「きもの」は、言わずと知れた、我が国の民族衣装である。しかし近年「きもの」は、冠婚葬祭や観劇など、ごく限られた場以外ではほとんど目にする機会がなくなった。
これは、明治以降の生活スタイルの西洋化にともない、洋服の普及が進んだことが大きな要因であることは明白だが、そういった「きもの離れ」を加速させたのは、おそらく着付け教室だろう。と、僕は考えている。
着付け教室というのはもちろん、平安時代の唐衣裳姿、いわゆる十二単や、束帯の着方を教える教室ではない。永らく、ごく平均的な我が国の日常着だった「きもの」の着方を教える教室のことであ。
現在、日本には、そんな着付け教室がが全国に数え切れないほど存在している。これは世界的に見ても、非常に特異な現象らしい。では、我が国の民族衣装である「きもの」を着るには、世界的に見ても例のないほど高度な専門知識と技術が必要なのか。
それは、おそらく否である。きものは、もともと日常着だったのだ。それを着ていた過去の人々も、その着方を着付け教室に通って学び、着ていた訳ではない。
今に残る、江戸後期や明治、大正、昭和初期などに撮影された日本人の写真を見ると、皆とてもゆったりとした着方で「きもの」を着ている。今日のように、体に折り紙を貼付けたようにして「きもの」を着ている人は誰もいない。
それはもちろん、当時の人々がだらしなかったわけでもなく、「きもの」の正しい着方を知らなかったわけでもないのだ。
我々日本人というのは、「型」というものに対する並外れた洞察力と創造力を持っていた民族である。だが、その「型」というものに対する執着が裏目に出て、伝統文化を衰退にまで追いやったその一つの例が、この「きもの」の着付け教室だと思う。
もはや「きもの」は、あの体に折り紙を貼り付けたような、着付け教室が微に入り細に入り定めたマニュアル通りに着ていなければ、「無知」だとか「だらしない」とかといったレッテルが容赦なく貼られてしまう。
こういった現象が「きもの離れ」を加速させていったのだと僕は考えている。しかし、少なくとも「色気」というのは、型のゆるみに生じる感覚である。昭和初期の、あの銀幕を彩った数々の映画の中には、そんなことを感じさせてくれる、とても美しい「きもの」が描かれている。