国境


メコンという一本の河が、タイとラオスの「国境」として両岸を隔てるようになったのは、実はそう遠い昔のことではない。

そもそも、この両岸に暮らす人々は、共にモチ米を主食として食し、河のことを同じく水の母「メーナーム」と呼び、互いに同じ民族文化を共有している。すなわち、この河は民族を隔てる境界ではなく、両岸に暮らすのは大半が同じラオ族なのだ。タイ東北部を、かつてヨーロッパの学者たちが「西ラオス」と呼んでいたように、ここはまさにラオ文化圏なのである。

ちなみに現在の「ラオス」という呼び名だが、これが国際的な国名となったのは、フランス人がラオ族の統治していた三つの国を総称してそう呼び慣わしたことに始まる。ようするに、「LAOS」の「S」は、フランス語の複数形なのだ。しかし、ラオスの人々にとっては、現在も変わることなく国名も民族名も「ラオ」である。

この河に「国境」という明確な線引きがなされたのは、1893年のことだった。それは、近代インドシナを舞台に展開した、国家存亡の駆け引きによって押されたひとつの烙印だったのである。

 

かつてこの辺りには、「百万頭の象の国」を意味するラオ族による初めての統一国家、ラーンサーン王国がメコン両岸にその広大な版図を広げていた。そして1560年、ラーンサーン王国は建国の地であるシェントーン、いわゆる現在のルアンプラバンからヴェンチャンへと遷都し、いよいよその地で繁栄の絶頂期を向かえることになる。

その繁栄を生み出したのは、やはり何と言っても、インドシナの大動脈メコンの要衝としての新王都の立地だったのだ。往時ヴィエンチャンの船着場には、日に何艚もの交易船が投錨し、盛んに積み荷の上げ下ろしをしていたらしい。メコン上流の中国やビルマから運ばれた交易品が、ここから安息香やラック、象牙といったラーンサーン王国の交易品と共にさらにメコンを下り、カンボジア、ヴェトナムへと運ばれた。またヴィエンチャンからは、タイの王都へと続く陸のキャラバンルートもあり、大量の交易品が象の背に揺られ往来していたらしい。

しかし1707年、ラーンサーン王国は王家の内紛を発端に、ヴィエンチャン王国とルアンプラバン王国に分裂し、さらに1713年になると、ヴィエンチャン王国から新たにチャンパサック王国が分裂し、かつての百万頭の象の国はとうとう3国分裂時代に入ってしまうのだった。

 

一方タイではその頃、史上まれにみる栄華を誇ったアユタヤ王朝にいよいよ陰りが見え始め、ビルマに勃興したコンバウン王朝は、その期を見定めると一気に大軍をもって攻め入り、王都アユタヤはあっけなく陥落してしまう。こうして、14世紀以来、400年以上続いたアユタヤ王朝は、1767年4月7日、その歴史の幕を閉じるのである。

だが、タイの立ち直りは極めて早かった。アユタヤ王朝の大臣の養子、華僑を父にもつ混血児ターク・シンは、戦火をかいくぐり東南部タイのチャンタブリーに逃れていた。彼はそこで、華僑の支援を受け反撃の体制をととのえると、同年10月、百艘の軍艦に分乗した5千人の兵をひきいてチャオプラヤ河を溯上し、ビルマ軍との激戦の末に無事アユタヤを解放するのである。

しかし、ようやくアユタヤを取り戻しはしたものの、そこはすでに激しい戦乱によって瓦礫の廃墟と化していた。そのあまりの荒廃ぶりに、この地での古都再建を断念したターク・シンはチャオプラヤ河を下り、チャオプラヤの河口、現在のバンコック対岸のトンブリーに新王都を築き、自ら新王として即位したのだった。トンブリー王朝の幕開けである。

そんな、卓抜した軍事的才能を持ったターク・シンは、即位すると直ちに、アユタヤ王朝滅亡に乗じそれぞれに独立国家を樹立していたサワーンカブリー、ピサヌローク、ピマイ、ナコンシータンマラートに軍を進め国内統一に乗り出す。そしてトンブリー王朝はわずか3年で、アユタヤ王朝時の版図を取り戻すのである。

だが、ターク・シンの版図拡大の情熱はその後も衰えることなく、この勢いに乗じ、さらにカンボジアを始めとする隣接諸国を次々と支配下におさめていく。これによって、ヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの3王国は、とうとうタイの支配下となってしまうのである。

 

少し余談になるが、現在バンコックの王宮寺院ワット・プラケオの中に本尊として安置されているエメラルド仏は、実はこの際に戦利品としてラオスのヴェンチャンからタイへ持ち去られたものなのだ。

ちなみにこの仏像には、「エメラルド」という呼び名が付けられてはいるが、エメラルドでできているというわけではない。エメラルド色に光り輝くヒスイでできているのだ。国家の危機を救い、秩序を維持する聖性を有すると信じられていて、タイで最も崇められている仏像である。毎年3月と7月、そして11月には、国家の重要な行事として、国王自らこの仏像に掛けられている黄金の衣を着替えさせるという儀式が、恭しく執り行われているらしい。

伝承によるとこのエメラルド仏は、紀元前43年、北インドのパトナで造られたと言われていて、以後、スリランカ、ビルマ、カンボジアと、数奇な流転劇を繰り返すこととなる。そしてヴィエンチャンへ移されたのは1560年、ラーンサーン王国のヴェンチャン遷都の際だったのだ。ところが、ヴェンチャンもエメラルド仏にとっての安住の地ではなかったのか、1778年、とうとうタイの進軍によって王都トンブリーへと持ち去られてしまったというわけなのである。

かくしてエメラルド仏は、三島由紀夫の小説『暁の寺』で名高い、トンブリーのワット・アルンに安置されたものの、残念ながら、ターク・シンの御代にこの仏像の威光が差し込むことは遂になかったのだ。

 

トンブリーに王都を築き、王として即位はしたものの、王族や貴族の血からは無縁の、しかも下層社会の混血児として生まれたことが、次第にターク・シンの土台を揺るがしていくのである。やがて、アユタヤ王朝からの名門貴族が台頭しだすと、彼らはターク・シンを、伝統を継承しない部外者の成り上がり者であると、王としての正統性を問題視し始めるのだ。

またターク・シン自身、そういった疎外感を味わいながら、10年にもおよぶ戦闘生活の影響からか、精神錯乱に陥り極端に宗教に傾倒し始め、言動や行動に常軌を逸してくるのだった。ターク・シン自ら、悟りに達した聖者であると宣言し、僧を跪き礼拝させ、それを拒否した僧は鞭打ちの刑に処した。そして遂に、ターク・シンはチャオプラヤ・チャクリのクーデターによって失脚し、とうとう処刑されてしまうのである。

1783年4月6日、ターク・シンは王族のみが行なわれる恭しい処刑方法に従って、ベルベットの袋に入れられ、白檀の棒で首を折られ、世を去った。トンブリー王朝一代15年の、それはあまりにも短い栄華だった。

 

こうしてターク・シンは世を去り、トンブリー王朝は彗星のごとく輝き消えていったが、百万頭の象の国ラーンサーン王国に発するヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの3王国と、宗主国タイとの関係は変わることなく、そのまま次の王朝へと引き継がれてゆくことになる。トンブリー王朝の後を継いだのは、クーデターによってターク・シンを失脚させた、アユタヤ王朝の名門の家柄の出であったチャオプラヤ・チャクリによる、現在のラタナコーシン王朝である。

チャクリは、インドの叙事詩『ラーマヤナ』のラーマ王にちなみ、新王ラーマ1世として即位すると、王都をトンブリーから河を隔てた対岸、現在のバンコクの地へ遷し、「クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラタナ・ラーチャタニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッテイヤ・ウィサヌカンプラシット」という長大な名を冠した都が誕生する。

実はこのバンコクの地は、同じデルタの中でも、トンブリーに比してより低湿地で居住環境も悪い。そこにチャクリがあえて遷都したのは、恐るべきビルマの脅威に対してだったのだ。チャオプラヤ河をビルマ側の西に位置させることによって、それを自然の防衛線としたのである。しかし、ラタナコーシン王朝に迫りくる影はもはやビルマではなく、思いもよらない方角からやってくるのだった。

 

新王都に冠したあの長大な名は、要約すると「インドラ神の造り給もうた崇高なる宝玉の大いなる神の都」といった意味になる。これは王を神の化身とするヒンドゥー教の神王思想によるもので、チャクリは王位に着くと直ちに、先王ターク・シンの失敗を範に、アユタヤ王朝の伝統復興に基盤をおいた新王朝の体制の組み立てに着手するのだった。

アユタヤ王朝の宮廷儀礼や祭式、宮中作法の復興。インドの伝統を継承する仏教王としての、仏教の根本聖典『三蔵経』の校閲、整備。散逸したアユタヤ王朝の伝統法典を集めた『三印法典』の編纂。『王朝年代記』の作成等々。都市計画もアユタヤ王朝にならい、王宮と王宮寺院ワット・プラケオを建設し、王都はそれを中心とした古代宇宙観にそって区画整備される。またチャクリはこの他にも、アユタヤ王朝の祖ウートン王を仏像にしつらえ寺院に安置するなど、自らがアユタヤ王朝の流れを汲む正統な存在であることの位置付けに意を注いだのだった。

ちなみにあのエメラルド仏は、この遷都の際にトンブリーのワット・アルンから現在のワット・プラケオへ移されたのだが、実はヴィエンチャン進軍の際この仏像を持ち去ったのは、当時、将軍の位にあったチャオプラヤ・チャクリその人だったのである。かくしてラタナコーシン王朝は、エメラルド仏の威光に照らされ、復興の規範としたアユタヤ王朝をはるかに超える、インドシナ屈指の大国となっていくのである。

 

そのラタナコーシン王朝に影が忍び寄り始めたのが、マーガレット・ランドンの小説をもとにした映画『アンナと王様』のモデルとなった、ラーマ4世モンクット王の時代である。だが、モンクットの背後に忍び寄る影は、もはや宿敵ビルマではなかったのだ。

 

ビルマでは、東へと勢力拡大の野望に燃えるイギリスが、ベンガルを東インド会社の植民地としたことによって、両国の衝突が秒読みに入っていた。そしてとうとう1824年、境界に流れる川の小さな島の領有をめぐって、遂に戦闘の火蓋が切って落とされたのである。

しかし戦闘の行方は、あまりにも歴然としていた。前時代の旧式な兵器しか持たないビルマ軍は、イギリス軍の近代兵器の下にあっけなく大敗し、ビルマは領土割譲と賠償金百万ポンドの支払いを義務づけられることになる。

だがイギリスの野望は、なおも尽きることはなかった。1851年、ラングーン港に入港していたイギリス船の船長が、使用人殺害の罪で拘禁され罰金を課せられたことを口実に、イギリスは直ちにラングーンへ軍艦を派遣し、軍事行動を開始したのである。そして、ラングーン、マルタバン、バセインを占領すると、引き続きプロームに進軍し、ペグーを陥落させ、とうとう下ビルマ一帯をイギリス領とする宣言を発するのだった。これは宣戦布告もなく、講和条約もない、まさにイギリスの一方的な武力行使による侵略以外のなにものでもなかったのである。

実は下ビルマはイギリスにとって、ベンガル湾の支配を完成させるためにも、またマレー半島への戦略的要地としても非常に重要な地位を占めており、しかもそこにはチーク材の大森林が広がっていたのだ。このイギリスの侵略によって、ビルマは海への出口を失い、完全なる陸の孤島と化してしまう。そして、イギリスが下ビルマから上ビルマへと送られる米や塩といった生活必需品に高い関税をかけ、食糧不足と物価高騰を画策し始めると、上ビルマの情況は悪化の一途を辿ることになる。

 

当時の、ビルマのコンバウン王朝の都は、イラワジ河の上流マンダレーにあり、下ビルマがイギリスの植民地と化した後も、時の王ミンドンはかろうじて王として君臨していた。王は、イギリスが下ビルマにおいて「英領ビルマ」としての体勢を着々と調えてゆく中、このイギリスの侵略に対し屈辱的な思いをいだきながら、風前の燈と化した独立国としてのビルマの承認を得るため、わざわざヨーロッパ各国へ使節団を派遣するなど、涙ぐましい努力をしている。

ところが1884年、チーク材の輸出をしていたイギリスのボンベイ・バーマ貿易会社との間にある事件が発生したのだ。当時、ボンベイ・バーマ貿易会社は、ビルマ政府と森林の伐採契約を結び決められた量のチーク材を伐採していたのだが、この年、ボンベイ・バーマ貿易会社が伐採量を不正申告していたことが判明したのである。ビルマ政府は、直ちにこれを告発し、230万ルピーの罰金を課したのだが、結局これがイギリスに絶好の口実を与えたのだ。イギリスは、またもやビルマ政府の処置を不服として軍事行動を開始し、これによってビルマは、もはやほとんど抵抗らしきことも何もできないまま、1885年11月25日、いとも簡単に滅亡してしまうのである。

ミンドンの死後、継位していた時の王ティボーは、王妃とともに英領インドのマドラスに護送され、それは、約8世紀余もの燦然たる栄華を誇ったビルマ王国の、あまりにもあっけない終焉だった。

 

かくして、ビルマ全土はイギリスの植民地となり、タイはいよいよヨーロッパの大国と国境を接することになったのである。だがこの頃、時を同じくして、タイにはもうひとつの影が忍び寄っていたのだ。イギリスとは反対に、東からインドシナを侵食し始めたフランスである。その発端は、グエン朝時のヴェトナムだったのだ。

 

ヴェトナムとフランスとの接触は、1624年、フランスのイエスズ会宣教師アレクサンドル・ド・ロードがヴェトナムで布教活動を開始したことに始まるとされている。このイエスズ会の布教に触発され、以後、フランチェスコ派やドミニコ派、ミッション・エトランジェールといった多くのカトリック諸会派の宣教師たちが、誇り高き使命感を胸に次々とヴェトナムへ押し寄せることになったのだ。

ようするに当初ヴェトナムは、キリスト教という異国の宗教の布教活動に対して、寛容だったのである。しかし、ただ「寛容」だったというだけのことであって、それを「支持」していたというわけではない。むしろ、儒教に篤いヴェトナムの知識人にとって、キリスト教はあくまでも邪教以外のなにものでもなく、次第に反キリスト教的風潮が高まっていったのは、ごく当然の成り行きといえるだろう。

1825年、とうとうグエン朝の皇帝ミンマンは、キリスト教によって人民の倫理が乱されるとして、宣教師の上陸を禁止する布令を出し、教会の閉鎖を命じたのだった。そして、1833年に起こった反乱に、フランス人宣教師が参加していたことが明らかになると、グエン朝政府は直ちに会堂を破壊し、宣教師を拘留してしまうのである。

 

しかし幸か不幸か、これがフランスにとって、ヴェトナム侵略の絶好の口実となったのだ。実は、中国進出のための中継地点を持っていなかったフランスにとって、ヴェトナムは喉から手がでるほど欲しい領土だったのである。そこでフランスは、1847年、ヴェトナム中部のダナンへ軍艦を派遣し、囚われている宣教師の釈放を求め軍事行動を開始したのだ。

この際、フランス側の砲撃によって命を落としたヴェトナム人は百数十人にものぼり、当然ヴェトナム側は、キリスト教に対する態度をより硬化させることになる。翌年、時の皇帝トゥドゥックは遂にキリスト教の禁教令を出し、宣教師を次々と拘留し始めるのだった。

そして、1858年の春、ナムディンで行なわれたスペイン人宣教師の処刑が決定的な引き金となるのである。フランスは直ちにスペインと手を組み、14艘の軍艦を率いヴェトナムへ押し寄せ、ダナン占領を皮切りにして、いよいよフランスのヴェトナム侵略が始まったのだ。

しかしこの進軍で、一挙にグエン朝の都フエが陥落するかに思われたが、ヴェトナム軍の抵抗と、マラリアなどの悪疫に阻まれ、やむなくフランス軍は後退を強いられることになり、その結果として、フランスは鉾先を南海貿易の中心地だった南部のサイゴンへと向けることになるのである。そして激戦の末、フランス軍は遂にヴェトナム軍を破り、1862年、第一次サイゴン条約を締結させたのだ。これによって、ヴェトナムは南部コーチシナの割譲と、キリスト教の布教の自由、通商の自由、そして賠償金400万フランの支払いが義務づけられることになる。

 

またフランスは、この条約によってメコンの航行の自由も獲得している。実は、フランスのヴェトナム南部の侵略の目的のひとつが、このメコンだったのだ。フランスはこの大河を、カンボジア、ラオスを経て、中国雲南へと至る交易路とすることを目論んでいたのである。そこでフランスは、直ちにメコンの溯上調査に乗り出し、水系や地形の綿密な記録を行なっている。だが結局、フランスのこの目論みは、再三の努力の甲斐もなく断念されることとなるのだ。メコンは、中国の黄河や揚子江のような平坦な大河ではない。遡上してしばらくすると岩盤の露出した急瀬が航行を阻み始め、早くもラオス南端にさしかかった所でコーンの大瀑布という致命的な障壁によって、溯上の夢はあっけなく打ち砕かれてしまったのである。

こうしてメコンを断念したフランスは、中国雲南への交易路の夢を、次ぎなる標的、ヴェトナム北部の紅河へと向けることになるのだ。そしてフランスは、またもやその侵略の糸口を掴むと直ちに進軍を開始し、ヴェトナムの伝統的宗主国である中国清朝を武力によって制圧すると、1884年、第二次フエ条約を締結させるのである。これによって、ヴェトナムの国家としての主権は完全に失われ、時の皇帝ハムギは、イギリスが行なったビルマの例と同じく、仏領アフリカのアルジェリアへ護送され、とうとうヴェトナムもフランスの手に落ちてしまうのだった。

ところが、フランスの勢力拡大の野望もこれで尽きることなく、ヴェトナム南部コーチシナの侵略に乗じ、宗主国タイを無視したまま支配下におさめたカンボジアに続き、いよいよ次なる標的は、これもタイが宗主権を持つヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの3王国に向けられていくのである。

 

しかしタイのラーマ4世モンクットは、西と東の両側から、刻一刻と迫り来る列強の足音に威嚇されながらも、終始、時代の推移を見通す冷静さを失わなかった。実はモンクットは、47歳で即位するまでの27年間、僧侶として出家生活を送っており、その間、仏教教理はもちろんのこと、科学を始めとするヨーロッパの様々な知識を精力的に摂取していたのである。中でも、当時、バンコクに訪れていた宣教師たちから、熱心に英語を学んでいたことは特筆すべきことだろう。

その語学力を活かし後年は、訪れるヨーロッパの外交官と直に英語で会話を交わし、イギリスのヴィクトリア女王やフランスのナポレオン3世、またアメリカのリンカーン大統領やローマ教皇ピオ9世といった世界の要人たちに、せっせと自筆の親書を送っている。その親書の末尾には決まって「Rex Siamensium」とラテン語のサインをするのが常だったらしい。そして彼は英語を学ぶかたわら、シンガポールからヨーロッパの書物や雑誌を取り寄せ、タイという国が世界の中でどのような状況下におかれているのかを、正確に把握することに尽力し、ヨーロッパ人と対等な立場で向き合える知識と論理を学んだのだ。それが、来たる新しい時代に敏感に対応できる、大きな資質となっていったのである。

即位後は、古式に縛られていた数々の作法をヨーロッパ風に改めるなど、積極的に新時代に適応した改革に着手している。とりわけ、映画『アンナと王様』に描かれているように、イギリス人教師アンナ・レオノーエンスを雇い入れ、35人の妃による39人の王子と43人の王女たちに、英語を始めとするヨーロッパの様々な学問を学ばせたことは、タイのこれからの命運を大きく好転させる要因となりえたのだ。

かくして、培った幅広い国際的視野によって、ビルマやヴェトナム、カンボジアなどの隣接諸国の情勢を冷静に判断し、ヨーロッパの列強と戦闘を交えることは必ずしも得策ではないことを認識していたモンクットは、あくまでも慎重に中道の姿勢を保ちつつ、いよいよ国際社会へ近代国家タイの門戸を開いていったのである。

近代科学、とくに天文学への造詣が深かったモンクットは、科学者と一緒に日蝕の日を算出し、1868年、正王妃の長子、最愛のチュラロンコン王子を伴い、南タイのプラチュワプキリカンへ日蝕観測に出掛ける。この旅先でモンクットは敢えなくマラリアにおかされ、啓蒙君主としての輝かしい名を歴史に残し、世を去った。しかしモンクットの精神は、王子チュラロンコンがラーマ5世として即位することによって、見事に引き継がれていったのである。

 

そして、フランスの軍艦がチャオプラヤ河を封鎖し、バンコクのフランス領事館前に停泊したのが、1893年7月13日のことだった。ラーマ4世モンクット崩御の後、ラーマ5世として15歳で王位についたチュラロンコンは、39歳になっていた。

とうとうフランスが、ヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの3王国の割譲を迫る、強行手段に出たのである。そもそもフランスの言い分は、こうだった。タイが宗主権を持つビエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの3王国は、もともとヴェトナムが宗主権を持っていた国であるため、その権利は現在、ヴェトナムを支配下におさめたフランスにあるというのだ。フランスはこの主張をもとに、メコン東岸の割譲を再三、タイに迫っていたのである。当然タイは、フランスの主張には何の根拠もないとし、それをことごとく退けていた。そんな最中、ある事件が起きたのである。

1892年、タイ政府が国内に駐在していたフランス人商人を、当時、禁じられていた阿片取り引きの容疑で国外追放し、ちょうどその直後に、チャンパサックでフランス人商人が死亡するという事件が起こったのだ。幸か不幸か、この事件はまたフランスにとって、絶好の口実となったのである。フランスは、この事件はタイ政府の陰謀であるとして損害賠償を突き付け、タイ政府がこの事件はあくまでも事故にすぎないとしてそれを拒否すると、直ちに軍事行動を開始したのだ。これによってまず手始めに、ラオス南域のストゥントレン、コン島、ケラマートがフランス軍によって占拠されることになる。

そして1893年7月13日、サイゴンから派遣されたフランス極東艦隊の軍艦2艚が、タイ側の警告を無視し、強引に河口パークナームからチャオプラヤ河へ侵入したのだ。まずこのフランスのとった行動は、とても非礼な行動だったのである。実は、首都バンコクへ向かう外国の船は、すべて河口で艦砲を取り外さなくてはならないことになっていたのだ。ところが、フランスの軍艦は艦砲を取り外すどころか、河口でタイ側の砲台と激しく交戦したあげく、チャオプラヤ河を一気に遡り、とうとうバンコクのフランス領事館前に停泊し、王宮を目前に威嚇行動を開始したのだ。「パークナーム事件」である。


そしてフランスは、メコンのすべての島を含む東岸の割譲と、300万フランの賠償金の支払いなどの事項を盛り込んだ最後通牒をタイ政府に突き付けたのだ。ラタナコーシン王朝始まって以来、最大の危機をむかえたのである。

だが、この危機を武力によって解決するだけの力が、もはやタイにないということは誰の目にも明らかだった。それはまた、チュラロンコン自身も十二分に認識していたことである。実はチュラロンコンは、このフランスとの領土問題をあくまでも話し合いによって解決させようと、しばらくラオスに両国の非武装地帯を設け、国境の確定は仲裁裁判で審議することをフランス側に提案していたのだ。

また一方タイ政府の中には、隣国ビルマを支配下におさめたイギリスに援助を求め、いっそイギリスの保護国となって領土を守ろうする動きも現われていた。ところが、当のイギリスはタイに援助の手を差し伸べるどころか、フランスはメコン東岸までの領域を手に入れればそれで満足するだろうと結論づけ、逆にタイにフランスの要求をのむべきだと促してきたのである。そして、このメコン東岸占領をイギリスが黙認するらしいという情報がフランス本土に伝わると、タイとの問題を一挙に武力によって片付けるべきだと主張する強硬派の意見が議会を制し、あえなくチュラロンコンの提案は無視され軍事行動が開始されたというわけなのだ。

 

おそらくチュラロンコンの脳裏には、帝国主義の熱病に犯された列強の国々に翻弄され敗滅していった、隣国ビルマやヴェトナムの姿が、生々しい鮮明さで浮かび上がっていたに違いない。もちろん、今ここでタイがフランスとの対応を誤り、戦闘を交えるような事態にでもなれば、ビルマやヴェトナムと同じ運命をたどることも、誰の目から見ても明らかだった。

1893年10月3日。いよいよフランスの全権がバンコクへ派遣され、両国の間で「フランス・シャム条約」が調印され、ついにタイはこの傍若無人な軍事外交のもとに、フランスの全要求を無条件に受諾したのである。こうしてタイは、メコン河のすべての島を含む東岸をフランスへ割譲することとなり、さらに200万フランの賠償金の支払い、そしてそれら条項の完全履行までの間、東南タイのチャンタブリーとトラートがフランスによって占領されることになった。

ところが数年後、このチャンタブリーとトラートからフランス軍を撤退させるために、タイはさらに、ルアンプラバン対岸とマノープル、チャンパサックをフランスへ割譲することになる。しかし結局、タイがフランスの脅威を拭い去るには、またその数年後、トラート、ダーンサーイ、バッタンバン、シエムレアプ、シソフォンという、さらなる割譲を行なわなければならなかったのだ。


かくして1893年、メコンというこの一本の河が、両岸に暮らす人々の思いもよらない遥か遠い国の繁栄のために、国境として、その河幅をいっそう広くしたのである……。