男というのは、一生、母性というものを追い求める生き物らしい。そんなことを身をもって感じさせてくれた最高のサービスを、僕はあるホテルでうけたことがある。それは、タイのバンコクにあるオリエンタルホテルでのことだった。
バンコクの街の中を、王宮から南へとひた走る大通り「ニューロード」は、この国で最初に舗装され、また最初に街灯の点った道路で、運河「クロン」から道「タノン」へと時代が移り変り、「新しい」近代国家タイは、まさにこのニューロードから動き始めたのである。
まだ熱帯のデルタの蘇生を多くとどめていたその当時、ここにはインドシナへ進出し始めたヨーロッパの商館や銀行が、通りにそって勇壮と建ち誇っていた。デンマークのイースト・アジアテック会社、イギリスのボルネオ会社、ホンコン・アンド・シャンハイ銀行、フランスのインドチャイナ銀行……。
そして1884年、デンマークのイースト・アジアテック会社の創始者アンデルセンが、同じくデンマーク人の船乗りがチャオプラヤ河の河岸に開業していた、これもこの国初の西洋式ホテルを買収し、本格的なホテル経営に乗り出したのが、今日、世界有数の地位と格式を誇るオリエンタルホテルなのだ。
かつてヨーロッパの植民地隆盛時代のアジア各地には、ロマン漂うコロニアル風の西洋式ホテルが盛んに建設され、そのいくつかが今日もなお、それぞれの地で老舗としての格式を放っている。香港のペニンシュラ、ハノイのトンニャット、サイゴンのレックス、ラングーンのストランド、シンガポールのラッフルズ、そしてバンコクのオリエンタル。
これらのホテルは当時、単なる宿泊施設ではなく、その地に居留する西洋人にとっての重要な社交の場でもあったのだ。オリエンタルもしかり。タイ歴代の王族を始め、世界各国の王侯貴族、政治家、文化人と、オリエンタルに残る多くのゲストリストの連なりは、そのままインドシナ屈指の社交場としてのこのホテルの華麗なる歴史の軌跡となっている。
ちなみに僕は、ネズミの這い回るドミトリーの安宿にも泊まるが、格式を誇る老舗のホテルにも泊まる。もちろんそれは裕福だからではない。実際、各地に多く建設されている高級なラグジュアリーホテルには泊まったことがないし、泊まろうとも思わない。
ではなぜオリエンタルに泊まるのか?それは、格式を誇る老舗のホテルは、そこに「泊まる」ということ自体が、観光になりうるからだ。
あの日、僕は無理をしてラオスの田舎を歩き回っていたこともあって、バンコクに戻った時、少し体調を崩していた。そこでチェックインを終えた後、ホテルのクリニックに行った。
結果は予想していた通り、単なる風邪だった。ドクターから飲み薬を手渡され、ちゃんと食事をとって薬をのみ、今夜は温かくして休むようにと忠告される。
そこで部屋へ戻る前に一階の売店に寄った。
実は僕は、風邪なんてものはめったにひかない男なのだが、それでも風邪をひくと、いつでも決まって食欲がなく、あの時もドクターの言いつけ通り何か食べなくてはと思ったものの、食べた物が何も思い浮かばなかった。そこ、とりあえず売店でチョコレートを買って、それを晩ご飯にしようと思い立ったのだ。ミルカのチョコレートと新聞を買い部屋へ戻った。
部屋へ戻るといつも通り、部屋の中は就寝用のベッドメイクに変わっていた。室内の明かりを落とし、サイドテーブルにはミネラルウォータとグラスが置かれていて、ベッドサイドの床にはコットンのマットとスリッパが揃えられている。
その時、枕の上に目をやると、これもいつものお決まり通り、おやすみ用のチョコレートが1つ置かれていた。「しまった。わざわざ売店に書いに行かなくても、今夜はこのチョコレートでよかったんだ」と少し後悔した時だった。ドアのチャイムが鳴った。
ルームサービスを頼んだおぼえもないし、いったいこんな夜に誰なのかと思いドアを開けると、ホテルのスタッフだった。何事かしらんと思いよく見てみると、温かいスープと毛布を届けてくれたのだ。しかもである。それを届けてくれたスタッフは、なんと白髪の高齢の女性だったのである。
彼女は黙って微笑み、コーヒーテーブルの上に温かいスープを置くと「冷めないうちにこれを飲みなさい」と言う。僕は言われるままに、その温かいスープを飲み始めると、彼女は終わったばかりのベッドメイクを外し、その中に温かい毛布を敷いてくれる。
そんな光景にただぼんやりと見入っていると、彼女は僕がスープを飲み終えたのを見計らって、ベッドサイドのテーブルのグラスにミネラルウォーターを入れ「ちゃんと薬を飲むのよ」といって手渡してくれた。そして僕が薬を飲んだことを見届けるとも「さあ、今夜は暖かくしてグッスリおやすみなさい」と言ってやさしく微笑み、部屋から出ていった。
その後ろ姿を見て、つくづく思ったのだ。
これがもし、温かいスープと毛布を届けてくれたのが、若い女性や男性のスタッフだったら、どんな感じだっただろうかと。体調を崩したゲストに、あえて母親のような、白髪の高齢の女性のスタッフに、温かいスープと毛布を届けさせる。
これが、世界有数の地位と格式を誇る、ザ・オリエンタルのサービスなのだ。
僕はあの夜、彼女の敷いてくれた温かい毛布にくるまり、なんだか身も心も暖かくなったような気がして、そのまま朝までグッスリ眠った。もちろん朝目がさめると、風邪はすかっかりよくなっていた。