2009/09/11

水面

















 
水を意味する「ナーム」という単語は、僕が本格的にタイ語の勉強を始めた頃、最初に興味を持った単語だった。タイ語の単語には、複数の単語の合成によってできあがったものが多いが、中でもこの水「ナーム」を用いた単語はすこぶる多いのである。

 たとえば、水「ナーム」に、熱い「ローン」をつけると、湯「ナーム・ローン」。固い「ケン」をつけると、氷「ナーム・ケン」。宿る「カーン」をつけると、露「ナーム・カーン」。目「ター」をつけると、涙「ナーム・ター」。顔「ナー」をつけると、顔つき「ナーム・ナー」。色「スィー」をつけると、色合「ナーム・スィー」。音「スィアン」をつけると、音色「ナーム・スィアン」。手「ムー」をつけると、腕前「ナーム・ムー」。そして、心「チャイ」をつけると、思いやり「ナーム・チャイ」となる。

 言語は、人間が思考するための道具であり、言語と思考は同じ源に発し、共に発達してきたものだと言われているが、単語の成り立ち一つを見ても、その民族が何をどう思考してきたかがよく現われている。この、水「ナーム」との合成語の多さが示しているよに、タイの民族は水というものに対して、特別な意識を持っている。

 あれは確か30年ほど前。ビエンチャンの船着場でのことだった。僕はその朝ひとり、メコンを渡る舟を待っていた。熱帯とはいえ、乾季をむかえた内陸の朝は肌寒く、そんな少しうっすらと朝靄のかかった水際には、一、二艘の小舟が係留されていて、船頭たちが優美に長く反り返った舟の舳先に、とりどりの花飾りを括り付け、神妙に祈りをささげていた。「メー・ヤナン」という、水の神への捧げ物である。水はまさに、日々共に生き続ける対象であると同時に、それ自体、篤い信仰の対象でもあるのだ。

 そのメコンのことを、タイ語で正しくは「メー・ナーム・コン」と言う。「メー・ナーム」とは川を表す単語であり、水「ナーム」と、母「メー」によってできている。すなわち、内陸の民であったタイの民族にとって、「水の母」とは海ではなく、川なのでる。

 今もこのテーブルの脇、鬱蒼と繁った川岸の草叢の向こうに、あの頃と何も変わることなく、熱帯のまぶしい陽の光を照り返し、静かに波打ち流れゆくメコンがある。その遠い波の上には、また小さな漁の小舟が行き交っていて、たぶんそれらの小舟の舳先にも、美しく仕立てられたメー・ヤナンが括り付けられ、メコンの河風にヒラヒラとたなびいているに違いない。