4月、ヤンゴンからの帰りに、しばらくバンコクで休暇をとった。休暇とは言っても、別に何をやるわけでもない。屋台で飯を食べ、涼しいショッピングセンターの中を目的もなく歩き回り、そしてバンコクの路地をトゥクトゥクで走り回る。
「トゥクトゥク」という妙な名前は、このおんぼろオート三輪のタクシーの立てるエンジン音を愛称として呼び慣わすことになったものらしいのだが、どう贔屓目にみても「トゥクトゥク」などという軽やかな音などではなく、僕には何度聞いても「バリバリ」とか「ブリブリ」といった、いたって暑苦しい音にしか聞こえない。
まあとにかく、イヌの鳴き声が「ホックホック」と聞こえるタイ人には、この耳触りな音も「トゥクトゥク」と聞こえるらしいのだが、やはり僕はこれに乗らないと、どうもバンコクに来た気がしないのだ。
4月のバンコックは、あいかわらず息苦しく狂暴な熱気に包まれていた。しかし、年間を通して温度計の目盛りが20度から40度の間をさ迷っている、一年中夏のようなこの国にも一応の季節はあり、なんと一番暑い季節はまだこれからやってこようとしている。
照りつける炎昼の太陽が車道を灼き、人々の長い午後が歩道の日陰に寄り添うように連なり、トゥクトゥクの吹き曝しの座席には、そんなバンコックの熱気と喧騒が、突風となって吹き抜けていった。
そういえば僕はここ近年、トゥクトゥクの座席からバンコクの通りを眺めているといつも、メーターを搭載しエアコンをきかせたタクシーの数がめっきり増えたなと思う。少なくとも僕が初めてこの街に降り立った頃は、こんなではなかった。確かにタクシーというものはあるにはあったが、メーターを搭載したタクシーなど皆無で、運賃は市場の買物と同じく運転手と乗客との駆け引きによって決まり、そしてその数も、トゥクトゥクの数に比してあきらかに少なかった。
実はこの「バンコク」という地名は、湿原の樹木「マコーク」が生い茂る水辺の集落「バーン」を意味したものであり、その名の示す通り、ここは鬱蒼とした熱帯の蘇生に覆われた広大なデルタだったのだ。
かつて「シャム」と呼ばれていた頃のこの国を訪れたヨーロッパ人は、川岸のすべてを呑み込む熱帯の樹木の生気と、そこに群がるオウムやサルといった美しく珍奇な鳥獣たちの有様を、驚嘆をもって書き記している。
そんなデルタに生まれたこの街には、当初、豊かな水量を利用し運河「クローン」が網の目のようにめぐらされ、人々の生活は水によって結ばれていた。そして、やがてクローンは道「タノン」へと姿をかえ、タノンからまた小さな路地「ソーイ」がきざまれると、人々の移動手段も、クローンをめぐる小舟から、馬車やサームローへと移り変わってゆく。サームローの「サーム」とは三を、「ロー」とは車輪を意味し、これは三輪の自転車に座席を取り付けた、いわゆる人力車である。
しかしサームローという、人間の筋力によって動く悠然たる速度の乗り物は、この街の近代化に相応しからざる邪魔者として、60年代初頭にはとうとう禁止されてしまうことになるのだ。こうして、いよいよこの街の人々の移動手段も、化石燃料によって動く高速なる乗り物へと移り変わり、その後も、とどまることを知らないこの街の近代化にともない、高速なる乗り物はさらに高速に、さらに快適な乗り物へとどんどんと移り変り、今ではそれが、行き場をなくし澱んだ運河の水のように狭いアスファルトの道路の上にあふれかえり、慢性的な渋滞と、排気ガスによる深刻な大気汚染に悩まされているのである。
まあとにかく、イヌの鳴き声が「ホックホック」と聞こえるタイ人には、この耳触りな音も「トゥクトゥク」と聞こえるらしいのだが、やはり僕はこれに乗らないと、どうもバンコクに来た気がしないのだ。
4月のバンコックは、あいかわらず息苦しく狂暴な熱気に包まれていた。しかし、年間を通して温度計の目盛りが20度から40度の間をさ迷っている、一年中夏のようなこの国にも一応の季節はあり、なんと一番暑い季節はまだこれからやってこようとしている。
照りつける炎昼の太陽が車道を灼き、人々の長い午後が歩道の日陰に寄り添うように連なり、トゥクトゥクの吹き曝しの座席には、そんなバンコックの熱気と喧騒が、突風となって吹き抜けていった。
そういえば僕はここ近年、トゥクトゥクの座席からバンコクの通りを眺めているといつも、メーターを搭載しエアコンをきかせたタクシーの数がめっきり増えたなと思う。少なくとも僕が初めてこの街に降り立った頃は、こんなではなかった。確かにタクシーというものはあるにはあったが、メーターを搭載したタクシーなど皆無で、運賃は市場の買物と同じく運転手と乗客との駆け引きによって決まり、そしてその数も、トゥクトゥクの数に比してあきらかに少なかった。
実はこの「バンコク」という地名は、湿原の樹木「マコーク」が生い茂る水辺の集落「バーン」を意味したものであり、その名の示す通り、ここは鬱蒼とした熱帯の蘇生に覆われた広大なデルタだったのだ。
かつて「シャム」と呼ばれていた頃のこの国を訪れたヨーロッパ人は、川岸のすべてを呑み込む熱帯の樹木の生気と、そこに群がるオウムやサルといった美しく珍奇な鳥獣たちの有様を、驚嘆をもって書き記している。
そんなデルタに生まれたこの街には、当初、豊かな水量を利用し運河「クローン」が網の目のようにめぐらされ、人々の生活は水によって結ばれていた。そして、やがてクローンは道「タノン」へと姿をかえ、タノンからまた小さな路地「ソーイ」がきざまれると、人々の移動手段も、クローンをめぐる小舟から、馬車やサームローへと移り変わってゆく。サームローの「サーム」とは三を、「ロー」とは車輪を意味し、これは三輪の自転車に座席を取り付けた、いわゆる人力車である。
しかしサームローという、人間の筋力によって動く悠然たる速度の乗り物は、この街の近代化に相応しからざる邪魔者として、60年代初頭にはとうとう禁止されてしまうことになるのだ。こうして、いよいよこの街の人々の移動手段も、化石燃料によって動く高速なる乗り物へと移り変わり、その後も、とどまることを知らないこの街の近代化にともない、高速なる乗り物はさらに高速に、さらに快適な乗り物へとどんどんと移り変り、今ではそれが、行き場をなくし澱んだ運河の水のように狭いアスファルトの道路の上にあふれかえり、慢性的な渋滞と、排気ガスによる深刻な大気汚染に悩まされているのである。