古代インドの聖句マントラを集めた古聖典『ヴェーダ』の奥義書『ウパニシャッド』の中に、霊魂がこの世に再生するプロセスが説かれている。「五火説」である。
それによると、まず人が死に焼かれると、霊魂は肉体を離れ煙となって立ち昇り、まず月へと至る。月へ至った霊魂は、やがて雨となって地上へ降り落ち、雨は大地にしみ込む。大地に雨とともにしみ込んだ霊魂は、つぎに植物によって根から吸い上げられ、葉が繁り、花が咲き実を結ぶ。その実を人間が食べると霊魂は母胎へと至り、やがてまた新たな生命としてこの世に再生するというのである。
死後、我々人間はいったいどうなるのか?その答えはおそらく。それを考える人によって様々なんだと思う。
ここ近年「終活」という言葉をよく目にするようになり、自分の葬儀や埋葬について様々なことが話し合われるようになり、それに便乗し、寺院や葬儀業者を初めとする様々な業者が、盛んに営利活動を行なっている。
ちなみに僕は、葬儀は亡くなった人を成仏させる儀式だとは思ってない。亡くなった人は、亡くなった瞬間に、安らかな眠りに入っているのだ。だから僕は、葬儀は残された遺族が亡くなった人と別れ心の整理をする、遺族のための儀式なんだと思っている。
だから僕は個人的に、愛する人に別れを告げるのに、高額な祭壇など必要ないと思っている。そもそも祭壇は、葬儀の後に遺体を火葬するための燃料として燃やしたものだ。棺と、そして棺の中に入れる花さえあれば僕はいい。
また日本仏教では、死後、初七日や四十九日といった、様々な供養を繰り返すことになっている。それはいったい何なのか?
仏教では生前の善行、悪行によって、しかるべき来世が決められるとされていて、その裁断が下されるのが死後49日目なのである。では初七日をはじめとする、四十九日まで7日ごとに行われる供養とはいったい何なのか?
それを正しくは「追善供養」と呼んでいる。
もうすでに亡くなった人は、より良い来世に生まれ変わろうと思っても、亡くなってしまったからには、もうどうすることもできない。そこで残された遺族が、亡くなった人がより良い来世に生まれ変われるようにと、亡くなった人に代わって善行を積むのである。それを「追善」と呼び、僧侶を招いて読経させるのは、その追善のひとつに過ぎない。
すなわち追善は、なにも僧侶を招いて読経させることだけではなく、ゴミを拾ったり、電車で席を譲ったり、すべての善行が追善なのだ。
ちなみに敬虔な仏教国として知られているタイでは、出家することが一番の善行だと考えられている。したがって親が亡くなった後、親をより良い来世に生まれ変わらせるために、その子供が出家するということが今でも行われている。
実は日本人は世界的に見て、死後の執着がとても強い民族だと言われている。実際、日本仏教では、四十九日の法事の後にも延々と供養を繰り返すことになっている。
そんな日本仏教の先祖供養は、中国仏教の先祖供養を取り入れたもので、中国仏教の先祖供養はまた中国の儒教の先祖供養を元にしている。しかし、中国仏教の先祖供養は三回忌までで終わっている。
ところが日本ではその後、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十回忌、二十五回忌、二十七回忌、三十回忌、三十三回忌、三十七回忌、四十回忌、四十五回忌、五十回忌、百回忌と、先祖供養の回数が驚くほど増加することになった。
それを大きなビジネスチャンスとして目をつけ、時として違法に営利を貪っているのが、近年、寺院をはじめ様々な業者が参入している「永代供養」というビジネスだ。
永代供養の歴史は古い。しかしそもそも永代供養は、寺に対して多大な貢献をした信者に対して、寺の側がその恩に報いるために行ったもので、それを寺が信者にお金を支払わせて行うようになったのは近年のことだ。
人間は、肌の色、性別、信じる宗教の差に関係なく、みんな同じなんだと思う。だからキリスト教徒は死後、教会で葬儀を行えばそのまま神に召されて天に昇るのに、仏教徒は死後、多額の供養料を支払い延々と供養を繰り返さないと、魂が霊界を迷うなんてことはないと僕は思っている。
ひとつ言えることは、供養とは心で行うものだ。愛する人を供養したい。その欲求で行うものであって、強要されて行うものではない。そして供養は、愛する人を供養したいと思い立ったその時、手を合わせたり、線香を立てたり、また大好きだったものを供えたり、愛する人との思い出に寄り添うこと、その心そのものが供養なのだ。
したがって、僧侶に読経させることだけが供養ではない。まして、高額な供養料を支払い、知らないうちに、どこかで誰かにお経をあげてもらう永代供養など、僕はまったく必要ないと思っている。供養はお金で売り買いするものではない。
もし僕が死後、自分の子供が何十万円、何百万円もの供養料を工面して、僕の永代供養の申し込みをしようとしていることを知ったら、僕はまず間違いなく、そのお金はお前たちの未来のために使えと諭すだろう。
では、いったい墓は何のためにあるのか?
墓とは亡くなった人との思い出に寄り添う場所。すなわち墓は墓参りをするためにあるんだと思う。したがって、墓参りをする人がいないのであれは墓はいらないわけだ。
墓に納められている壺の中の遺骨は、亡くなった人の思ひ出のカケラだ。壺の中に霊魂が封じ込められているわけじゃない。霊魂は、遺族の心の中にこそあるんだと僕は思ってる。
そして僕は、そんな思ひ出のカケラを壺の中に納め、何千年も残る石に名前を刻み、この世に永遠に残しておく必要はないと思っている。あえてそれをやる意味が僕にはわからない。
我々人間がこの地球上に現れた当初、100万人程度だったと考えられている人口は、紀元元年頃には3億人にまで膨れ上がり、以後、人口は災害や伝染病によって多少制御されながらも確実に増え続け、18世紀頃には7億人、19世紀にはすでに10億人にまで達していた。
こうして、いよいよ20世紀をむかえると、世界の人口は早くも16億人に達し、さらにそれからわずか30年後の1930年には、なんと20億人を突破してしまうのである。だが、その後も人口は衰えることなく、恐ろしい速度でもって増加し続け、1960年には30億人、1977年には40億人、1989年には50億人に達し、新世紀をむかえる直前の1999年には、とうとう60億人に達してしまったのだ。
このままの調子で増加し続けると2050年頃には、世界の人口は100億人近くにまで達するだろうと国連は予測している。そんな地球上に溢れ返る人々をすべて、何千年も残る石に名前を刻み、我々はこの地球上に墓を作り続けるのか?それにいったい、どんな意味があるのか?
地球の自然界から生まれた生命体である我々人間も、他の動物と何も変わらないのだ。産まれ、生きて、死に、そして最後はバクテリアに分解されて土に還る。それが自然界の原理だ。すなわち我々人間は、次の世代のために死に、何も残さずに土に還る。それが本来のあるべき姿じゃないかと僕は思うのだ。
僕は、自分の遺体が火葬さえされれば、遺骨の一部を拾い集め壺に入れる必要なんてないと思ってる。残された遺骨はすべて火葬場で廃棄して欲しい。『ウパニシャッド』の「五火説」のように、焼かれ、煙となって天にのぼれば、それ以上もう僕には何も望むことはない。