それは山手線がレールのポイントを曲がり、車内が大きく揺れた時だった。吊り革を持っていなかった僕はバランスを崩しよろめいた。その瞬間、靴底に柔らかい感触を感じ、何を踏み付けてしまったんだろうと慌てて確認した。
すると、その柔らかいものの正体は、なんと犬の足だったのだ。でも、僕に足を踏みつけられた犬は、まったく声を発することもなく、何もなかったかのようにして座っていた。その犬は盲導犬だったのだ。
かつて、盲導犬のドラマや映画が、盛んにメディアで流されたことがあった。それは、どれもが人間と盲導犬との愛のキャッチボールといったような、愛に溢れた感動的なストーリーだった。でも僕は、それを目にするたびに、どこか釈然としない、後ろめたい思いにさいなまれた。
はたして、盲導犬になった犬は本当に幸せなのか?人間に足を踏みつけられても声を上げないように調教され、人間の道具として使われる事が、本当に犬にとって幸せなことなのか?もしも僕が犬の親だったとしたら、子供にはおもいっきり野山を駆け回らせてやりたい。
我々人間は、大なり小なり、動物を犠牲にして生きている。それは我々人間が野蛮だからなどではない。それは自然の摂理なのだ。そもそも人間は草食動物ではない。したがって、こと「自然」という観点から考えてみても、人間が肉食をするという行為はとても自然な行為なのである。
ようするに草食動物ではない我々は、我々以外の生き物を食べなくてはいけない。もちろん、菜食主義というものもあるにはあるが、それはあくまでも「主義」であって、人間という生物の「性質」ではないのだ。
実際、植物から摂られるタンパク質には、動物から摂られるタンパク質に比べ、必須アミノ酸がはるかに少ない。必須アミノ酸が少ないということは、体内で体の組織を作るために必要なタンパク質にすぐに変化できないということであり、その結果として、菜食主義者には常にタンパク質が不足する危険性がつきまとっている。
また、玉子や乳製品さえ口にしない厳格な菜食主義者は、カルシウムやリン、鉄といったミネラルやいくつかのビタミンが欠乏する恐れがあり、彼らには日々、栄養バランスの維持のための多大な努力が必要となるのだ。
おそらく、盲導犬というものに対して、このような否定的な発言をするのは、この社会では明らかな悪なんだと思う。でも僕は、都合よく動物を人間と同じように思い込み、動物が自らの意思で人間に尽くしているんだなどと、人間と動物の関係を描くことは間違っていると思っている。
大切はのは、我々人間の生が動物の犠牲のもとに成り立っているということを正しく理解することだ。
ちなみに僕は20年前、突然、聴力が低下し始めた。原因不明なんだそうだ。そこで人工内耳の手術に望みを託すよう医師にすすめられたが、結局、僕は手術しなかった。
僕は幸運にも、夏の終わりにヒグラシがどんな声で鳴いているのかとか、世の中のいろんな音をすでに聴いている。だから、もしこのまま何も聞こえなくなったとしても、それも自分に与えられた人生、それでいいんだと思った。
実際、聴力はどんどん低下していて、今ではもう補聴器を外すと何も聞こえない。このままいくと、遠くない未来には、もう完全に何も聞こえなくなるかもしれない。そんな時、もしも聴導犬の力を借りることになったら。
僕は、彼が僕の人生のために犠牲になったんだという思いをずっと忘れずにいたい。