2009/10/01

保存


















 僕は、動物園が大嫌いだ。

 根っからの動物好きの父親に連れられ、幼少の頃、幾度となく動物園へ行ったが、行くたびに決まって子供心に感じていたのは、物珍しい動物を目にする胸躍る感動や感激などではなかった。

 冷たい鉄格子に囲まれた檻。コンクリートで固められた山に、みどりに淀んだ池。枯れ木の枝から揺れる、鎖に吊るされた古タイヤ……。
 もちろん僕はサルやキリンにも、カバにもペンギンにもなったことはないから、彼らの心の内を知る由もない。しかし、今でも「動物園」と聞いて頭に思い浮かぶ言葉は、幼少の頃と何も変わってはいない。「かわいそう」すべてがその一言につきる。

 いったい、動物園とは何なのか。

 なんでも聞くところによると世界最古の動物園は、3000年ほど前の中国、周王朝の初代皇帝武王が作ったそれとするのが通説らしい。それは、領土の各地から集められた珍しい動物を展示した、いわゆる彼の「知の庭園」の一部だったのである。

 そして以後、世の王侯貴族を始めとする時の権力者たちも同様にして、規模の差こそあれ、世界各地から珍しい動物を集め飼育し始めたのだ。ようするにそれも彼らにとっては、絵画や彫刻、陶器や磁器を集めるのと何ら変わることのない、ごく個人的な欲求を満たすひとつのコレクションにすぎなかったわけである。

 そんな、極めて個人的なものだったコレクションを、今日の動物園ように公開した最も早い例は、18世紀のウィーンにあった。ハプスブルク家の夏の離宮、シェーンブルン宮殿の庭園内に造られた動物展示施設がそれである。マリア・テレジアの夫である皇帝フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンが、その自慢の、展示施設におさめられた生きたコレクションを、賓客を招き公開したのである。1752年のことだった。

 しかし、ここでもまだこういった施設は、あくまでもごく個人的なコレクションの展示施設以上のものではなかったのである。それが、動物を生きた研究対象として飼育し人々に広く公開するという、現代の動物園の原型となる施設へと様変わりしたのは、19世紀のロンドンでのことだった。ロンドン動物学会の研究資料収集施設として創設された、ロンドン動物園である。1828年のことだった。

 そして現代の動物園は、そんな近代の動物園の精神を継承し今日に至っているわけだが、それには主に3つの機能があるとされてきた。

 まず「研究」。研究は、動物園の創設当初からの重要なテーマであり、世界各地から集められた生きた動物を、生きた研究材料として飼育したのだ。
 つぎに「教育」。もちろんこの場合の教育というのは、動物の教育ではない。展示された生きた動物を見るというその体験を通して、我々人間の知識を豊かなものにしようという趣旨のものだ。
 そして「娯楽」。これに関しては、あえて説明するまでもないことであって、てっとり早く言えば「見せ物」である。だが、今日の動物園にとってもっとも重要なテーマが、他ならぬこの見せ物なのだ。

 ちなみにロンドン動物園の当初の一般公開は、その入園料によって研究費を捻出するためのものだったわけだが、現代の動物園はほとんどの場合、研究施設というよりは動物をテーマにした娯楽施設である。研究はだいたいの場合、大学や、より専門的な施設で行われている。
 よって娯楽施設である以上、動物園は遊園地と同様、娯楽施設としての厳しい現実と対峙しなくてはならないのである。

 我々観客は実にわがままだ。珍しい動物や、人気のある動物がいなければ、途端に観客の足は遠のき、閉園の危機にさらされることになる。
 そこで動物園は常に、我々わがままな観客の好奇心を満足させられる動物を確保する必要性に迫られるのだ。

 動物園というのは、檻さえ作っておけば、どこからともなく珍しい野生動物が集まってきて、彼らが檻の中で勝手に自炊して生活するなどという甘い世界ではない。また、それらを動物園の職員が網を持って近所の野山で捕獲してくるなどというものでもなく、動物は莫大な資金を使って商取引されるのだ。
 動物の値段は、その動物の生息数や個体の大小、捕獲や輸送の難易度によって大きく左右され、当然、希少性が高ければ値段は一気に跳ね上がることになる。トラが500万円。サイが1200万円。ゾウが3000万円。シャチともなると1億円にもなるらしい。

 これ以外にも当然、飼育にともなう動物たちの飼料費に職員の人件費。施設の整備費に光熱費と、その運営に莫大な経費を必要としている以上、動物園には、観客を集める為の努力が何にも増して重要な仕事となるのだ。

 また現代の動物園が、娯楽以外に、その存在意義を社会に求めている「教育」と「種の保存」にしても、実に危ういものがある。

 映像メディアの発達した、テレビをつけると大自然の中で生きている野生動物たちの迫力ある映像が簡単に見られるこの時代において、そんな大自然の中から強引に捕獲してきた野生動物を、あえて動物園という場で見るということが、映像以上の、どれだけ素晴らしい教育になるというのだろうか。

 動物たちは、完全に自然環境から隔離され、観客に不快感を与える臭いも除去された、自然に似せて作られた人工の箱の中で、生きている。まさにひとつの標本として。ただ与えられた飼料を食べ、排泄して、眠り、そして死んでいく……。

 そこから学ぶものがあるとすれば、それはもう人間に飼いならされ生気を失った野生動物の哀れさ以外にはないんじゃないか、と僕は思う。それは彼ら動物たちが強いられている犠牲を考えれば、あまりにも軽すぎる大義名分である。

 しかし、確かに「種の保存」に関しては、動物園の存在の大義名分になりうるかもしれない。とは言え、ダーウィンの説を持ち出すまでもなく、種は自然環境の変化とともに淘汰されるものである。それが自然界の大前提だ。

 そしてひとつ見誤ってはならないのが、現在、動物園などの隔離施設の中で「種の保存」という大義名分のもとに飼育されている動物たちは、もとは我々人間の、より豊かな生活を手に入れるための飽くなき追求によって破壊された自然環境の中で、生存を危うくされ、絶滅の危機に陥った動物たちだということである。

 豊かな生活は何ひとつとして手放さず、自然環境は破壊し続け、しかも野生動物の種は永遠に保存し続ける。こんなことが、はたして可能なのか。

 極端なことを言うと、たとえ動物園の檻や水族館の水槽の中で、絶滅の危機に瀕する生物が命を繋げたとしても、彼らの帰る自然の森や川がなければ、それはもう意味のないことだ。
 あえてそこに意味を見い出すとすれば、やはりそれは過去の博物学者や蒐集家たちを奮い起こした、達成感におけるそれ以外の何物でもない、と僕はそう思うのだが。