引き抜き、クシラ海の中に立てる。クシラ海には、ヴィシュヌ神の化身である大亀サン・アクパが沈んでいて、マンダラ山はサン・アクパの甲羅の上に載せられ、さらに山頂にはインドラ神が座し、マンダラ山が浮き上がらないための重石となった。

 こうしていよいよ、バスキ神の化身である大蛇をマンダラ山に巻き付けると、尾を悪魔たちが、頭を神々が持ち、いっせいに引き合いクシラ海を撹拌し始めた。

 クシラ海は、ゴウゴウと音を立てて撹拌され、その撹拌の摩擦によって海中に熱が充満し、海の怪獣たちが火を吹き、もがき苦しみだす。
 それを目にしたインドラ神は、ただちに冷雨を降らせて熱を冷まし、大気を漲らせた。こうしてクシラ海は、やがて撹拌が進むにつれて乳状に変化し始め、とうとう不死の妙薬アムリタが抽出されたのである。

 しかしアムリタは、このどさくさに紛れて、いったん悪魔たちの手に落ちるのだが、神々は無事にそれを取り戻す。ところがである。その神々の中に、悪魔カラ・カウが紛れ込んでいて、カラ・カウはその不死の妙薬アムリタを飲み込んでしまったのだった。これによって、カラ・カウは永遠の生命を得てしまう。
 それを見ていた太陽と月は、悪魔カラ・カウが永遠の生命を得てしまうことを恐れ、ただちに剣でもってその首を切り落とし、アムリタを取り戻すのだった。幸運にもアムリタは、まだカラ・カウの喉にまでしか達していなかったのである。

 だが、不死の妙薬アムリタが喉まで達していたことによって、悪魔カラ・カウの首は永遠の生命を得てしまい、怒りに燃え太陽と月を飲み込んでしまうのである。太陽と月を飲み込まれてしまったこの世は、みるみるうちに深い闇に覆われてしまった。

しかし幸運にも、やがてこの世は再び、太陽と月の光に満たされることになる。悪魔カラ・カウは、頭しかないのだ。そう、飲み込まれた太陽と月は、カラ・カウの頭の中を通り過ぎると、すぐに喉から出てきたのである。

かくして、永遠の生命を得た悪魔カラ・カウの首は、以後も、首を切り落とされてしまった復讐に、太陽と月を執拗に追い回し飲み込んでしまう。これが、日蝕と、月蝕なのだと、バリ島の人々は考えたのだ。

2009/07/01

生滅


















 仏教の宇宙観では、この世界は業によって生まれ、業によって滅びるとされている。ようするに我々生物が輪廻を繰り返すのと同じく、世界もまた輪廻するのだ。

 その世界の生成消滅は、生成「成」、持続「住」、消滅「壊」、空虚「空」という、実に規則正しい段階を経て流れていて、各段階はまたその中で、1劫ごとに細かい生滅を20回繰り返すとされている。

 「劫」というのは、仏教における時間の単位である。実は仏教にも、高度に発達した時間の概念があったのだ。そんな仏教の数ある時間の単位の中で、特に意識することもなく我々が使っている単位がある。「刹那」だ。

 刹那とは、仏教における時間の最小単位である。極めて細いカーシー産の絹糸を、2人の成人男子が両手でひとつかみして引き合い、それをもう一人の成人男子が中国製の剛刀で一気に切断した時、その細い絹糸1本を剛刀が断ち切るのに、64の刹那が経過するという。

 いっぽう劫とは、仏教における時間の最大単位である。1辺が1由旬、すなわち約7,4キロメートルある立方体の城の中を小さなケシ粒でいっぱいに満たし、100年に1度、1粒ずつそのケシ粒を取り出し、城の中からケシ粒がすべてなくなった時点で、1劫はまだ終わってないという。

 また別の例えでは、1辺が1由旬、すなわち約7,4キロメートルある極めて固い巨大な岩を、100年に1度、極めて柔らかいカーシー産の綿ネルでさっと払い、その巨大な岩が摩耗してすべて消滅した時点で、1劫はまだ終わってないという。

 このように、途方もない時間の12の劫が生滅を繰り返し世界は持続されているわけだが、それぞれの1劫は順に、刀疾飢の3つの災いで終わることになっている。「刀」は戦争。「疾」は疾病。「飢」は飢餓。
 今我々が生きているのは9番目の劫である。そしてこの劫の終わるのは、ちょうど飢餓の番なのだ。

2009/04/30

熱病

















 マラリアという病気が、蚊によって媒介される伝染病であることは、いまさらわざわざ云々するまでもないことである。
 しかし、これはよく誤解されるところだが、蚊自体に病気を発生させる何らかの力があるわけではないのだ。蚊はあくまでも、「媒介」という役割を担っているだけであって、その病気を発生させるのは「マラリア原虫」という原生動物である。
 そしてそのマラリア原虫は、すべての蚊によって媒介されるというわけではなく、今までおよそ3200種以上発見されている蚊の中でも、「ハマダラカ」一種に限られているのだ。

 実は、このハマダラカという名前は日本語で、漢字にすると「翅斑蚊」となる。字のごとく、翅に斑があるのだ。だが、マラリア原虫はすべてのハマダラカによって媒介されるというわけではなく、マラリア原虫を媒介できるのはメスだけに限られている。
 これに関しては、この蚊だけに限った特殊な習性などではなくて、すべての蚊に共通した習性によるもので、すなわち血を吸うのは産卵するメスだけに限られているからなのだ。メスは、体内の卵に栄養を与えるために血を吸うのである。

 では、このハマダラカのメスがマラリア原虫を媒介する仕組みというのは、いったいどのようになっているのだろうか。
 まず、大原則が一つある。ハマダラカのメスがいても、マラリア患者がいないところではマラリアは発生しない。ようするに、マラリア患者の血を吸い体内にマラリア原虫を取り込んだハマダラカのメスが、次に血を吸う際、唾液の中に潜んでいるマラリア原虫の胞子を唾液とともに人体に注入し感染が成立する、というシステムになっているのだ。

 ちなみに蚊が血を吸う際、人体に唾液を注入するのは、吸血を円滑に行なうためで、蚊の唾液の中には、血管の止血作用を抑制し出血を継続させる成分が含まれている。それを注入することによって、血を凝固させずに吸血できるというわけなのである。実はこの唾液が、我々が感じるあの痒みの原因なのだ。

 こうして体内に入ったマラリア原虫の胞子は、血液の中を漂いまず肝細胞に侵入し、そこで直ちに分裂増殖を開始する。そして、肝細胞の中で成長したマラリア原虫は再び血液の中を漂い、今度は赤血球に寄生しそこでまた分裂増殖を開始し変化してゆく。ここまで感染者には、何ら自覚症状らしきものはなく、いわゆるマラリアの潜伏期間というわけだ。
 しかし、寄生したマラリア原虫の分裂増殖が進行すると、とうとう赤血球が破壊されてしまい、この赤血球の破壊によって、いよいよ感染者に猛烈な悪寒と高熱、発汗という、マラリア特有の症状が現われるのである。

 一方、赤血球を破壊し再び血液の中に飛び散ったマラリア原虫はといえば、その間にすかさず新しい別の赤血球に寄生し、そこでまた分裂増殖を開始する。この、赤血球における寄生、分裂、増殖、破壊を繰り返す内に、血液中のマラリア原虫は確実にその数を増してゆくのだ。
 感染者の体も、この赤血球が破壊される極めて規律正しいサイクルごとに次第に衰弱してゆき、さらに赤血球の破壊が進むと黄疸をともなった貧血にみまわれ、四種あるマラリアの中でも最も悪性の「熱帯熱マラリア」では、最初の発作から1、2週間で死に至ることもめずらしくないという。

 ここで一つ面白いのは、赤血球に寄生し分裂、増殖、破壊を行なうマラリア原虫の中で、やがて赤血球に寄生しない特殊な原虫が現われることである。そしてこれが、マラリア感染の重要なカギを握っているのだ。
 その特殊な原虫とはいわゆる生殖体で、ちゃんとオスとメスに分かれている。ようするに、ハマダラカのメスがマラリア患者の血を吸っても、この生殖体がいなければ、その後のマラリア伝染は成立しないのだ。

 この生殖体が、ハマダラカのメスの胃の中に取り込まれると、それぞれオスとメスが生殖し、受精した接合体は、つぎに胃壁に穴を開け胃の外面に寄生する。そしてここで受精した接合体は嚢状になり、マラリア原虫の胞子を盛んに作り始め、嚢の中は胞子でギッシリといっぱいになる。これがやがて破裂すると、飛び出した胞子は蚊の唾液腺に集まり、こうしていよいよ次の吸血によって新たな感染者をつくる準備がととのう、というわけなのだ。なんとも奇々怪々とした複雑さである。

 こういう自然界の複雑怪奇な話を読んでいると、僕はいつも驚かされる。それは、もちろん当たり前のことだが、実際にそれを突き止めた人がいるということにだ。

 このマラリアという伝染性の熱病と人間との関わりは実に古く、文字がなく記録が残されなかった時代のことも考えると、やはり人間の歴史は、またマラリアとの共生の歴史だったと言えるかもしれない。しかし、この熱病が小さな原生動物によって引き起こされ、それが蚊という空中を浮遊する小さな節足動物によって媒介されているということがわかったのは、まだほんの100年ほど前のことなのである。

 それまでこの熱病の正体は、淀んだ湖沼から発生する有害な空気によるのだという、古代ギリシア以来の説が相も変らず信じられていたのだ。実は「マラリア」というこの病名も、イタリア語の悪い空気という言葉を語源としているのである。

 ちなみにマラリアというこの熱病は、日本でも古くから無縁の病気ではなかったのだ。701年に公布された『大宝律令』の中の医疾令にも、すでにマラリアの名が記載されている。
 その名とは、「瘧」である。『源氏物語』の中で、18歳の源氏が、まだ幼女だった後の紫の上を垣間見て、そのあまりの可憐な姿に心を奪われてしまうのも、彼がマラリアの治療を受けるために赴いた、北山の聖のところでのことだった。もちろん当時の治療とは、加持祈祷である。

 そんな熱病の正体を突き止めたのは、アルジェリアに駐在していたフランス陸軍軍医シャルル・ルイ・アンフォンス・ラヴェランである。彼がマラリア患者の血液の中に、初めてこの原虫の存在を確認したのだ。1880年のことだった。

 ところがである。そのラヴェリンもまた依然として、マラリアは汚染された水や土壌によって人へと感染するという信念を持ち続けていたのだ。そして、とうとうそれが空中を浮遊する小さな節足動物によって媒介されるのだということを突き止めたのは、残念ながらラヴェリンではなく、イギリスの若きインド衛生局医官ロナルド・ロスだったのである。

 しかし実はロスには、偉大なる助言者がいたのだ。それは、中国の廈門に駐在していた熱帯病理学の第一人者、イギリスの清帝国税関付き医務官パトリック・マンソンである。
 彼はそこで、フィラリア症、ようするにエレファントマンの研究をしており、すでに病原体であるフィラリア仔虫が、蚊の体内で発育するということを突き止めていたのだ。そこでマンソンは、マラリアもフィラリアと同じく、蚊によって媒介されるのかもしれないというヒントをロスに与えたのである。

 それからというもの、ロスのマラリアに対する情熱は凄まじいもので、過労のあまり、一時失明状態に陥るほどだったらしい。
 捕獲してきた蚊にマラリア患者の血を吸わせ、くる日もくる日も、この極小の節足動物を解剖し続けたのだ。その姿は端から見ると、狂気を通り越し、まさに滑稽極まりなかったに違いない。蚊というものに対する生物学的な満足な知識もない中、忍耐と直感による気の遠くなる作業の連続で、それはまた彼にとって失意と落胆の連続だったのだ。

 そしてある日、一匹の翅に斑のある蚊の解剖にとりかかった時のことだった。ロスはついに、蚊の唾液腺の中にギッシリと詰まったマラリア原虫の胞子を、確かにその目で見たのである。
 この瞬間、長い人類の歴史とともにあったこの熱病の全貌が、初めて明らかになったのだ。20世紀を目前にした1898年、それはラヴェリンが初めて顕微鏡の中に蠢く原虫を発見してから、なんと18年もの歳月が流れていたのである。

 このマラリアという熱病の治療は、ヨーロッパではその昔、オオカミの右の眼球を塩漬けにしたものを身につけたり、冷たい海に入ったり、ヒルに血を吸わせたりといった治療がなされていたらしい。これに関して我々は、一方的に笑うわけにはいかない。日本でもかつては、加持祈祷だったのである。

 だがそんな摩訶不思議な治療も、大航海時代が始まると飛躍的に進展することになるのだ。
 意気揚揚と新大陸に乗り込み、征服、掠奪、惨殺を繰り返していたヨーロッパ人だったが、実は彼らもまたマラリアに悩まされていたのである。そして皮肉にも彼らは、人間ともみなさず虫けらのように扱っていた先住民たちに救われることになるのだ。

 それは先住民に教えられた、アンデスに自生するある植物だった。「キナ」である。
 キナは、海抜1200メートルから3600メートルの高地に自生するアカネ科の常緑樹で、その樹皮には20種類ものアルカロイドが含まれており、インカの人々はこの樹皮を煎じたものを、古くから熱病の治療に使っていて、このキナの樹皮が、なんとマラリアに対してめざましい効果を発揮したのである。
 そして、後に樹皮から有効成分「キニーネ」抽出されると、マラリアの治療は飛躍的に進展するのだった。

 ここで少し補足しておくと、このキナの出現はまた、一つの兵器の出現にも例えられていたのである。
 この薬を手に入れたことによって、それまで謎の熱病によって行く手を阻まれていた場所にまでも、ヨーロッパ人の侵入を可能にしたのだ。かつて地球に燦然として君臨していた大植民地帝国も、このキニーネなくしては為しえなかっただろうとも言われている。

 そして以後、マラリアの薬は両大戦においても、重要な役割をになうことになるのだ。実際、かつて各地の戦場でマラリアによって命を落とした兵士の数は、とてつもない数だったのである。

 そんな情況の中で、早くも合成薬の開発に着手したのが、封鎖によってキニーネの供給を断たれたドイツだった。そして、そのドイツで開発された化学合成薬レゾヒンを元にして、1943年、ついに「クロロキン」がアメリカで完成するのである。
 このクロロキンという新薬の効果はめざましく、それまでに開発された薬としては最強のもので、これによって、マラリアは完全に撲滅されるかのごとく思われた。

 しかしである。以後、この薬が一挙に多用されたことによって、この薬の効かない、耐性のマラリア原虫が出現してしまったのである。それは、クロロキン完成からわずか十数年後の1957年の出来事で、その耐性のマラリア原虫が最初に確認されたのは、タイだった。

 その後このクロロキンの効かないマラリア原虫は、世界各地で確認されるようになり、地球規模で、今も刻一刻と拡散の一途を辿っているのである。
 そして近頃タイではまた、クロロキン神話が潰えた後、再び脚光を浴びたキニーネに対しても耐性を持ったマラリア原虫が現れ始めているらしい。

 人間の作り出す薬の進歩と、それに対するマラリアという病原虫の進化との駆けっこは、両者の長い長い歴史から見てもまだまだ始まったばかりで、残念ながら、この古い伝染病に対しても我々人間は、まだ決定的な対抗策を持っていないというのが現実なのだ。

 マラリアは現在、世界で毎年3億人から5億人が新たに感染し、年間150万人から270万人もの死者が出ている。

2009/03/02

無知

















 ブッダは、まずこの世を「苦」ととらえた。生まれることも、生きることも、病むことも、老いることも、死ぬことも。また、欲するものが得られないことも、憎むものと別れられないことも、そして、愛するものと別れることも。人間の存在の背後にはすべて「苦」が付きまとう。

 しからば、これらの「苦」の原因はいったい何なのか。それをブッダは「無知」としたのだ。万物は絶えず移ろい、一時もとどまることがない。何もかもが生成と消滅の流れの中にあり、当然、我々人間も例外ではない。にも関わらず人々は、永遠なることを欲し、留めおくことを求め、そして、失われゆくことを嘆き悲しむ。この無知なる執着が「苦」を生み出しているというのだ。

 そこでブッダは、現実のあるがままを知ることの重要性を説いた。そして、それによって得られる「無知」から「知」への転換によって、執着から解き放たれ、煩悩の炎が消え失せ、苦を克服することができるとしたのである。涅槃「ニルヴァーナ」とは、「吹き消す」というサンスクリット語を語源としている。

 こうしてその「知」の実践として、ブッダはひたすら日々の「正しい行い」を説き続けたのである。

 しかしそのブッダの説く生活は、多くの戒律に縛られ、自由の喪失した、束縛の日々のように思われる。だがそれは、少なくとも西洋的「自由」においてである。
 古代インドにおいて「自由」とは、外部の何ものかから解放されることではなく、心の内部のとらわれから解放されることを言ったのだ。その境地を仏教では「ニルヴァーナ」、すなわち「涅槃」と言う。

 欲心を捨て、執着を離れ、定められた規律正しい清浄なる日々を、黙々と送り続ける。そういう意味で、むしろそれは「自由」である。

2009/02/03

均一

















 今、世界中の国の人々が、アメリカを始めとする先進国と呼ばれる国の人々と同じ豊かさを追い求め、世界は物凄いスピードで均一化しようとしている。

 その今日の世界の均一化は、やはり15世紀に始まったヨーロッパ世界の膨張にまで遡ることができるだろう。
 大航海時代。その華々しき時代を経ていよいよ20世紀をむかえると、なんと地球の全陸地面積の85パーセントもがヨーロッパ世界の国々の植民地と化し、「文明化の使命」の名のもとに、世界はヨーロッパの論理で塗り替えられていったのである。

 そしてやがて20世紀が、ヨーロッッパの世紀からアメリカの世紀へと移行すると、新興国家アメリカの強力な経済力によって、世界は驚くべき加速度でもって均一化、極端な言い方をすれば、アメリカ化への道を進み始めたのだ。

〈きわめて生産制の高いわが国の経済を維持するために、われわれは消費を生活の基本にし、商品の購入と使用を習慣化し、精神や自我の満足を消費に求めなければならない。(中略)物は消費され、燃やされ、すり減らされ、どんどん捨てられねばならない〉

 これは、アメリカのアナリストであるビクター・ルボーの1960年代の言葉だが、この資本主義国アメリカの消費を中心に据えた生活スタイルは、今ではもうすっかり世界共通の生活スタイルと化したのだ。
 もっとも、そもそも資本主義とは「均一化」という作用をもった力なのである。

 事実、原則的に社会主義が崩壊した今、世界中の国々がアメリカを中心とした資本主義の歯車と連動され、アフリカのサバンナでも、ニューギニアの小島でも、またアマゾンの畔でも、洋服を着てスニーカーをはき、コーラを飲みながらテレビを見て、自動車やバイクを乗り回す人々の姿は、もはや珍しいものではなくなったのだ。

 しかしこれは、単なる生活スタイルの変化ではない。経済大国アメリカの資本主義の価値観を、我々は消費という日常的行為の中で、無意識の内に受け継いでいるのだ。
 さらに今、最も大きな影響力を持っているテレビというメディアで、ハリウッド映画やアメリカン・ドラマを見ることが、我々の価値観や倫理観にどれだけの影響を与えているか計り知れない。

 「文化帝国主義」という言葉がある。これは近年より顕著になってきた、強い政治力、経済力を背景にして、メディアを操作し行なう文化的支配のことを、過去の植民地帝国主義になぞえて呼んだ言葉だ。「土着の文化を犠牲にしてまで外国の文化や価値や習慣を高め、広める政治力と経済力の効用」という、『フォンタナ現代思想辞典』の文化帝国主義についての定義は、実に的を得ていると言えるだろう。
 ようするに、経済大国で大量生産された商品やメディアといったものが、世界中の伝統的文化を無差別にのみ込み、破壊、消滅させようとしているというのだ。

 「いったんテレビが置かれると、肌の色、文化、背景がどうであれ、だれもが同じものを欲しがるようになる」
 アンソニー・J・F・ライリーはこう指摘している。

 またそれは、言語的に見ても言えるだろう。今、世界のありとあらゆる国々に、驚異的な潜在力を持って一つの言語が入り込んでいるのだ。もちろんその言語とは、アメリカの言語、英語である。

 もっとも世界の歴史を見ても、植民地に宗主国が自国の言語を強制的に押しつけた過去の例はいくらでもあった。そもそも支配というものは、そいうものだったのである。いつの時代でも、言語選択は勝者の権利だったのだ。

 だが今日の英語のように、一つの言語がこれだけの力をもって世界中に浸透した例はない。それは当然、アメリカの経済力に裏付けられた現象であることは明白だが、面白いのは、それが過去の植民地統治の例のように、アメリカから強制的に押しつけられたのではないということである。自ら欲して、進んで、経済大国アメリカの言語を受容しているのだ。

 言語は、人間が思考するための道具である。また言語と思考は同じ源に発し、共に発達してきたものだとすると、それを受け入れるということは、どういうことを意味するのか。

 たとえば情緒的にみても、日本語のようにことごとく主語が欠落する言語と、英語のように常に主語によって自己と他者とを峻別する言語とでは、おのずと、その人間関係において微妙な差異が生ずるかもしれない。
 そして言語を学ぶということは、文化を学ぶということである。言語を学ぶことによって、我々は無意識の内に、その言語の背景にあるものを学び取っているのだ。

 したがってこういった言語活動によっても、我々は無意識のうちに、アメリカ人の、極端なことを言えばアメリカ人の思考の根底にあるキリスト教の価値観を、倫理観を、大なり小なり取り込んでいると言えるかもしれない。

 とにかく今、世界の各民族が有していた多彩な文化が、膨大なエネルギーを使って大量生産したものを、大量消費し、大量廃棄するという、先進国アメリカの文化によって淘汰されようとしているのだ。

 そしてまた世界は今、インターネットの爆発的な普及によっても、「グローバル化」と呼ばれるさらなる均一化の道へと物凄いスピードで走り出しているのだ。

2009/02/02

昆虫

















 タイ東北部からラオスにかけての一帯、ようするにラオ文化圏の人々は実によく虫を食べる。彼らにとって虫はとても重要な食材なのだ。

 虫を食べるなどというと、すぐに頭に思い浮かぶのは「ゲテモノ」の四文字だという人が大半だろうが、我々人類の食の変遷を考える場合、むしろ肉食よりも先に昆虫食が始まっていたと考える方が主流らしい。
 そんな昆虫食は、ほぼ世界中で行なわれていて、ヨーロッパでも古くは古代ギリシアやローマでバッタ、セミ、カミキリムシの幼虫などが食べられていたことが知られているし、『旧約聖書』のレビ記の「清いものと汚れたものに関する規定」の中にもちゃんと、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい、と明記されている。

 ちなみに、ラオス辺りで食べられている虫は、バッタ、コオロギ、カマキリ、ナナフシ、セミ、トンボ、ガ、カイコ、ハチ、ハエ、ゴキブリ、コガネムシ、カミキリムシ、カブトムシ、タマムシ、ゾウムシ、ケラ、アリ、シロアリ、ガムシ、ゲンゴロウなど実に多種にわたっていて、それぞれの種によって卵、幼虫、蛹、成虫の各形態が食される。そしてこれは虫ではないが、クモ、サソリなどもよく食べられているようだ。

 そしてこの辺りで食される数多い虫の中でも、特にその存在が際立っているのが、何と言っても「メンダー」だろう。かつて王の食卓にも上ったというそのメンダーとは、水棲昆虫タガメの一種なのだ。
 メンダーは水棲昆虫の中でももっとも大型の部類で、体長10センチメートルにも達し、これは小魚やカエルなどを捕食する肉食昆虫である。

 メンダーを仰向けにして腹を裂くと、腸の肛門近くに臭腺があり、そこから独特の臭いを出す。その芳香こそが、まさにこの昆虫が人々に珍重される所以であって、雄は雌よりもより強い芳香を発するらしい。
 食べ方は、すり潰し調味料として使用するのが一般的だが、蒸したり焼いたりして胴体をちぎり、チューチューと中身を吸い出して食べたりもするようだ。

 現在、メンダーは養殖されていて、ちなみにハエの幼虫、すなわちウジ虫なども養殖されているらしい。それ以外の虫は、ほぼ自然界から捕獲されているようだ。

 もちろん、このような虫を食べるという彼らの行為を、貧しさゆえだと判断するのは間違いだ。一般的に虫はタンパク質と脂質に富み、たとえばイナゴのタンパク質含量の体重比は、豚肉や牛肉よりも高いらしい。
 それに多少の形の差こそあれ、コガネムシもカメムシも、カニもエビも、早い話しみんな同じ節足動物なのだ。

 そして実際、食べてみると、コオロギのフライはポテトチップスみたいに芳ばしく、コガネムシのローストは天津甘栗みたいに甘く、美味しい。生のカメムシもミントのような爽やかな香りが口の中に広がり、なかなかいける。
 よくあの悪名高い香菜パクチーのことを「カメムシの……」などと表現することがあるが、それはカメムシを食べたことのない者が勝手に作り出した、まったくもって根拠のない嘘なのだ。カメムシは、パクチーよりもはるかに美味しいのである。

2009/01/21

科学

















 東洋では科学は生まれなかったというのが定説である。東洋のそれは技術であって、科学はあくまでも西洋のものだったのだ。

 そもそも科学とは、神から与えられた自然をいかに活用、管理、制御するかという支配の探求だったのである。そこには当然、自然に対する敬意などといったものを介入させる必要性は一切ない。敬意は神にこそ捧げるものであって、科学の、自然に内在している法則を解明する行為は、創造主である神の創意を読み取る行為に他ならなかったのだ。もちろん、その根底に流れていたのが『旧約聖書』の「創世記」に記されている自然観、すなわち神、人間、自然という支配構造だったことは言うまでもない。

 したがって東洋のように、もしも彼らにとって自然というものが侵しがたい、尊く神聖なものだったとしたら、状況は大きく変わっていただろう。存在するすべてのもの、有機物も無機物も、もちろん我々人間を始めとする生物をも、あくまでも1つの事物として、ただひたすら客観的に、冷徹に、観察、分析、解明できたからこそ、今日の科学の進歩があったのだ。
 また、その「進歩」という概念自体も、キリスト教の目的論から生まれたということを忘れてはならない。

 そんな科学の純粋なる知の追求には当然、倫理感や道徳感などといった感情が介入する余地はない。ようするに科学は、「いかに生きるか」といった思索などとはまったく無縁の学問なのだ。科学の知の追求は、言い換えれば手段の追求であって、しかもそれは目的を必要としない、究極なる手段の追求なのだ。

 そして神の手として「自由」という名の許しを得た科学者はまた、その知の追求の呪縛から離れられない。1つの問が解明されると、ただちに新たな問が生まれ、彼らの知的好奇心は永遠に満たされることなく、出口のない知の連鎖の中を彷徨い続けるのだ。
 こうして生み出された科学の新たな発見は、概ね「経済」という名の欲望の循環システムの中にただちに取り込まれ、我々の欲望を刺激し増産させる担い手となる。経済とは、宗教を始めとするかつての様々な英知がつねに戒めてきた人間の欲望を養分として、成長増殖するのだ。科学が宗教を解体したように、経済は我々が守り続けてきた伝統的な価値を解体し始めたのである。
 すなわち今日、科学が次から次へと生み出す新たな発見は、次から次へと新たな欲望を生み出し、それがあたかも血液のようにこの社会の中を廻り活性化させるのだ。

 もちろんそこで重視されるのは、倫理感や道徳感などではなく、経済効果である。経済効果は多くの場合、我々の健康や幸福よりも優先するのだ。
 このようにして科学と経済は、一種の寄生と宿主のような相互関係を持ち、経済が活性することによって、科学はそこから得られる代償をエネルギーとして、さらに発展し続ける。そして、とうとう経済体制の中に組み込まれてしまった科学が生み出す、倫理感や道徳感の欠落した目的のない手段が、新しい価値となって我々の生き方を大きく左右し始め、いよいよ人間の、また地球の未来をも危うくさせるかもしれない、不気味な暗雲となって広がっていこうとしているのだ。

 これは、核兵器の開発や遺伝子の操作といった大掛りなものに限らず、ここ近年急増している、ごく身近なインターネットや携帯電話を使った犯罪を見てもしかりである。
 恐ろしいことに今、我々の倫理感や道徳感がどんどん低下している中で、科学が次から次へと生み出す技術だけが、どんどんと発達し続けているのだ。

2009/01/02

運命

















 世界のいくつかの河には、もともと海にいたイルカが迷い込み、長い歳月をかけて適応と順応を繰り返し、ついにそこを棲かとしたイルカたちがいる。
 現在、アマゾン河、ガンジス河、インダス河、メコン河、そして楊子江などでその生存が確認されている。そして、そのどのカワイルカにも共通しているのが、彼らの未来の絶望的情況だ。

 その絶望がすでに現実のものとして、もはや秒読みの段階に入っているのが、中国、楊子江に棲息するヨウスコウカワイルカである。

 ヨウスコウカワイルカの最初の学術的な「発見」がアメリカ人によってなされたのは、1916年、洞庭湖でのことだった。
 当時この湖には、ヨウスコウカワイルカがたくさん棲息していたと言われているが、その後、周辺の森林伐採や農地開発による棲息環境の悪化によって、やがて彼らの姿はこの湖から完全に消え失せてしまうのである。

 そしてその後も、各地の河から彼らの姿はどんどんと姿を消してゆき、とうとう彼らの棲息地は楊子江の本流のみに押しやられることになるのだ。
 もっとも楊子江の本流でも、かつては上海の河口から1700キロメートル上流の宣昌付近まで、たくさんのヨウスコウカワイルカが棲息していたらしいが、今ではもうほとんど彼らの姿を見ることはできない。

 減少の原因としては、工業廃水や農業廃水、そして生活廃水の垂れ流しによる水質汚染があげられるが、それによってエサとなる生物が激減したことも大きく関与していると考えられている。
 また、漁の網に絡まったり針に引っ掛かる事故も多く、これ以外にも、航行する船舶数の増加から、船舶への衝突やスクリューによる切断といった事故も後を断たないらしい。

 しかしなんと言っても、彼らの未来にとどめを差すだろうと言われているのが、中国が国家を上げて行なっている大事業、楊子江の三峡に建設中の三峡ダムである。
 この巨大なダムの完成によって、ついに彼らの最後の灯火は吹き消され、古い写真に残されている、あの雄大な楊子江の河面に小さな顔をのぞかせている愛くるしい姿を、我々はもう二度と見ることはなくなるのかもしれない。

 そんな、風前の燈と化しているヨウスコウカワイルカも、実はパンダと並ぶ中国第一級保護動物として、国家を上げての保護活動が開始されていた。

 保護区の制定の他に、湖北省の武漢に中国科学院水生生物研究所のヨウスコウカワイルカ専門の飼育施設が建設され、この希少なる動物の絶滅を食い止めるべく、人工飼育や人工受精に乗り出したのである。
 だが当時、その飼育施設で飼育されていたのは、「チイチイ」と名付けられたオスのヨウスコウカワイルカ、たった一頭だけだった。

 1980年、漁具にからまり、頭に穴が開き体中が傷だらけになった子供のヨウスコウカワイルカが一頭保護された。それがチイチイである。
 実はイルカの皮膚はとても弱く、傷つくと簡単に感染症を引き起こし死亡してしまうのだが、水生生物研究所の水槽へ移されたチイチイは、そこでの献身的な治療によって奇跡的に回復したのである。

 そして、日本政府やJICA、江の島水族館などの支援を受け、武漢にヨウスコウカワイルカ専門の飼育施設が完成すると、いよいよ中国第一級保護動物の保護活動を稼働すべく、収容するヨウスコウカワイルカの本格的な捕獲作戦が開始されたのだった。
 だが、この「揚子江のパンダ救済作戦」と呼ばれた捕獲作戦は、かなり大規模に行なわれたにもかかわらず、成果は一向に上がらなかったのである。

 しかし、そんな暗澹とした最中の1995年、ようやく一頭のメスのヨウスコウカワイルカが捕獲され、「ツェンツェン」と名付けられ収容されたものの、ツェンツェンはわずか半年足らずで死亡してしまう。
 そして、捕獲作戦は以後も根気よく続けられたものの、依然として成果は上がらず、チイチイは広い水槽の中で一頭、確実に歳をとっていったのだった。

 1999年に行なわれた生息数の調査で確認されたのは、なんと 5頭である。ヨウスコウカワイルカは、IUCN、国際自然保護連合のレッド・リストによって、「絶滅寸前種」に指定された。