2009/03/02

無知

















 ブッダは、まずこの世を「苦」ととらえた。生まれることも、生きることも、病むことも、老いることも、死ぬことも。また、欲するものが得られないことも、憎むものと別れられないことも、そして、愛するものと別れることも。人間の存在の背後にはすべて「苦」が付きまとう。

 しからば、これらの「苦」の原因はいったい何なのか。それをブッダは「無知」としたのだ。万物は絶えず移ろい、一時もとどまることがない。何もかもが生成と消滅の流れの中にあり、当然、我々人間も例外ではない。にも関わらず人々は、永遠なることを欲し、留めおくことを求め、そして、失われゆくことを嘆き悲しむ。この無知なる執着が「苦」を生み出しているというのだ。

 そこでブッダは、現実のあるがままを知ることの重要性を説いた。そして、それによって得られる「無知」から「知」への転換によって、執着から解き放たれ、煩悩の炎が消え失せ、苦を克服することができるとしたのである。涅槃「ニルヴァーナ」とは、「吹き消す」というサンスクリット語を語源としている。

 こうしてその「知」の実践として、ブッダはひたすら日々の「正しい行い」を説き続けたのである。

 しかしそのブッダの説く生活は、多くの戒律に縛られ、自由の喪失した、束縛の日々のように思われる。だがそれは、少なくとも西洋的「自由」においてである。
 古代インドにおいて「自由」とは、外部の何ものかから解放されることではなく、心の内部のとらわれから解放されることを言ったのだ。その境地を仏教では「ニルヴァーナ」、すなわち「涅槃」と言う。

 欲心を捨て、執着を離れ、定められた規律正しい清浄なる日々を、黙々と送り続ける。そういう意味で、むしろそれは「自由」である。