珈琲


実はコーヒーは、何を隠そうラオスの特産品なのだ。主に、大きく南へと下ったボロヴァン高原で栽培されていて、ラオスが外国へ向けて送り出す数少ない輸出品目の中で、コーヒーは大きくその名を列ねている。

そもそもこの「コーヒー」という名称は、アラビア語の「カフア」を語源としていて、すなわちこれはアラビア世界の、イスラムの人々の間で飲まれていた極めて宗教的な飲み物だったのだ。それが、時代を経て次第に西欧世界へと浸透していったわけだが、当初、東アフリカの限られた地域で栽培、収穫されていたコーヒー豆の供給は、当然アラビア商人が一手に握っていたのである。その独占体勢を打破したのが、オランダだったのだ。

実はオランダはかなり早くから、まだヨーロッパ人の社会にコーヒーを飲む習慣が定着する以前からコーヒーと関わっていたのである。コーヒーを飲む習慣が、インドやインドネシアのイスラムの人々の間にも広がっていることに着目したオランダ人は、アラビア人から買い付けたコーヒーを航路でアジアへ運び、高値で売り捌くという商売を始めたのだ。

実際、コーヒーの消費量は増加の一途をたどり、これはかなりいい儲けになったのである。そしてオランダ人はやがて、買って売るよりも、作って売ればさらに大きな利益が得られることに気付くのだ。

1680年、オランダはコーヒーの苗木をインドネシアのジャワ島へ移植することに成功し、これが植民地におけるコーヒー・プランテーションの記念すべき幕開けとなったのである。しかしこれはまた人類の歴史を、明と暗に塗り分ける一つの時代の幕開けでもあったのだ。

もちろんコーヒーは、木を植え待ってさえいれば、豆が勝手に麻袋に入ってコロコロと港まで転がってくるなどといった代物では決してないのである。土地を切り開き、耕し、潅漑施設を作り、施肥し、害虫を駆除し、こうしてやっと収穫に漕ぎ着けるのだが、これで作業が終わったわけではないのだ。

ちなみにコーヒー豆は、「豆」という言葉が付いてはいるが、実は豆ではない。よって、ガサガサと枝を揺らせば、はじけたサヤの間からポロポロとコーヒー豆が落ちてくるというわけではないのである。コーヒー豆は、「コーヒーチェリー」と呼ばれる赤い実の、果肉の中にある種の部分なのだ。

まず、収穫されたコーヒーチェリーは、乾燥、水洗、発酵といった方法で果肉が除かれ、種が取り出される。種は一つの実の中に二つ向かい合って納まっていて、バラバラにされた種はさらに表面を覆っている羊皮、銀皮と呼ばれる皮質が取り除かれる。そして、ゴミの除去や細かい選別といった作業を経て、ようやく焙煎の前の段階である「グリーンビーンズ」として出荷の段階にいたるのだ。

当初こういった作業には、現地の住民が半ば強制的に駆り出され従事させられていたのである。多くの場合、彼らは人権を無視した苛酷な労働条件に苦しめられ、またそれは同時に、深刻な災いを招きうる危ういものでもあったのだ。飢餓である。

それまで彼らは、自らが食べるための作物を、自らの手で、自らの土地を耕し作り続けてきたのだ。それが突然、地球の果てに暮らす見も知らぬ人々のための作物の生産に、有無も言わせず代えられてしまったのである。ヨーロッパ人の華やかな生活を、自らの食物にも事欠き支え続ける第三世界という構図が、ここで形作られたのだ。

では、ラオスにコーヒーの木が初めて植えられたのはいったいいつ頃のことなのかというと、確実なことはわかっていないらしい。しかし、19世紀初頭、インドシナを旅したアメリカ人ジョン・ホワイトの残した記録の中には、当時、インドシナに居住していた宣教師たちが、私邸の庭でコーヒーの木を栽培していたという記述があるそうだ。そして、いよいよ仏領インドシナ連邦が成立すると、宗主国フランスによって、ラオス南部のボロヴァン高原に本格的なコーヒー・プランテーションが開かれるのである。

この熱帯性の常緑樹であるコーヒーの栽培は、平均気温が18度から20度の霜の降りない温暖な気候で、さらに年間1500ミリから1800ミリ程度の降雨量が望める標高600メートルから2000メートルの水捌けのよい高原が理想とされている。ボロヴァン高原は熱帯でありながら、その標高から暑気も極端に強くなく、しかもモンスーンの通り道であることから豊かな降雨量も望め、こういった諸条件がコーヒーの栽培を可能とさせたのだ。

その労働力は当然、ここでもまず近隣の住民や山岳部の少数民族が駆り出されていたのだが、やがてプランテーションの拡大とともに、インドシナ各地の村落から多くの労働者が掻き集められることになり、彼らもまた苛酷な労働と、マラリアなどの悪疫に苦しめられることになるのである。そしてここラオスでもやはり、これら宗主国フランスのための換金作物の生産によって、ラオ人の主食である米の生産はいとも簡単に見捨てられてしまうのだ。

このようにしてラオスもまた、世界各地の植民地の例にもれず、宗主国の営利追求の影に破壊された自給体勢。さらに、あからさまな愚民政策による教育の絶望的な遅滞。こういったフランスの植民地統治の在り方は、ラオス独立後の、ラオ人のラオ人によるラオ人のための国家建設に大きな障害となって現れた。