2008/09/29

開拓

















「イサーン」。タイ東北部は、そう呼ばれている。イサーンは、サンスクリット語の「イーシャーナ」を語源としていて、これはヒンドゥー教の三大神の一柱シヴァを意味している。
 しかし、神々しい名前とは裏腹に、イサーンはタイ全土の中でも最も貧困な地域とされていて、そのイサーンという言葉にはかつて、「貧しく無教養な田舎者」といった侮蔑の意味をも含んでいたらしい。

 そんなイサーンを、ローカルバスの車窓から眺めていると、右も、左も、どこまでも乾ききった潤いのない大地が、遠く地平線の彼方まで続いている。そして、広い大地の中に点在する、実に貧弱な潅木の近くには、同じくらい貧弱な骨張った牛たちが、わずかな草叢から大地の恵みを貪っている。

 しかし、少なくとも17世紀末には、こんな情況ではなかったようだ。当時、この国に滞在していたフランス人宣教師ジェルヴェーズはその頃の有様を、「ここの森林は国土の大半を覆い尽くす極めて広大なもので、そのとてつもない深さによってこの国を横切ることはおそらく不可能だろう」と書き記している。すなわちタイ東北部にもかつては、多くの野性動物の生息する豊かな森林が、確かにあったのだ。

 その森林に異変が起こり始めたのは、19世紀初頭のことだった。ヨーロッパの列強が地球規模で、木材の確保に乗り出したのである。この熱帯の国の森林から伐り出された豊富な木材はかつて、この国の海外貿易における重要な輸出品だったのだ。

 だがもちろんヨーロッパも、かつては南部地域をのぞいた全土のほぼ95パーセントが、鬱蒼とした豊かな森林に覆われていたのだ。
 ところが、人口の増加による生活資材としての木材需要の増大や農地の拡大によって、森林は次第に姿を消し始めるのである。そしてさらに、産業構造のめざましい発展によって、またその結果として生じた生活様式の華々しい向上によって、木材は様々な分野で飛躍的に需要をのばし、ヨーロッパの森林は見る見るうちに伐りつくされてしまうことになるのだ。

 そんな情況の中、イギリスでも木材資源の枯渇は、早くから深刻な問題となっていた。特に大航海時代をむかえ17世紀になると、すでに大型の輸送船や軍艦を造るための木材を国内で確保することが難しくなり、イギリスは、スカンジナビアやロシア、バルト海の沿岸から木材を調達し始める。だが、17世紀後半になると、もうヨーロッパの主要な積み出し港周辺の森林はほとんど伐りつくされてしまうのだ。

 そこでイギリスは、次にアメリカからの木材の調達に乗り出すのだが、これも18世紀末になると、主要な河川周辺の森林はほとんど姿を消してしまう。そして19世紀初頭、アメリカに続き木材の調達を行なっていたカナダにおいても主要な森林がほとんど伐りつくされてしまうと、いよいよイギリスは東南アジアの森林に目を向けることになるのである。
 こうして、やがてタイの森林から伐り出された膨大なチーク材がイギリスを目指し、はるばる海を渡り始めるのだ。

 実はこの「チーク」と呼ばれる、ここインドシナに自生するクマツヅラ科の高木は、極めて大きな強度と優れた耐久性をかねそなえた、まさに船材として最適なものだったのだ。だがトラックはおろか、道路すらなかった当時、この比重の重い大木を山地から伐り出し運搬するには、相当な労力を要したのである。

 その最盛期、タイでは数万頭ものゾウが作業に従事させられていたらしい。伐採されたチーク材はまずゾウに牽かせ、山から下ろし、川まで運ばれた。そして、そこから川に浮かべられ、支流から本流へと、チャオプラヤ河をはるばる河口のバンコクまで流されたのである。
 しかし、こんなふうに言葉にすると、至極簡単な作業のように思えるが、実際は、我々が思い描くよりもはるかに大変な作業だったのだ。なにぶんにも、流されるのは小さな笹舟などではなく、巨大な木材である。

 必然的にその作業の多くは、川が水量を増す雨季に行なわれるものの、いくら雨季とはいえ、途中、何らかの障害によって木材の流れが止まってしまうこともあった。そんな時はまたゾウを使い、流れなくなってしまった巨大な木材を引き戻し、押し流し、こんなことを何度も何度も繰り返しながら、下流へ下流へと流していったのである。
 なんと、山から伐り出された一本のチーク材がバンコクの河口まで辿り着くには、平均して4、5年もの歳月を要したらしい。現代からは想像もつかない、気の遠くなる話である。

 こうして19世紀初頭、ヨーロッパ列強の侵食によって異変が起こり始めたこの国の森林は、確実に、しかも急速に減少し始めるのだ。そしてさらに、この国の米による国際市場への進出が始まり水田需要が爆発的に増大すると、いよいよこの国の森林は壊滅的な事態をむかえることになるのである。
 ある資料によると、タイの森林は1961年の時点で、全土の52.3パーセントにまで減少しており、それからまたわずか30年の間に26.0パーセントにまでも減少してしまっているのだ。

 実は、そんなタイ全土の中でも最も森林の減少の激しいのが、タイ東北部イサーンなのである。1961年の時点で、42.0パーセントにまで減少していたイサーンの森林は、1973年になると30.0パーセントにまで減少し、1982年には15.3パーセントに、そして1993年には、12.7パーセントにまでも減少してしまっているのだ。
 すなわち、イサーンではわずか30年余りの間に、なんと7割もの森林が消滅してしまったのである。

 僕はいつも、タイの田舎をバスで走っていて、すっかりと見渡すかぎりの荒野と化してしまった大地の中に、ポツンと一本だけとり残された孤独な大木を見つけると、必然なのか、それとも偶然なのか、その木が今まで人間に伐り倒されることなく、そこにそうして残ったという奇跡のことを思う。そして改めてまた、人間という生き物のいとなみの壮絶さを思わずにはいられない。
 イサーンには、太古から途切れることなく続いてきた、人間と自然との関わりにおける一つの答えが、現実の風景として広がっているのだ。

 あの日、荒野の中にボツンと取り残されていた大木の傍からバスに乗り込んだ親子は、僕の斜め後の席に座っていた。母親は、子供の肩をやさしく抱きかかえながら居眠りを始め、子供もまた、母親の膝に吸い付くようにして眠っていた。
 その小さな子供が大人になる頃、あの辺りはいったいどうなっているだろう。あの大木は、まだあそこで無数の木の葉を風に揺らしながら、涼しい木陰を落としているだろうか。
 またそんな大木が、かつてのように多くの仲間たちに囲まれ空いっぱいに枝を広げる日が、はたしてこれからやってくるだろうか。もしも未来に、そんな日が本当にやってくるとすれば、それは、我々人間がこの地球上から消え去った後のことなのかもしれないが。

2008/09/11

立前

















 タイの僧は、托鉢で得たものは肉でも魚でも何でも食べる。ところが、破戒にはならない。それは「三種の浄肉」と呼ばれる、それが己れのために殺した肉ではなく、己れのために殺したということを聞いた肉でもなく、また己れのために殺したという疑いのない肉であれば食べてもかまわないという、実に柔軟な理論によるのだ。

 これは、ずいぶんと都合のいい言い訳のように思えるが、頭を丸め「精進」などという表看板を掲げ高潔を装いながら、裏では酒をあおり、肉をくらっているよりは、よほど清潔だと言えるだろう。それに、もともと原初の仏教では肉食は必ずしも禁じられてはいなかったし、そもそも人間は草食動物ではないのだ。こと「自然」という観点から考えてみても、人間が肉食をするという行為は、とても自然な行為なのである。

 したがって、草食動物ではない我々は、我々以外の生き物を大なり小なり食べなくてはいけない。もちろん、菜食主義というものもあるにはあるが、それはあくまでも「主義」であって、人間という生物の「性質」ではないのだ。

 実際、植物から摂られるタンパク質には、動物から摂られるタンパク質に比べ、必須アミノ酸がはるかに少ない。必須アミノ酸が少ないということは、体内で体の組織を作るために必要なタンパク質にすぐに変化できないということであり、その結果として、菜食主義者には常にタンパク質が不足する危険性がつきまとっている。
 また、玉子や乳製品さえ口にしない厳格な菜食主義者は、カルシウムやリン、鉄といったミネラルやいくつかのビタミンが欠乏する恐れがあり、彼らには日々、栄養バランスの維持のための多大な努力が必要となるのだ。

 ようするにタイの僧にとって重要なのは、不必要に生きものを殺さないということであって、食べないことではないのだ。

 ちなみに僕は非常に極端な男で、もちろんそれを奨励しているわけではないが、レジャーとしての釣りよりも、食べるための捕鯨の方がよほどましだと思っている。
 残念ながら、魚を針で引っ掛けて釣り上げ、口の肉を引き千切って針をもぎ取り再び水の中へと返してやる、釣り愛好家たちの愛の形「キャッチ・アンド・リリース」に、僕は愛などこれっぽっちも感じない。

2008/09/02

宇宙


















 インドでは古くから、宇宙の構造や生成に関する論議が盛んに行なわれていた。『リグ・ヴェーダ』の中にも、その熱い研鑽の痕跡が見て取れる。『リグ・ヴェーダ』とは、バラモン教、および後のヒンドゥー教の根本聖典である。

 「ヴェーダ」という名称は、「知る」を意味する言葉を語源としていて、聖句マントラを集めた古聖典の総称なのだ。
 ヴェーダは、『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、そして『リグ・ヴェーダ』の4種を数えで、『リグ・ヴェーダ』はこれら4種のヴェーダの中でも、最重要、かつ最古のものとされ、その起源は遠く紀元前十数世紀にまでさかのぼると言われている。
 そこには、宇宙創成をうたった数々の劇的な哲学的詩編が綴られており、その宇宙観は、やがて同じインドという大地から生まれる、仏教やジャイナ教を始めとする数々の宗教教理の中で、さらなる発展をとげることとなるのだ。

 それらの宇宙観は、それぞれに独自の理論を形成してゆくわけだが、また多くの共通点も内蔵していたのである。その共通する最も特徴的な点が、宇宙の中心に地から天へ貫く聖山を据えていることである。聖山は「メール山」、または美称接頭辞をつけ「スメール山」と呼ばれ、それがまた漢字音写され「須弥山」などとも呼ばれた。
 仏教では、5世紀にインドの仏僧ヴァスバンドゥによって著された『倶舎論』の中で、須弥山を取り囲み広がりゆく大宇宙が壮大なスケールで具現化されている。その仏教の宇宙観によると、まず須弥山の高さは8万由旬とされている。「由旬」とは、古代インドの距離を表す単位である。

 ちなみに古代インドに開花した文明は、インカとともに「0」を用いた最古の文明であることが知られているが、「アラビア数字」と呼ばれている今日ごく一般的に使われている数字もまたインドのグワリオール数字を起源として生まれたもので、実は古代のインド人は、世界有数の極めて高度な数学的知識を持っていたのだ。
 彼らはこういった知識をもとに、身の回りのものから、神話、空想の世界にいたる、ありとあらゆるものを数に置き換え表現しており、古代インドの空間や時間を表す単位の豊かさは、その数字の桁外れな大きさと共に、まさに目を見張るものがある。
 須弥山の高さを表すこの「由旬」という単位は、現代の単位に換算すると、1由旬、およそ7キロメートルになる。ということは、須弥山の高さ8万由旬は約56万キロメートル。ちなみに、地球から月までの距離が38万4,400キロメートルということは、須弥山という山がとてつもない高さであることがわかるだろう。

 須弥山は、金、銀、瑠璃、水晶の四宝でできており、中腹にはおびただしい数の諸天の居所が連なっている。この場合の「天」というのは、いわゆる「神」のことを意味し、それら建ち並ぶ諸々の天の居所の最上部には、四天王が居を構えている。
 四天王とは四方を守護する、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四天のことである。これらの天は、もとはインド古来の神だったのだが、仏教はそういう意味では実に寛容な宗教で、他宗教の神を否定するどころか、このように積極的に採用しているのだ。

 こういった寛容さと言うか、曖昧さと言うか、悪く言えばいいかげんな性質は、何も仏教に限ったことではなくて、アジアの種々の宗教の間では、むしろ「包容と調和」はいたって自然な現象だったのである。たとえば、日本の七福神にしてもしかりだ。
 七福神とは言わずと知れた、恵美須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七神のことである。しかし、恵美須はわが国の神道の商売繁盛と海運守護の神だが、大黒天はインドのヒンドゥー教の破壊神シヴァのことで、毘沙門天はインドの財宝の神、弁財天もインドのヒンドゥー教のもとは水の守護神で、福禄寿と寿老人は中国の道教の長寿の神、そして最後に布袋はなんと中国の仏教の禅僧なのだ。こんなインターナショナルな神々が、仲良く1つの船に乗って正月の茶の間にやってくることなど、キリスト教を始めとする、一神教を信仰する人々にとってはまさに想像を絶することに違いない。
 もちろん、あの宗教の坩堝インドにおいてもしかりで、たとえばヒンドゥー教では、なんとブッダも神ヴィシュヌの化身の1つとされていて、インドでは仏教をヒンドゥー教の一派だと思い込んでいる人々すらいるのだ。この辺が、多神教のなんとも大らかなところである。

 そんな、諸天で賑わう須弥山の形は方形とされていて、山頂は一辺が標高と同じ8万由旬という、これまた桁外れの大きさで広がっているのだ。そこには三十三天の居所「トウ利天」があり、中央には帝釈天、いわゆるバラモン教で言うところのインドラ神の居所「殊勝殿」が絢爛と光り輝いている。
 ちなみに太陽は、月や星たちとともに、この須弥山の中腹を廻っているのだ。しかし廻っているとは言っても、そのまま宙に浮遊しているのではない。太陽も月も、それぞれ天宮の中に納まり、その天宮が須弥山の中腹を廻っているのだ。太陽の天宮には火の車輪があり、月の天宮には水の車輪がある。

 そして、この須弥山の上空に「天界」が広がり、そこにまた数々の諸天の天宮が浮遊しているのである。
 須弥山山頂より8万由旬上空に夜摩天の天宮があり、さらにそこから16万由旬上空に兜率天の天宮が、さらにそこから32万由旬上空に楽変化天の天宮があり、またさらにそこから64万由旬上空に他化自在天の天宮がある。須弥山山頂からこの他化自在天の天宮までの総距離は120万由旬、なんと約840万キロメートルとなる。

 「欲界」。まず、ここまでの世界をそう呼んでいる。ようするに、須弥山や、ここまでの天界に居所する諸天は、神とは言えども、いまだ欲望のとらわれから解放されていないのだ。実際に、須弥山山頂の地図を開いてみると、そこには今で言うところのレストランやブティック、はてはキャバレーまでも並んでいて、そういう意味で仏教の神は、実に人間臭いのである。

 しかし、より上空に居所する諸天ほど欲望のとらわれからの解放がすすんでおり、須弥山山頂までの諸天が人間と同様、性器の挿入なくしては欲望を解消できないのとは異なり、その上空の夜摩天は軽く抱くだけで、その上空の兜率天は手を握るだけで、その上空の楽変化天は微笑しあうだけで、そして一番上空の他化自在天はただ見つめあうだけで、欲望を解消できるとされている。

 また、この欲界の上空にはさらに「色界」「無色界」と呼ばれる天界が広がり、それらを欲界と合わせ「三界」と呼んでいる。
 色界は欲界の上空、須弥山山頂より248万由旬、約173六万キロメートル上空から始まり、1,677億7208万由旬、約1兆1744億456万キロメートル上空まで広がっている。ちなみに「有頂天」という言葉は、この色界の最高所のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうるてっぺん、天上の極みということなのだ。

 色界は、欲界とは異なり、欲望のとらわれより解放されてはいるが、いまだに形を有するものの天界である。実は我々人間も、正しい修行をつみ、欲望のとらわれより解放されると、ここへ昇ることができるとされているのだ。
 この、人間がその各々の行い次第で、神よりも高いステージに昇格されるという仏教の宇宙観は、神の存在を絶対とするキリスト教やイスラムの信徒にとっては、これまた想像を絶することに違いない。

 そして無色界は、欲望もなく、形もなく、もはやただ純粋なる精神のみが存在する天界である。その場所も、欲界や色界との上下関係で表すことはできず、まさに無色界は空間の概念をも超越した存在なのだ。

 また須弥山は、「山」という言葉がついている通り確かに山であり、山は頂があれば、当然、麓もある。しかし須弥山の麓は、満々と湛えられた水の底に没しているのだ。その水深は、須弥山の高さと同じ8万由旬、ようするに地球から月までの距離よりも深い。
 この水は、円筒型をした「金輪」の上に湛えられており、金輪の厚みは32万由旬、約224万キロメートル、直径は120万3,450由旬、約842万4,150キロメートルある。金輪の縁は、「鉄囲山」という山脈によってぐるりと取り囲まれており、これによって水が外にこぼれ落ちないようになっているのだ。須弥山はちょうどその中心に、水面から天空に向かって突き出ているのである。

 そして金輪はまた、同じく円筒型をした「水輪」の上にのっている。水輪の直径は金輪と同じで、厚みは80万由旬、約560万キロメートルある。ちなみに「金輪際」という言葉は、この金輪と水輪との境目のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうる行き止まり、限界ということなのだ。

 さらに水輪は、同じく円筒型をした「風輪」の上にのっていて、風輪の厚みは160万由旬、約1120万キロメートル、その円周はまた桁外れに大きなもので、10の59乗由旬、すなわち約700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000キロメートルもあるのだ。まさに、人間の感覚で想像しうる距離の限界を、遥かに超えた巨大さである。

 もちろん、須弥山上空に天界が存在すれば、また地獄も存在している。
 地獄は「ナラカ」と呼ばれていて、地下深くに暗々と広がっているのだ。ちなみに奈落の底の「奈落」という言葉は、このナラカが漢字音写されたものである。
 『リグ・ヴェーダ』では、地下深くに暗い部分があり、悪業をなした人間は神によってそこへ堕とされる、といった程度の地獄観でしかなかったが、長い歳月と幾多の熟考の末、地獄は、成した悪業を報いるべく、より過激に、より苛酷に発展していったのだ。

 まず地下500由旬、約3,500キロメートルは泥の層になっている。その下は、また同じく500由旬の白ゼンと呼ばれる白色の土の層になっており、さらにその下1,000由旬、約7,000キロメートルは、上より白土、赤土、黄土、青土の4層になっている。
 地獄はいよいよここから始まるのだが、地獄の形はそれぞれ立方体をしていて、まず最初に一辺の長さが5,000由旬、約35,000キロメートルの熱地獄が8つ連なっている。上から「等活地獄」「黒縄地獄」「衆合地獄」「号叫地獄」「大叫地獄」「炎熱地獄」「大熱地獄」である。
 そして最深部、地表から2万由旬、約14万キロメートル下に、熱地獄の中で最大の「無間地獄」があるのだ。無間地獄の一辺は2万由旬、約14万キロメートルで、ここに堕とされるのは、「五逆罪」と呼ばれる罪を犯した者である。五逆罪とは最も重大な罪のことで、ブッダの体から血を流させた者、聖者を殺した者、教団の和合を破る者、父を殺した者、母を殺した者である。彼らの身はここで、絶え間なく繰り返される、ありとあらゆる苦痛によって苛まれ続けるのだ。

 しかし地獄に堕ちる者は、これら八熱地獄だけでは許されない。立方体をしたそれぞれの地獄の各壁面には門があり、その奥にまたご丁寧に「トウイ副地獄」「屍糞副地獄」「鋒刃副地獄」「烈河副地獄」という副地獄が付随しているのだ。
 これら地獄の責め苦を考え出した古代インド人の想像力の豊かさはまさに圧巻の一言だが、実は地獄はまだこれでは終わらない。八熱地獄があれば、ちゃんと八寒地獄も用意されているのだ。「ア部陀地獄」「尼刺部陀地獄」「アタ陀地獄」「カカ婆地獄」「虎虎婆地獄」「ハ鉢羅地獄」「鉢特摩地獄」「摩訶鉢特摩地獄」である。
 もちろん、こういったおびただしい数の地獄は、どれも人間が悪をなさないための戒めとして生み出されたもので、地獄の観念は世界中のほぼあらゆる民族の精神文化の中に大なり小なり存在しているのだ。まったく人間というのは、やっかいな生き物である。

 そして、これらの数々の地獄や天界、須弥山、金輪に水輪、風輪がもろとも、虚空の中に浮かんでいるのだ。「虚空」とは、無辺、無量、無為で、一切の変化をもたないものである。しかしこの虚空に浮かぶ宇宙は、全宇宙のほんの一部でしかなく、これを「一世界」と呼んでいる。
 全宇宙には、この一世界がまた気の遠くなるほど存在しており、一世界が千個集まった宇宙を「小千世界」と呼び、その小千世界がまた千個集まった宇宙を「中千世界」、さらに中千世界がまた千個集まった宇宙を「三千大世界」と呼び、古代インドに発芽した仏教の大宇宙は、どこまでも果てしなく広がっているのだ。

 では、いったい我々人間はその宇宙のどこに住んでいるのか。我々が住んでいるのは「贍部州」という島なのだ。
 須弥山のまわりの満々と水を湛える大洋の中には、「七金山」と呼ばれる環状の7つの山脈が、ちょうど水の波紋のように須弥山を取り囲んでいて、その七金山の外側に4つの島がある。東に「勝身州」、西に「牛貨州」、北に「倶盧州」、そして南に「贍部州」である。これらの島は形と色がそれぞれ異なっており、勝身州は半月形で黒、牛貨州は円形で赤、倶盧州は正方形で黄、贍部州は台形で青となっている。

 この我々の住んでいる贍部州の青という色が、「地球は青かった」とガガーリンに言わしめたあの青と何らかの関係があるのかどうかは分からない。なにぶんにもこれは、古代インド人の考えた話である。だが、もしかして彼らは、我々の地球が青いという事実を知っていたのかもしれない、そんな空想が違和感なく思い描けてしまうことが、この古代インド人の宇宙観の中にはまだあるのだ。

 実は、我々の住んでいるとされているこの贍部州の形は、確かに台形と記されてはいるが、実際はほとんど逆三角形に近い形をしているのである。ではなぜ我々の住む贍部州は逆三角形なのか。それは、この宇宙観がインド人によるものであることを考えれば、おのずと見えてくる。
 そう。贍部州はインド亜大陸の形になっているのだ。おまけに贍部州の南海上には、東西一対の小島も表されている。東の島は「遮末羅」、西の島は「筏羅遮末羅」と呼ばれ、西の島はもちろん現在のスリランカを指し、東の島はモルディブ諸島あたりを指すと言われている。飛行機も、ロケットもなかった古代のインド人が、自分たちの住んでいる大陸の形をここまで知り得たという事実は、まさに驚異としか言いようがない。

 ところが贍部州は、その形以外にも、インド亜大陸に類似した多くの要素を備えているのだ。まず贍部州の北には、「雪山」と呼ばれる雪を頂いた峨々たる山脈が東西に連なっている。これはもちろんヒマラヤ山脈である。雪山の北にはまた、「香酔山」と呼ばれる高峰が聳えていて、これはチベット高原にあるカイラーサ山を指している。香酔山には、芳しい香を発する樹木が生い茂り、その香を食べて生きている歌舞音曲を司る神たち、乾闥婆や緊那羅が住んでいるのだ。

 香酔山の麓には、8種の特性を具えた清水を湛える「無熱悩池」と呼ばれる巨大な湖があり、これはカイラーサ山の傍にあるマナサロワル湖を指している。8種の特性とは、甘い、冷たい、軟らかい、軽い、清い、臭いがない、喉を損なわない、腹を痛めない、の8種だ。
 またこの無熱悩池からは、4つの動物の口から大河が四方へ流れ出している。東の銀の牛の口からはガンジス河が、南の金の象の口からはインダス河、西の瑠璃の馬の口からはオクサス河、そして北の水晶の獅子の口からはシーター河が流れ出しているのだ。

 それにしても、微に入り細に入り、なんとも奇妙奇天烈なことを考えたものである。だが、このアジアの宇宙観における、想像を絶する巨大さや極端な神格化は、またそのまま人々の、己れを取り巻き、己れを生かし続ける何ものかへの、畏怖や畏敬の念に他ならなかったのだ。そして宇宙は当然、我々人間が足を踏み入れることを許されない、まさに侵されざる存在だったのである。

 ちなみに「世界」と「宇宙」は、ほぼ同じ言葉らしい。ともに「世」と「宙」が時間を表し、「界」と「宇」が空間を表している。ただひとつ違うことは、世界が人間の存在を大前提にしているのに対して、宇宙は必ずしも人間の存在を大前提にしていないということだ。


2008/09/01

食欲

















 我々人間の、こと「食べる」という欲望はそら恐ろしいものである。事実、我々人間はその長い歴史の中で、数多くの動物を、まさに絶滅に追いやるまで食いつくしてきたのだ。
 たとえば、ペンギンもそうである。

 実は、現在あの南半球に生息している飛べない海鳥が「ペンギン」と呼ばれるようになったのは、北半球に生息していた「ペンギン」という海鳥にすこぶる似ていたことによって、「南のペンギン」と呼ばれたことがそもそもの始まりだったのだ。
 ペンギンとは古代ケルト語で「白い頭」を意味していて、その北半球に生息していた白い頭の海鳥こそが、1844年に絶滅した「オオウミガラス」である。

 オオウミガラスは、かつて北方ヨーロッパ辺りに広く、おびただしい数で生息していた。しかし、不幸にもこの北半球のペンギンの肉は、南半球のペンギンの肉とは逆に、とても美味だったのである。そして、さらに肉以上に我々人間の舌を魅了したのが、彼らが1シーズンにたった1個しか産み落とさない貴重な卵だったのだ。

 人間たちによる乱獲が始まると、おびただしい数で生息していたオオウミガラスは、次第に人間の住む沿岸地域から姿を消し始め、それに追い打ちをかけるようにして、やがて航海術が発達し人々が容易に海を渡るようになると、彼らの生息数はみるみる内に激減し生息地もどんどんと遠くへと追いやられていくことになる。

 これにはまた、彼らが南半球のペンギンと同じく、陸上では極めておぼつかない足取りだったことが災いしたのだ。ようするに、彼らを捕獲するには、棍棒が1本あれば要は足りたのである。彼らは1度に何百羽、何千羽という単位で撲殺されたのだ。

 そして1830年、彼らにとっての致命的な出来事が起こるのである。当時、彼らの最後の棲息地として知られていたアイスランドの小島の近海で海底火山の噴火が起こったのだ。この噴火によって、彼らの繁殖の場である海岸線の岩場が無残にも崩れ落ち、冷たい波間に沈んでしまったのである。

 この出来事によってオオウミガラスの生存は絶望的になり、そのニュースが広く知れ渡ると、1つの面白い現象が起きたのだ。世界中の博物館やコレクターが我先にと、絶滅近きこの鳥の確保に乗り出したのである。
 棲息地が水没する直前に、近くのエルディという小島に50羽ほどのオオウミガラスが逃げ延びていたことが分かると、彼らと、彼らの卵に莫大な報奨金がかけられ、駆り集められることになった。もちろんこれは、あくまでも陳列棚を飾る剥製にするためであり、したがって、わざわざ生きたまま捕獲する必要などまったくなかったのである。

 そして1844年6月4日、エルディ島に1艚の小舟が繋留された。島へ上がった漁師は、間もなくして卵を温めていた2羽のオオウミガラスを見付ける。2羽はただちに、博物学の発展と、漁師の営利のために絞め殺された。これが、この北半球のペンギンの、最後の2羽だったのである。

 こうして、とうとうオオウミガラスは、博物館の陳列棚に剥製と、南半球に「ペンギン」という愛くるしい名前だけを残し、この地球上から消え去ってしまったのだ。

 また、かつてアメリカ大陸には、その数十億羽というとてつもない数で生息していた、「リョコウバト」という美しいハトがいた。しかし彼らも、アメリカンドリームを夢見て新大陸に押し寄せた、これまたとてつもない数の人間の胃袋の中に、みるみる内に消えてしまったのである。それはまさに、「まさか」の絶滅だったのだ。

 集団で営巣する彼らは、何百万羽、何千万羽という桁外れな単位で行動し、リョコウバトが上空を渡ると、辺りはたちまちにして暗闇に包まれたという。1810年頃、イギリスの鳥類学者ウイルソンが残した記録によると、1つの群れにはなんと22億3000羽ものハトがいたらしい。 そして、そんな彼らの発達した胸肉はまた、きわめて美味だったのである。

 人々は、彼らが上空を渡り始めると、狙いも定めずただ銃口を上にして銃を打っ放した。それだけで、大空から何十羽という美味なる胸肉が、バサバサと地上に落ちてきたのである。
 この肉は、街へ持って行くととても良い値で売りさばけ、やがてアメリカ大陸の東西を貫く鉄道が開通すると、何百樽という、大きな樽に塩漬けにされた莫大な量のリョコウバトの肉が、その新しい流通手段を利用し街へと頻繁に運ばれることになったのだ。
 折しもアメリカは、ヨーロッパからの入植者が増加の一途をたどり人口が爆発的に増え、それにともなう食糧の確保が問題化していたのである。

 実はリヨコウバトという鳥は意外にも、繁殖力の非常に弱い鳥で、そんな彼らがアメリカの地でこれだけの数で繁栄できたのは、ただ天敵がいなかったという、そのたった1つの幸運によったのだ。
 実際、先住民のインディアンも、ヒナを育てている最中の親鳥は決して殺さなかったし、自分たちが食べる以上の、不必要な数を殺すなどということもなかったのである。

 もちろん、リヨコウバトの生存を脅かした原因は、こういった入植者たちの狩猟行為だけではない。新大陸アメリカの開拓も、その大きな原因の1つである。ようするに入植者たちは、広大な森林や原野を次から次へと伐採し大農園へと作り変えていっったわけだが、これによって鳥たちの大切な繁殖地が奪われてしまったのだ。

 ある時には群れが上空を通過するのに、3日もの時間を要したという、その数、無限と思われていたこのリョコウバトが、まさか絶滅するなど、誰ひとりとして予想だにしていなかった。
 1914年9月1日午後1時、オハイオ州の動物園で、アメリカ初代大統領ワシントンの夫人にちなみ「マーサ」という愛称で呼ばれていた1羽の老いた鳥が、突然止まり木から落ち、そのまま静かに冷たい檻の中で息絶えた。これが、かつて数十億羽というとてつもない数で生息していたリョコウバトという美しいハトが、この地球上から絶滅した瞬間だったのだ。

 これは人間が生物を食いつくした歴史の、ほんの1コマに過ぎない。もちろん、たとえ肉が不味くて食べられなくとも、美しい毛皮を、美しい羽根を持っているだけでも、我々人間の欲望を満たすために、多くの種の生物が絶滅していったのである。

 ちなみにタイ語でスズメのことを「ノック・クラチョーク」と言う。ノックは「鳥」を、クラチョークは「見窄らしい」といったことを意味している。よりによって、ずいぶんと酷い名前を付けられたものだ。
 しかし、もしこのスズメたちに柔らかく美味しい豊かな胸肉があり、美しく輝くコバルト色の羽がついていたとしたら、彼らも遠の昔に絶滅していたかもしれないと思うと、その「見窄らしい鳥」という名前もまんざら悪くはないだろう。