単語


言語は人間が思考するための道具だと言ったのは、ドイツの哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーである。我々人間は、言語でもって様々なことを思考してきたのだ。

僕は20代の頃、ブータンの留学生のサポートをしていたことがある。サポートとは言っても、ただ駒場の留学生会館に遊びに行き、ブラックペッパーの入った紅茶をご馳走になり、取り止めのない話をして、東京観光に連れ出すくらいのことなのだが、そんな取り止めのない話の中で、ひとつ僕にとって忘れられない話がある。

いつでも決まって熱すぎる、そのブラックペッパーの入った紅茶を飲みながら彼が、ブータンの向学心ある学生は、みな外国に留学しなくてはいけないのだと話した時、僕は「なぜ?」と聞き返した。すると彼は、ブータンで高度な学問を学ぼうとしても、それを可能にする単語がブータンの言語ゾンカにはないからだと答えた。

その、学びたくても、それを学ぶための単語がないのだという彼の答えは、20代の僕にとって衝撃的だった。僕は、誰でも学びたいと思う心さえあれば、どこでも学べると思い込んでいたからだ。

ちなみに日本は、世界的に見ても、言語が高度に発達した国だ。それに我々は気づいていないのか?

ここ近年ニュースのテロップには、不思議な日本語が並ぶようになった。「急きょ」「り災」「ち密」「隠ぺい」「ねつ造」「干ばつ」「こう着」「常とう」「対じ」「啓ちつ」「僧りょ」等々。と同時にカタカナの単語が急増している。「コンプライアンス」「インテリジェンス」「ガバナンス」「リスペクト」「イニシアチブ」「コミット」「アジェンダ」「コンセンサス」「エビデンス」等々。そしてアメリカに2期目のトランプ政権が始まったのと時を同じくして、NHKが積極的に「ディール」という言葉を使い始めた。時として「ディール、交渉を」とわざわざ英語と日本語を併用させてまで使っている。なぜ日本語ではなく「ディール」を使わなくてはいけなくなったのか、その理由は、その目的は、僕には分からない。

表意文字である漢字の単語が意味不明な平仮名混じりの単語になり、日本語の単語がどんどん英語のカタカナになっていく。この動向は、これから確実に広がっていくだろう。

確かに我々は、例えば『源氏物語』の中でも、悲しいことがあれば泣き騒がず、秋の草が夜露に濡れたと間接表現する民族だ。今、おびただしい大量の英語が、我々のコミュニケーションの中に入り込んでいるのは、日本語よりもカッコいいと思っているのかもしれないが、もしかするとそれは現代の我々日本人の間接表現なのかもしれない。

しかし我々日本人は、この高度に発達した日本語というものを、もっと理解し、大切に使っていかなくてはいけないと僕は思う。日本文化は、日本語によって生み出されたのだ。