2009/01/21

科学

















 東洋では科学は生まれなかったというのが定説である。東洋のそれは技術であって、科学はあくまでも西洋のものだったのだ。

 そもそも科学とは、神から与えられた自然をいかに活用、管理、制御するかという支配の探求だったのである。そこには当然、自然に対する敬意などといったものを介入させる必要性は一切ない。敬意は神にこそ捧げるものであって、科学の、自然に内在している法則を解明する行為は、創造主である神の創意を読み取る行為に他ならなかったのだ。もちろん、その根底に流れていたのが『旧約聖書』の「創世記」に記されている自然観、すなわち神、人間、自然という支配構造だったことは言うまでもない。

 したがって東洋のように、もしも彼らにとって自然というものが侵しがたい、尊く神聖なものだったとしたら、状況は大きく変わっていただろう。存在するすべてのもの、有機物も無機物も、もちろん我々人間を始めとする生物をも、あくまでも1つの事物として、ただひたすら客観的に、冷徹に、観察、分析、解明できたからこそ、今日の科学の進歩があったのだ。
 また、その「進歩」という概念自体も、キリスト教の目的論から生まれたということを忘れてはならない。

 そんな科学の純粋なる知の追求には当然、倫理感や道徳感などといった感情が介入する余地はない。ようするに科学は、「いかに生きるか」といった思索などとはまったく無縁の学問なのだ。科学の知の追求は、言い換えれば手段の追求であって、しかもそれは目的を必要としない、究極なる手段の追求なのだ。

 そして神の手として「自由」という名の許しを得た科学者はまた、その知の追求の呪縛から離れられない。1つの問が解明されると、ただちに新たな問が生まれ、彼らの知的好奇心は永遠に満たされることなく、出口のない知の連鎖の中を彷徨い続けるのだ。
 こうして生み出された科学の新たな発見は、概ね「経済」という名の欲望の循環システムの中にただちに取り込まれ、我々の欲望を刺激し増産させる担い手となる。経済とは、宗教を始めとするかつての様々な英知がつねに戒めてきた人間の欲望を養分として、成長増殖するのだ。科学が宗教を解体したように、経済は我々が守り続けてきた伝統的な価値を解体し始めたのである。
 すなわち今日、科学が次から次へと生み出す新たな発見は、次から次へと新たな欲望を生み出し、それがあたかも血液のようにこの社会の中を廻り活性化させるのだ。

 もちろんそこで重視されるのは、倫理感や道徳感などではなく、経済効果である。経済効果は多くの場合、我々の健康や幸福よりも優先するのだ。
 このようにして科学と経済は、一種の寄生と宿主のような相互関係を持ち、経済が活性することによって、科学はそこから得られる代償をエネルギーとして、さらに発展し続ける。そして、とうとう経済体制の中に組み込まれてしまった科学が生み出す、倫理感や道徳感の欠落した目的のない手段が、新しい価値となって我々の生き方を大きく左右し始め、いよいよ人間の、また地球の未来をも危うくさせるかもしれない、不気味な暗雲となって広がっていこうとしているのだ。

 これは、核兵器の開発や遺伝子の操作といった大掛りなものに限らず、ここ近年急増している、ごく身近なインターネットや携帯電話を使った犯罪を見てもしかりである。
 恐ろしいことに今、我々の倫理感や道徳感がどんどん低下している中で、科学が次から次へと生み出す技術だけが、どんどんと発達し続けているのだ。