僕が初めて「宗教」というものを感じたのは、いったいいつのことだっただろう。それはおそらく大学2年の秋に訪れた、チベットでのことだったと思う。その体験は確かに、その後の僕の価値観に、少なからず影響を及ぼすことになった。
あの日、僕は朝早くチベットの首都ラサを発ち、パンチェン・ラマの居城のあるチベット第2の都シガツェへ向かっていた。鉄道のないチベットでの移動は、もちろんバスである。海抜4000メートルというこの遥かなる天上世界は、その空気の希薄さもさることながら、湿度も恐ろしく低く、チベットはごく限られた地域を除き、いわゆる瓦礫の砂漠なのだ。バスは辺り一面に高く土埃を舞い上げながら、そんな乾燥しきった世界の中をシガツェ目指しひた走った。
そしてバスは、途中2度のエンジントラブルを起こしながら、教典を刷り込んだ五色の布タルチョのはためく高峰の極みを越えると、やがて巨大な湖の畔で停車した。この瓦礫の砂漠の中で、まさにあの湖の存在は奇跡だった。
まわりを見渡してみてもそこにあるのは、一点の雲もない、もう手が届きそうなほど近い大空の圧倒的な青と、木も草もない、峨峨たる峻嶺へと続くカラカラに乾いた大地だけである。大空と大地。それ以外、何もなかった。
そんな光景に、しばし呆然としていた時である。突然、その荒涼とした大地の中に、遠くポツンと人影が現われた。いったいどこから現れたのか分からなかったが、その人影はよく見てみると、父親と小さな子供の二人連れのようだった。
父親は、歩きながらヤクの毛でも紡いでいるのか、肩から袋を下げ、頻りにそれらしき仕草をしている。一方、子供はというと、男の子なのか女の子なのかはよく分からなかったが、小さな手で父親のズボンをしっかりと掴み、離れようとしない。
もちろん、改めて辺りを見渡してみても、彼らの暮らすだろう家らしきものなど、どこにも見当らない。この何もない、荒涼とした瓦礫の砂漠の中で、いったいあの親子はどこからやって来て、そしてどこへ行こうとしているのだろうか。
その時ふと思ったのだ。僕がもしこの大地に生まれ、この大地に生きていたとしたら、おそらく何かを信じずにはいられないだろう。そう思った。
今の我々の社会は、電気や石油、ガスといったエネルギーに支えられた科学技術によって、寒さからも、暑さからも守られ、食糧もまた、額に汗して畑を耕し、海や山へ獲物を求め分け入らなくとも、いつでも簡単に手に入るのだ。日々の生活において、自然を脅威と感じることなど、ほとんどない。
何もかもが、もはや我々人間の手でコントロールできると単純に思い込めてしまう、そんな快適な生活を送っているのである。
ところが、チベットで生きる彼ら親子の生活はと言えば、雨や雪をしのぐ家はあるものの、電気もなく、石油もガスも、水道すらないのだ。極寒のチベットにおいて、その寒さは死をも意味する。そしてそれは、食糧にいたってもしかりだ。一年中、食べたいものがいつでも簡単に手に入る我々の生活とは大違いである。太陽の光、雨や雪、そういった自然現象の気紛れ一つで、作物が枯れ、家畜が死に、それがそのまま彼ら自身の生を脅かす飢えの恐怖となるのだ。
苛酷な自然環境の中で、自然の脅威に対して何の手立ても持たない、そんな状況に追いやられれば、おそらく何かを信じずにはいられなくなるだろう。その、救いをもとめ何か大いなるものの力を信じたくなる衝動、それが宗教の原初の姿であり、それを僕はあのチベットの旅で垣間見た気がしたのだ。