予告
















〈昼は昼に言葉を伝え、夜は夜に知識を送る〉

『旧約聖書』の詩篇にはこう綴られ、イギリスの詩人エドワード・ヤングは、夜は無神論者でさえも神を信じると言った。

何もかもが闇に覆い隠されてしまう夜。そんな暗闇の中を彷徨う我々は、闇を照らす灯りを探し続ける。それが神を求めるという、我々の潜在的な衝動なのかもしれない。

そして、その暗闇の中に我々を導く小さな希望、それがきっと夜空に光り輝く星なんだ。星は、夜の闇が暗ければ暗いほど、明るく光り輝く。

あの夜のメコンの川岸には、そんな何かを信じずにはいられないような圧倒的な熱帯の夜空が、無数の星を光り輝かせどこまでも果てしなく広がっていた。

秒読



あ る 時、人  間 が 石 を 使 い、火 を 使 い 始 め た。

そ の 瞬 間、こ の 地 球 の 運 命 は 決 ま っ た ん だ。

我 々 は 子 供 た ち の 未 来 に、い っ た い 何 を 残 し て や れ る の か。

カ ウ ン ト ダ ウ ン は 始 ま っ た。 


At some point, humans began to use stones, and then they began to use fire.

At that moment, the fate of this Earth has been decided.

What can we leave for our children's future?

The countdown has begun.

限界



アメリカのネイティブインディアンのホピ族の動詞には時制がなく、したがってホピ族には過去、現在、未来といった時間の捉え方がなかったと言われているが、過去は往々にして、もはや回収できない、送信してしまったメールのような心残りと後悔で溢れているものだ。

ちなみに「諦める」という言葉は、後ろ向きでネガティブな言葉だ。しかし今この世界は、目まぐるしい科学技術の発達によって、どんどん諦めなくていい世界へと移り変わろうとしている。

これは素晴らしいことだ。僕はテレビで、これまで治療できなかった難病の新たな治療方法が見つかったというニュースを目にするたびに、心から拍手喝采する。でも矛盾しているが、すべてがそうだとは限らない。

「諦める」という言葉は、確かに後ろ向きでネガティブな言葉だが、人生には時として諦めることも必要なんだと思う。諦めるということはまた、限界を知ることでもある。

教育の現場では子供たちに、諦めるな!諦めず成功を掴み取れ!と教えている。それは正しいことだ。でもこれは難しい問題だが、子供たちに、この世には「限界」というものがあることを教えるのも、同じくらい必要なんだと僕は思う。

科学技術の発達によってもたらされる、何もかもが思い通りになり、何もかもを諦めなくていい社会。僕はその社会がもたらす未来に、どこか恐ろしいものを感じている。

科学技術の発達を後押ししてきたもの、それは人間の欲望だ。これは疑いの余地のないことであって、すなわち多くの宗教が戒めてきた欲望の追求によって科学技術は目まぐるしく発達し、また科学技術の発達は我々人間の欲望をさらに増大させ、世界を作り変えてきた。

その結果として現れているもの、そのひとつが、今、地球規模で深刻化している環境問題だ。

21世紀を目前にした時、20世紀とはいったいどんな世紀だったのかといった議論が盛んに行われた。20世紀は、科学技術の発達によって、ついに我々人間が神になった世紀だ。そして神になり限界を見失った我々人間は、その欲望を今度は宇宙に向けている。我々人間は、地球でやってきたことを、今度は宇宙で繰り返そうとしているのだ。

科学技術はまず間違いなく、今後もどんどん発達していくだろう。ようするに、我々人間の道徳心や倫理観がどんどん低下していく中で、AIをはじめ、技術だけがどんどん発達していくのだ。それは恐ろしいことだ。

いつか我々人間には、この地球の生物である人間としての限界を正しく自覚する必要性に迫られる、そういう時が必ずやってくると僕は思う。

参考までに、「世界」と「宇宙」という言葉は、同じ言葉らしい。ともに「世」と「宇」が空間を表し、「界」と「宙」が時間を表している。しかしただひとつ違っているのは、「世界」が人間の存在を前提としているのに対して、「宇宙」は人間の存在を前提にしていないということだ。

平等



国連の女性差別撤廃委員会が日本政府に対して、天皇の皇位継承が男系の男子に限ると皇室典範に定められていることが女性差別だとして、皇室典範の改訂を勧告してきた。

この問題を考えるには、当然、そもそも天皇とはいったい何か?という問題を考えなくてはいけない。天皇。そう、それは「国の象徴」だと我々は社会科の授業で教わった。そして授業はそこで終わっている。

しかし、天皇は外国を訪問して晩餐会で国の親交を深めたり、災害が起これば被災地に赴き被災者と握手するための人ではない。もちろんこの現代において、天皇のことを「現人神」などと思っている人はいないと思うが、天皇は日本建国の世、すなわち「神代」から神格化された特別な存在だったのだ。

そして天皇はこの現代においても、一年中「宮中祭祀」と呼ばれる宗教行為を宮中で行っている。すなわち天皇が現人神から人間宣言をし、そして憲法で国の象徴となってからも、天皇は神代から変わることなく宗教の領域の人でもあるのだ。

たとえば毎年11月に行われる、その年に収穫された作物を神に供え天皇が自らそれを食す、宮中祭祀の中でも最も重要な「新嘗祭」は、夜中、御神楽(みかぐら)が奏せられる中、松明の明かりに足元を照らされた天皇が、宮中の神嘉殿に上殿し夜を徹して行われている。

ここで、じゃあ国連の言うことをきいて、もう女性を天皇にすればいいじゃないか!と言い出す人がいるだろう。しかしそれは、ただ男性を女性にするといった、ボールペンのキャップを青から赤に変えるような、そんな単純な問題ではない。おそらくその場合、天皇が男性から女性に変わることによって、宮中祭祀を変えなくてはいけなくなるだろう。これは会社の人事異動のような単純な問題ではないのだ。

参考までにキリスト教の、カトリックの最高司祭であるローマ教皇を選出する会議コンクラーヴェは、いっさい外界から遮断し枢機卿と呼ばれる教皇の最高顧問によって行われる。その枢機卿だが、女性がなることを禁じている。そして当然、コンクラーヴェで選出されるローマ教皇も、女性が選出されることはあり得ない。


ここでひとつ重大な問題がある。そもそも「平等」とは、「自由」とともにいまだに解明されていない哲学の大命題だということだ。その解明されていない哲学の大命題を、国連の女性差別撤廃委員会はどう解釈しているのか?

僕は「平等」とはいったい何なのか分からない。しかし今、「平等」は盛んにメディアで目にするようになり、その「平等」はほぼすべて男女の平等を訴えるものだ。もちろんそれは国連が提唱する「SDGs」よって世界的に広まりつつある、来る世の新たな価値観が後押ししていることは間違いない。

すでに幼稚園でも、園児の身につける帽子など、男の子は青、女の子は赤という色分け廃止しているらしい。男の子、女の子と区別することは間違っているのだと、教育の現場は子供たちに教えているのだ。

そんな社会の変化を目にする時、僕はいつもある疑問が頭の中に再燃する。

なぜ女性はスカートをはくのか?そしてスカートの下はなぜ下着でなくてはいけないのか?実はそれに関しては、世界の服飾史からかなり徹底的に調べたことがあったのだが、答えは出なかった。また、なぜ女性は胸元が広く開いた服を着るのか?なぜ女性は化粧をするのか?といったように、僕の疑問はさらに広がった。

もしそれを男性が女性に強要しているのだとすると、それは重大な女性差別であって人権侵害だが、少なくとも現代において、それはそういう問題ではなさそうだ。

その問題を考える時に必要なキーワードが「女性らしさ」だ。もちろん過去の歴史の中で、それを男性が女性に強要していたという現実があったのかも知れない。しかし現代では、多くの女性が自らがその「女性らしさ」を追求しているのだ。

それはまだ根強い男性社会が、暗黙の内に女性に「女性らしさ」を強要しているのであって、女性はそうしないとこの社会では生きていけないのだという反論もあるだろう。だから女性は下着の上にスカートをはき、胸元の広く開いた洋服を着て、化粧をし、政治家もまた色鮮やかない洋服を着なくてはいけないのだと。

僕はその反論を否定しない。しかし、もしそれが事実だとすれば、国連の女性差別撤廃委員会がまず行わなくてはいけない意識改革だと思う。


しかし今、国連が提唱する「SDGs」よって世界的に広まりつつあるこの来たる世の新たな価値観を、僕は間違っているとは言わないが、恐ろしさも感じている。男の子、女の子と区別することは間違っているのだと教育された子供たちが大人になる。我々大人は、そんな子供たちにどんな未来を与えようとしているのか?

極端な話、「男らしさ」「女らしさ」という言葉が前時代の差別用語となり、男性も女性もユニセックスの同じデザインの服を着て、スポーツも男性と女性が同じグランド同じコートで性別に関係なく共にプレイし、トイレも性別による区分けはなく男性も女性も同じトイレを使用し、メディアも「男」「女」という言葉を使わず男性も女性も同じく「人」という言葉を使い、世の中から男性、女性といった性別がすべて撤廃される。

我々は本当にそんなことが男女平等なのだと信じて、そんな社会になることを望んでいるのか?

1912年、ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのアレクシス・カレルは、その著書『人間 - この未知なるもの』(三笠書房)の中で、こんなことを書いている。

〈女性は男性とは非常に異なってる。女性の体のすべての細胞1つ1つに、女性のしるしがついている。女性の諸器官、なかんずく神経組織についても、同じことが言える。生理学の法則と同様に、不動のものである。それは、人間の希望によって取り換えることはできないのである。あるがままに受け容れなければならないものなのだ。女性は男性を真似ようとせずに、その本来の性質に従って、その適性を発展させるべきである。文明の進歩の中で、女性の担う役割は男性のものよりも大きい。女性は、自分独自の機能を放棄してはならないのである〉

「男女平等」は、男性、女性という現実として存在している性別を正しく理解した上でなされるものだ。そして「平等」という言葉もまた、平等とはいった何なのか?といったことを、徹底的に熟慮したうえで使用すべきだ。

この現代社会で最も力のある言葉は「自由」と「平等」だ。それは疑う余地のないことだ。この言葉を使うことによって、あらゆる反論を押し黙らせることができる。そして「自由」も「平等」も共に、いまだに解明されていない哲学の大命題であって、そんな言葉を簡単に使ってしまう恐ろしさを、僕は国連の「SDGs」に、そして今回の国連の女性差別撤廃委員会による日本の皇室典範改訂という勧告に感じている。

それは、意味の分からない言葉を使う恐ろしさ。そして、意味の分からないまま「自由」と「平等」という言葉はどんどん力を増し、我々の価値観を塗り替え、世界を動かしているのだ。


ひとつ!確かにネパールのクマリのような、女性への差別として問題視されている宗教行為も世界にはある。それは実際に被害者とされる女性がいる以上、国連の介入による早急な対処が必要なのかもしれない。

しかし日本の皇室典範に定めている男系の男子による皇位継承や、バチカンのコンクラーヴェによる男性の教皇の選出について、世界の女性ははたしてそれが女性に対する差別だという被害者意識をもっているのだろうか?そしてそこに国連が介入し、日本に女性の天皇を誕生させ、カトリックに女性の教皇を誕生させること、それこそが男女平等なのだと世界の女性は本当に望んでいるのだろうか?僕には分からない。

「無知と、そして良心的な愚かさほど危険なものはない」そう語ったのはキング牧師だ。

未来


可能性とは?
それは自分で押し広げるものだ。

才能とは?
それは自分で気付くものだ。

成功とは?
それは自分で掴み取るものだ。

失敗とは?
それは自分で学び取るものだ。

後悔とは?
それは自分で乗り越えるものだ。

限界とは?
それは自分で叩き壊すものだ。

そして未来とは?
それは自分で切り開くものだ。

自分を信じることを恐れるな。 
たとえ君を信じてくれるのが、この世に君しかいなかったとしても。
自分を信じること、それがすべての始まりなんだよ。


What is possibility?
It's something to expand by yourself.

What is talent?
It's something to realize by yourself.

What is success? 
It's something to grab by yourself.

What is failure?
It's something to learn by yourself.

What is regret?
It's something to overcome  by yourself.

What is limits?
It's something to batter down  by yourself.

And what is the future?
It's something to cut through by yourself.

Don't be afraid to believe in yourself.
Even if you're the only one in the world who believes in you.
Believing in yourself, that's where it all begins.