パラリンピックが始まると、僕はいつも少し嫌な気分になる。
パラリンピックとは、今更あえて説明するまでもない、オリンピック終了後に開催される、身体障害者を対象とした「もうひとつのオリンピック」のことである。
しかしこれは、もとはIOC(国際オリンピック委員会)とは全く関係のない大会だったらしく、その開催地もオリンピックとは異なっていたらしい。
しかし現在は、2000年のシドニーオリンピックの際にIOCとIPC(国際パラリンピック委員会)の間で結ばれた「オリンピック開催国はオリンピック終了後、引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」という協定によって、開催地もオリンピックと同じであることが義務づけられ、両委員会の関係も強化された。
僕はなぜパラリンピックが始まると、少し嫌な気分になるのか。これはもちろん、僕自身のごく個人的な感慨なわけだが、オリンピックが終わりパラリンピックが始まると、いつもなんとも消化しきれない、どこか偽善的なものを感じるのだ。
少なくともオリンピックとパラリンピックは、同じ聖火のもとに開催されるべきだと僕は思う。
障害のない者も、障害のある者も、共に同じ平等な人間だと考えているのなら、「障害」という身体的な差異で、聖火を分ける必要はない。もしそうすることが必要であるならば、2つの大会をあえて同じ年の、同じ開催地で行うことを義務づける必要もないのだ。
もちろんそれには、克服しなくてはいけない数多くの問題もあるだろう。しかしオリンピックはその長い歴史の中で、民族を、宗教を、肌の色を越えてきたのだ。オリンピックの越えるべき次の壁は、障害である。