2008/07/21

教育

















 僕はアジアを旅していて、子供たちの純真なあの笑顔に接すると いつもある本の一節を思い出す。オールコックの『大君の都』(岩波書店)だ。彼は、幕末の日本に来航したイギリスの外交官で、日本駐在の初代公使・総領事になった男である。『大君の都』は彼がその際、日本で見聞きした様々な事どもを一冊の本に記したものなのだ。その中に、こんな一節があった。

〈イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっているとわたしはいいたい。すなわち日本の子供たちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることはない〉

 オールコックが見た日本は、今から百数十年前の日本である。この百数十年の間、日本は、その長い歴史の中でも最も激しい変化を経験したと言えるだろう。

 そんな変化の中で、我々の生活もまた目まぐるしく変わり、かつて想像もつかなかったほどの快適さを、我々は手に入れたのだ。そして今の子供たちはと言えば、彼らは少なくとも僕の知る限り、アジアのどこの国の子供たちよりも格段に、ある意味において、とても「文化的」な生活を送ってる。異常なまでに清潔で快適な居住空間に、有り余るほど豊富な食糧。目新しくきれいな衣服に、戸惑いを覚えるほど多くの刺激的な娯楽。

 ところが今、日本の子供たちには、かつて思いもよらなかったような、いろいろな問題が露呈してきている。それは、親や社会が子供のために、過去のどの時代よりも遥かに膨大な情熱と金を注ぎ込んでいるにもかかわらず、問題はそれに反比例するかのように多発化、多様化の一途を辿っているのだ。

 もしかすると、それらの問題の多くは、食べることや、生きることが大変だった時代にはなかった問題だったと言えるかもしれない。もちろん、そういった時代が良かったと言っているわけではなく、問題はそんなに単純ではない。しかし、1つだけ言えることは、これは今まで我々大人たちが追い求め、作り上げてきた社会に対して出された、ひとつの答えだということである。

 子供の精神は、なにも密閉された試験管の中で突発的に自己形成されるわけではない。生育の段階での、家庭や、社会といった取り巻く環境の影響を受けつつ形づくられていくのである。確かに、子供たちにとっての「生」の在り方は、家庭環境の、社会環境の激変とともに大きく変わったのだ。

 子供たちは、生まれ落ちたその時から、親の価値観の下に「ブランド化された人生」のレールの上に乗せられ、目的意識をなくし空洞化した受験教育の枠に有無も言わせずはめ込まれ、「自由」と「権利」ばかりを教え「義務」を教えない社会の中を、大学の門を目指しひたすら走り始める。「塾」という入学試験合格者養成所と、それによって存在感を失ってしまった「学校」という学歴取得所の、2つの場を行き来しながら。

 そして彼らはまた、その決して例外を許さない、採点や偏差値によって判断される、数字による高度な平均化を理想とした教育プログラムの中で、相反する「個性」という極めて不明確な言葉を繰り返し唱えられ、あたかも個性的であることが生きる意味であるかのごとく暗示を受け、時としてそれが大きなコンプレックスとして彼らに植え付けられることにもなる。

 家庭生活はと言えば、子供たちにとって「勉強する」という責務以外のすべてのことは手放しに許され、少子化という現象も手伝って、親は子供の意のままに、何でも好きなものを買い与え、好きなものを好きなだけ食べさせ、親のすべてが子供に集約される。これによって子供たちは、「我慢」という節度を永遠に見失ってしまうのだ。

 かくして、家庭生活の中心に大切に据えられた子供たちは、親の盲目的な愛を一身に受けつつも、手応えある充足感を得られず、その結果、また極端な息抜きに熱中するようになる。中でも特に、テレビに対する依存度は絶大だ。スポンサーの確保に視聴率を稼ぐためなら何でもやる短絡的な番組や、ブラウン管の中でお手軽に人殺しの体験ができる刺激的なゲーム。そして子供たちは、そんなテレビから、価値観を、人生観を学ぶのだ。

 当然、もはや家庭生活の中で、「躾」などという言葉は死語である。勉強さえしていれば際限なく甘やかされる子供たちは、また過剰なまでに保護されることによって自己責任能力を奪われ、確実に善悪の判断基準を見失っていく。そして、その結果としての不具合の責任はすべては、学校という教育の場へ転化するという、無責任な慣例を定着させることにもなった。

 こうしてそんな長い受験教育が、いよいよ大学の合格発表という形で幕を閉じると、彼らには、「ただなんとなく」と、無意味に時を浪費させることが「青春」という名の下に美化される夢のような空白の時代が始まるのである。だが、本来は「手段」であるべきはずの大学への入学を、ただひたすら「目的」として育てられていた彼らは、大学への入学を果たした途端に目的を失い、以後「自分」探しに、長い長い人生の路頭を迷うのだ……。

 確かにアジアの多くの国々では、学校などの教育施設や、教科書などの教育資材、そして就学するための家庭環境や経済状態と、問題は山積みだ。しかし、やがてそれらの国々も、先進国と呼ばれる大国の後を追い、めざましい経済発展を遂げ、日本のような高い就学率を誇る国へと変貌してゆくだろう。

 僕は「先進国」とか「後進国」という言葉は嫌いだが、後進国は先進国の後を歩んでいるからこそ、先進国のおかした過ちを回避できる猶予がある。少なくともイギリスの、そしてすでに日本の子供たちから奪われてしまった、オールコックの言うところの「美点」を、アジアの子供たちからは奪ってほしくないと、僕は心から願わずにはいられない。