2008/08/26

港市

















 現代のように全土に道路網が張り巡らされる以前、ほとんど密林や湿地に覆われていたインドシナでは、河川が人々の生活におけるメインストリートだった。そして、その河口を始めとする流れの要所には決まって市場がつくられ、河川を媒介にして様々な物が交易されていたのだ。

 かつてそういった市場には後背地の豊かな森林物資が集まり、やがて賑わう市場のまわりには人が住み始め「港市」が形成され、さらにいくつかの港市は巨大な「港市国家」へと変貌していったのである。タイのアユタヤも、ビルマのペグーも、カンボジアのプノンペンも、いずれもそういった性質の港市だったのだ。

 そして、アジア各地に点在していたそういった港市はまた、お互い極めて高度に発達した交易ネットワークによって結ばれていて、様々な物が盛んに交易されていたのである。

 その交易ネットワークの中で中心的存在になっていたのが、やはりなんと言ってもマラッカである。
 マラッカはその立地から、インドを基軸とするアラビア海・ベンガル湾交易圏と中国を基軸とする東シナ海・南シナ海交易圏とを結ぶ、東西交易の中継地として比類なき発展を遂げることになるのだ。
 たとえば、それまで中国とインドの間を往復するのに2年かかっていたものが、ここを中継地とすることによって、わざわざ2年もかけて中国とインドの間を行き来する必要がなくなり、交易のスピードは半分に縮まることになったのである。

 かくして、マラッカへは各地から様々な物資が流れ込み、当時ここでは西はエジプトから東は中国までの、84もの言語が飛び交っていたらしい。そして、インドシナの港市からも、積み荷を満載した船が盛んにマラッカを目指したのである。

 では実際に、インドシナの各地とマラッカとの間でどのような交易が行なわれていたのだろうか。1512年から15年まで、マラッカに滞在していたポルトガル人トメ・ピレスの残した『東方諸国記』の中に、その当時の交易の様子が詳細に記されている。

 まず、ビルマのペグーからマラッカへ運ばれたのは、米、ニンニク、タマネギ、カラシ、バター、油、塩などの食糧品。安息香、麝香などの香料。ラック。銀などの貴金属。ルビーを始めとする宝石などである。
 宝石は古くから、ビルマにおける重要な交易品だったのだ。あれはもう、かれこれ30年ほど前になるが、ビルマの街を歩いていると至る所で、闇の宝石売りに肩を叩かれたものだった。
 ビルマではルビーを筆頭に、ガーネット、スピネル、ダイヤモンド、ジルコン、アパタイト、サファイア、トルマリン、ペリドット、ムーンストン、ジェード、コハクなど、実に多くの宝石を産するのである。中でもルビーはビルマ産が世界最高品質とされていて、サファイアもビルマ産はインド産、スリランカ産とともにその品質の最高位を争っている。
 またジェード、いわゆる翡翠も、ビルマが最も重要な産地とされていて、ビルマ産のその半透明に光り輝く神秘的な翡翠は「インペリアル・ジェード」と称され、古くから中国へ盛んに輸出されていたのだ。

 逆にマラッカからペグーへ運ばれたのは、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。金などの貴金属。水銀、銅、錫、辰砂などの鉱物。フルセレイラ。真珠母。中国製の緞子、陶磁器などである。
 「フルセレイラ」というのは、「真鍮の削り屑を集めて作った塊」といった意味を持つ古いポルトガル語で、銅や錫、鉛などの粗質の合金のことである。交易は当初、もちろん物々交換によって行なわれていたのだが、交易が大量かつ複雑になってくると、必然的に一種の通貨としての役割を担うものが生まれてくる。フルセレイラも、そういった性質のものだったのだ。そして、やがて交易における国際通貨としての地位を獲得するのが、銀である。

 つぎに、タイのアユタヤからマラッカに運ばれていたのは、米、塩、干魚、ココナッツ、野菜などの食糧品。安息香などの香料。ラック。薬物。蘇芳などの染料。象牙。金、銀などの貴金属。鉛、錫などの鉱物。織物。金や銅で作った壷。ルビーやダイヤモンドの指輪などである。
 蘇芳というのは、インドからここインドシナにかけて自生するマメ科のある樹木から採られる染料で、特にタイは古来、多くの蘇芳を各地へ送り出していた。蘇芳の染料は芯材と、種を覆う莢から得られるのだが、その発色は煎じる際に加えられる媒染剤によって変化する。明礬を媒染剤にすると赤に、椿の灰を媒染剤にすると赤紫に、そして鉄塩を媒染剤にすると紫に発色するのだ。
 この蘇芳は、日本にはすでに奈良時代には渡来しており、正倉院にも蘇芳によって染めた『黒柿蘇芳染金銀絵如意箱』が伝わっている。また『源氏物語』の中で、源氏が六条院の正月に女楽を催した際、和琴を爪弾く最愛の紫の上が着ていたのも、蘇芳染めの細長だった。

 逆にマラッカからアユタヤへ運ばれたのは、コショウ、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料。白檀、竜脳などの香料。阿片などの薬物。蜜蝋。水銀、辰砂、雄黄などの鉱物。子安貝。インド製の綿織。ペルシアおよびアラビア製の薔薇水、呉絽、毛氈。奴隷などである。
 ここでいうところの奴隷というのが、いったいどういう人々なのかはよくわからないが、東南アジア諸国全般における「貴族、平民、奴隷」という身分の区別は、インドのカーストや日本の士農工商ほどの厳しさはなかったようだ。面白いことに、タイの身分制度の中には「王族逓減の法則」というものがあり、王族は一代下るごとに身分が一階級下がるというシステムになっている。ようするに、たとえ王族といえども、六代下るとなんと平民になってしまうのだ。そんなタイでは、奴隷も自己の責務さえはたせば自由に平民へ戻ることができたらしく、またタイの奴隷は、キリスト教徒の社会における奴隷ほど酷い扱いは受けておらず、イギリスの召使よりも待遇がよかったらしい。

 トメ・ピレスの『東方諸国記』には、この他にもカンボジアやチャンパー、コーチシナといった、インドシナの各港市からの交易の様子が記されている。
 上記以外の当時の交易品を他資料からもざっと上げてみると、砂糖、茶、蜂蜜、タマリンド、ナマコ、フカヒレ、ツバメの巣、シャコガイ、サゴヤシ、シナモン、カルダモン、白檀、乳香、蘇合香、樟脳、蘆薈、没薬、ジャコウネコの腎臓、クジャクの尾、カワセミの羽、犀角、虎皮、鹿皮、鮫皮、白い牛の尾、ベッコウ、真珠、サンゴ、チーク材、黒檀、漆、籐、檳榔子、阿仙薬、大黄、キンマ、ダイヤモンド、サファイア、トパーズ、ジェード、コハク、鉄、明礬、硫黄、硝石、火薬、生糸、絹織物、毛織物、ガラス玉、ビーズ、針、扇、紙、鏡、武器、船、ゾウ、ウマ、クジャク、オウムと、まさに目を見張らんばかりの多彩さである。

 実は、この華々しき交易圏の中には、はるか東シナ海の果ての島国、すなわち日本もやってきている。この交易圏への日本の参入を大きく後押ししたのは、何といっても日本に産する世界屈指の埋蔵量を誇ったその豊富な銀だったのだ。
 日本はこの南海の交易でその銀を使い、主に鹿皮や鮫皮、蘇芳、沈香などを持ち帰った。鹿皮は武士の胴着や袋に、鮫皮は刀の柄や鞘、鎧のおどしに用いられ、なんと日本はそのピーク時、鹿皮を年間19万枚、鮫皮を年間3万枚も輸入していようだ。

 もちろん、交易されている物も、またその市場の形態も、当時とはあきらかに違ってはいるが、今でもインドシナの水辺の市場の賑わいには、そんな昔日の熱帯の港市の残香が、微かに漂っている。