2008/08/31

大小

















 インドシナのビルマ、タイ、ラオス、カンボジアは、古くからとても敬虔な仏教国として知られていた。しかし「仏教」とは言っても、キリスト教にカトリックやプロテスタントがあるように、それは一枚岩ではなかったのである。これらの国々の仏教は、「上座部」と呼ばれる仏教なのだ。

 仏教とはもちろん、今更あらためて云々するまでもなく、ブッダ、すなわち悟りを開いたサキャカ族の王子ゴーダマ・シッダールタが説いた教えをもとに、その入滅後に生まれた宗教である。そう。ブッダの死は終わりではなく、またひとつの大いなる始まりだったのだ。

 紀元前、キリストが生まれるはるか前、ブッダがサラソウ樹の下で入滅すると、残された弟子たちは悲嘆に暮れる間もなく、ブッダの偉大なる教えが散逸し、誤伝することを恐れ、直ちに一同結集し、その教えを確認し合った。第1結集である。ちなみに仏教では、この結集を「けっしゅう」ではなく、特別に「けつじゅう」と発音している。

 そしてブッダの入滅後さらに100年が経過した頃、再び弟子たちは結集し、第2結集が行なわれた。この際、ある僧たちが金銭を受け取っているなどといった10項目にわたる問題が持ち出され審議されたのだが、これをきっかけに教団は、革新を求める進歩派と伝統を重んずる保守派に分裂してしまうのである。
 前者の進歩派を「大衆部」、そして後者の保守派を「上座部」と呼び、すなわちその保守派の仏教がインドから南方のスリランカを経てここインドシナへと伝播したというわけなのだ。その経路から、この仏教はまた「南伝仏教」とも呼ばれている。

 参考までに日本の仏教は、インドから北方のチベット、モンゴル、中国、朝鮮を経て伝播した「北伝仏教」で、この仏教はまた「大乗仏教」とも呼ばれている。「大乗」とは、サンスクリット語の「マハーヤーナ」の漢訳で大きな乗りものを意味し、実はこれは、上座部、大衆部を始めとする数々の教団が分裂を繰り返していた過程の中で興った、ひとつの大改革だったのだ。

 その頃になると分裂した部派は、それぞれにブッダの教えを整備、研究し、よりいっそう厳しい修行に専念し、出家修行者の質と地位は目まぐるしく向上していた。そして一方、仏教に帰依し、ブッダの遺徳を忍び、出家修行者に奉仕する在家信者の数も確実に増えていたのである。
 大乗は、こういった情況の中、それまでの出家中心だった教理を改め、出家、在家に関わらず、誰もがみな良き行いによって仏と同じ悟に達することができるとする教理を説いたのだ。ようするに、仏教はここでいよいよ一般民衆に明確な手、すなわち悟りへと導くための「大きな乗りもの」を差し向けることとなったのである。

 しかし大乗仏教はここで遂に、ブッダの教えに忠実であるという在り方を捨て、まったく新しい独自の教理を自由に発展させていくこととなるのだ。したがって厳密な意味において、今日に伝わる大乗仏教の教理は、もはやブッダ自身の純粋なる教えと呼ぶことはできないのである。

 ブッダは、また入滅に際して弟子のアーナンダに、「私の亡き後は、私が説いた教えと私が制した戒律とがお前たちの師となるであろう」と告げたと言われている。そして保守派として分裂しインドシナへと伝播した上座部仏教の人々は、その言葉通り、以後も変わることなく営々として結集を繰り返し、その都度、ブッダの教えと戒律についての熱い討論を交わしたのだった。

 結集は、13世紀、イスラム教の侵入によってインドで仏教が衰滅した後は、他国へとその場所を移すこととなり、19世紀には、イギリスの植民地となる直前のビルマで行なわれている。
 この結集は4年間にもおよぶもので、イギリスによる仏教の弾圧を恐れ、ブッダの教えを石に刻み残す作業が行なわれたという。また第二次世界大戦終結後にも、同じくビルマのラングーンで行なわれている。

 このように、ブッダが臨終に際して残した言葉に従って、ブッダの教えと戒律を幾世紀にもわたって師と仰ぎ守り伝えてきた上座部仏教は、また「戒律仏教」とも呼ばれている。すなわち上座部仏教の修行の根本は、難行や苦行などではなく、このブッダによって定められた戒律にしたがい、ただひたすら正しい日々を送り続けることにあるのだ。

 実はそんな上座部仏教には、もう1つの呼称がある。「小乗仏教」である。「小乗」とは、サンスクリット語の「ヒーナヤーナ」の漢訳で、その対極にあるのがすなわち大乗仏教なのだ。
 この呼称は、ブッダの教えに忠実であることに固執し続け、大衆の救済に意を注ぐこともなく己れの修行にばかり専心する上座部仏教の人々のことを、大乗仏教の人々が「卑小なる乗り物」だと侮蔑して呼んだことに始まるのである。ちなみに我々日本人も古くから、大乗仏教の栄えるこの日本という国を自ら、「大乗相応の地」と誇り高く呼び慣わしてきたのだ。

 だが世の宗教が、長い歴史の中で繰り返してきた数えきれないほどの、「他人を救う」という大義名分のもとに犯してきた悪や「布教」という名の暴力を思えば、この上座部仏教の「小乗」という在り方は、実に清潔な宗教活動だと言えるだろう。

まずは己れの人格形成。これこそが、宗教のスタートラインであると同時に、またゴールでもあるのだ。