2008/07/30

恩恵


















アメリカネムノキ。タイの田舎を旅していると、その大木によくお目にかかるが、このマメ科の植物はその呼び名の通り、実は西インド諸島から中央アメリカにかけての原産なのである。

 こういった外来の植物は、往々にして、在来の植物が守り続けてきた自然界の均衡を撹乱し、果てはそのすべてを破壊しまう悪役として受け取られる場合が多いが、このアメリカネムノキは、ここに在来していたある生物との出会いによって、ここに暮らす人々に多大な恵みをもたらすことになったのだ。
 その生物とは、指先でいとも簡単にひねりつぶせる小さな虫。カイガラムシである。

 カイガラムシというのは、樹木の枝や葉に付着し樹液を吸う、いわゆる寄生虫で、農業従事者にとってこの虫は、農作物を枯死させる害虫以外の何者でもない。
 しかし、このアメリカネムノキとともに人々に多大な恵みをもたらすカイガラムシは、農作物に喰らいつく素性の悪いカイガラムシではなく、「ラックカイガラムシ」と呼ばれる特殊なカイガラムシなのだ。

 カイガラムシという虫は、孵化すると1ミリにもみたない小さな体で樹木の枝や葉の上を自由にはい回り、お気に入りの場所を見つけると、そこに付着し樹液を吸い始める。するとこの虫は、なんと脚がなくなり動けなくなってしまうのだ。そして、そのまませっせと樹液を吸い続けながら分泌物を出し、やがて自分の体を覆う貝殻状の殻を作る。これが、彼らが「貝殻虫」と呼ばれる所以なのだ。

 ラックカイガラムシもまた例外なく、他のカイガラムシと同様にして殻を作るのだが、古来人々はそれを特別に「ラック」と称し、この分泌物の塊から多大な恵みをもたらされていたのである。

 では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような働きをするのか。実は、このラックという名前を語源とした、我々にもよく知られた加工品がある。「ラッカー」である。
 ラックはアルコールに溶けやすく、粘着性と耐油性が強いという特性から、古来、ニスの原料として使われており、ラッカーを始め、ペンキやマニキュア、エナメルなどの塗料やワックスなどにも加工されているのだ。あの、ヴァイオリンの名器として名高いストラディバリウスにも、このラックが使われているとのことである。

 これ以外にもラックは、食品の光沢材や、ガムやチョコレートのコーティング、また、ラックが酸に強いという特性から、胃で溶けずに腸で溶けるための医薬品の錠剤のコーティングなどにも使われていて、我々の生活は知らず知らずの内に、この熱帯の大木と、それに寄生する小さな虫の恩恵を受けているのだ。

 実は、このラックと日本との関わりは遥かに古く、正倉院の北倉にかつての渡来品が伝わっている。それは「紫鉱」と呼ばれ、当時は外用薬とされていたらしい。しかし、ラックと日本との関わりはこれだけではない。

 ラックは、もともと古代インドで染料として使われていたもので、やはり日本へも、古くから染料として渡来していたのだ。では、この小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような色を生み出すのか。実は、その色は我々にもよく知られた日本の伝統色の一つとなっているのだ。「臙脂」である。

 ラックから精製した色素を綿に染み込ませ、薄い円盤状にしたものを「生臙脂」、または「臙脂綿」と呼び、日本へは古来このような形で輸入されていたらしく、江戸時代になり友禅染が隆盛すると一気に需要が増大し、長崎の出島から大量に輸入されるようになるのだ。

2008/07/29

影響

















 一番好きなタイ料理は何かと聞かれたら、僕は迷わず「ヤム・ウンセン」と答える。ヤム・ウンセンの「ヤム」は合える、「ウンセン」は春雨という意味で、これは一般に春雨サラダと呼ばれているものである。

 この「ヤム」と呼ばれるタイのサラダは、主に「マナオ」と「ナンプラー」と「プリック」で味がついている。

 マナオは青く小さな柑橘類で、ちょうど日本のスダチのようなものだ。酸味はタイ料理にはかかせない重要な味覚の一つで、インドシナ諸国全般の特徴として、酸味には酢よりも、柑橘類やハーブ類を使うことが多い。酸味を出す食材は、豆科植物「マッカム」(タマリンド)の実、柑橘植物「マックルー」(こぶ蜜柑)の皮と葉、イネ科植物「タックライ」(レモングラス)を始め、実にたくさんある。

 ナンプラーは、魚を塩漬けにして発酵させ、そこに出た上澄み液から作った醤油である。グルタミン酸を多量に含み、料理に独特の旨味をつけるのだ。これは、もともと保存食として魚を塩漬けにする過程から考え出されたと言われていて、ヴェトナムの「ニュクマム」、カンボジアの「タクトレイ」、ラオスの「ナンパー」、ビルマの「ガンピャイェー」と、東南アジアにはなくてはならない調味料なのである。ちなみに、このような魚から作ったソースを使っているのは、世界的に見ても、東南アジア以外には日本と中国、そして古代ローマくらいらしい。

 プリックは、いわゆるトウガラシのことで、「プリッキーヌー」「プリックチーファー」「プリックルアン」を始め、その種類は極めて豊富である。タイ料理は辛いという通説が世間に浸透していて、その辛さの主たるものがトウガラシだということも、今ではもう誰でも知っている。このトウガラシという食材なくして、タイ料理を語ることはできない。しかし、トウガラシは南米原産の植物で、実は近代になってから持ち込まれたものだったのだ。

 16世紀、当時の王都アユタヤのオランダ商館に勤務していたイレミアス・ファン・フリートは、当時のこの国の食事について次のように記している。

〈かれらの食事はなみはずれたものではなく、質素である。通常は米と乾魚、塩魚、生魚および野菜である。ソース、つまり調味料にはブラチャン、魚、および胡椒で味をつけた水を用いる。ブラチャンはえび、蟹、胎貝および魚から作られ、それに胡椒と塩がまぜられる。それはわれわれにとって悪臭を放つだけのものに過ぎないが、かれらにとっては美味なものなのである。かれらは宴会もおいしい食事も知らない〉

 ここに、トウガラシのことはまだ何も記されていない。彼がここに記しているソースは、おそらくナンプラーだろう。「ブラチャン」は、エビなどをナンプラーのように塩漬けにし発酵させて作るペースト状の調味料「カピ」なのかもしれない。カピはタイ語だが、マレー語では「ベラチャン」と言う。
 それにしてもこのオランダ人が、タイの人々のことを「かれらは宴会もおいしい食事も知らない」などと記しているところが、何とも面白い。まったく大きなお世話である。

 だがこれを見ると、やはりトウガラシのなかった頃のタイ料理は、現在の我々の思い描くところの、多様で多彩なあのタイ料理とは比べものにならないほど、単調なものだったのかもしれない。

 参考までに一つ補足しておくと、飯屋や屋台に並ぶ日本でもお馴染みの野菜や果物もまた、その多くが外から持ち込まれたものである。
 インド原産のナス、キュウリ、コショウ。西アジア原産のニンニク、ニラ、ネギ、玉ネギ、ニンジン。イラン原産のホウレンソウ。ヨーロッパ原産のキャベツ、カリフラワー、ブロッコリー、アスパラガス。地中海原産のコリアンダー。アフリカ原産のスイカ、タマリンド。中南米原産のトウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、インゲン、パパイヤ。南米原産のピーマン、ジャガイモ、トマト、パイナップル、等々。

 もちろんこれらは、それぞれの故国から風に吹かれ、波に揺られ、はるばるここまで辿り着いたのではない。人が動き、食が動いたのだ。それが、どういった使命感によるものであったのかは別として、かつてこの地球の上を、命もいとわず歩き続けた人間が、確かにいたということである。とにかく、まさにトウガラシは、タイに持ち込まれた外来文化としては、第一級にあたいする影響力だと言えるだろう。

2008/07/22

発見

















「キリスト教と香料」
この合言葉を旗印にして、輝かしき大航海時代の幕が切って落とされたことは、よく知られているところである。香料は彼らヨーロッパ人にとって、未知なる大海の彼方からもたらされる神秘的で魅惑的な産物であり、彼らはそれを一手に握り、多大な利益を上げることを目論んだのだ。
 その先陣を切り、空白の大海へと船出したのが、スペインのクリストファー・コロンブスと、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマだったことは、今さら云々するまでもなく広く世に知られているところである。

 だが、1492年。大西洋を西へ向かったスペインのコロンブスが到達したのは、結局、目標であったインディアでもジパングでもなくキューバだったわけだが、スペインはさっそく手回しよく、その翌年の1493年、この彼らの言うところの「発見」した未知なる陸地と、これから再び大西洋を西へ向かい「発見」するだろうインディアまでの世界が、スペインのものであるという権利の要請をするのだ。

 実を言うと面白いことに、なにをかくそうこの地球は、神が彼らキリスト教徒たちへ与えたものだったのである。したがって、そんなとんでもない権利をいったいどこの誰に要請したのかというと、それはもちろん、この地球が神が彼らキリスト教徒たちへ与えたものである以上、ローマ教皇へである。

 これによってスペインは、時の教皇アレクサンデル6世から、大西洋のヴェルデ岬諸島の西方約560キロの経緯から西側をすべてスペインのものとし、また、スペインによってその西方の住民にたいするキリスト教の布教が円滑に進展することを願い、インディアをスペインへ贈与する、という教書を取り付けたのだ。

 だが、こんな話が宿敵ポルトガルの耳に入ると、当然、彼らも黙っている訳がない。異議を唱えるポルトガルとスペインとの間でしばらくすったもんだがあり、結局、再び登場したローマ教皇の仲介によって、両国は一応の和解に漕ぎ着けるのだった。
 その際に結ばれたのが、かの有名な「トルデシリャス条約」である。1494年のことだった。

 この条約によって、なんとこの地球を両国で仲良く半分こすることになり、大西洋のヴェルデ岬諸島の西方約2000キロの経緯を分界線にして、西側がスペインのもの、東側がポルトガルのものとなったのである。この結果、南アメリカで唯一、分界線から東側に突き出していたブラジルだけがポルトガル領となってしまったという話は、よく知られているところである。

 こういったスペインとポルトガルの、「この線から向こう側は君のもので、こっち側は僕のもの」という地球の分割は、彼らとて、そこにいったいどんな海と陸地があり、またどんな人々がどんな文化をもって暮らしているのかといったことなども、まったく知らない上で、何の疑いもなく自分たちで「決めた」のだ。

 もちろん、我々の先祖を始めとする、すでにその地で暮らしていた人々にとっては、そんな見たことも聞いたこともないユーラシア大陸の突端に住む人々が、自分たちの暮らしている土地を勝手に「向こう側は君のもので、こっち側は僕のもの」と「決めた」ことなど、まさに知る由もないことで、おまけに、この地球は実は神が彼らキリスト教徒たちに与えたものなのだなどという話も、まったくもって縁も所縁もない話だったわけである。
 しかしスペインとポルトガルの両国は、ローマ教皇からのお許しも取り付け、これで心置きなくアジアの香料を求め、「発見」に情熱を注ぎ込むことになるのだ。

 ところがである。しばらくすると、この地球をなにゆえにスペインとポルトガルだけが占有するのかと、異議を申し立てるものたちが現われてくるのだ。その異議を申し立ててきたのは、残念ながら博愛主義団体ではなく、同じキリスト教徒の国、すなわちイギリスやフランス、オランダを始めとする他のヨーロッパ諸国である。

 こうして、とうとう神がキリスト教徒たちに与えたこの地球という宝の山を、キリスト教徒の国々が群がり、奪い合いを始めたのだ。
 そして、そんな彼らのアジアの交易圏への進出は、やがて交易の独占を経て領土支配へと加熱してゆき、いよいよアジアは、ヨーロッパ諸国による横行と掠奪の渦巻く、長い長い暗黒の時代の幕開けを迎えるのである。

2008/07/21

輪廻


















 輪廻「サンサーラ」という言葉は、「流れる」「廻る」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、まずこの思想の基本は、霊魂の存在というものを絶対肯定する所にある。霊魂は人間の存在の本質であり、永遠不変なのだ。したがって霊魂は、死によっても滅することなく存在し続けるのである。

 そんな輪廻の原形とされる、霊魂がこの世に再生するプロセスが、『ヴェーダ』の奥義書『ウパニシャッド』の中に説かれていた。「五火説」である。

 それによると、まず人が死に火葬されると、霊魂は肉体を離れ煙と共に立ち昇り、まず月へと至る。月へ至った霊魂は、やがて雨となって地上へ降り落ち、雨は大地にしみ込む。大地にしみ込んだ雨は、つぎに植物によって根から吸い上げられ、葉が繁り、花が咲き実を結ぶ。その実を男が食べると、霊魂は精子となり、それが男女の交合によって母胎へと至ると、やがてまた新たな生命としてこの世に再生するというのである。

 そして、この輪廻にもう1つの思想「業」が加わると、いよいよ人々の現世での生き方そのものに多大な影響を及ぼすことになるのだ。

 業「カルマン」という言葉は、「成す」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、業は精神的作用も含め、人の行いのすべてを包括しており、さらに、それによってもたらされるであろう潜在的なことまでも引き込んでいるのである。

 この生前の行い、すなわち業は、霊魂によって担われ、死すと霊魂は業の善悪によって、しかるべき来世へと生まれかわると考えられるようになっていったのだ。
 その、業の善悪によって振り分けられる来世こそが、後に仏教で「六道」へと発展する、天上、地獄、人間、動物等の各界である。ようするに霊魂は、生前の行いが生む業という絶対的力によって常に来世を決められ、永遠に死と再生を繰り返していくのだ。これが輪廻だ。

 したがって、我々が何気なく食べているウシやブタやニワトリも、ひょっとすると死して別れた家族や恋人たちの生まれ変わりなのかもしれない。そしてまたそれは、もしかすると己れ自身の来世の姿なのかもしれないのだ。

浪漫

















 なぜエベレストを目指すのか、という質問に対して「そこに山があるから」と答えたのは、イギリスの登山家ジョージ・ハーバート・リー・マロリーである。

 「登山」という行いは古来、数ある我々人間の行いの中でも特別に、一種の聖域に属する最も気高いロマンティシズムとして存在している。それは、山自体の偉大さや、その山の偉大さと比べると取るに足らないほど小さな我々人間が、命もいとわずその頂点へと挑もうとする、まさにそんな人間の限界に立ち向かう姿が、人々に身震いするような感動を与えるからだろう。

 だが僕は毎年決まって目にすることになる、山で遭難し救助された人々がメディアの前で頭を下げ、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするのを見る度に、実に腹立たしい気持ちになる。登山ほど無責任な行いもないものだ……。

 山へ登るのが自由であれば、遭難するのも自由だ。しかし、それを救助する救助隊はたまったものではない。救助要請があれば、悪天候であろうが直ちに、まさに決死の覚悟で救助へ向かう。そして、その救助へ向かった救助隊が命を落とすという事故も後をたたないのだ。

 そんな無責任な行いを「ロマン」などという言葉で簡単に許していいのか?登山家の「ロマン」は、救助隊の「人命」よりも重いのか?

 何年か前、劣化ウラン弾の絵本を作るとか、ストリートチルドレンを助けるとか、いい報道写真を撮りたいなどという大義名分を胸に、タクシーに乗り込み戦火のイラクへ向かい拉致された3人の若者を、日本国民は声を揃えて「無責任」と非難した。僕には彼らの行いと、極めてごく個人的な達成感のために険しい山の頂を目指し、遭難し、救助に向かった救助隊を死の危険にさらす登山家と、どこが違うのか分からない。

 だがおそらく今年も、多くの人々が山の頂へ挑み、その何人かは遭難をし、救助され、「ご迷惑をおかけしました」と謝罪会見をするだろう。そして彼らは、しばらくするとまた山へ向かい、人々はそれを「ロマン」だと目をうるわせ拍手喝采するのだ。

御手

















 古代ギリシアでは、「自然」を意味する言葉として「ピュシス」が存在していた。

 ピュシスは、「生まれる」という動詞「ピュオマイ」に由来すると考えられていて、古代ギリシアの自然とは、生成、成長、衰退、消滅という意味合いを帯びた、生ける調和的統一体だったのである。もちろん人間も、この自然の中に内在する一部分にすぎず、神もまたそれを越えるものではなかった。

 そして古代ローマでは、ギリシア語ピュシスに対して「ナートゥーラ」というラテン語があてられる。
 ナートゥーラは、ギリシア語と同様「生まれる」という動詞「ナスコ」に由来し、ここでも自然は、人間や万物、そして神も、何もかもが対立することのない調和的統一体としてとらえられたのである。

 ところが、やがてこれが中世キリスト教世界に入ると、この調和的統一体としての自然観は一気に崩れ去ってしまうことになる。

 創造主としての神と、被創造物としての万物とが明確に分離し、「神—人間—自然」という階層関係が確立されるのである。神は、創造主としてより超越的存在となり、人間は、神の特別な創造物として自然より分離され、そして自然は、神から人間に贈与されたものとして人間みずからが支配すべく存在と化したのである。

 こうしてとうとう我々人間は自然界から抜け出し、自然を物質、資源とみなすヨーロッパ世界の「自然支配」の構図が誕生し、産業革命へと向かう思想的基盤が準備されたのだ。

 参考までにイスラム世界では、ギリシア語ピュシスに対して「タビーア」というアラビア語があてられた。
 タビーアは、「刻印する」「封印する」という動詞「タバア」に由来し、神が印をつけるという行為を、万物の存在の成り立ちとするという意味合いを帯びていた。すなわちイスラム世界でも自然は、創造主としての神の御手によって生成されると信じられていたのである。

 20世紀とは何かという問いに対して、「発明」や「経済」、そして「戦争」といった様々な言葉を用い表現されているが、20世紀はまた、そのヨーロッパ文明の傑出した英知によって、遂に人間が「神」となった世紀でもある。すでにこの星の何もかもが、人間の御手に委ねられた。はたして我々人間は神として、新たな自然界の秩序を生み出すことができるだろうか。その答えは、案外、早く出されることになるだろう。

誤差

















 「マイペンライ」という言葉がタイ語にある。マイペンライとは、日本語にすると「どういたしまして」といった意味で、これは相手への思いやりに満ちたとてもいい言葉である。ところがこれがまた、タイ人の気質を表す悪名高い言葉でもあるのだ。

 マイペンライはこの「どういたしまして」以外にも、「大丈夫」とか、「気にしない」といった意味があって、それが時として我々日本人からはちょっと理解できない使われ方をするのである。たとえば、上司に間違いを指摘された部下が返す言葉が「マイペンライ」だったり、車をぶつけた人がぶつけられた人に返す言葉が「マイペンライ」だったりするのだ。

 ようするにタイ人は、小さなことをクヨクヨ気にしない、とても大らかな気質なのだが、悪く言えばいい加減、無責任といったことにもなり、それがこの「マイペンライ」という言葉に集約されているのである。ある本にはそんなタイ人の気質について、「怠情で、よほど困窮しなければ働かず、自分の運命に甘んじ、金銭に執着せず、生活向上にも関心がなく、隷属的地位に不満を持たない」などと書かれていたりする。
 だが「マイペンライ」は、かつて旅行者たちの間で中国人の気質を表した悪名高い言葉「メイヨー」とは比べものにならないほど、遥かに愛くるしい言葉だと言えるだろう。

 そして、タイ人とほぼ同じ民族文化を共有しているお隣ラオスのラオ人もまたしかりである。「マイペンライ」にあたる言葉は、ラオ語では「ボーペンニャン」と言い、ラオ人もタイ人同様、小さなことをクヨクヨ気にしない、とても大らかな気質なのだ。その気質は、内陸の、あまり外界との接点を持っていなかった彼らラオ人にとって、より顕著だと言えるかもしれない。
 かつてラオスを植民地としたフランス人は、そんなラオ人のことを同じ仏領インドシナ連邦の同胞であるヴェトナム人とカンボジア人を引き合いに出して、こう表現している。

〈稲を植えるのがヴェトナム人、稲の育つのを眺めるのがカンボジア人、そして稲の育つ音を聞いているのがラオ人である〉

 と、まあこんなボーペンニャンな気質のラオ人は、あの戦時中のアメリカへの恨みなど、もうすっかりと忘れてしまっているようだ。
 もっとも、こういったタイ人やラオ人の気質には、もしかすると気候というものも大きく関係しているのかもしれない。身も強ばる寒冷地とは違い、こんな一年中ダラダラと暑い土地で暮らしていると、そんな昔の恨み辛みを考えているのも、きっとバカバカしくなるのだろう。

肉食

















 世界の多くの民族は、何らかの食に対する戒めを持っているものだ。その戒めは、やはり肉食に関して顕著であり、たとえばヒンドゥー教徒がウシを食べないことと、イスラム教徒がブタを食べないことは、特によく知られているところである。

 ヒンドゥー教が食べることを戒めているウシは、神ブラフマンによって創造された極めて尊き生き物で、また神シヴァの神聖なる乗り物としても広く崇められている。そして、そもそもウシは彼らインド人にとって、日々多大な恩恵を与えてくれる動物でもあったのだ。
 たとえば雄牛は大地を耕す労力に。雌牛は乳を出し滋養を。糞は貴重な燃料に。そして尿すら薬として飲まれたらしく、こういった人間にとっての有用性が、ヒンドゥー教徒にこの動物を食べることを戒めさせた大きな要因になったのではないかと考えられている。

 では、イスラム教では何故にブタを食べることを禁じられているのかというと、それは蹄がどうのとか、反芻がどうのとかいろいろなことが言われているが、実際のところは『コーラン』で穢れたものとして禁じられているからだということ以外、確実なことは分かっていないらしい。
 しかし面白いことに、イスラム教のこの戒めはまた非常に徹底していて、ブタ以外の清浄なる食物「ハラル」であるはずのニワトリやウシやヒツジであっても、イスラム教徒以外の者が屠殺した肉は不浄なる食物「ハラム」となり、食べることが禁じられている。

 そして、同じヘブライ起源の宗教、実はキリスト教でもブタは汚れたものとされていて、本来、食べることが禁じられていたのだ。
 『旧約聖書』のレビ記の「清いものと汚れたものに関する規定」には、ブタを始め、彼らにとっての清い動物と汚れた動物とが、こと細かく規定されている。

〈地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。いのししはひずめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはなにない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
 水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。これらは汚らわしいものであり、その肉を食べてはならない。死骸は汚らわしいものとして扱え。水の中にいてひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。
 鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。
 禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、森ふくろう、魚みみずく、大このはずく、小きんめふくろう、このはずく、みさご、こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。
 羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。ただし羽があり、四本の足で動き、群れを成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ肢を持つものは食べてよい。すなわち、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい。
 しかし、これ以外で羽があり、四本の足をもち、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。
 以下の場合にはあなたたちは汚れる。死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。
 ひづめはあるが、それが完全に割れていないか、あるいは反すうしない動物はすべて汚れたものである。それに触れる者もすべて汚れる。四本の足で歩くが、足の裏の膨らみで歩く野性の生き物はすべて汚れたものである。この死骸に触れる者も夕方まで汚れる。死骸を持ち運ぶ者は夕方まで汚れる。衣服は水洗いせよ。それらは汚れたものである。
 地上を這う爬虫類は汚れている、もぐらねずみ、とびねずみ、とげ尾とかげの類、やもり、大とかげ、とかげ、くすりとかげ、カメレオン。以上は爬虫類の中で汚れたものであり、その死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる〉(旧約・レビ記11-2)

 食に関する戒めが緩いとされているキリスト教でさえ、実はこれだけの多くの戒めがあり、ここにある「イノシシ」が、いわゆる今言うところのブタである。
 また『旧約聖書』のマカバイ記2を見てみると、エレアザルという律法学者が口をこじ開けられ、強制的に豚肉を食べさせられる下りがある。しかしエレアザルは、「不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責め道具に身を任そうとした」というのだ。彼らのブタに対する嫌悪感というのも、なんとも凄まじいものである。

 しかし、やはりキリスト教においても、イスラム教と同様、蹄は割れているが反芻しないということがブタの汚れている理由らしいが、それに対して「なぜ?」と疑問をいだいた所で、これ以上の答えは出てこない。
 もっともこういった宗教の戒めは、実は論理的にも説明できないものの方が多く、むしろ説明できないからこそ、今日まで途絶えることなく残ったのだという指摘もある。
 確かに、宗教とは信じるものであって、解明するものではないのである。ガンジスの河の水が、ルルドの泉の水が、H2Oだと解明された所で、それは何の意味も持たないのだ。

 日本でも、仏教の伝来は、我々日本人から肉食の習慣を忌避させることになった。
 678年、天武天皇は仏教の不殺生戒にしたがい、ウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉を食べることを禁ずる詔を出し、やがて国家宗教として開花し始めた仏教が長い時を経て庶民の心の中に広がりゆく過程において、日本人の生活から次第に肉食が消えていったのである。
 1549年、我が国へキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザヴィエルは、こんなことを書き残している。

〈日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物に依って、いかに健康を保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている〉

 これは、日本で2年あまりの布教生活を送り、その食生活に苦労したザヴィエルがある神父に宛てた手紙で、すなわち日本へ布教に行くには、肉の食えない、草はがりを食べる粗食に耐える覚悟が必要だと諭しているのである。これを見てもわかるように、実際、彼らヨーロッパ人宣教師にとって、仏教の戒律に従って肉を口にできないことが、日本での布教活動における重大な問題だったようだ。

 かくして日本料理は、世界的に見ても類い稀な、肉という食材を欠いた特異な料理体系となったのだ。

住居

















 住居とはそもそも、風土から形作られるものだった。これは、生活を快適にしたいという人間の根源的な欲求によるもので、よって自然環境が異なれば、おのずと住居の形態も異なるわけである。

 ちなみに日本では、「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」と、『徒然草』の中で吉田兼行が言うように、古来、住居は夏のむし暑さを主眼にして建てられたのである。これは防寒を第一に考え建てられるヨーロッパの建築とは明らかに異なる点で、ようするに雪を愛でる日本の冬は、ヨーロッパのそれと比べると遥かに過ごしやすかったのだ。

 そんな愛すべき良好な気候に育まれた日本の建築はまた、ヨーロッパの建築とは細部においても数多くの相違点をもっている。
 たとえば、「軒下」という言葉のないヨーロッパの建築とは異なり、日本の建築には軒や廂、縁といった自然と連動する空間があり、そこは我々日本人にとってとても快適であると同時に、なくてはならない大切な空間だったのだ。『源氏物語』に代表される数々の王朝文学も、この軒や廂、縁といった空間なくしては生まれなかったとも言われている。

 そして、日本の建築の中で数少ない、ヨーロッパの建築と共通した自然と連動する場所である窓すらも、日本では語源は「間戸」である。これはもともと、柱の間に建てこまれた光を採るための開放的な戸のことであって、少なくとも外界と遮断する壁に開けた穴ではなかったのだ。面白いことに窓というものの形態も、風を取り込むことを主眼とした日本の窓は横長に、光を取り込むことを主眼としたヨーロッパの窓は縦長に作られたのだ。

 もしも熱帯の山奥に、分厚いコンクリートの壁に囲まれ、頑丈なガラス窓によって密閉された住居を建てたならば、エアコンを一日中フル稼働させる膨大な電力が必要になるだろう。こういった環境を無視した住居が可能となったのは、もちろん、電力やガスを始めとするエネルギーを使い、簡単に快適な環境が作り出せるようになった、まさにごく近代のことである。

香料



















 香料は大別すると、主に動物性のものと植物性のものに分けることができる。この割合は、圧倒的に植物性のものが多く、動物性のものは遥かに少ない。その動物性の代表的香料である「麝香」「霊猫香」「竜涎香」の3種の内、2種がインドシナに産している。

まず麝香、いわゆる「ムスク」とは、ジャコウジカの雄の生殖腺分泌物である。ジャコウジカは、チベットから中国雲南へかけての山岳地帯に生息しており、雄雌共に角はないが、雄は顎の下まで突き出した左右一対の長い牙を持つ。
 麝香は、雄の生殖器近くの麝香嚢の中に納まっていて、交尾期に分泌し、この匂いで雌をおびき寄せるのである。その雄がおびき寄せる雌は、当然すぐ近くにいるとは限らない。したがって、遥か遠くの雌までもおびき寄せる実際の麝香の匂いたるや強烈なもので、麝香の「麝」という文字は、鼻を突き射すような凄まじい匂いであることから、「鹿」と「射」の2字を合わせ生まれたらしい。すなわち麝香は、ごく薄く希釈して初めて、妙香としての輝きを発するのだ。

 麝香が薬物としての効果を持つことは古くから知られており、発汗を清浄にし、心臓を強くし気力を増すといった効能が、アラビアの古い医学書にも書かれている。また中国唐代には、「挙体異香」といって、女性が微量の麝香を服用し、排泄物や汗といった体臭を消したという記述が残っている。
 しかし古来、薬物としての麝香の最大の魅力は、やはり媚薬としてのものだった。性交合を宇宙の原理とした、インドの「タントラ」や中国の「タオ」の実践にも、麝香は特別な存在価値を有していたし、その狂おうしいほどの芳香と強精剤としての力は、広く中東、西欧世界の閨房の奥深くにも浸染していったのだ。

 つぎに霊猫香、いわゆる「シベット」は、ジャコウネコの肛門腺分泌物である。麝香がジャコウジカの雄だけにそなわっているのとは異なり、霊猫香はジャコウネコの雄雌共にそなわっていて、肛門近くにある香嚢に納まっている。
 霊猫香の採取方法も、麝香がジャコウジカを殺し、体内から麝香嚢を摘出するのとは異なり、体外に突出している香嚢の先端にある穴にヘラを差し込み、中に納まっている乳白色の香料を掻き出すのだ。ジャコウネコは、与える餌が上質であればあるほど分泌する香料の質が良くなると言われていて、また驚かせたり興奮させるとより一層多く量を分泌すると言われている。

 ちなみに、残るもう1つの動物性香料の竜涎香、いわゆる「アンバーグリス」は、マッコウクジラの体内に生ずる病的結成物である。100頭、あるいは200頭に1つあるかないか、という極めて貴重な物で、何らかの折りに体外へ排出され、それが漂流し海岸に打ち上げられるのだ。竜涎香は鈍い灰色の固まりで、永く海面に漂い陽に曝された物ほど上質と言われている。

 しかし、竜涎香はかくして発見されるものの、それがいったい何なのかは、長く謎のままだったのだ。海底の泉から湧き出た泡の固まった物、大量に海中に流れこんだ蜂蜜、海底に生えるキノコ、海中に生息する牛の糞、といったように古来、様々な憶測が張り巡らされていて、『アラビアンナイト』の中にも、この竜涎香についての奇譚が記されている。

〈島には、瀝青色をした液体の生のままの竜涎香の泉がひとつあって、それが太陽の作用で、溶けた蝋のように浜辺に流れ出す。それを大きな魚が海から出てきて呑み込み、腹のなかで温めていて、しばらくたつと、水面に吐き出す。するとそれは固くなり、性質と色が変わる。波はそれを浜辺に打ち上げて、浜辺はその香で馨っている〉

 「アンバーグリス」という呼び名は、竜涎香を最初に発見したと言われているアラビア人の呼び名「アンバル」に由来し、アンバルは香りの王者を意味した。「竜涎香」という呼び名は、イスラム商人によって初めて知らされたアンバーグリスとその奇譚を 中国人が勝手に竜の涎に置き換えてしまい、以後、中国でアンバーグリスは、海底に潜む竜の涎であるという説が定着してしまったのである。

 それが後に、マッコウクジラの体内に生ずる病的結成物であることが判明すると、竜涎香は捕鯨によって直接、体内から摘出されるようになるのだが、依然としてその成因は謎のままで、摘出率が極めて低い確率であることも変わりはない。
 竜涎香も、やはり薬物としての効果を持つことが信じられていて、古くから脳や神経、心臓の妙薬とされていたのだが、香料としての竜涎香の効果としては、なんと言ってもその香気の持続性が上げられる。竜涎香の香気は何百年もの間、失せることなく保たれるらしく、イギリスのハンプトン旧王宮の中には、しみ込んだ竜涎香の香気が1世紀以上に渡って香り続けている部屋があるらしい。

 そして、インドシナに産する植物性の代表的香料と言えば、やはり何といっても「沈香」と「安息香」が上げられるだろう。

 「香すなわち沈」という言葉があり、これは「沈」の秀逸を言い表したもので、沈とはもちろん「沈香」のことである。沈香は比重が重く、水に沈むことからこの名があり、古く中国で「香」と言えば、この沈香だけを意味していたのだ。
 熱帯に自生するジンチョウゲ科のある樹木が何らかの要因で傷つくと、樹脂の分泌が始まり、それがバクテリアの作用で幹に濃密にしみ込み、固まる。こうして、その樹木が倒れ土中に埋没すると、樹質は腐敗し分解消滅してしまうが、樹脂の固まった部分だけは腐敗せずに、そのまま土中に残る。それが沈香である。

 沈香は、熱帯アジア、特にインドシナに多くを産し、「伽羅」と呼ばれる最も上質な物は、主にヴェトナムに産する。伽羅の価値は、他の香料とくらべて桁違いに高く、金をもしのぐほどで、それだけに、古くから伽羅争奪にまつわる血腥い話も多く、確かに、伽羅のその深遠と立ち昇る香気には、人為を遥かに越えた一種霊的と思えるほどの風格と気品がある。かのナポレオンも、香料に対して並々ならぬ愛着を持っていたことが知られているが、中でも特に沈香は大のお気に入りだったらしい。

 安息香とは、ラオスからタイへかけて自生するエゴノキ科のある樹木の分泌物である。その樹幹についた傷から滲み出てくる乳白色の分泌物が、空気に触れ凝固したものが安息香である。古来、最も上質な物を「トラの涙」と称し、安息香はインドシナの他、インドネシアのスマトラにも産するが、やはりインドシナ産の香気には及ぶものではない。
 安息香の薬効としては、古くから強心作用と沈静作用が上げられていた。しかし安息香は、そのやわらかく甘美な香気から、ヨーロッパでは特に、化粧品や芳香料などの香りづけに多用されていたのだ。

 その昔、ヨーロッパの上流社会の女性たちの間では、芳香料の処方を蒐集することが流行していたらしく、新たに手に入れた処方は各自が愛蔵する手書きの処方書に丁寧に書き加えられ、こうして蒐集された処方の質と数が、また彼女たちの1つのステイタスでもあったのだ。
 その、今に伝わる数々の処方書を見てみると、安息香を始めとする、インドシナからもたらされた数々の香料の名前が実に多く散見できる。

 まず16世紀、ヨーロッパでとても人気が高かったらしい「ダマスク・ローズ」という芳香料は、ダマスク・ローズの葉、安息香、麝香、蘇合香、ショウブ、ガリンゲール、ラダヌムといった香料を混ぜ合わせたもので、それを小さな絹の袋などに入れ携帯していたらしい。ちなみに当時は、まだアルコールを使い香料から精油を抽出することが知られていなくて、こういった芳香料は、香料を砕いて混ぜ合わせたり、それをさらに粉末にしパウダー状にしたものが主だったのである。

 つぎに、フランスのアンリ王の愛用したリンネル製品に賦香するための「スミレ香粉」は、白花イリスの根、バラの葉、糸杉、ショウブ、コリアンダー、ラベンダー、白檀、安息香、蘇合香、桂竹香、竜涎香、マジョラムを粉末にして混ぜ合わせたものだったらしい。また、スペインのイサベル女王は、バラの葉、白花イリスの根、ショウブ、安息香、蘇合香、桂竹香、コリアンダーを混ぜ合わせた香粉を愛用していたとのことである。

 当時、ヨーロッパで用いられていた芳香料としては、こういった香粉以外にも、様々な種類のものがあったようだ。練香もその1つである。これは象牙や金、銀などで作られたプランタニエと呼ばれる小さな携帯用の香炉で用いるもので、ブラガンサ公爵夫人とパルマ公爵夫人が愛用したとされる練香は、竜涎香、麝香、霊猫香、桂竹香、シトロン芳香花精を混ぜ合わせ、練り上げて作られたらしい。この二人の公爵夫人は、殊の外、香料に対する執着が強かったようで、彼女たちの愛用した手袋用香料の処方も伝わっている。竜涎香、麝香、ジャスミン油、バラ水を混ぜ合わせたものを、せっせと手袋にすり込んだのである。

 婦人用芳香ネックレス、などというものもあった。安息香、蘇合香、麝香、霊猫香、ラダヌム、バラ水を乳鉢の中で加熱しながら練り上げペースト状にし、それを小さなビーズ状に丸め、糸を通してネックレスにするというのである。また後には、小さな箱のついた指輪も作られ、そこにお好みの香料を入れ、一人密かに芳しき香りを愉しんでいたらしく、これ以外にも、芳香ランプや香粉ふいご、嗅ぎタバコなど様々なものが考案され、紳士淑女たちの豪奢な生活は、溢れんばかりの香りによって彩られていたのである。

 実を言うと、こういったヨーロッパ人の香料に対する執着は、愉しみというよりも、ひとつ大きな必然があってのことだったのだ。当時、平均的なヨーロッパ人は、せいぜい1年に数回、水浴びでもすればましな方だという、清潔とはおよそかけ離れた、驚くべき不潔な生活を送っていたのである。したがって、その体臭はかなりひどかったらしく、この悪臭を消すために、こういった芳香料、また後の香水の文化が飛躍的に発達していったというわけなのだ。

 面白いことに、17世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジは、シャム王から「フランス人は清潔か、歯は手入れしているか、口をすすいだり体を洗ったりするか」と訊ねられたと、その旅行記の中に記している。ショワジはこのシャム王からの質問に対して、「これは愉快な話だ。われわれが見るのは褐色の肌の、全裸に近い人々である」と一笑した後、「しかし彼らは食べること、着る物、話し方に至るまで、全てにおいて世界で最も潔癖な人たちだ」と結んでいる。

 かくして、かの大航海時代が始まり、ヨーロッパにおける香料の需要が増大すると、インドシナ各地の港市から大量の香料が船積みされ、海を渡り始めるのだった。

絶滅

















 『旧約聖書』によると、もともと我々人間はみな同じ言葉を話していたらしい。それが何故に違う言葉を話すようになったのかというと、それは人間が天まで届く塔、いわゆるバベルの塔を築き始めたことに神が怒り、人々を四散させ、言葉を混乱させたかららしいが、今、世界で使われている言語の数は、およそ68000語ほどあるらしい。

 だが、少なくともその半数が、今世紀中に絶滅してしまうだろうと言われている。ある推定によると、すでに過去500年の間に4000語から9000語もの言語が絶滅したのだ。
 こういった言語の絶滅には、戦争やジェノサイト、そして植民地化による強制的な言語統制など、いくつかの要因が上げられるが、これから確実に、その最も大きな要因になるだろうと懸念されているのが、なんと言っても文化的同化である。
 それは、テレビを始めとする様々なメディアの発達によって、ますます加速されるだろう。日本でも、あの誇り高き大阪弁ですら、確実に東京弁化しているのである。

教育

















 僕はアジアを旅していて、子供たちの純真なあの笑顔に接すると いつもある本の一節を思い出す。オールコックの『大君の都』(岩波書店)だ。彼は、幕末の日本に来航したイギリスの外交官で、日本駐在の初代公使・総領事になった男である。『大君の都』は彼がその際、日本で見聞きした様々な事どもを一冊の本に記したものなのだ。その中に、こんな一節があった。

〈イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっているとわたしはいいたい。すなわち日本の子供たちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることはない〉

 オールコックが見た日本は、今から百数十年前の日本である。この百数十年の間、日本は、その長い歴史の中でも最も激しい変化を経験したと言えるだろう。

 そんな変化の中で、我々の生活もまた目まぐるしく変わり、かつて想像もつかなかったほどの快適さを、我々は手に入れたのだ。そして今の子供たちはと言えば、彼らは少なくとも僕の知る限り、アジアのどこの国の子供たちよりも格段に、ある意味において、とても「文化的」な生活を送ってる。異常なまでに清潔で快適な居住空間に、有り余るほど豊富な食糧。目新しくきれいな衣服に、戸惑いを覚えるほど多くの刺激的な娯楽。

 ところが今、日本の子供たちには、かつて思いもよらなかったような、いろいろな問題が露呈してきている。それは、親や社会が子供のために、過去のどの時代よりも遥かに膨大な情熱と金を注ぎ込んでいるにもかかわらず、問題はそれに反比例するかのように多発化、多様化の一途を辿っているのだ。

 もしかすると、それらの問題の多くは、食べることや、生きることが大変だった時代にはなかった問題だったと言えるかもしれない。もちろん、そういった時代が良かったと言っているわけではなく、問題はそんなに単純ではない。しかし、1つだけ言えることは、これは今まで我々大人たちが追い求め、作り上げてきた社会に対して出された、ひとつの答えだということである。

 子供の精神は、なにも密閉された試験管の中で突発的に自己形成されるわけではない。生育の段階での、家庭や、社会といった取り巻く環境の影響を受けつつ形づくられていくのである。確かに、子供たちにとっての「生」の在り方は、家庭環境の、社会環境の激変とともに大きく変わったのだ。

 子供たちは、生まれ落ちたその時から、親の価値観の下に「ブランド化された人生」のレールの上に乗せられ、目的意識をなくし空洞化した受験教育の枠に有無も言わせずはめ込まれ、「自由」と「権利」ばかりを教え「義務」を教えない社会の中を、大学の門を目指しひたすら走り始める。「塾」という入学試験合格者養成所と、それによって存在感を失ってしまった「学校」という学歴取得所の、2つの場を行き来しながら。

 そして彼らはまた、その決して例外を許さない、採点や偏差値によって判断される、数字による高度な平均化を理想とした教育プログラムの中で、相反する「個性」という極めて不明確な言葉を繰り返し唱えられ、あたかも個性的であることが生きる意味であるかのごとく暗示を受け、時としてそれが大きなコンプレックスとして彼らに植え付けられることにもなる。

 家庭生活はと言えば、子供たちにとって「勉強する」という責務以外のすべてのことは手放しに許され、少子化という現象も手伝って、親は子供の意のままに、何でも好きなものを買い与え、好きなものを好きなだけ食べさせ、親のすべてが子供に集約される。これによって子供たちは、「我慢」という節度を永遠に見失ってしまうのだ。

 かくして、家庭生活の中心に大切に据えられた子供たちは、親の盲目的な愛を一身に受けつつも、手応えある充足感を得られず、その結果、また極端な息抜きに熱中するようになる。中でも特に、テレビに対する依存度は絶大だ。スポンサーの確保に視聴率を稼ぐためなら何でもやる短絡的な番組や、ブラウン管の中でお手軽に人殺しの体験ができる刺激的なゲーム。そして子供たちは、そんなテレビから、価値観を、人生観を学ぶのだ。

 当然、もはや家庭生活の中で、「躾」などという言葉は死語である。勉強さえしていれば際限なく甘やかされる子供たちは、また過剰なまでに保護されることによって自己責任能力を奪われ、確実に善悪の判断基準を見失っていく。そして、その結果としての不具合の責任はすべては、学校という教育の場へ転化するという、無責任な慣例を定着させることにもなった。

 こうしてそんな長い受験教育が、いよいよ大学の合格発表という形で幕を閉じると、彼らには、「ただなんとなく」と、無意味に時を浪費させることが「青春」という名の下に美化される夢のような空白の時代が始まるのである。だが、本来は「手段」であるべきはずの大学への入学を、ただひたすら「目的」として育てられていた彼らは、大学への入学を果たした途端に目的を失い、以後「自分」探しに、長い長い人生の路頭を迷うのだ……。

 確かにアジアの多くの国々では、学校などの教育施設や、教科書などの教育資材、そして就学するための家庭環境や経済状態と、問題は山積みだ。しかし、やがてそれらの国々も、先進国と呼ばれる大国の後を追い、めざましい経済発展を遂げ、日本のような高い就学率を誇る国へと変貌してゆくだろう。

 僕は「先進国」とか「後進国」という言葉は嫌いだが、後進国は先進国の後を歩んでいるからこそ、先進国のおかした過ちを回避できる猶予がある。少なくともイギリスの、そしてすでに日本の子供たちから奪われてしまった、オールコックの言うところの「美点」を、アジアの子供たちからは奪ってほしくないと、僕は心から願わずにはいられない。

肥満

















 豊かな生活を送っている、「先進国」と呼ばれる世界の人口のわずか11%の人々が抱えている問題の1つが、肥満なのだそうだ。
 そんな先進国の先頭を突っ走るアメリカでは、特に肥満は深刻な社会問題と化しているらしい。BMI、肥満指数によると、なんとアメリカの成人人口の61%が肥満で、これは堂々と世界第1位の記録である。もっとも、アメリカでは肥満は成人に限ったことではなく、子供も5人に1人が肥満とされているのだ。

 ちなみに肥満というのは基本的に、食物によるエネルギーの摂取量が、運動によるエネルギーの消費量を上回って起こる現象だが、これはまた、多くの病気を引き起こす要因にもなっていることが知られている。肥満は、先進国の4大死因である脳卒中、心臓病、糖尿病、ガンのすべての病気の主要な原因となっていて、アメリカは、肥満が引き起こす病気にかかる医療コストを、年間およそ1180億ドルと推定し、警鐘を鳴らしているのだ。

 こういった先進国における肥満の増加は、工業化と都市化が大きく関与していると言われていて、その社会は、より多くの食物を簡単により安く手に入れることができ、しかもそのライフスタイルは、どんどんと身体を動かさない方向へと進んでいるのである。

 このようにして、太りゆく先進国の人々が増加の一途を辿り、そのペットまでもが栄養過多で飼い主と共にダイエット食品に頼り、またアメリカでは毎年何十万人もの人々が過食して体にたまった脂肪を吸引する美容手術を受けている。
 そしてその一方、世界各地では10億人もの人々が飢えに苦しみ、平均して毎日2万人近い子供たちが、栄養不良や飢餓のためにどこかで死んでいる。これが現実なのだ。

語学

















 僕が本腰を入れてタイ語を勉強し始めて、いったいどれくらい経っただろうか。おそらく年月だけはいたずらに長いわりに、ほとんどうまくはなっていないと思う。だが、うまくはなっていないが、馴れてはきている。
そもそも、僕がタイ語を勉強することになったきっかけは、根本的な英語嫌いにあった。英語は僕にとって、勉強し始めた中学生の頃から、単なる「学校の科目」の1つでしかなかったのである。
 それは僕自身、小さい頃からあまり西洋指向がなかったということもあり、英語を身につけ英語圏の国の人々と親交を深めたいという憧れもなかったし、また将来、英語を武器にして仕事をしたいという夢もなかったのだ。ようするに英語は僕にとって、「目的」でも「手段」でもなかったのである。だから、「学校の科目」以上の勉強はあえてしなかった。

 したがって僕は、こういったことによる必然もあって、旅は極力可能な限り、その旅する国の言葉で旅するという主義にしている。ビルマはビルマ語で、ヴェトナムはヴェトナム語で、カンボジアはカンボジア語でといったように、出国前にはいつも語学の本を買い込み、せっせと勉強するのだ。もちろん、アメリカやイギリスを旅する時は、英会話の本を買い込みせっせと英語の勉強をすることになるのだろうが、今までそういう機会はなかったし、これからも今のところそういう計画はない。

 だが、基本的に語学というものに対するセンスを持ち合わせていない僕が、そう簡単にビルマ語やヴェトナム語をマスターできるはずもない。したがって旅に出ると、いつでも言葉で苦労する。だが、これは決して負け惜しみではなく、言葉が通じないというのも、なかなかいいものだと近頃は思っている。

 英語が、もはや地球語となった感のある現代。英語圏の国の人々は、彼らが日常使っている言葉で、ほぼ世界中どこへでも旅できてしまうのだ。もちろん田舎や辺境の地は別だが、ほとんどの国の空港や駅でも、ホテルでも、そしてレストランでも、必ずといっていいほど英語の表示があり、英語を解するスタッフの1人や2人は必ずいるだろう。おまけに、主要な都市のホテルでテレビをつけると、1日中CNNが英語のニュースを流し続けている。
 そういう情況を見ていると、いつでも僕は、英語圏の国に生まれなくてよかったと思う。もしも、日本語が英語のように地球語となり、世界中どこへ行っても日本語の表示があり、どこへ行っても日本語が通じ、日本語で話しかけられるようなことにでもなれば、それはそれで確かに便利なのかもしれないが、僕にとって旅は少し味気ないものになってしまうだろう。誰が教えたのかは知らないが、バンコックの土産物屋で「社長サン、見るだけ見るだけ、目の保養」という日本語を聞くたびに、僕はますますこの思いを頑なにする。

 せっせとその国の言葉を勉強し、拙い発音で苦労しつつ、なんとか相手に自分の思いを伝える。これも確かに僕の旅の、1つの楽しみなのだ。
 それに言語を学ぶということは、すなわちその言語圏の文化を学ぶということである。言葉を知ることによって初めて見えてくる、余りある多くのことがある。そしてもう1つ。たとえ短く、拙い一言であっても、相手の国の言葉を話すことによって、お互いの距離は確実に近くなる。それが何といっても楽しい。

2008/07/20

増殖

















 そもそも生物は、生態系の中で一定の固体数を保とうとする、ある種の制御作用を持っているのだ。

 ようするに基本的に生物は、生態系の中の一構成要素として絶滅することのないように保障されていると同時に、その種だけが異常に増加できないよう制御されているのである。だが、その数ある制御作用の中の何かが弱まると、生物は潜在的に持っている爆発的な増殖力によって激増し、大発生を起こすのだ。

 当然、我々人間もかつては、生態系の中の一構成要素として、この地球上に存在していたのである。出生率と死亡率はほぼ等しく、気候の変動や災害、病気、または肉食獣の補食によって死ぬことは、自然のバランスを保つためにも必要なことだったのだ。

 しかし我々人間は、様々な技術を生み出し、自然からの圧力を制圧し、生態系から抜け出す努力を始めたのである。それによって、出生率は増加の一途をたどり、死亡率は飛躍的に低下し、我々人間はこの地球上で、大発生し始めたのだ。

 我々人間がこの地球上に現れた当初、100万人程度だったと考えられている人口は、紀元元年頃には3億人にまで膨れ上がり、以後、人口は災害や伝染病によって多少制御されながらも確実に増え続け、18世紀頃には7億人、19世紀にはすでに10億人にまで達していた。

 こうして、いよいよ20世紀をむかえると、世界の人口は早くも16億人に達し、さらにそれからわずか30年後の1930年には、なんと20億人を突破してしまうのである。
 だが、その後も人口は衰えることなく、恐ろしい速度でもって増加し続け、1960年には30億人、1977年には40億人、1989年には50億人に達し、新世紀をむかえる直前の1999年には、とうとう60億人に達してしまったのだ。

 このままの調子で増加し続けると2050年頃には、世界の人口は100億人近くにまで達するだろうと国連は予測している。

 そして国連はかなり以前から、将来の世界的な食糧危機を予測していた。この飽食の時代に「食糧危機」という言葉は、あまりにも似付かわしくない。その根拠はいったい何なのか。
 そう。それは、この驚異的な人口増加である。ようするに、地球上に溢れ返った人々が、みな一様にして「食べる」のだ。

 単純に考えて、人口が増えるということは、それだけ多くの食料が必要になるということである。現在、漁業資源はもうすでに減少の一途をたどっているし、野菜や食肉を増産するには、農場や牧場にするさらに広い土地が必要になる。だが地球の陸地面積は、人口の増加とともに広がりはしないのだ。
 陸地は当然、人口が増加したぶん、彼らの宅地に転用されますます狭くなってしまうだろう。それに、今も世界中で着々と進行している都市化現象も、さらに陸地を狭めることは明白である。おまけに、地球温暖化によって海水面が上昇し、陸地面積は確実に狭くなりつつあるのだ。

 100億人を、この地球という限られた環境の中でどう養っていくのか。それは今世紀の最大の問題となることは必至である。

 だが、先進国と呼ばれる誇り高き国の人々が、ここまで飼い太らされた高尚なる美的食欲を放棄し、粗食にあまんじるようになるだろうか。100億人の食欲は、すさまじい。我々人間は、あたかも異常発生したバッタのごとく、この地球の何もかもを食いつくしてしまうかもしれない。そうなれば、動物たちはどうなるだろうか。

 地球の一角に、野性動物が暮らす美しい森があったとしよう。飢えた我々人間は、その森の中で暮らす動物たちの輝く未来に喝采を贈りながら、自らが餓死する道を選ぶだろうか。また、海に楽しく群れるクジラの姿に心癒されながら、死ぬのがクジラではなく人間で良かったと喜びながら、我々は餓死していくだろうか。

ひとつ。動物に生きる権利があるかどうかなどという議論がよく行なわれているが、そんなものはまったく中身のない単なる空論である。ただ言えることは、今も、そしてこれから先も、動物たちが生きられるかどうかということは、すべて我々人間の手にかかっているということだ。