2008/08/21

自然

















 〈神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのを支配させよう」
 神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」〉(旧約・創世記1-25)

 これは『旧約聖書』の「創世記」の中にある、あまりにも有名な一説である。
 そもそも『聖書』という書物は、他の宗教のそれと同様、表現方法において実に複雑な比喩を駆使していることから、さまざまな解釈を可能にする含みを持っている。しかし少なくとも、『聖書』という書物に説かれている世界観が、人間をその中心的存在として展開していることは、疑いの余地のないことである。

 そんな、人間中心主義の宗教と言われるキリスト教世界では、「創世記」にある通り、まず人間と動物とはまったく異なった意義を持ってこの世に存在しているのだ。
 すなわち人間は、神が自らに似せて造った特別な創造物であり、動物や鳥、魚といった人間以外のすべての生物は、神がその人間の利益のために造ったものなのである。ようするに人間は自然の一部などではなく、完全に自然から超越したものとしてこの世に存在していて、人間は、人間のために存在しているすべての生物を思いどうりに利用できる権利を、神によって与えられたというわけなのだ。

 したがって基本的に彼らキリスト教徒は、たとえば動物を殺し食べる際にその動物に対して、特別な畏怖や畏敬の念を感じる必要性はなかったのである。食卓に肉がのぼることへの感謝は、もとより動物にではなく、神に対して行なうのだ。

 このように、そもそもキリスト教を始めとするヘブライ起源の宗教には、「自然」というものを神聖視する観念は存在しなかったのである。たとえば、「神聖なる森」などというものもなかった。森も、木も、そして動物も鳥も、すべて神から人間に与えられた一つの資源であり、『聖書』の中に神の心を読み取るように、自然の中に神の計画を読み取ることはできるが、その自然自体を神自身に置き換えることは、すなわち神を冒涜することを意味したのである。

「キリスト教は自然を殺した」
 そう指摘されたように、これがかつての狭い意味でのヨーロッパ人が、何の気の咎めを感じることなく、動物を殺し、森林を伐採してきた所以であり、またそれはすなわち、彼らの神の意志でもあったわけだ。

 いっぽう古代インドでは、取り巻く自然というものを単なる物質としてとらえる考え方は、ついに生まれなかった。
 よって古代インドでは、我々が普通に使うところの「自然」を意味する言葉が存在していなかったのである。では、古代インドにおいて「自然」にもっとも近い言葉とはいったい何だったのかというと、それはどうやら「神」という言葉になるらしい。

 自然現象はことごとく神格化され、人々は彼らの力を強化するために祭祀を行い、供物を捧げ、讃歌を謳い、そんな神はその見返りとして、人々に多くの恵みを与えるものだったのである。まさに彼ら古代インド人にとって自然は、ただひたすら賛嘆する対象であり、神格化された自然と人間との間には、強い共存の相互関係が保たれていたのだ。

 またインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』の中には、「リタ」という言葉が出てくる。リタは、天体の運行や季節の循環を始めとする、宇宙、自然を貫く秩序を意味していて、日月や大気の流転も、また万物の生成消滅もすべて、このリタにしたがい繰り返されると考えられていた。そして面白いことに、リタを彼らは、人間の倫理や道徳をも貫く根本原理としてとらえ、リタに正しくしたがい生きることを、人間の在るべき真の姿としたのである。

 ちなみに我々の使う「自然」という言葉の起源だが、その古代中国で用いられた「自然」という言葉は、「自ずから然りあり」「あるがまま」といったことを意味したもので、今言うところの「自然」には、「天」「天地」「造化」「万物」などといった言葉が用いられていた。その中でも、最も重きをおかれていたのは天である。

 すべての自然現象は天に起因し、天に根源を持ち、人間もまた天に従属する存在にすぎなかった。人間は天と合一することによって、従来の不完全性を克服し、それはそのまま、天を介しての自然と融合することでもあったのだ。

 また、万物の実体を形づくるものとして発展していった「気」の概念においても、人間はそれら万物と何ら隔たった存在ではなく、まさに人間共々、万物はすべて、気という実体によって連続、一体化するものと考えられていた。そして道教においては、人為を否定した無為自然こそが、人間の在るべき真の姿とされたのである。

 もちろん日本でも、古代神道はまさに自然崇拝の最たるもので、山にも海にも、滝や岩、老木、シカやサルにも、神の姿を見出だしていたのである。また「花鳥風月」という言葉が示すとおり、我々日本人は、自然を愛でるという独自な文化も発達させたのだ。

 ようするにアジアでは、古来、自然は常に侵されざる神聖なものだったのだ。多くの神々が、太陽や大地、森や川、鳥や獣に姿を変え、我々人間の生を圧倒的な威光を放ち取り巻いていたのである。
 したがって、自然そのものに神を見るアジアでは、キリスト教世界のような、人間の力で自然を征服しようなどという思考はついに生まれなかったのだ。