「ヴェトナム戦争」。この名前は、20世紀の歴史の中で、特別な重い響きを有している。
そもそもこの混沌とした戦争は、両大戦を経た仏領インドシナ連邦がいよいよ土台からグラグラと崩れ出したそんな中、ヴェトミン、すなわちヴェトナム独立同盟の主導者ホー・チ・ミンの独立宣言によって樹立した「ヴェトナム民主共和国」と、執拗に南部コーチシナの領有権を主張し続けるフランスが強引に樹立した「コーチシナ共和国臨時政府」との対立によって、ひとつの幕が切って落とされたのだ。これがヴェトナム戦争の前哨戦となる、インドシナ戦争である。
この戦争は、まさにゾウとアリの戦いだったのだ。フランス側の戦車や戦闘機を始めとする最新兵器に対して、ヴェトミン側の持ちえた兵器と言えば、せいぜい銃や剣、はてはスキやクワといった程度のものだったのである。しかし、開戦当初は圧倒的に優勢だったフランスだったが、中華人民共和国の成立によって新生中国の支援を得たヴェトミンが次第に攻勢に転じることになるのだ。
そしてこの時点で、フランスへの軍事的、経済的援助に乗り出したのが、アメリカだったのである。こうしてこの戦争はまた、北を支援する中国やソ連といった社会主義諸国と、南を支援するアメリカやイギリスといった自由主義諸国という図式へと移行していくことになるのだった。
インドシナ戦争の戦火は、7年7ヵ月燃え続け、とうとうディエンビエンフーの戦いによってフランスは完全に敗北し、ヴェトミンは悲願の勝利を掴んだのである。
そして1954年、スイスのジュネーブに、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、そして当事国の代表が集まり、インドシナ問題のための国際会議が開かれた。ところがである。当初、ヴェトナムの独立、ヴェトナムからの外国軍隊の撤退といった提案で始まった協議だったが、ディエンビエンフーの敗北にもかかわらず、ヴェトナムにおける利権の喪失を恐れたフランス側がヴェトナムの独立に反対し、単なる軍事的な停戦を主張し始めたのだ。そして面白いことに、列席していた諸大国は自国の利害を鑑み、なんとヴェトミン側に譲歩を迫ったのである。もちろんこの背後には、アジアの共産主義化を阻止すべく超大国アメリカの思惑があったのだ。
こうして調印されたのが、「ジュネーブ協定」だったのである。この協定によって、ヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、北をヴェトミン側、南をフランス側の領土として暫定的に二つに分断されることになったのだ。
そして、やがて南北ふたつのヴェトナムは、社会主義と自由主義が対峙する冷戦という枠組みの中にはめ込まれ、祖国統一の旗印の下に結成された北の「南ヴェトナム民族解放戦線」と、フランスに代わって本格的に介入し始めた自由主義を標榜する南の「アメリカ」による、20世最悪の戦争と称されることなにる「ヴェトナム戦争」という出口の見えない、暗澹たる深い泥沼の底へと沈んでゆくのだった。
では、なにゆえに隣国であるラオスに、そのヴェトナム戦争の戦火が及んだのか。
実は、両大戦を経た仏領インドシナ連邦が土台からグラグラと崩れ出したそんな中、ヴェトミンによってヴェトナム民主共和国が樹立されたのとほぼ時を同じくして、ラオスでも、ラオスの独立を掲げる民族主義運動「ラオ・イサラ(自由ラオス)」が起こり、「ラオ・イサラ臨時人民政府」が樹立されたのである。
しかし、このラオ・イサラ臨時人民政府は、結局ラオスから締め出されることになるのだ。それは、ラオスの再植民地化に乗り出したフランスが、ルアンプラバン国王を抱き込み背後から軍事援助を行い、ラオ・イサラに対抗させたのである。
ここでも、やはりフランスの近代兵器の威力は圧倒的だったのだ。ラオ・イサラ臨時人民政府はあっけなく惨敗し、亡命政府としてタイのバンコクへ逃れることになり、こうしてフランスによるラオスの再植民地化が完了するのである。
一方バンコクに逃れたラオ・イサラ臨時人民政府は、その後、国際的に認知される可能性もないままやがて内部対立に陥り、とうとう祖国復帰の夢を捨て彼の地で解散することになるのだった。
そしてこの解散によって、ラオ・イサラの軍事指揮をとっていたスパーヌウォンが向かった先が、ヴェトナムのハノイだったのである。彼はそこでヴェトミンの支援を受け、新組織「ネオ・ラオ・イサラ(ラオス自由戦線)」とその抗戦政府を樹立し、ラオス領内でゲリラ戦を始め着々とその基盤を作っていったのだ。そんなさなか、ヴェトナムのディエンビエンフーでフランスが敗北したのである。
こういった情況の中で、1954年にスイスで調印されたジュネーブ協定には、実はラオスに関する協定も含まれていたのだ。
軍事行動の停止、ラオスからの外国軍隊の撤退、国際監視委員会の設置といった協定がなされた他、国内の平和的統一のためのラオスの住民による自由な総選挙を行うことが約束され、またその総選挙が行なわれるまでの間、王国政府がネオ・ラオ・イサラに北部の一部を統治する権限を与えるという文言も含まれていたのである。これはもちろん、ネオ・ラオ・イサラに一定の配慮をし、あくまでも王国政府の支配権を温存しようという目論みだったのだ。
実はフランスの傀儡政権だった王国政府には、フランスに代わって、やがてアメリカによる莫大な経済的、軍事的な援助が開始されることになるのである。これはもちろん、ここラオスを反共産主義の砦に仕立てあげるためであって、またそれはアメリカにとっての、対北ヴェトナム、対中国への戦略基地を意味していたのだ。
そしてこの協定の3年後、連立政権の下で国家統一のための総選挙が行なわれたのだが、結果、ネオ・ラオ・イサラの新組織「パテト・ラオ(ネオ・ラオ・ハクサト/ラオス愛国戦線)」が、王国政府に勝利したのである。ところが、王国政府は選挙の敗北にもかかわらず、なんとパテト・ラオの閣僚を締め出し、幹部を逮捕、投獄するという強行手段に出たのだった。これによってラオスは、とうとう内戦の時代の幕を開けるのである。
すなわちこの内戦もまた、王国政府側を支援する自由主義国のアメリカと、パテト・ラオ側を支援するヴェトミン、すなわちその背後に立ちはだかる社会主義国の中国・ソ連といった、まさに冷戦の対極する勢力によって翻弄されることになるのだ。
かくして、こういった情況の中で、ついにアメリカによるラオスへの猛烈な空爆が開始されたのである。これはもちろん、王国政府軍の援護としてパテト・ラオの活動拠点を壊滅させる目的だったのだが、この空爆にはもうひとつ大きな目的があったのだ。ホーチミン・ルートの破壊である。
実はジュネーブ協定でヴェトナムが南北に分断された後、南ヴェトナム内に居住している南の国家に反する思想を持つ人々への弾圧が始まったのだ。反国家思想的な新聞や書物の出版はすべて禁止され、多くの人々が拘禁、拷問、処刑されたのである。
そんな気運が南で高まる中、北で祖国統一の旗印の下に結成された南ヴェトナム民族解放戦線は、南の同胞を支援すべく、武器や物資を輸送する秘密の補給路の建設を始めたのだ。それが「ホーチミンルート」だったのである。
ホーチミンルートは実に巧妙に作られ、ヴェトナム戦争終決までに作られたその総全長は1万6000キロにもおよび、それらはヴェトナムの国境を縫うようにしてラオス領内を通っていたのだ。そして、ちょうどここサヴァナケットのあるラオス南部にも、ヴェトナムの国境へ向けていくつものルートが作られたのである。
このアメリカによって開始された、「自由」を守るという大義に裏付けられたラオスへの猛烈な空爆は、森林、耕作地、住居、学校、寺院と、まさに無差別に行なわれ、犠牲となったのはほとんどが一般の住民だったのだ。ラオスに投下された爆弾のその量、なんと209万2900トン。これは、アメリカが第二次世界大戦中に投下した爆弾の量に匹敵するらしく、一日平均300トンもの爆弾が投下された計算になるらしい。
〈ラオスの戦いは大変な戦争だった。深いジャングルだったが、米軍の爆撃が激しく、土が掘りかえされて、どの場所がどの戦闘の戦場であったか、それぞれの戦場を確定することができないのが現実なのだ。地形が変わってしまった。遺体を探すことは、実際にはとてもむずかしい〉
それぼど、ラオスにおけるアメリカの無差別爆撃は猛烈なものだったのだ。今でもこの国には、その戦火の深い傷痕が大きなクレーターとなっていたる所に残り、また住民たちは、大量の不発弾による恐怖に今もなお曝されているのである。