2009/08/22

美食

















 実を言うと僕は、京都へ観光に行っても南禅寺で湯豆腐ではなく、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べる男である。
ようするに、その土地ならではのものを食べなくてはいけないというような特別な執着のない男なのだ。もちろん僕自身、そうすることを損だとも、恥だとも思っていない。
かといって、「グルメ」という文化を否定しようなどという気も毛頭ないのも事実である。だが、少なくとも自分自身は、グルメではありたくないとは思っている。腹がすいたら何を食べても美味しく、腹がいっばいなら何を食べても不味い。これが僕の「食」というものに対する基本的スタンスなのだ。

もっともスタンス以前の問題として、たとえそれを食べるお金はあっても、僕にはカスピ海産のキャビアの良さも、ペリゴール産のトリュフの良さも分からない。そんな男が食べるのは、まさに貴重な資源の無駄というものだ。

しかし、もしかするとこれからは、希少価値の高い新鮮な食材で究極の料理を仕立てる料理人よりも、養殖やブロイラーの食材で究極の料理を仕立てる料理人の方が、より称賛されるべき時代が訪れるかもしれない。僕は今でも、そういう料理人を心から称賛したいし、彼らの仕事を、料理の輝かしき歴史における後退だとも堕落だとも思わない。

ひもとけば、フランス料理の精緻を極めたソースも、中華料理の深遠を極めた乾物も、もとはと言えば食材の悪さや立地の悪さといった障害を克服させるために、時の料理人たちが心血を注ぎ創造したものである。
これからの料理人は、社会的にも倫理的にも、来たる時代に対してとても大きな役割を担っていると言えるだろう。