「サヴァナケット」
僕はこの魅惑的な響きをたたえた街の名前を、確かに知っていた。それを知ったのは、ある映画の上映会でのことだった。その映画とは、フランスの作家マルグリット・デュラスが、自作のテクストを自ら監督し映画化した『インディア・ソング』である。
彼女は1914年、仏領インドシナ、現在のヴェトナムのホーチミン近郊のギアダンで生まれている。両親は共に、フランスからこの地へ赴任してきた教職者で、父親は数学を、母親は同じく数学とフランス語を教えていたらしい。そのメコンの流れに彩られた幼年期の体験が、『インディア・ソング』を、そして後の『ラ・マン』を生んだのだ。
『インディア・ソング』は、インドのカルカッタのフランス大使館を舞台にした、大使夫人アンヌ・マリー・ストレッテルにまつわる物語なのだが、この映画は実に特異な表現形態をとっている。登場人物が一切、声というものを発しないのだ。声は、登場人物たちによって朗読されたテクストの「言葉」として、映像の外部から介入してくるのである。
延々と続く腐敗しきった沈黙と、息苦しいほどに甘く破滅的な音楽。その中に登場人物たちの声は、あたかも彼らの記憶の歪みの隙間から呼び戻されたかのように忽然としてスクリーンに流れ込み、その映像と言葉のずれが、この映画の虚構と現実の境目を美しく、そして極めて詩的に破壊しつくし、永遠に救われることのない終わりを暗示しているのだ。
そんな、不可思議な映像言語をもったこの映画は、インドの大地へ没落してゆく、死臭漂う巨大な太陽の日没シーンから始まり、そこに流れているのが、大使館の夜会の折りに現われる乞食女の、物憂げな唄声である。その物憂げな唄をうたう乞食女が生まれたのが、実はラオスのサヴァナケットだったのだ。
物乞いの女よ、
気が変なのね、
そうよ、
そうね、思い出すわ、
川べりに立ってるのよ、
ビルマから来るのね、
インド人じゃないわ、
サヴァナケットから来るのよ、
彼女の故郷、
ある日……、
彼女は、10年も前から歩き続けて、
ある日、ガンジス河の前に立ったの、
そうね、
そこにいるの、
そうよ、
12人の子供が死んで、旅に出たの、
そうね、
子供を見捨て、売り……
忘れたのよ
ベンガルに来た時は不毛な女よ
サヴァナケット……、
ラオスね?
そうよ、
17歳の時、
彼女は妊娠したわ、17歳で……、
母親に追い出されて、家を出たわ、
彼女は、破滅の道を尋ねるが、
誰も知らない、
カルカッタで、彼女らは一緒にいた、
白人の女と、別の女、
そう、
同じ年のことだったわ。
こう映画の冒頭で語られるように、彼女はサヴァナケットからカルカッタまで、歩いてやってきたのだ。メコンを上り、いくつもの河、いくつもの道を辿り、ビルマのマンダレーを抜け、イラワジ河を下り、そして、プローム、バセインを経て、ベンガル湾へ突き当たり、とうとう歩き始めて10年目のある日、彼女の前にガンジス河が流れていた、というのである。
マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』という映画は、ルイ・マルの『鬼火』とともに、少なからず僕の人生に影響を及ぼしたと思う。以来「サヴァナケット」という街の名前は漠然と、いつか必ず行かなくてはならない街の名前として、僕の脳裏にとどまり続けていたのである。
そして僕はあの日、偶然に訪れたタイの田舎街の外れに建つメコンの小さな船着場の中で、その対岸の街の名前を知ったのだ。そう、サヴァナケットだった。僕はどうしてもメコンを渡ってみたいという衝動に駆られ、そして船に乗った。
*
フランスはここインドシナの地でも、世界に散らばる他の植民地の例にもれず、誇り高きフランスの街並みを精力的に造営している。
その仏領インドシナ最大の都市となる、植民地経済の中心地ヴェトナムのサイゴンでは、フランス植民地統治の象徴としてのインドシナ総督府を手始めに、サイゴン大聖堂、市庁舎、税関、裁判所、銀行、郵便局、市場、オペラ座、ホテルと、宗主国の威信を知らしめるかのように、本国フランスの街を模した壮大な建造物が次々と建てられ、その美しい街並みは以後その街に「東洋のパリ」という称号を与えることになった。
同じく、仏領インドシナの政治の中心地ハノイでも、理事長官邸やハノイ大教会を始め、銀行、郵便局、オペラ座、ホテルと、旧来のヴェトナム人の街を押し崩し、燦然たるフランスの街が出現したのだ。そして規模の差こそあれ、サヴァナケットもまた、そういった街だったのである。
メコンの船着場からのびる狭い路地を抜けると、おそらくこの街が造られた植民地時代、そこがこの街の中心だったのか、見ようによってはパリのどこかの広場にでも見えなくもない、ネコの額ほどの小さな広場になっている。しかし広場は、今ではもうすっかりと寂れ果てていて、往時の輝きをしのばせるものと言えば、その矩形に区画された植え込み中で淋しく揺れる、ブーゲンビリアの花くらいのものだ。
だが、そんな寂れ果てた広場の奥に目をやると、そこにはまばゆいばかりに光り輝く白亜の教会が、サヴァナケットの小さな空に、小さな十字を高々と掲げていた。
外壁に塗られている真新しいペンキの白は、やはりこの辺りの景色の中ではあまりにも異質で、あたかもそれは白い墓標のように、色褪せた街の中に光り輝き聳え建っていた。これもまた、かつて植民地主義の一里塚のごとく世界各地に立てられていった、そんな十字の一つだったのだ。
*
デュラスは、その自伝的小説『太平洋の防波堤』の中で、当時フランスの植民地のあらゆる都市には、白人の街と、それ以外の人の街という二種類の街があったと書いている。
サヴァナケットの、このメコンの川岸に寄り添うようにして広がっている街並みは、間違いなく、デュラスの言うところの「白人の街」だったに違いない。
規則正しく刻まれた平和な路地の両脇には、小さいながらも、フランス人の残したコロニアル様式の夢のような家が連なっていた。「コロニアル様式」というのは、ヨーロッパ人の建築様式が、植民地という熱帯の気候に順応していく過程の中で生まれたものだが、コロニアル様式ははからずも、宗主国が植民地に残した最も美しいものとなったのだ。
かつて、イギリスの建築家は「筋肉の力」でまさり、フランスの建築家は「女性的な優美さ」でまさると言われていたが、その言葉の示す通りここサヴァナケットの路地には、優美な意匠の施された美しいファサードが連なっていた。
朱い平瓦で葺かれた簡潔な勾配の屋根。乳白色の重い漆喰の壁は、控えめに施された化粧漆喰と、淡いブルーやグリーンに塗られた鎧戸によって、瀟洒に、しかも詩的に演出されている。
そして階上にはお決まり通り、分厚い欄干に守られた広いベランダが大きく外気に向かって開き、連なる古風な列柱と、それを結ぶラウンド・アーチが、そこにロマン溢れる空間を作っていた。
ちなみに「ベランダ」の語源を探ってみると、それはインドのヒンディー語に行き着くらしいが、それまで自然というものに対して閉鎖的だったヨーロッパ人の建築様式が、熱帯の高温多湿な風土の中で変化した、ベランダは最も象徴的で、しかも最も快適な居場所だったのだ。
そしてヨーロッパ人たちはそのベランダで、熱帯の苛烈な日差しから守られながら「白い特権階級」としての、甘くも不毛なる時を浪費していたのである。
だが、デュラスの母親の生活は、少なくともそんなものではなかったらしい。
〈『若人よ、植民地に行け、財産が君を待っている』。枝もたわわに実のなったバナナの木陰で、白一色の服装をした植民地のカップルが、微笑をうかべて忙しげに働く現地人にかこまれながら、ロッキング・チェアーに揺られている〉
こんな植民地への入植を煽る宣伝ポスターに夢をふくらませ、デュラスの母親マリー・ドナデューは、はるばる海を渡りインドシナへやって来たのだ。
ところが、この地で病を患った夫エミール・ドナデューはやがて本国へと引き上げ、以後、二度と家族に再会することなく彼の地で没することになる。
こうして未亡人となってしまったマリー・ドナデューは、ここインドシナの小学校で教鞭を取りながら、3人の子どもたち、すなわち二人の兄とマルグリットを育てていくのだった。
植民地の白人社会の中にも確かに、歴然とした階層があったのだ。
「米か、ゴムか、銀行か、高利貸しかで産をなした、植民地の吸血鬼ども」。そうデュラスの言う、ここインドシナの植民地社会で成功をおさめ、日々豪奢な暮らしに耽る実業家から、植民地での夢に破れ、現地人を見下すこと以外には、この地上での最優良人種としての自らのプライドを守る術をもたない、落ちぶれたただの白人たち。
そしてその中間に位置するのが、賄賂と横領という特権を行使し私腹を飼い太らせる、腐り切った役人たちである。
夫亡き後、最下層の白人へと転落してしまったマリー・ドナデューは、それでも細々と貯め込んだ貯金をはたき、払い下げの土地を購入する。
ところが、土地の公定価格とは別に、植民地政府の役人に賄賂を支払うという慣例を知らなかったマリー・ドナデューは、結局、何の価値もない半ば沼地と化した耕作不能な荒地を割り当てられるのだった。
それでも彼女は、このなけなしの貯えを注ぎ込んだ土地を諦め切れず、現地の農民を駆り出しその場しのぎの拙い防波堤を築き耕作し始める。だがある日、潮が満ち防波堤は跡形もなく押し流され、ドナデュー一家は破産するのだった。
『太平洋の防波堤』はこの事件をもとに、インドシナという腐敗しきった階層社会の中で、内側からギシギシと軋みながら崩壊し始める家族の情念を描いた作品なのである。
しかし今ではもう、その何もかもが、遠く過ぎ去った記憶の断片でしかない。
熱帯の狂暴な豪雨と日射に曝され黒く変色した平瓦はずれ落ち、カビと土埃で薄汚れた漆喰の壁はひび割れ、鎧戸もまた見る影もなく朽ち果てている。中には、すでに屋根も抜け落ち、壁も崩れ、もはや倒壊寸前のものさえある。
まさにこの熱帯の地で花開いたフランス人の「永遠」というはかなき夢が、再び熱帯という生気のうねりの中にのみ込まれ、今まさに音もなく崩れ去ろうとしているのだ。
デュラスはまた、映画『インディア・ソング』を撮影し終えたその数年後、彼女の言う所の、彼女の映画の中で最も重要な作品となる映画の撮影に取り掛かっている。『ヴェネツィア時代の彼女の名前』である。
『インディア・ソング』を破壊する。それが、そもそもの発端だった。
実は『インディア・ソング』は、インドのカルカッタのフランス大使館を舞台にしているが、撮影はインドでは行なわれていない。パリ郊外のロスチャイルド家の古城で行なわれている。
そして『ヴェネツィア時代の彼女の名前』の撮影も、再びその同じ古城で行なわれるのだが、もはやそこには『インディア・ソング』の、あの夜会に揺らぐシャンデリアの輝きも、また黒い夜の服に身を包み、ガンジスのぞっとするほど息苦しく緩慢な闇にまとわりつくように、ただ気怠く踊り続ける男と女の姿はない。
『ヴェネツィア時代の彼女の名前』のスクリーンに映し出されるのは、歳月に押し流され、廃墟と化したロスチャイルド家の古城だけなのである。一面に黒く荒廃した広い大理石のテラス。剥がれ落ちた壁紙。厚く灰の積もったマントルピース。錆付いたガラス窓に無住の廃墟を静かに写し続けるくすんだ巨大な鏡。
そして、そんな腐乱した時の残像に覆い被さるのが、あの『インディア・ソング』の音声なのだ。サヴァナケットの乞食女の物憂げな歌声。ガンジスの夜明けに湧き立つ無数の鳥たちの囀り。両大戦間に流行った甘いがゆえに儚い舞曲。そして男と女の呟きと、沈黙。
デュラスは、『インディア・ソング』の音声をそのまま使い、それを廃墟と化したロスチャイルド家の古城の映像と重ね合わせることによって、『インディア・ソング』でえ始まった死の掲示を、この『ヴェネツィア時代の彼女の名前』の中で完成させたのである。
サヴァナケットの街にはまさに、『インディア・ソング』から『ヴェネツィア時代の彼女の名前』へとデュラスが暗示した、「白人」という危うい価値体系が、ある時代の終焉とともに脆くも自己崩壊していく、その「死」という名の破滅のイマージュが、詩的に、あるいは暴力的に、一つのリアリズムとして展開していた。
かつてこの家には、いったいどんな主がどんな家族と共に、召使たちを従えどんな暮らしをしていたのか。だが今となってはもう、それを伺い知ることはできない。ただ一つ言えることは、あるものが確かに滅びゆこうとしているということだった。
しかし滅びゆくものは、かくも美しい。サヴァナケットの崩れ行く街の中をひとり歩きながら、僕は、改めて時の流れというものの残酷さに身震いすると同時に、この街の中に散り積もった時の残骸の美しさにため息を洩らした。
インドシナの片隅に残された、フランス人の美しき小さな夢の脱け殻。それが、サヴァナケットだった。
※『インディア・ソング』『太平洋の防波堤』河出書房新社