2009/10/01

殺生



















 「生きものを殺すな」という戒めは、仏教の最も重要な戒めである「五戒」の中でも、第一の戒めだ。原始仏教最古の教典と言われる『スッタ・ニパータ』にもこんな一文がある。

〈生きものを害してはならない。また殺させてはならない。また他の人々が殺害するのを許してはならない。世の中の強剛な、また怯えているすべての生きものに対する暴力を抑えて〉

 しかし、確かに仏教の出家者は不殺生を守り続けてはいたが、信徒によって施された肉に関しては食すことは禁じられてはいなかったし、すべての生きものを殺さないという、厳密な意味での不殺生が行なわれていたわけではなかったのである。やはり現実問題として、我々人間が、すべての生きものを殺さないで生きるということは、不可能だと言えるだろう。
 ところがである。面白いことに、インドにはそれを極端なまでにも徹底しようとした人々がいたのだ。ジャイナ教徒である。

「ジャイナ教」
 この耳慣れない宗教は、実は仏教と同じくらい古い歴史を持ち、インドで仏教の廃れてしまった後も脈々として生き続け、今日においてもなお、この地で特異な存在感を持って生き続けている宗教なのだ。
 ジャイナ教の「ジャイナ」とは、「勝者」といった意味で、勝者とはもちろん、煩悩に打ち勝った者のことである。開祖はニガンタ・ナータプッタ。大悟して後は偉大なる英雄「マハーヴィーラ」という尊称で呼ばれた。彼は仏教のゴータマ・ブッダとほぼ同時代を生き、仏典の中にも、当時の代表的な自由思想家の1人として登場している。

 マハーヴィーラは、動物を犠牲に供す血なまぐさい祭祀を行なっていた『ヴェーダ』を否定し、不殺生の誓戒を中心とした、極めて厳格な禁欲主義を打ち立てたのだ。数あるインドの宗教の中でも、ジャイナ教ほど、ある意味で極端なまでにも不殺生を実践させた宗教はない。

〈一切の生きものは、生命を愛し、快楽に耽り、苦痛を憎み、破滅を嫌い、生きることを愛し、生きようと欲する。一切の生きものは命が愛しいのである〉

 すなわち、一切の生きものは生きたいと願っていると言うのだ。ジャイナ教はこの理論をもとにして、「修行者は一切の生きとし生けるものに、あわれみ同情あれ」と、徹底的な不殺生を課したのである。特に、出家修行者に課せられた不殺生は、まさに驚愕の一言といえるだろう。

 まず彼らは、裸足で歩かなくてはならない。履物をはいていると、気付かずに虫を踏み殺す危険性があるからだ。しかし、たとえ裸足であっても、小さな虫は踏み殺してしまうかもしれない。
 そこで彼らは、いつも小さな箒を持っている。歩く際、虫を踏み殺さないよう、それでもって地面を掃きながら歩くのだ。しかも、その箒は普通の箒ではいけない。掃いても虫を傷つけないよう、真綿などで作った柔らかい箒でなくてはならないのだ。もちろん彼らが歩くのは、地面にいる虫を見落とさないよう、明るい間だけに限られている。

 さらに彼らは、乗り物に乗ることも禁じられている。車輪で生きものをひき殺してしまう危険性があるからだ。したがって必然的に彼らの移動手段はただ一つ、柔らかい箒で足元を掃きながら裸足で歩くことになる。

 また彼らは、常に白いマスクをしている。それは空中の虫をあやまって吸い込まないためだ。水を飲む際も、水中の虫を飲み込まないよう、必ず濾過器で漉してから飲まなくてはいけない。

 そして彼らは、煮炊きしたものを口にしない。煮炊きは禁じられているのである。煮炊きする際、穀物や水、薪、地面にいる生き物が殺される危険性があるからだ。もちろん食事をするのは、午前中の、明るい場所に限られているのは言うまでもない。暗いと、食物にたかる虫をあやまって食い殺してしまう危険性がある。

 さらに彼らは、髪を切ることも、髭を剃ることもしない。髪を切ったり、髭を剃ったりすると、刃物でシラミやノミを切り殺してしまう恐れがあるからだ。したがって彼らは髪も髭も、刃物を使わず、手でもって引き抜くのである。

 これはジャイナ教の修行生活のほんの一面だが、実は厳密に言うと彼らのこの修行生活も、不殺生の戒めを完全には守りきれているとは言えない。ジャイナ教では動物と同じく、植物にも水にも霊魂を認め不殺生の対象としていることから、基本的に植物を食べることも水を飲むことも破戒、すなわち悪となるのである。

 だが動物はおろか、植物や水までも口にできないとなれば、我々人間は生命を維持していけなくなることは明白だ。したがってジャイナ教では驚くべきことに、一切の食物を断ち餓死することが、とても尊い行いとして称賛されているのである。確かに、すべての食物を口にせず餓死することは、究極の不殺生と言えるだろう。

 では、ジャイナ教の信徒は、どのような生活を送っているのだろうか。もちろん不殺生の戒めを遵守するめに、厳格な菜食主義を行い、その食事も日が暮れるまでに限られ、日々動物を傷つけないよう正しい生活を紡いでいるのだ。
 だが、信徒の喜捨によって修行生活を送っている出家者とは違い、彼ら信徒自身は現実問題として、社会の中で働かなくてはいけない。では彼らは、戒律を守り生きものを傷つけず、いかにして働いているのか。

 まず農耕は、土中の生きものを殺すおそれがあることから禁止されている。池や沼の干拓も同じだ。水中にも生きものがいる。
 林業は、木を伐採することから、木の命を奪い、また鳥の住みかも奪う。大工も同様の罪を犯すもので、また鋭い刃物を使うことから、その刃物を作る鍛冶屋が火で生きものを焼き殺す罪ともつながっている。そもそも、火を使う仕事はいっさい禁止されているのだ。鍛冶も炭焼きも、そして調理もいけない。
 また運送業も、車輪で路上の生きものをひき殺すため禁止されている。もちろん理髪業は、ハサミで髪の中にいるシラミやノミを切り殺してしまうので、これもいけない。当然、牧畜業や漁業、屠殺業などは論外である。

 このようにして、ジャイナ教の不殺生の戒めは、信徒の社会生活を限りなく不可能に近くしているのだ。そこでジャイナ教の信徒の職業は古来、現実的にあるジャンルに限られていた。
 そう、金融業と商業である。実をいうと彼らは、その世界で古くからとても成功しているのだ。

 それは、日々厳しい戒律を遵守している彼らにとって、嘘をつかないことも、盗まないこともまた、彼らにとっての重大な戒律であることから、ジャイナ教の信徒が社会的にとても信用されているからなのである。さらに、彼らは戒律を遵守するがゆえに、暴飲暴食することもなく、浪費することもなく金は貯まる一方で、面白いことにジャイナ教徒は実に裕福なのだ。
 かつてインドの民族資本の半分以上を、全人口の数パーセントにすぎないジャイナ教徒が握っていたというのだから、なんとも愉快な話ではないか。