『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。20年という年月が流れ、今ようやくその流れ去った年月を振り返ってみる、ふとそんな時がやってきたような気がしたのだ。
20年前のその出来事は、確かに僕にとってひとつの事件だった。そしてその事件はまた、僕にとってとてつもないストレスを抱え込む生活の始まりでもあったのだ。そもそもあの原稿は、誰かに読ませるつもりなどなく、まして出版するなどといったことも一瞬たりとも脳裏を過ぎったことがない、ごく私的に書き続けていた原稿だったので、それが出版されると決まった瞬間から「はたしてこんなものを出版してもいいのか?」という自問が、ずっと僕の胸に重くのしかかっていた。それは「しなかった」のか?それとも「できなかった」のか?僕には定かなことはわからないが、僕の知る限り、永平寺で修行した雲水がその修行の実態を綴った本は、これまで出版されたことはなかった。そんな状況の中で、あえて僕が永平寺の修行記を出版することは、やはりいろいろな意味で重いものがあった。
もし、こういった内容の本を出版する場合は、出版後のトラブルを回避するために、事前に永平寺側に原稿を送り承認を得るのが常道なのかもしれない。しかし僕はそれをしなかった。もし僕が事前に永平寺側に原稿を送っていたら、当然、永平寺側からの修正が入り、「御仏の慈悲に抱かれた」的な、まったく違った本になっていただろう。これに関しては、出版元である新潮社もそうなることは望んではいなかった。
しかし僕はあの本を、俗にいう「暴露本」として出版したつもりはない。これは今でも「そうだ!」と胸をはって言えるし、実際、僕は永平寺の一年の出来事を、すべて肯定するという立ち位置で原稿を書き続けていた。それは、出版して以来、指摘されることの多かった「暴力」という問題に関してもだ。
当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたんだと僕は思う。これは宗教の、特に禅という狭い世界に限ったことではなくて、広く「伝統」と呼ばれる世界、たとえば能や歌舞伎、舞踊に音曲といった芸能や、絵画や彫刻、工芸といった芸術にいたっても、至らない弟子を師匠が殴り教え込むといった方法が、かつてはごく普通に行われていたと思う。それを「暴力」という虐待行為だとして非難し始めたのは、ごく近年のことだ。
辞書で「暴力」という言葉を調べてみると、「乱暴な力・行為」「不当に使う腕力」「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」などと書かれている。
僕は「暴力」というものを考える上で大切なことは、それを行う際の「目的」だと思う。僕は個人的に、師匠が弟子に何かを教え込む目的で殴ることは、今でも「暴力」だとは思っていない。「暴力」とは相手を傷つける目的で殴ることだと思っている。しかし現代社会では、どちらも同じく憎むべき「暴力」なのだそうだ。
こんなことを言うと、頭がおかしいんじゃないかと言われるだろうが、ではボクシングはどうなのか?流血し、失神するまで相手を殴り続けるボクシングは「暴力」ではないのか?「スポーツ」というカテゴリーに属せば、あれも人々から拍手喝采され賞賛される行為となるのか?
では、テレビドラマのシーンとしてよく目にする、恋人に裏切られたかわいそうなヒロインが、恋人の頬をおもいっきり平手打ちするのは「暴力」ではないのか?なぜ我々はそれを憎むべき「暴力」だとして彼女を非難し、裏切ったために平手打ちされた恋人を虐待された被害者だとして同情しないのか?そう考え始めると、「暴力」というものがいったい何なのか僕は分からなくなってくる。
永平寺の話をしよう。永平寺の開祖は道元。悟りを求め中国へ渡った彼が辿り着いたのは、如浄という禅師のもとだった。道元はそこで悟りをえることになるのだが、彼が悟りを得た瞬間とはこうだ。道元はその日も他の修行僧たちとともに僧堂で坐禅に専念していた。すると隣で坐禅をしていた僧が居眠りをし始めた。それに気づいた、堂内を見回っていた師・如浄は、自分の履いていた草履をぬぎ、居眠りをしている僧の頭を思いっきりぶん殴った。その、堂内に響き渡った音を聞いた次の瞬間、道元は見事に悟りをえたのである。
これがもし「人を殴ることは、いかなる理由であっても許されるません。人を殴るのは恥ずべき行為なので、私はもちろん言葉で伝えます」などと如浄は思い、居眠りをしている僧の耳元で「居眠りをするのは良くありませんね。今は坐禅の時間ですよ。さあ目を覚まして、ちゃんと坐禅をしましょう」などと優しく語り聞かせていたとしたら。道元は、とうとう悟りを得ることなく日本に帰国することになってしまったかもしれない。すると、永平寺もこの世には存在していなかっただろう。
とにかく、当時の永平寺は、まだ「伝統」という世界に存在していたのだ。
こうして『食う寝る坐る永平寺修行記』は、事前に永平寺側に許可をえることなく出版されることになったわけだが、礼儀として、手元に本が届いた時点で永平寺へ献本した。その反応は意外にもとても好意的なもので、老師諸氏から祝辞が届き、永平寺の機関紙までもが『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されたという記事を掲載してくれたのだ。
こうして『食う寝る坐る永平寺修行記』は、事前に永平寺側に許可をえることなく出版されることになったわけだが、礼儀として、手元に本が届いた時点で永平寺へ献本した。その反応は意外にもとても好意的なもので、老師諸氏から祝辞が届き、永平寺の機関紙までもが『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されたという記事を掲載してくれたのだ。
しかし、こうして永平寺側からは非難や抗議の声は上がらなかったものの、永平寺内には僕の出版を快く思っていない人がいたのも事実だった。彼は、永平寺にかなり長くとどまり続けていた古参で、当時、永平寺におけるマスコミの対応の責任者をしていた。そんな彼は『食う寝る坐る永平寺修行記』について問い合わせがあると、あれは僕が書いたものではなく、僕の話をもとにして出版社の編集が書いたものだと説明していたらしい。
彼は将来、執筆活動で身を立てることを目指していたのだろう、僕の安居中にも幾度か永平寺の機関紙に難しい原稿を掲載していた。そこに僕みたいな何処の誰だかわからない者が、何のことわりもなく大手出版社から永平寺の本を出版してしまったのである。快く思わなかったのも無理はないだろう。
そんな中『食う寝る坐る永平寺修行記』の出版によって、僕のところには雑誌社や新聞社から原稿の依頼が入ってくるようになっていた。しかしいずれの際も「野々村馨」の書いた原稿に永平寺の写真を使用する許可は絶対におりなかった。ちなみに数年前『食う寝る坐る永平寺修行記』の英語版『Eat Sleep Sit』が出版された際も、やはり永平寺の写真の使用許可はおりず、写真は1枚も使えなかった。あの『Eat Sleep Sit』の表紙の写真は、実は永平寺とはまったく関係のない、出版社の編集がどこかから探してきた、縁側で坐禅をする臨済宗の僧侶の写真だ。
この永平寺の写真の使用を許可するか否かという判断は、永平寺のマスコミの対応の責任者だった彼が行っていたことは間違いない。部下の新来の雲水が独断で判断できることではない。
こういったことが続き、もうウンザリしていた僕は、原稿の依頼が入っても何も書く気にはなれなかった。そこで原稿の依頼が入ると、永平寺には素晴らしい人がいるから、原稿は僕ではなくて彼に依頼すべきだと提案することにした。こういったこともきっかけになったのか、ついに彼の才能が広く世に知られることになり、彼は気鋭の論説家として出版にテレビ出演にと大活躍するようになった。
ちなみに『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版された後、新潮社から『食う寝る坐る』をもとにした禅のビジュアルブックを出版するという企画が持ち込まれた。だが結局、僕はその企画を断った。「野々村馨」だと永平寺の写真は1枚も使えないことが分かりきっていたからだ。永平寺の写真が1枚も使えない『食う寝る坐る永平寺修行記』のビジュアルブックなんて出来るわけがない。
その際に、僕が途中まで作っていた、幻の『食う寝る坐る永平寺修行記』のビジュアルブックのデザインラフが、今でも手元に残っている。
こうして、もう人目につくことはやめようと思い立った僕は、時折、誰も読まないこのブログを書きながら、誰にも知られないように隠れて暮らしていた。ちなみに僕の友人のほとんどすべて、僕が本を出版していることを知らない。
そして永平寺は、僕が去った後しばらくして、道元の750回忌という大きな節目の年を迎えた。それに合わせ、永平寺は新しい時代を迎えるために、我々が寒さに凍えたあのいくつかの古い建物を、冷暖房完備の鉄筋コクンリートに建て替えたようだ。もちろん、修行のスタイルも、現代の人権に則したものとなったと聞いた。
その新しくなった冷暖房完備の快適な修行の場を見て、はたして道元はどう思っただろうか?僕は、道元は案外それを見て満足しかもしれないなと思った。道元の著書『正法眼蔵』の「坐禅儀」の中にこんなことが書かれている。
〈坐禅をするには、まず静かなところがいい。下に敷くクッションは分厚くすべきだ。そして風や煙が入ることのないよう、また雨や露がもれることのないよう、己の身を置く場所を正しく整えよ。かつてブッダは菩提樹の下に坐しだが、後の先人たちは大きな岩の上に坐したという言い伝えもある。そんな彼らもみな、草を分厚く敷いて坐ったのだ。したがって坐る場所は心地よくすべきだ。昼も、夜も、暗くない方がいい。そして冬は温かく、夏は涼しい、それが正しい方法だと心得よ〉
ようするに、坐禅をするのは静かなところがいい。下に敷くクッションは厚くせよ。風や煙など外気を入れるな。雨露がもれるようなことがあってはならない。そして、坐る場所は心地よくすべきだ。昼も夜も暗くないのがいい。冬は暖かく、夏は涼しい、それこそが坐禅をする理想の環境だと心得よ。と道元は言っている。道元は、滝に打たれ読経したり、雪に埋もれ瞑想したり、そういった難行や苦行を求めていなかった。彼が求めていたのは、ただひたすら壁に向かって坐ることだったのだ。
しかしもし僕が、鉄筋コンクリートに建て替えられた、まさに「新しい」時代の永平寺に安居していたとしたら、おそらく原稿は書いていなかっただろう。寒さ凍え、闇に怯え、差し込む春の陽の光や、灰に埋もれた小さな炭火の暖かさに驚ろき、そして、そんな自然の些細な変化に揺れ動き、移ろいゆく人の心に涙した。僕は心から、今はもう失われてしまった、いい時代の永平寺に安居したんだなと思っている。もちろんこれは僕個人の、ただの「ロマン」の問題だ。
『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。そうなんだ。「あれはすべて過去の話です」と言い切れるだけの、もうそんな年月が流れたんだ……。
ようするに、坐禅をするのは静かなところがいい。下に敷くクッションは厚くせよ。風や煙など外気を入れるな。雨露がもれるようなことがあってはならない。そして、坐る場所は心地よくすべきだ。昼も夜も暗くないのがいい。冬は暖かく、夏は涼しい、それこそが坐禅をする理想の環境だと心得よ。と道元は言っている。道元は、滝に打たれ読経したり、雪に埋もれ瞑想したり、そういった難行や苦行を求めていなかった。彼が求めていたのは、ただひたすら壁に向かって坐ることだったのだ。
しかしもし僕が、鉄筋コンクリートに建て替えられた、まさに「新しい」時代の永平寺に安居していたとしたら、おそらく原稿は書いていなかっただろう。寒さ凍え、闇に怯え、差し込む春の陽の光や、灰に埋もれた小さな炭火の暖かさに驚ろき、そして、そんな自然の些細な変化に揺れ動き、移ろいゆく人の心に涙した。僕は心から、今はもう失われてしまった、いい時代の永平寺に安居したんだなと思っている。もちろんこれは僕個人の、ただの「ロマン」の問題だ。
『食う寝る坐る永平寺修行記』が出版されてから、20年という年月が流れた。そうなんだ。「あれはすべて過去の話です」と言い切れるだけの、もうそんな年月が流れたんだ……。