2008/07/21

語学

















 僕が本腰を入れてタイ語を勉強し始めて、いったいどれくらい経っただろうか。おそらく年月だけはいたずらに長いわりに、ほとんどうまくはなっていないと思う。だが、うまくはなっていないが、馴れてはきている。
そもそも、僕がタイ語を勉強することになったきっかけは、根本的な英語嫌いにあった。英語は僕にとって、勉強し始めた中学生の頃から、単なる「学校の科目」の1つでしかなかったのである。
 それは僕自身、小さい頃からあまり西洋指向がなかったということもあり、英語を身につけ英語圏の国の人々と親交を深めたいという憧れもなかったし、また将来、英語を武器にして仕事をしたいという夢もなかったのだ。ようするに英語は僕にとって、「目的」でも「手段」でもなかったのである。だから、「学校の科目」以上の勉強はあえてしなかった。

 したがって僕は、こういったことによる必然もあって、旅は極力可能な限り、その旅する国の言葉で旅するという主義にしている。ビルマはビルマ語で、ヴェトナムはヴェトナム語で、カンボジアはカンボジア語でといったように、出国前にはいつも語学の本を買い込み、せっせと勉強するのだ。もちろん、アメリカやイギリスを旅する時は、英会話の本を買い込みせっせと英語の勉強をすることになるのだろうが、今までそういう機会はなかったし、これからも今のところそういう計画はない。

 だが、基本的に語学というものに対するセンスを持ち合わせていない僕が、そう簡単にビルマ語やヴェトナム語をマスターできるはずもない。したがって旅に出ると、いつでも言葉で苦労する。だが、これは決して負け惜しみではなく、言葉が通じないというのも、なかなかいいものだと近頃は思っている。

 英語が、もはや地球語となった感のある現代。英語圏の国の人々は、彼らが日常使っている言葉で、ほぼ世界中どこへでも旅できてしまうのだ。もちろん田舎や辺境の地は別だが、ほとんどの国の空港や駅でも、ホテルでも、そしてレストランでも、必ずといっていいほど英語の表示があり、英語を解するスタッフの1人や2人は必ずいるだろう。おまけに、主要な都市のホテルでテレビをつけると、1日中CNNが英語のニュースを流し続けている。
 そういう情況を見ていると、いつでも僕は、英語圏の国に生まれなくてよかったと思う。もしも、日本語が英語のように地球語となり、世界中どこへ行っても日本語の表示があり、どこへ行っても日本語が通じ、日本語で話しかけられるようなことにでもなれば、それはそれで確かに便利なのかもしれないが、僕にとって旅は少し味気ないものになってしまうだろう。誰が教えたのかは知らないが、バンコックの土産物屋で「社長サン、見るだけ見るだけ、目の保養」という日本語を聞くたびに、僕はますますこの思いを頑なにする。

 せっせとその国の言葉を勉強し、拙い発音で苦労しつつ、なんとか相手に自分の思いを伝える。これも確かに僕の旅の、1つの楽しみなのだ。
 それに言語を学ぶということは、すなわちその言語圏の文化を学ぶということである。言葉を知ることによって初めて見えてくる、余りある多くのことがある。そしてもう1つ。たとえ短く、拙い一言であっても、相手の国の言葉を話すことによって、お互いの距離は確実に近くなる。それが何といっても楽しい。