僧侶


ブッダは入滅に際して弟子のアーナンダに、「私の亡き後は、私が説いた教えと、私が制した戒律とがお前たちの師となるであろう」と告げたと言われている。

「戒律」とは、「戒」と「律」との合成語で、戒は仏教徒の一人として個人的に守るべき規則を指し、律は仏教教団の一員として集団的に守るべき規則を指している。

すなわち、戒律なくして僧の存在はなく、戒律を遵守するものであるがゆえに、僧は僧として存在しているのである。そして、仏教もまた然り。5世紀の大学僧ブッダゴーサの言うように「戒律は仏教の命であり、戒律の在る所、すなわちそこに仏教がある」である。

したがって戒律は、僧の修行の根本を成すものであると同時に、また僧の存在の根本を成すものでもあるのだ。

ちなみにそんなブッダの制した戒律を今もなお守り続けている、例えばタイの僧侶は、乗り物に乗る際、必ず男をひとり伴っている。それは僧侶は戒律によって金銭に触れることが禁じられているからだ。ようするにタイの僧侶が乗り物に乗る際、僧侶に代わってその男が運賃を支払うのである。

「布施」という言葉がある。それは仏教において実践すべき六つの重要な行い「六波羅蜜」の第一で、施すことを意味している。そして、その施す行為は、施す人も、施される人も、また施す物もすべて、空であるとされている。

ようするに、僧侶が信徒に教えを施すことも、信徒が僧侶に物を施すことも、またその施す物も、すべての執着から離れていなくてはならない。すなわち、その施しによって相手から何か見返りを得ようと期待することも、相手に何を施させるかといったように相手に要求することもかたく禁じられている。ここで「物」という言葉を使ったが、これは物質に限らず、行為も、精神も、すべてが布施なのだ。少なくとも布施とは金銭ではない。

これはもちろん「すべて」だとは言わないが、もはや日本に僧侶はいない。髪を伸ばし、酒を飲み、肉を食い、妻帯し、「仏さま」「ご先祖さま」という有難い言葉を口にして信徒に金銭を要求してる。そんな彼らのことを僧侶と呼ぶべきか?

ちなみに僧侶と同じく、悩める人々に心の安らぎを与えてくれるカウンセラーという人々がいる。では、僧侶とカウンセラーの違いはいったい何なのか?それは、24時間365日なんだと僕は思う。僧侶は、葬儀や法事の時だけが僧侶なのではない。僧侶としての24時間365日があるゆえに、信徒はその存在に布施をするのである。