2008/09/02

宇宙


















 インドでは古くから、宇宙の構造や生成に関する論議が盛んに行なわれていた。『リグ・ヴェーダ』の中にも、その熱い研鑽の痕跡が見て取れる。『リグ・ヴェーダ』とは、バラモン教、および後のヒンドゥー教の根本聖典である。

 「ヴェーダ」という名称は、「知る」を意味する言葉を語源としていて、聖句マントラを集めた古聖典の総称なのだ。
 ヴェーダは、『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、そして『リグ・ヴェーダ』の4種を数えで、『リグ・ヴェーダ』はこれら4種のヴェーダの中でも、最重要、かつ最古のものとされ、その起源は遠く紀元前十数世紀にまでさかのぼると言われている。
 そこには、宇宙創成をうたった数々の劇的な哲学的詩編が綴られており、その宇宙観は、やがて同じインドという大地から生まれる、仏教やジャイナ教を始めとする数々の宗教教理の中で、さらなる発展をとげることとなるのだ。

 それらの宇宙観は、それぞれに独自の理論を形成してゆくわけだが、また多くの共通点も内蔵していたのである。その共通する最も特徴的な点が、宇宙の中心に地から天へ貫く聖山を据えていることである。聖山は「メール山」、または美称接頭辞をつけ「スメール山」と呼ばれ、それがまた漢字音写され「須弥山」などとも呼ばれた。
 仏教では、5世紀にインドの仏僧ヴァスバンドゥによって著された『倶舎論』の中で、須弥山を取り囲み広がりゆく大宇宙が壮大なスケールで具現化されている。その仏教の宇宙観によると、まず須弥山の高さは8万由旬とされている。「由旬」とは、古代インドの距離を表す単位である。

 ちなみに古代インドに開花した文明は、インカとともに「0」を用いた最古の文明であることが知られているが、「アラビア数字」と呼ばれている今日ごく一般的に使われている数字もまたインドのグワリオール数字を起源として生まれたもので、実は古代のインド人は、世界有数の極めて高度な数学的知識を持っていたのだ。
 彼らはこういった知識をもとに、身の回りのものから、神話、空想の世界にいたる、ありとあらゆるものを数に置き換え表現しており、古代インドの空間や時間を表す単位の豊かさは、その数字の桁外れな大きさと共に、まさに目を見張るものがある。
 須弥山の高さを表すこの「由旬」という単位は、現代の単位に換算すると、1由旬、およそ7キロメートルになる。ということは、須弥山の高さ8万由旬は約56万キロメートル。ちなみに、地球から月までの距離が38万4,400キロメートルということは、須弥山という山がとてつもない高さであることがわかるだろう。

 須弥山は、金、銀、瑠璃、水晶の四宝でできており、中腹にはおびただしい数の諸天の居所が連なっている。この場合の「天」というのは、いわゆる「神」のことを意味し、それら建ち並ぶ諸々の天の居所の最上部には、四天王が居を構えている。
 四天王とは四方を守護する、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四天のことである。これらの天は、もとはインド古来の神だったのだが、仏教はそういう意味では実に寛容な宗教で、他宗教の神を否定するどころか、このように積極的に採用しているのだ。

 こういった寛容さと言うか、曖昧さと言うか、悪く言えばいいかげんな性質は、何も仏教に限ったことではなくて、アジアの種々の宗教の間では、むしろ「包容と調和」はいたって自然な現象だったのである。たとえば、日本の七福神にしてもしかりだ。
 七福神とは言わずと知れた、恵美須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七神のことである。しかし、恵美須はわが国の神道の商売繁盛と海運守護の神だが、大黒天はインドのヒンドゥー教の破壊神シヴァのことで、毘沙門天はインドの財宝の神、弁財天もインドのヒンドゥー教のもとは水の守護神で、福禄寿と寿老人は中国の道教の長寿の神、そして最後に布袋はなんと中国の仏教の禅僧なのだ。こんなインターナショナルな神々が、仲良く1つの船に乗って正月の茶の間にやってくることなど、キリスト教を始めとする、一神教を信仰する人々にとってはまさに想像を絶することに違いない。
 もちろん、あの宗教の坩堝インドにおいてもしかりで、たとえばヒンドゥー教では、なんとブッダも神ヴィシュヌの化身の1つとされていて、インドでは仏教をヒンドゥー教の一派だと思い込んでいる人々すらいるのだ。この辺が、多神教のなんとも大らかなところである。

 そんな、諸天で賑わう須弥山の形は方形とされていて、山頂は一辺が標高と同じ8万由旬という、これまた桁外れの大きさで広がっているのだ。そこには三十三天の居所「トウ利天」があり、中央には帝釈天、いわゆるバラモン教で言うところのインドラ神の居所「殊勝殿」が絢爛と光り輝いている。
 ちなみに太陽は、月や星たちとともに、この須弥山の中腹を廻っているのだ。しかし廻っているとは言っても、そのまま宙に浮遊しているのではない。太陽も月も、それぞれ天宮の中に納まり、その天宮が須弥山の中腹を廻っているのだ。太陽の天宮には火の車輪があり、月の天宮には水の車輪がある。

 そして、この須弥山の上空に「天界」が広がり、そこにまた数々の諸天の天宮が浮遊しているのである。
 須弥山山頂より8万由旬上空に夜摩天の天宮があり、さらにそこから16万由旬上空に兜率天の天宮が、さらにそこから32万由旬上空に楽変化天の天宮があり、またさらにそこから64万由旬上空に他化自在天の天宮がある。須弥山山頂からこの他化自在天の天宮までの総距離は120万由旬、なんと約840万キロメートルとなる。

 「欲界」。まず、ここまでの世界をそう呼んでいる。ようするに、須弥山や、ここまでの天界に居所する諸天は、神とは言えども、いまだ欲望のとらわれから解放されていないのだ。実際に、須弥山山頂の地図を開いてみると、そこには今で言うところのレストランやブティック、はてはキャバレーまでも並んでいて、そういう意味で仏教の神は、実に人間臭いのである。

 しかし、より上空に居所する諸天ほど欲望のとらわれからの解放がすすんでおり、須弥山山頂までの諸天が人間と同様、性器の挿入なくしては欲望を解消できないのとは異なり、その上空の夜摩天は軽く抱くだけで、その上空の兜率天は手を握るだけで、その上空の楽変化天は微笑しあうだけで、そして一番上空の他化自在天はただ見つめあうだけで、欲望を解消できるとされている。

 また、この欲界の上空にはさらに「色界」「無色界」と呼ばれる天界が広がり、それらを欲界と合わせ「三界」と呼んでいる。
 色界は欲界の上空、須弥山山頂より248万由旬、約173六万キロメートル上空から始まり、1,677億7208万由旬、約1兆1744億456万キロメートル上空まで広がっている。ちなみに「有頂天」という言葉は、この色界の最高所のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうるてっぺん、天上の極みということなのだ。

 色界は、欲界とは異なり、欲望のとらわれより解放されてはいるが、いまだに形を有するものの天界である。実は我々人間も、正しい修行をつみ、欲望のとらわれより解放されると、ここへ昇ることができるとされているのだ。
 この、人間がその各々の行い次第で、神よりも高いステージに昇格されるという仏教の宇宙観は、神の存在を絶対とするキリスト教やイスラムの信徒にとっては、これまた想像を絶することに違いない。

 そして無色界は、欲望もなく、形もなく、もはやただ純粋なる精神のみが存在する天界である。その場所も、欲界や色界との上下関係で表すことはできず、まさに無色界は空間の概念をも超越した存在なのだ。

 また須弥山は、「山」という言葉がついている通り確かに山であり、山は頂があれば、当然、麓もある。しかし須弥山の麓は、満々と湛えられた水の底に没しているのだ。その水深は、須弥山の高さと同じ8万由旬、ようするに地球から月までの距離よりも深い。
 この水は、円筒型をした「金輪」の上に湛えられており、金輪の厚みは32万由旬、約224万キロメートル、直径は120万3,450由旬、約842万4,150キロメートルある。金輪の縁は、「鉄囲山」という山脈によってぐるりと取り囲まれており、これによって水が外にこぼれ落ちないようになっているのだ。須弥山はちょうどその中心に、水面から天空に向かって突き出ているのである。

 そして金輪はまた、同じく円筒型をした「水輪」の上にのっている。水輪の直径は金輪と同じで、厚みは80万由旬、約560万キロメートルある。ちなみに「金輪際」という言葉は、この金輪と水輪との境目のことを指しており、ようするにここがわれわれ人間にとっての考えうる行き止まり、限界ということなのだ。

 さらに水輪は、同じく円筒型をした「風輪」の上にのっていて、風輪の厚みは160万由旬、約1120万キロメートル、その円周はまた桁外れに大きなもので、10の59乗由旬、すなわち約700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000キロメートルもあるのだ。まさに、人間の感覚で想像しうる距離の限界を、遥かに超えた巨大さである。

 もちろん、須弥山上空に天界が存在すれば、また地獄も存在している。
 地獄は「ナラカ」と呼ばれていて、地下深くに暗々と広がっているのだ。ちなみに奈落の底の「奈落」という言葉は、このナラカが漢字音写されたものである。
 『リグ・ヴェーダ』では、地下深くに暗い部分があり、悪業をなした人間は神によってそこへ堕とされる、といった程度の地獄観でしかなかったが、長い歳月と幾多の熟考の末、地獄は、成した悪業を報いるべく、より過激に、より苛酷に発展していったのだ。

 まず地下500由旬、約3,500キロメートルは泥の層になっている。その下は、また同じく500由旬の白ゼンと呼ばれる白色の土の層になっており、さらにその下1,000由旬、約7,000キロメートルは、上より白土、赤土、黄土、青土の4層になっている。
 地獄はいよいよここから始まるのだが、地獄の形はそれぞれ立方体をしていて、まず最初に一辺の長さが5,000由旬、約35,000キロメートルの熱地獄が8つ連なっている。上から「等活地獄」「黒縄地獄」「衆合地獄」「号叫地獄」「大叫地獄」「炎熱地獄」「大熱地獄」である。
 そして最深部、地表から2万由旬、約14万キロメートル下に、熱地獄の中で最大の「無間地獄」があるのだ。無間地獄の一辺は2万由旬、約14万キロメートルで、ここに堕とされるのは、「五逆罪」と呼ばれる罪を犯した者である。五逆罪とは最も重大な罪のことで、ブッダの体から血を流させた者、聖者を殺した者、教団の和合を破る者、父を殺した者、母を殺した者である。彼らの身はここで、絶え間なく繰り返される、ありとあらゆる苦痛によって苛まれ続けるのだ。

 しかし地獄に堕ちる者は、これら八熱地獄だけでは許されない。立方体をしたそれぞれの地獄の各壁面には門があり、その奥にまたご丁寧に「トウイ副地獄」「屍糞副地獄」「鋒刃副地獄」「烈河副地獄」という副地獄が付随しているのだ。
 これら地獄の責め苦を考え出した古代インド人の想像力の豊かさはまさに圧巻の一言だが、実は地獄はまだこれでは終わらない。八熱地獄があれば、ちゃんと八寒地獄も用意されているのだ。「ア部陀地獄」「尼刺部陀地獄」「アタ陀地獄」「カカ婆地獄」「虎虎婆地獄」「ハ鉢羅地獄」「鉢特摩地獄」「摩訶鉢特摩地獄」である。
 もちろん、こういったおびただしい数の地獄は、どれも人間が悪をなさないための戒めとして生み出されたもので、地獄の観念は世界中のほぼあらゆる民族の精神文化の中に大なり小なり存在しているのだ。まったく人間というのは、やっかいな生き物である。

 そして、これらの数々の地獄や天界、須弥山、金輪に水輪、風輪がもろとも、虚空の中に浮かんでいるのだ。「虚空」とは、無辺、無量、無為で、一切の変化をもたないものである。しかしこの虚空に浮かぶ宇宙は、全宇宙のほんの一部でしかなく、これを「一世界」と呼んでいる。
 全宇宙には、この一世界がまた気の遠くなるほど存在しており、一世界が千個集まった宇宙を「小千世界」と呼び、その小千世界がまた千個集まった宇宙を「中千世界」、さらに中千世界がまた千個集まった宇宙を「三千大世界」と呼び、古代インドに発芽した仏教の大宇宙は、どこまでも果てしなく広がっているのだ。

 では、いったい我々人間はその宇宙のどこに住んでいるのか。我々が住んでいるのは「贍部州」という島なのだ。
 須弥山のまわりの満々と水を湛える大洋の中には、「七金山」と呼ばれる環状の7つの山脈が、ちょうど水の波紋のように須弥山を取り囲んでいて、その七金山の外側に4つの島がある。東に「勝身州」、西に「牛貨州」、北に「倶盧州」、そして南に「贍部州」である。これらの島は形と色がそれぞれ異なっており、勝身州は半月形で黒、牛貨州は円形で赤、倶盧州は正方形で黄、贍部州は台形で青となっている。

 この我々の住んでいる贍部州の青という色が、「地球は青かった」とガガーリンに言わしめたあの青と何らかの関係があるのかどうかは分からない。なにぶんにもこれは、古代インド人の考えた話である。だが、もしかして彼らは、我々の地球が青いという事実を知っていたのかもしれない、そんな空想が違和感なく思い描けてしまうことが、この古代インド人の宇宙観の中にはまだあるのだ。

 実は、我々の住んでいるとされているこの贍部州の形は、確かに台形と記されてはいるが、実際はほとんど逆三角形に近い形をしているのである。ではなぜ我々の住む贍部州は逆三角形なのか。それは、この宇宙観がインド人によるものであることを考えれば、おのずと見えてくる。
 そう。贍部州はインド亜大陸の形になっているのだ。おまけに贍部州の南海上には、東西一対の小島も表されている。東の島は「遮末羅」、西の島は「筏羅遮末羅」と呼ばれ、西の島はもちろん現在のスリランカを指し、東の島はモルディブ諸島あたりを指すと言われている。飛行機も、ロケットもなかった古代のインド人が、自分たちの住んでいる大陸の形をここまで知り得たという事実は、まさに驚異としか言いようがない。

 ところが贍部州は、その形以外にも、インド亜大陸に類似した多くの要素を備えているのだ。まず贍部州の北には、「雪山」と呼ばれる雪を頂いた峨々たる山脈が東西に連なっている。これはもちろんヒマラヤ山脈である。雪山の北にはまた、「香酔山」と呼ばれる高峰が聳えていて、これはチベット高原にあるカイラーサ山を指している。香酔山には、芳しい香を発する樹木が生い茂り、その香を食べて生きている歌舞音曲を司る神たち、乾闥婆や緊那羅が住んでいるのだ。

 香酔山の麓には、8種の特性を具えた清水を湛える「無熱悩池」と呼ばれる巨大な湖があり、これはカイラーサ山の傍にあるマナサロワル湖を指している。8種の特性とは、甘い、冷たい、軟らかい、軽い、清い、臭いがない、喉を損なわない、腹を痛めない、の8種だ。
 またこの無熱悩池からは、4つの動物の口から大河が四方へ流れ出している。東の銀の牛の口からはガンジス河が、南の金の象の口からはインダス河、西の瑠璃の馬の口からはオクサス河、そして北の水晶の獅子の口からはシーター河が流れ出しているのだ。

 それにしても、微に入り細に入り、なんとも奇妙奇天烈なことを考えたものである。だが、このアジアの宇宙観における、想像を絶する巨大さや極端な神格化は、またそのまま人々の、己れを取り巻き、己れを生かし続ける何ものかへの、畏怖や畏敬の念に他ならなかったのだ。そして宇宙は当然、我々人間が足を踏み入れることを許されない、まさに侵されざる存在だったのである。

 ちなみに「世界」と「宇宙」は、ほぼ同じ言葉らしい。ともに「世」と「宙」が時間を表し、「界」と「宇」が空間を表している。ただひとつ違うことは、世界が人間の存在を大前提にしているのに対して、宇宙は必ずしも人間の存在を大前提にしていないということだ。