2008/09/11

立前

















 タイの僧は、托鉢で得たものは肉でも魚でも何でも食べる。ところが、破戒にはならない。それは「三種の浄肉」と呼ばれる、それが己れのために殺した肉ではなく、己れのために殺したということを聞いた肉でもなく、また己れのために殺したという疑いのない肉であれば食べてもかまわないという、実に柔軟な理論によるのだ。

 これは、ずいぶんと都合のいい言い訳のように思えるが、頭を丸め「精進」などという表看板を掲げ高潔を装いながら、裏では酒をあおり、肉をくらっているよりは、よほど清潔だと言えるだろう。それに、もともと原初の仏教では肉食は必ずしも禁じられてはいなかったし、そもそも人間は草食動物ではないのだ。こと「自然」という観点から考えてみても、人間が肉食をするという行為は、とても自然な行為なのである。

 したがって、草食動物ではない我々は、我々以外の生き物を大なり小なり食べなくてはいけない。もちろん、菜食主義というものもあるにはあるが、それはあくまでも「主義」であって、人間という生物の「性質」ではないのだ。

 実際、植物から摂られるタンパク質には、動物から摂られるタンパク質に比べ、必須アミノ酸がはるかに少ない。必須アミノ酸が少ないということは、体内で体の組織を作るために必要なタンパク質にすぐに変化できないということであり、その結果として、菜食主義者には常にタンパク質が不足する危険性がつきまとっている。
 また、玉子や乳製品さえ口にしない厳格な菜食主義者は、カルシウムやリン、鉄といったミネラルやいくつかのビタミンが欠乏する恐れがあり、彼らには日々、栄養バランスの維持のための多大な努力が必要となるのだ。

 ようするにタイの僧にとって重要なのは、不必要に生きものを殺さないということであって、食べないことではないのだ。

 ちなみに僕は非常に極端な男で、もちろんそれを奨励しているわけではないが、レジャーとしての釣りよりも、食べるための捕鯨の方がよほどましだと思っている。
 残念ながら、魚を針で引っ掛けて釣り上げ、口の肉を引き千切って針をもぎ取り再び水の中へと返してやる、釣り愛好家たちの愛の形「キャッチ・アンド・リリース」に、僕は愛などこれっぽっちも感じない。