誤算


かつて「ラーンサーン」、すなわち百万頭のゾウの国と呼ばれていたラオスの森林の深さは、とてつもないものだったのだ。19世紀後半、ラオスを訪れたフランス人ルイ・ドラポルトは、こう書き残している。

〈われわれの旅は実に、果てしなく続くひとつの森を行くものであったといえよう。カンボジアでその森にわけ入ってから18ヵ月ののち中国領内に入るまで、我々は一歩たりとも森から出ることはなかった〉

実際この国は、国土の90パーセントを山地や高原が占めていて、豊な森林に覆われているのだ。ひとつ面白い話がある。実は世界最貧国と呼ばれたラオスだったが、その情況は、たとえばアフリカ諸国などとは大きく異なっていたのだ。

それは、ラオスには森林があるからだ。たとえ経済的に貧しくとも、森に入れば、彼らを養う果物や木の実、鳥や獣といった豊富な森林資源がある。したがって、エチオピアやソマリアで発生したような深刻な飢餓は、森林がある限りラオスでは起こりえないだろうと言われている。まさにこの国の人々は、つねに豊かな森の恵みにいだかれ、生かされてきたのだ。

しかし、そんなラオスの豊かな森林も、実は世の例外になく、刻一刻と減少し続けているのである。1940年代には全国土の70パーセントを占めていた森林だったが、60年代になると64パーセントに、さらに90年代になると47パーセントにまで減少し、確かにラオスは他国と比較するとまだまだ豊富な森林が残っているとは言え、今ではもう全国土の43パーセント程度にまでも減少しているのだ。実にラオスではこの過去40年の間に、3分の1もの森林が消えてしまったのである。そして統計によると、この国の森林は今も年間0,3パーセントの割合で減少し続けているらしい。

では、ラオスの森林減少の原因はいったい何なのか。先ずその原因として、焼畑による森林の焼失が上げられる。焼畑とは、原始的な農法の一つで、草原や森林を焼き、その焼け跡で作物を栽培する農法である。これは、焼くことによって土壌の有機物が活性化し、また雑草や害虫の発生も抑えられるという、とても有効な農法なのだ。

そしてこの焼畑のもう一つの特徴が、一定期間その土地で耕作した後、別の土地に移ることである。これは、同じ土地で耕作し続けると地力が低下するからで、別の土地に移ることによって、それまで耕作していた土地に一定の休閑期を与え地力を回復させるという、伝統的な知恵なのだ。

このようにしてこの焼畑という原始的な農法は、森への敬意と、そして森によって生かされている者としての節度と共に、森とのある一定のバランスを保ち共生してきたのである。ところが近年、そのバランスが崩れ、森林の再生が追い付かなくなり、どんどん森林を減少させてしまうことになってしまったというわけなのだ。人口増加と貨幣経済。それが主因と考えられている。

公衆衛生の改善、医療の発達、こういったことが出生率を上げ、死亡率を下げ、村の人口を増加させた。もちろん、それは喜ばしいことではあるが、人口が増えるということは当然、それだけ多くの食糧が必要になるわけである。

また、古くから焼畑で自給自足の生活を送ってきた村人たちだったが、たとえばラオスの山中で目にした、ペプシの旗ゆらめく小さなバラック建ての雑貨屋に並ぶ清涼飲料水や調味料、石鹸、そういったものを手に入れるには現金が必要なのだ。それに当然、現金がなくては、子供たちを学校に通わせることも、病院で診察を受けることもできないのである。

おまけに、電気の引かれた村のどこかにあるテレビのブラウン管からは、物資溢れる現代社会の派手な娯楽と共に、消費を煽る魅惑的なコマーシャルが一日中流れ続けているのだ。それは、この山中の村の静かな生活と比べれば、まさに別世界の出来事には違いないが、村人がそれに憧れをいだき、それを欲することは、ごく自然な成り行きだと言えるだろう。

「いったんテレビが置かれると、肌の色、文化、背景がどうであれ、だれもが同じものを欲しがるようになる」。アンソニー・J・F・ライリーはこう指摘している。

こうして、古くから焼畑で自給自足の生活を送ってきた村人たちの生活にも現金の必要性が高まってゆき、その結果、それまで細々と作っていた自給自足の作物を、貨幣を得るための換金作物へと切り替えることとなり、頭数の増えた家族を食べさせるためにも、またより多くの現金を得るためにも、耕作地を広げなくてはならなくなったのだ。

さらに、極端な収穫を求めるがために、それまで10年から15年ほどの休閑期を経て火入れをし耕作していた焼畑の周期が、わずか3年足らずにまでも短縮されるようになったのである。こうなると、もはや森林の植生の回復はおろか、地力の回復も望めず土壌の肥沃度は低下の一途をたどることになり、木も生えない丸裸の痩せた荒地が残され、そして、またどこかで新たな森林に火が入れられ焼き払われるのだ。こうして、ラオスの森林はどんどん姿を消していくことになったのである。

だが、今ラオスで進行している森林減少の原因は、これだけではない。次にその原因として上げられるのは、これも焼畑と同じ現金収入の手段、商業伐採である。

ラオスは、紫檀や黒檀、チーク、花梨に桧といった上質な木材資源を有し、木材はこの国の三大輸出品の一つなのだ。1998年の時点での木材の輸出は、ラオスの外貨獲得額のなんと42パーセントをも占めていて、その木材の最大の輸出国が、実は隣国タイなのである。

タイの森林は、商業伐採や農地転用によって、国の近代化と共にみるみる内に姿を消してしまったわけだが、1988年に起きたある出来事が、タイの「森林」というものへの考え方を大きく変えることになったのだ。それはこの年、タイ南部を襲った大災害である。

当時その辺りには、森林を伐り開いた大規模なゴム園が広がっていたのだが、この年の11月末、そこに週1000ミリを越える猛烈な豪雨が降ったのだ。それによって、数百ヵ所で大規模な山崩れが起こり、土石流が近隣の村落を飲み込み、多くの犠牲者が出たのだ。この大災害がタイの社会に与えた衝撃はとても大きなものだったのである。これを契機にして、森林というものの考え方が問い直され、それまでの政府の森林に対する管理体勢が厳しく批判されることになったのだ。

かくして翌年の1989年1月、ついにタイ政府は森林伐採禁止令を施行したのである。ようするに、かつてあれほど豊かな森林に覆われ、膨大な量の上質なチーク材を世界へ供給し続けていたタイが、なんと1世紀足らずの間で、木材輸入国へと転落してしまったというわけなのだ。

そして、このタイにおける森林伐採禁止令の施行を境にして、なんとラオスの森林伐採が急増するのである。これは、ラオスの中央政府の許可を得ず、地方の役人とタイの木材業者との直接交渉によって行なわれたため、早い話、やりたい放題の伐採が始まったのだ。

しかしやがてラオス政府も、この自国の森林が無防備に減少してゆくのを阻止すべく、ついに丸太の輸出の全面禁止に乗り出す。ところがである。その翌年、タイ政府からの強い圧力によってその禁止措置は撤廃されることになり、ラオスの森林伐採は再び急増するのだった。

ちなみに我が国日本は、ラオスの木材の大手輸入国であることも忘れてはいけない。日本は、紫檀や黒檀、花梨を始め様々な高級木材を輸入しており、中でも桧は神社仏閣の重要な建築用材となっている。

このようにして、ラオス政府の森林対策は、その後も保護保全と外貨獲得との間で大きく揺れ動いていて、現在は1996年に制定された森林法に基づき管理されているとは言え、まだまだ十分には機能していないのが現状なのだ。

これによると、ラオスの森林は、保護林、保全林、生産林、再生林、荒廃林の五種類に分類されている。保護林は重要な水源等を有している森林、保全林は希少生物の棲息している森林といったように、それぞれの森林の性質別に分類されていて、現在、木材の伐採は生産林で行うことになっているのだ。しかも、その伐採量と伐採箇所も、農林省によって毎年の割り当てが指定されることになっている。

ところが現実は、政府や地方行政機関、そして軍部といった様々なレベルで勝手に伐採許可を出しているという有様で、また住民による違法伐採も依然として後を断たず、毎年、政府が定めた量をはるかに上回る相当数の伐採が行なわれているのだ。それに、こういったラオスの森林減少にさらに追い打ちをかけるのが、政府が出したダム水没地域における森林の伐採許可である。

ようするにダムで水没してしまう森林に生えている木は伐採しても良いというのだ。これは一見、水の底に沈んでしまう木材の有効利用につながる合理的な措置のように思える。だが実際これは、ダム開発の計画が持ち上がった時点の、まだ調査も満足に行なわれていない状態で、すでに伐採が始まってしまうのだ。したがってダムの建設が、その調査の結果によって途中で中止になったとしても、森林はもうすっかり伐りつくされてしまっているという事態もありうるわけである。

実はそんな不可解な事態を絵に描いたようなダム開発計画がある。ナム・トゥン第2ダム開発計画である。

ナム・トゥンの「ナム」は、ラオ語で川を表している。「高原の川」を意味するこのトゥン川は、メコン本流に注ぐ大支流のひとつで、この川を堰き止め、なんと琵琶湖の4分の3にもおよぶ広大な森林が水没する巨大なダムを建設しようという計画が持ち上がったのである。1986年ことだった。完成すれば東南アジア最大のダムとなり、もちろんこれは、ダムで発電した電気を隣国タイへ輸出し、外貨を稼ぐためである。

ところが、このダム建設に重要な役割を担うはずだった世界銀行が、その経済的な意義は認めたものの、環境への影響に対する調査が不十分であるとし、計画を差戻したのだ。これによって、現実的に事業資金の確保ができなくなり、ナム・トゥン第2ダム開発計画はお蔵入りとなってしまったのである。

しかし、2000年までに1500メガワットの電力をタイへ輸出する協定を結んでいたラオス政府は、そう簡単に諦めるわけにはいかず、1993年、ラオス政府はこのナム・トゥン第2ダムの開発許可を、オーストラリアの大手エンジニアリング会社に与えたのだった。こうして、このオーストラリアの企業の呼び掛けによって集まった、フランス電力公社やタイの大手ゼネコンなど総勢五社によって「ナム・トゥン第2ダムプロジェクト開発グループ」が発足し、お蔵入りしていたダム開発計画が、いよいよ外国の民間企業によって動き出したのである。

だが動き出したとはいえ、この巨大プロジェクトは順風満帆とはいかなかった。その莫大な資金の調達の目処がつかず、早くも暗礁に乗り上げてしまうのである。日本政府もこのダム計画に関しては、その大きすぎる規模と、世界銀行やアジア開発銀行が融資を断っているという経緯を考慮し、出資を見合わせていたらしい。

そしてなんとこんな情況の中で、ダムの建設によって水没することが予定される森林の伐採が始まってしまったのだ。もちろんそれは、この巨大ダム開発が環境に及ぼす影響を懸念し、世界の環境保護団体が抗議の声を上げ始めた、そんな最中の出来事である。

実は、このナム・トゥン第2ダム開発予定地には、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれている野生動物の宝庫ナカイ高原が広がっていたのだ。ナカイ高原は1600平方キロメートルという豊かな原生林に覆われた広大な高原で、その中に絶滅に瀕する世界的に貴重な種の野性動物が生き残っているのである。実を言うと、1996年の大ニュース、新種の大型哺乳類サオラーが捕獲されたのも、ここナカイ高原だったのだ。

しかし、このダム開発計画地での森林の伐採は、容赦なく続けられたのである。何百年という気の遠くなる歳月の間、この大空に枝を広げていた大木が一瞬にして伐り倒され、一時そのあまりの膨大な伐採量に搬出が追い付かず、そのまま山積みにされ放置されていたらしい。そして、伐採された木材が次から次へと何十台ものトラックに積み込まれ、山を下りていったのだ。その巨大な丸太を満載したトラックが、あたかも葬列のように長い長い列をつくり連なる光景は、まさに異様なものだったらしい。

そのナカイ高原から伐り出された膨大な数の木材は、主に三つのルートを辿った。まず、国道8号線を通りラクサオに集められ、そこから首都ヴィエンチャンへ向かうルート。つぎに、ラクサオから国境を越え、ヴェトナムのビン港へ向かうルート。そして、国道12号線を通りタケークへ向かうルートである。

ちなみにヴェトナムのビン港に辿り着いた木材は、船に積み込まれ主に日本へと輸出されたのだ。ナカイ高原には、樹齢数百年という上質な松の原生林があり、ビン港から日本へは膨大な量の松材が輸出されたらしい。もちろんタケークに辿り着いた木材は、船着場からフェリーに乗せられメコンを渡り、隣国タイへと向かったのである。

おもしろいことに、このダム建設開始の是非を問う重要なカギを握るはずの環境調査が行なわれたのは、こういった水没予定地における大規模な森林の伐採が始まってから、なんと1年以上も経った後のことだったらしい。すでに豊かな森林が姿を消してしまった後に行なわれたこの環境調査によって、いかなる結果が出たのだろうか。

長年、メコンの開発の実態を調査しているNGO「メコン・ウォッチ」は、このナムトゥン第2ダムがラオスの貧困を解消するとして、いよいよ世界銀行が支援を検討し始めたことに対して、警鐘をならしている。