2008/08/23

十字

















 ラオス南部、かつて大河メコンの畔に栄えたサヴァナケットという街は、眠っているような街である。しかも、眠りを醒ます王子が現われないまま延々と眠り続け、とうとう老いさらばれてしまった美しき眠り姫、といった感じなのだ。

 フランスはここインドシナの地でも、世界に散らばる他の植民地の例にもれず、誇り高きフランスの街並みを精力的に造営している。
 その仏領インドシナ最大の都市となる、植民地経済の中心地サイゴンでは、フランス植民地統治の象徴としてのインドシナ総督府を手始めに、サイゴン大聖堂、市庁舎、税関、裁判所、銀行、郵便局、市場、オペラ座、ホテルと、宗主国の威信を知らしめるかのように、本国フランスの街を模した壮大な建造物が次々と建てられ、その美しい街並みは以後その街に「東洋のパリ」という称号を与えることになる。
 同じく、仏領インドシナの政治の中心地ハノイでも、理事長官邸やハノイ大教会を始め、銀行、郵便局、オペラ座、ホテルと、旧来のヴェトナム人の街を押し崩し、燦然たるフランスの街が出現したのだ。そして規模の差こそあれ、サヴァナケットもまた、そういった街だったのである。

 メコンの船着場からのびる狭い路地を抜けると、おそらくこの街が造られた植民地時代、そこがこの街の中心だったのか、見ようによってはパリのどこかの広場にでも見えなくもない、ネコの額ほどの小さな広場になっている。
 しかし広場は、今ではもうすっかりと寂れ果てていて、往時の輝きをしのばせるものと言えば、その矩形に区画された植え込み中で淋しく揺れる、ブーゲンビリアの花くらいのものだ。

 だが、そんな寂れ果てた広場の奥に目をやると、そこにはまばゆいばかりに光り輝く白亜の教会が、サヴァナケットの小さな空に、小さな十字を高々と掲げていた。
 外壁に塗られている真新しいペンキの白は、やはりこの辺りの地味な景色の中ではあまりにも異質で、あたかもそれは、白い墓標のように光り輝き聳え建っているのだ。
 かつて、植民地主義の一里塚のごとく世界各地に立てられていった、これもまたそんな十字の一つだったのか。

「キリスト教徒と香料」
 この合言葉を旗印にして、輝かしき大航海時代の幕は切って落とされたわけだが、キリスト教の布教は、キリスト教徒にとっての使命であり、また何といってもそれが彼らの善意でもあったことも疑いのないことである。
 彼らは、彼らの言うところの世の絶対的真理を知っていて、それはとても幸福なことで、逆にそれを未だ知らない人々は、彼らにとってとても不幸な人々だったのだ。

〈あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らの父と子の聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい〉(新約・マタイ福音二八—一六)

 かくして彼らは、聖書に綴られた言葉を胸に熱い使命感と善意に燃え、未知なる大海の彼方へと向かうことになったのだ。
 ところが残念ながら、彼らのその誇り高き善意は現実として、傲慢で排他的な、独善極まりない行為として各地の歴史に暗い影を落とすことにもなったのだ。

 特に南アメリカにおける彼らの非人道的と言わざるを得ない改宗行為は枚挙にいとまがないが、インドでも、異教徒を根こそぎにするためヒンドゥー教の寺院を破壊し、また改宗させた人々を完全にヒンドゥー教から離別させるため、ヒンドゥー教が神聖なる生き物として食べるこを戒めているウシを強制的に食べさせることさえ行っていたらしい。

 幸いインドシナでは、そのような露骨な改宗行為は行われなかったようだが、十七世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジの著書『シャム旅行記』(岩波書店)の中には、タイの王の謁見の場でルイ十四世の言葉を代弁する大使の演説が入念に書き残されている。それを見ると、当時の彼らキリスト教徒の、キリスト教徒としての揺るぎない自尊心と、排他的な歪んだ正義感がよく現れていて面白い。

〈王は陛下の真の栄光に思いを至らせばこそ、ぜひとも陛下が、現在地上において包まれておられるこの至上の尊厳の由って来たるところは、真の神を措いて他にないことを御賢慮下さるよう、切に願っておられます。真の神とはすなわち全能、永遠、無限の神、キリスト教徒の認める神であり、諸々の王をして君臨せしめ、万民の運命を司るのは、ただこの神のみであるゆえに、陛下のあらゆる偉大さを捧げるべきは、天と地の神なるこの神であって、東洋において人びとの崇める弱き神々ではございませんし、そもそもこれらの神々の無力さは、かくも英邁にして明敏であらせられる陛下の御洞察を免れるはずのないところでございます〉

 しかし、何と言っても特筆すべきは、また彼らのそれが多くの場合、まさに布教という皮をかぶった侵略行為以外のなにものでもなかったということである。異教徒を強制的に改宗させ、富を掠奪し、異教徒の土地を流血をもって征服することが、「キリスト教」という旗の下に、みごとに正当化されたのだ。
 皮肉にも、布教という宗教行為が軍事力と両輪をなし、ヨーロッパの植民地帝国は全世界へと拡散拡大してゆくのだった。。

 かくして、その侵略者たちの血塗られた足跡には、煌めく十字架が一本、また一本と立てられていったのである。